【R18】月光の誘惑《番外編》

千咲

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月に臨み、月を望む。(一)

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 病気であることは、ある時期から自覚していた。そして、それが治りようがないことも。

 高校生のときに訪れた箱根の美術館で、俺は、魅力的な女に出会った。
 村上叡心という画家が描いた絵の中の女。縁側に横たわり、妖艶な笑みを浮かべる女。描かれる光の加減、影の加減が絶妙で、本当に美しいと思ったのだ。

「この画家の絵、うちにもあるなぁ」

 隣に立ったクラスメイトの口から零れた言葉に、俺はすぐさま飛びついた。

「水森、今度その絵を見せてくれ」
「え? あ、あぁ、別にいいけど」

 大して話したこともないクラスメイトは怪訝そうな顔をしていた。
 変な奴だと思われたに違いない。半裸の女の絵を見て欲情したのだと思われても仕方ない。
 それでも、絵を、女を、見ていたかったのだ。

 そのときに買ったポストカードは、ずっと大切に保管してある。
 そして、色褪せるたびに箱根まで出かけ、買い求めていた。もちろん、閉館時間になるまで、村上叡心の絵を鑑賞し続けていたので、変な客だと思われていたに違いない。

 水森の祖母――千恵子さんは、俺が訪問するのを嫌がりもせず、収蔵してある村上叡心の絵を見せてくれた。一枚一枚、解説までしてくれて。

「始まりはこの絵よ。暗闇に佇む街娼の絵。村上叡心が初めてミチを描いた作品ね。この絵を見た水森貴一が、叡心の絵を買い求め始めたの」
「これは珍しいの。家ではなくて外で描かれた作品。桜が美しいでしょう? 光を上手に取り入れる画家だったのよね、叡心は。今にも風が吹いて桜の花びらを散らせるような気がするわ」
「これはつらい作品ね。ミチの美しい体の上に、わざと絵の具を塗りつけているの。わざと汚しているのよ。汚された、と思ったんでしょうね」

 裸婦像ばかり求める俺は、たぶんただのエロガキでしかなかっただろうに、千恵子さんは気にしてはいなかった。気にせず解説してくれた。
 叡心の絵を気に入ってくれたというだけで嬉しかったのだと、後に話してくれた。

 水森は、俺が家を訪ねることを嫌がりもせず、「あぁ、今日も来たの」と言って、千恵子さんを呼んでくれるようになった。水森の友人ではなく、千恵子さんの客人だと思われていたのかもしれない。
 けれど、水森とはクラスでもよく話すようになったし、中間や期末が近くなれば、自然と二人で試験勉強をしたし、その延長で受験勉強もするようになった。
 結果として、進学する大学も学部も同じ、就職先も同じ、という腐れ縁になってしまったのだけど。

 異常に気づいたのは、いつだったか。
「どんな女が好きか」「セックスとはどんなものか」という、男子高校生にありがちな話題に耳を傾けていたときだったか。
 それとも、実際に女の裸体を前にしたときだったか。
 かわいいと評判のグラドルの水着姿を見ても、「先生、抱いて」と看護師に押し倒されても、俺の股間は一ミリも反応しなかった。

 高校生のあの日以降、オカズはずっと村上叡心の裸婦像だった。
 千恵子さんに許可をもらって写真に撮り、部屋に飾ったり携帯電話の待受にしたり、オナニーのネタに使っていた。それらを見れば簡単に勃起していたから、最初は異常だと思いたくなかったのかもしれない。
 俺は、裸婦像――村上ミチ以外を目にしても勃起しない体になっていたのだ。

 どんな手段を使っても落ちない男、湯川望。
 それがいつの間にか俺の二つ名になっていた。捨て身のアタックを仕掛けてきた看護師が、相手にされなかった腹いせに言い触らしたのだろう。
 看護師たちの間では、水森との関係を噂されたこともある。女に興味がないことが、そのまま男に興味がある、と解釈されてしまうのはあまりにも短絡的だと思ったが、訂正するのも面倒なので放っておいた。
 そうしたら、看護師の間で耽美的な妄想が広がったとか、そうでないとか。そのあたりの事情は詳しくない。
 とりあえず、一連の噂話によって、水森はかなり迷惑したらしいが、俺には関係ない話だった。

 絵の中の女が現実に現れてくれたら――と、何度思ったことか。何度願ったことか。
 どんな声で俺の名を呼んでくれるのか。
 どんな笑顔を俺に向けてくれるのか。
 どんな肌なのか。
 どんな指なのか。
 どんな――。

 考えるだけで勃起するのに、ついた病名は勃起不全。釈然としなかったが、治療も必要ないと断った。
 もし、何かの縁で結婚するようなことになり、妻が子どもを欲しがったら、体外受精で構わないと思っていた。精子は問題ない。勃起できないだけなのだから。
 セックスができない妻には寂しい思いをさせてしまうが、性欲を満たすための妻の浮気は認めようと思うくらいには、いろいろ諦めていた。

