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第一章
二十 小塚原刑場
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昔の思い出から我に返ると、かなりの距離を駆けていた。
足も呼吸も辛くなっていたが、休むわけにはいかない。
今度こそ助けてみせる。
跳は、疲労が溜まった足を前に出した。
東京に入ってからは、何の妨害もなく進めていた。時間に間に合うか心配だが、休まなければ大丈夫だろう。
町の人々は、必死の形相で走る跳に目はとめるが、特に干渉はしない。郵便配達夫など珍しいものでもない。
どのような経路で小塚原刑場に行くか迷ったが、跳はまず碑轍の家へ赴いた。
警護にあたっていた警官に取り次いでもらい、碑轍を呼び出す。
「先生。謎は解けましたか?」
汗と泥で汚れた跳に眉をひそめるでもなく、冷静な顔で碑轍はうなずいた。
「刑場へ急ぎましょう」
警護の者に頼み、人力車をとめてもらう。
上手いこと流しの人力車がつかまったのだが、車夫が碑轍の顔を見て難色を示した。
「あの碑轍先生じゃねえか。命を狙われているって話でしょう。申し訳ねえが、関わり合いになりたくねえ」
そう言って、逃げようとする。
殴ってやりたくなる気持ちをおさえ、跳は車夫に言った。
「わかった。ならば人力車だけ貸してくれ。後から駅逓省直々に謝礼をする」
「なにぬかしやがる郵便屋。大事な商売道具貸せるわけねえだろ」
跳は腰に差した拳銃を車夫に見せる。
「まだ一発残っているぞ」
多少強引だったが人力車を手に入れ、碑轍を乗せる。ここから刑場までは楽が出来ると思っていたら、重荷が増えてしまった。体の奥底に残った力を絞り出し、跳は人力車を引き始めた。
本物の人力車夫と同等かそれ以上に速く跳は走った。護衛の警官二名が後を追ってくるが、それを引き離していく。本郷から根津方面に下り、そこからは北を目指す。
いつ襲われるか気が気でなかったが、碑轍を乗せた人力車は飛ぶように走り、浄閑寺を通り過ぎ、刑場へとたどり着いた。
刑場のまわりは群衆に囲まれており、中の様子は見えない。切支丹の処刑を見物にきている人々は、悲しそうに顔を歪める者、物見遊山できているお気楽な者など様々だ。
この非常時でも平常通りの碑轍を引きずるように連れ、人をかきわけ刑場の中へ入る。
竹矢来に囲まれた刑場の中では切支丹達が磔台にくくられていたり、縛られていたりしており、そのまわりには、抜き身の刀や槍を持った者達がいた。今まさに処刑が始まろうとしているのだ。
乍峰村で切支丹達を虐げていた葛淵も、刀をさげて処刑開始を待ちわびている。体から黒い喜びがにじみ出ていた。
切支丹達は思いのほか落ち着いている。殉教し天国に召されることを信じているのだろう。
田満村の庄屋や村民、栄雲の姿も見える。緊張で凝り固まっていた。
「お待ち下さい!」
跳は腹の底から全力で叫び、この場を取り仕切る司法卿江藤新平に駆け寄り、懐から出した書状を差し出す。
江藤新平は、肥前藩出身で、戊辰戦争で功績を残した後、明治政府で司法卿や参議など、多くの役職を担っている。司法制度の整備には特に力を入れ、日本の近代化に貢献している。また、政府内においては強力な民権論者で、四民平等を強く唱えている。
「直接渡すな。無礼だぞ!」
江藤の横にいた前島と川路が、慌てて跳を取り押さえようとするが、江藤は跳からの書状を受け取り、中をあらためた。
「岩倉使節団からの電信だ。不平等条約の改正には禁教令の廃止。きちんとした司法が必要不可欠と書いてある。我々が取り決めた暗号が使われているから、偽物ではない」
手紙を読んだ江藤の言葉を聞いて、刑場はざわめき出す。
「邪教を認めろと言うのですか?」
叫んだのは葛淵だ。先程までの余裕は消え失せていた。
「欧米諸国との国交を考えれば、致し方なきこと」
江藤の言葉に、葛淵は納得出来ない。
「禁教令が解かれたとしても、隣村に呪いをかけた罪は消えません。諸外国の要請の通り、公正な裁きが必要と思われます」
葛淵の声に刑場は静まり返り、人々は固唾を飲んで成り行きを見守った。
