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第3章 Distance of Mind

第41話 ハグルマ

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◇◇◇◇◇


「今日も来てたのね」

 カルテを手に病室のドアを開けたマリアは、視界に入ったうしろ姿に小さく息を吐いた。
 ベッドのそばのパイプ椅子に腰かけるキョウヤに、いつもの覇気はない。丸まったままの背中が、寂しげにそこにいた。

「ハルの点滴、交換するわね」

 無言のままのキョウヤの横顔をちらりと盗み見て、マリアはベッドの窓側へとまわり込む。

――あれからもう十日も経つのね……。

 静かに横たわるハルの頬を、マリアはそっ、となでた。

――あんな無茶をさせたのは、わたしたちのせいね。

 ミズホを討ったあの日、医務室に担ぎこまれたハルは生死の境をさまよったと言っても過言ではない。
 懸命な治療もむなしくなかなか安定しないバイタルに、肝を冷やしたのはマリアだけではなかったはずだ。

 スペラーレのいない状態での限界点を突破。
 ハルの体に急激な負担が一気に押し寄せたのは言うまでもない。
 最悪の場合、その負荷に耐えきれず命を落としていたかもしれないのだ。

――一命を取り留めたのは、奇跡だわ……。

 だが、ハルの意識は戻らない。
 真っ白な室内で穏やかに眠る彼女は、いくつものコードにつながれていた。呼吸を維持するための酸素マスクや腕の血管に通された点滴の針が、いつしか見慣れた光景になってしまった。
 血の気の薄い顔色は相変わらずで、腕に残った注射針の痕が痛々しい。
 静寂すぎるほどの室内で、ベッドサイドのモニターから発せられる電子音が無機質に拍を刻んでいた。

「……なぁ」

 ぽつり、とキョウヤが静かに声を発した。

「ハルは、いつになったら目を覚ますんだ?」
「……わからないわ」

 眠るハルから目をそらさずにそうたずねるキョウヤに、マリアはそっと目を伏せた。
 いまのところ、ハルの命に別条はない。本当に、ただ眠っているだけなのだ。
 しかし、いつ目覚めるのか。
 はたまた意識が戻ることはもうないのか。
 こればかりはマリアにもわからない。

「キョウヤ、あなた今日も仕事でしょう? 遅れないようにね」
「あぁ……」

 手早くハルの状態をカルテに書きこんだマリアは、一度もハルから視線を外さない背中にそう言って部屋をあとにした。

 室内に再び無機質な静寂が訪れる。
 握った手だけが、やけに熱を帯びていた。

「……早く起きろよ、ハル」

 祈るようにしぼり出した声は、手のひらに伝わる彼女の鼓動に飲みこまれていった。



「エリカのせいで、来るのが遅くなっちまったな」

 足早に廊下を歩くシュウは、やれやれと言わんばかりに深々と息を吐いた。
 つい先ほどまでエリカの相手をしていたその表情には、どこか疲労がにじんでいる。
 療養名目の非番を理由に数日間べったりと貼りついて離れないエリカに適当な言い訳をして、ようやくひとりになれたところである。
 邪魔されたくないとばかりに周囲を警戒しながら、シュウは病室のドアハンドルに手をかけた。

「っ……!?」

 思いがけず目の当たりにした光景にシュウは目を見張った。突然のことに思考が停止し、足が動かない。

「……ハ、ル?」

 眠りつづけていたはずのハルが、上体を起こしてベッドの上から不思議そうにこちらを見ていた。

「シュウ……? どうしたの?」
「っ……!」

 彼女の声を聞いたのが、ずいぶんと久方ぶりのような気がした。
 シュウは目頭が熱くなるのを感じながら、それをごまかすかのように一目散にベッドに駆け寄る。
 存在を確かめるように、シュウは少し痩せてしまった彼女の体をまるごと腕の中に抱きこんだ。

「ハル! 平気か? どっか痛いとことかないか?」

 ガラス細工を扱うかのように、シュウは両手でそっとハルの頬を包みこんだ。
 己の身を案じるシュウの勢いに多少気押されつつも、ハルは小さくうなづく。

「ふふっ、大丈夫よ。どこも異常ないわ」

 カルテを片手に様子を見守っていたマリアは、珍しく優しげに微笑んでみせた。彼女の表情からも、安堵の色がうかがえる。

「じゃあ、わたしはいったん席をはずすから。ハル、まだ無理をしてはだめよ?」
「はい……」
「ほらシュウ。ハルが痛がってるわ。もう離してあげなさい」

 微笑みを見せたのもつかの間、マリアはいつもの厳しい表情に戻ると、機器を乗せたワゴンを押しながら部屋をあとにする。
 マリアの足音が遠ざかっていったのを確認したシュウは、ベッドサイドのイスに腰かけた。

「本当に、もう大丈夫なんだな?」

 念を押すように問いかければ、ハルはこくりと首を上下させる。

「大丈夫。……ごめん、ね?」

 おずおずとそうつぶやいたハルに、シュウは手を伸ばして彼女の両手を包みこんだ。

「謝らなきゃいけないのはオレのほうだ。オレが不甲斐ないばっかりに、ハルを危険な目にあわせた。ごめんな、ハル。……ごめん」

 こんなことで、ハルに強いた負担への罪滅ぼしになるなどとは思ってはいない。だが、謝罪の言葉を口にしないと、自己嫌悪に押しつぶされそうだった。
 己の心が弱く不甲斐ないばかりに、力になりたいと願っていたはずのハルを危険な状態に追いやってしまったのだ。後悔してもしきれない。

 こうべを垂れるシュウに、ハルはふるふると首を横に振った。
 互いになんと言えばいいのかわからない。
 外の廊下を行き交う人々の声や生活音が、遠くのほうから聞こえてくる。

「ハル、聞いてほしいことがあるんだ」

 シュウはゆっくりと呼気を吐き出し、高揚する心を落ち着かせる。
 肺いっぱいに酸素を取りこんだ彼は、目の前で不安げに揺れる、ハルの漆黒の瞳を見つめた。

「オレを、ハルのスペラーレにしてほしい」


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