「切支丹達は、呪いなどかけておりません」
激しい声が響いた後の碑轍の声は、場違いな程平穏なのに、人々の耳を惹きつける。
「様々な書物にあたった結果、海外では田満村で起こったことと良く似た事象が報告されていました。聖アントニウスの火と呼ばれています」
碑轍が醸し出す謎の説得力に、江藤も葛淵も、刑場全員が引き込まれていた。
「聖アントニウスの火の症状としては、精神の錯乱、手足の痛み、ひどくなると手足の壊死などがあげられます。昔は西洋でも呪いや神の怒りなどと呼ばれ、怖れられてきましたが、近年原因が解明されました。これです」
碑轍が一本の細長いものを取り出しかかげる。
麦の穂だ。
「これは、田満村の庄屋が導入した外国産の麦です。外国から「来た」のでライ麦と呼ばれています。ここを見てもらうとわかるように、穂の一部が黒くなっています。これはカビの一種なのですが、このカビには毒性があり、食べると聖アントニウスの火と呼ばれる症状が出てしまうのです。村から持ち帰った麦を犬に食べさせたところ、同じ症状が出ました」
確かに碑轍の持っている麦穂には黒く変色している部分がある。あの夜、麦ではなく米を食べた跳や栄雲、庄屋家族は、錯乱状態に陥っていない。
「外国から入ってきた時、既に感染していたのか、日本に入ってきてから発症したのかはまだわかりませんが、麦の病気です。この件に関して乍峰村の切支丹達は、無実だと思われます」
そこまで聞いた江藤は、静まり返っている刑場に大きな声で宣言した。
「処刑は中止する」
成り行きを見守っていた観衆がどよめく。その声には喜びなど混じっていない。楽しみにしていた邪教徒の処刑がなくなり、失望した声だ。
葛淵は何か言いたげに顔をしかめているが、江藤に逆らうことも出来ず、身を震わせるだけだった。
切支丹達は、縄を解かれ、磔台から降ろされたというのに、助かったことが理解出来ないのか、一様にぼんやりしている。
跳は、生きのびたるまをみつめ、一人喜びにひたっていた。
この事件の顛末は、電信によって世界中に広まり、概ね好意的に受け入れられた。しかし、肝心の岩倉使節団による条約改正は不首尾に終わり、不平等条約がしばらく続くこととなる。
足も呼吸も辛くなっていたが、休むわけにはいかない。
今度こそ助けてみせる。
跳は、疲労が溜まった足を前に出した。
東京に入ってからは、何の妨害もなく進めていた。時間に間に合うか心配だが、休まなければ大丈夫だろう。
町の人々は、必死の形相で走る跳に目はとめるが、特に干渉はしない。郵便配達夫など珍しいものでもない。
どのような経路で小塚原刑場に行くか迷ったが、跳はまず碑轍の家へ赴いた。
警護にあたっていた警官に取り次いでもらい、碑轍を呼び出す。
「先生。謎は解けましたか?」
汗と泥で汚れた跳に眉をひそめるでもなく、冷静な顔で碑轍はうなずいた。
「刑場へ急ぎましょう」
警護の者に頼み、人力車をとめてもらう。
上手いこと流しの人力車がつかまったのだが、車夫が碑轍の顔を見て難色を示した。
「あの碑轍先生じゃねえか。命を狙われているって話でしょう。申し訳ねえが、関わり合いになりたくねえ」
そう言って、逃げようとする。
殴ってやりたくなる気持ちをおさえ、跳は車夫に言った。
「わかった。ならば人力車だけ貸してくれ。後から駅逓省直々に謝礼をする」
「なにぬかしやがる郵便屋。大事な商売道具貸せるわけねえだろ」
跳は腰に差した拳銃を車夫に見せる。
「まだ一発残っているぞ」
多少強引だったが人力車を手に入れ、碑轍を乗せる。ここから刑場までは楽が出来ると思っていたら、重荷が増えてしまった。体の奥底に残った力を絞り出し、跳は人力車を引き始めた。
本物の人力車夫と同等かそれ以上に速く跳は走った。護衛の警官二名が後を追ってくるが、それを引き離していく。本郷から根津方面に下り、そこからは北を目指す。
いつ襲われるか気が気でなかったが、碑轍を乗せた人力車は飛ぶように走り、浄閑寺を通り過ぎ、刑場へとたどり着いた。
刑場のまわりは群衆に囲まれており、中の様子は見えない。切支丹の処刑を見物にきている人々は、悲しそうに顔を歪める者、物見遊山できているお気楽な者など様々だ。
この非常時でも平常通りの碑轍を引きずるように連れ、人をかきわけ刑場の中へ入る。
竹矢来に囲まれた刑場の中では切支丹達が磔台にくくられていたり、縛られていたりしており、そのまわりには、抜き身の刀や槍を持った者達がいた。今まさに処刑が始まろうとしているのだ。
乍峰村で切支丹達を虐げていた葛淵も、刀をさげて処刑開始を待ちわびている。体から黒い喜びがにじみ出ていた。
切支丹達は思いのほか落ち着いている。殉教し天国に召されることを信じているのだろう。
田満村の庄屋や村民、栄雲の姿も見える。緊張で凝り固まっていた。
「お待ち下さい!」
跳は腹の底から全力で叫び、この場を取り仕切る司法卿江藤新平に駆け寄り、懐から出した書状を差し出す。
江藤新平は、肥前藩出身で、戊辰戦争で功績を残した後、明治政府で司法卿や参議など、多くの役職を担っている。司法制度の整備には特に力を入れ、日本の近代化に貢献している。また、政府内においては強力な民権論者で、四民平等を強く唱えている。
「直接渡すな。無礼だぞ!」
江藤の横にいた前島と川路が、慌てて跳を取り押さえようとするが、江藤は跳からの書状を受け取り、中をあらためた。
「岩倉使節団からの電信だ。不平等条約の改正には禁教令の廃止。きちんとした司法が必要不可欠と書いてある。我々が取り決めた暗号が使われているから、偽物ではない」
手紙を読んだ江藤の言葉を聞いて、刑場はざわめき出す。
「邪教を認めろと言うのですか?」
叫んだのは葛淵だ。先程までの余裕は消え失せていた。
「欧米諸国との国交を考えれば、致し方なきこと」
江藤の言葉に、葛淵は納得出来ない。
「禁教令が解かれたとしても、隣村に呪いをかけた罪は消えません。諸外国の要請の通り、公正な裁きが必要と思われます」
葛淵の声に刑場は静まり返り、人々は固唾を飲んで成り行きを見守った。
「切支丹達は、呪いなどかけておりません」
激しい声が響いた後の碑轍の声は、場違いな程平穏なのに、人々の耳を惹きつける。
「様々な書物にあたった結果、海外では田満村で起こったことと良く似た事象が報告されていました。聖アントニウスの火と呼ばれています」
碑轍が醸し出す謎の説得力に、江藤も葛淵も、刑場全員が引き込まれていた。
「聖アントニウスの火の症状としては、精神の錯乱、手足の痛み、ひどくなると手足の壊死などがあげられます。昔は西洋でも呪いや神の怒りなどと呼ばれ、怖れられてきましたが、近年原因が解明されました。これです」
碑轍が一本の細長いものを取り出しかかげる。
麦の穂だ。
「これは、田満村の庄屋が導入した外国産の麦です。外国から「来た」のでライ麦と呼ばれています。ここを見てもらうとわかるように、穂の一部が黒くなっています。これはカビの一種なのですが、このカビには毒性があり、食べると聖アントニウスの火と呼ばれる症状が出てしまうのです。村から持ち帰った麦を犬に食べさせたところ、同じ症状が出ました」
確かに碑轍の持っている麦穂には黒く変色している部分がある。あの夜、麦ではなく米を食べた跳や栄雲、庄屋家族は、錯乱状態に陥っていない。
「外国から入ってきた時、既に感染していたのか、日本に入ってきてから発症したのかはまだわかりませんが、麦の病気です。この件に関して乍峰村の切支丹達は、無実だと思われます」
そこまで聞いた江藤は、静まり返っている刑場に大きな声で宣言した。
「処刑は中止する」
成り行きを見守っていた観衆がどよめく。その声には喜びなど混じっていない。楽しみにしていた邪教徒の処刑がなくなり、失望した声だ。
葛淵は何か言いたげに顔をしかめているが、江藤に逆らうことも出来ず、身を震わせるだけだった。
切支丹達は、縄を解かれ、磔台から降ろされたというのに、助かったことが理解出来ないのか、一様にぼんやりしている。
跳は、生きのびたるまをみつめ、一人喜びにひたっていた。
この事件の顛末は、電信によって世界中に広まり、概ね好意的に受け入れられた。しかし、肝心の岩倉使節団による条約改正は不首尾に終わり、不平等条約がしばらく続くこととなる。
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