 そして、俺が仕事だけに没頭し、「身を固めては」と様々な人から言われ、「まだ若輩者なので」とはぐらかしていた冬の寒い日――奇跡は起きた。


◆◇◆◇◆


 午前の診察が終わり、午後三時過ぎになってから入院患者の回診をしていたときだ。
 とある患者のお見舞いに来ていた集団の中に、彼女の姿を見つけたのは。

「あぁ、先生! うるさくしてすみませんねぇ! 会社の部下たちがお見舞いに来てくれて!」

 あんたの声が一番大きい、と突っ込むことすら忘れていた。
 窓際に立った彼女が微笑んでいるのを見て、恥ずかしながら――俺は勃起した。奇跡だと思った。恋い焦がれた女が、目の前にいたのだから。
 白衣でさっと前を隠し、患者の傷口を診て、触診を終える。その間も、俺の頭の中は彼女のことでいっぱいだった。

「じゃあ、課長の元気な顔を見たので、俺ら帰りますね」
「おぉ! ありがとな! 酒が飲めるようになったら、みんなで飲むぞ!」
「課長の奢りで?」
「ありがとうございます!」

 そんな声をカーテン越しに聞きながら、「待ってくれ」と願う。
 行かないでくれ。
 あなたと話がしたい。
 待ってくれ。
 今すぐあなたと――。

 けれど、点滴の確認などを終えたときにはもう、患者の部下たちは病室にはいなかった。奇跡は起こっても、それを手にすることは難しい、ということだ。

「いい部下をお持ちなんですね。会社、どこでしたっけ?」
「サキタっていう、上場はしているけど知名度の低い会社ですよ!」

 サキタ。その名前だけ、頭に刻み込む。

「お大事にしてください」
「先生、次は斎藤さんです」

 看護師の言葉に、フラフラと病室を出る。
 サキタという会社を調べて、張り込んで、偶然を装って彼女に近づくことは可能だろうか。そこまでしたら、ストーカーだろうか。いや、でも、これはチャンスだ。できれば、彼女と――。

「……すみません、ちょっとトイレに」
「あ、湯川先生!?」

 看護師の制止の言葉すら聞こえなかった。俺の視界には、一人の人物しか映っていなかったのだ。

 帰ったはずでは? なぜ、まだ、そこに?
 俺は走る。エスカレーターの近く、こちらを見て頭を下げた彼女の姿が、どんどん近くなってくる。足がもつれそうになりながら、俺は、奇跡にたどり着く。

「あ、あの……っ、ちょっ、待って、くだ、さ」
「焦らなくてもいいですよ。同僚たちはみんな帰りましたから」
「なん、で……っ?」

 呼吸を整えながら、彼女を見る。
 夢にまで見た笑顔が、そこにあった。手を伸ばせばすぐにでも触れることができる位置に。

「何で、って……先生が、私と話したそうにしていたので」

 話したかった。
 触れたかった。
 そんなことを言ったら、あなたは引くだろうか。
 欲に忠実な、軽薄な男だと思われるだろうか。
 それでも構わない。どんなふうに思われても、俺は、あなたと――。

「違いました?」
「……違わないです。お話をっ、したくて……お時間、ありますかっ? 回診を、一時間で終わらせるのでっ、少しだけ、本当に少しだけ、お話を!」

 必死だった。
 でも、ここで必死にならなければ、いつ死ぬ気で口説きたい女が現れるかわからない。だって、もう、十七年も待っていた。この瞬間を。
 今しかなかった。今、この瞬間に必死にならなくてどうするんだ。死ぬ気で口説かなくてどうするんだ。

「いいですよ」

 天使かと思った。天使が奇跡をもたらしてくれた、と。
 昇天してもいい、なんて一瞬思ってしまう。
 深呼吸をして、彼女の正面に立つ。
 ……絵の中の、村上ミチそっくりだ。本当に。今さっき絵から抜け出てきましたと言われても信じてしまいそうだ。
 こんな声だったのか。ものすごく好みだ。
 あぁ、本当にかわいい。どうしよう。鼻血出そう。

「では、病院の向かいに喫茶店があるので、そこで、そこでお待ちください!」
「わかりました。二時間待ちますね。二時間待っても先生が現れなかったら、総合案内で先生を呼び出してもらいましょうか?」
「それはものすごくありがたい申し出ですが、寒い中そんなご足労おかけするわけにはいかないので、喫茶店のマスターに連絡先を預けてもらっても……あ、すごく信頼できる人なのですが、見知らぬ人に個人情報を預けるのは難しいですよね!?」

 どうしてもっと、スマートにできないのだろう。上手に誘えないのだろう。
 これではきっと、呆れられてしまう。いい歳をした男がこんなにも狼狽えて、焦って、見苦しい。

「では、先生の連絡先をください」
「えっ? あ、あぁ! その手があったか!」

 彼女は俺の動揺には少しも動じることなく、携帯番号を手帳にメモする。連絡先を聞くことに手慣れているのか、なんて余計なことは考えないようにして。

「では、お待ちしております」

 エスカレーターを降りていく彼女を見送って、そのモコモコの姿が見えなくなったあとで、俺はその場に座り込んで溜め息を吐き出すのだった。

「しまった……俺も連絡先聞いておくんだった!」

 女に慣れていないことが裏目に出て、本当に、本当に、落ち込んだのだ。
 こんなことなら、清い関係でもいいからお付き合いをしておくんだった!


◆◇◆◇◆


 回診を一時間と少しで終わらせて、ナースステーションをあとにする。医局で書類とスケジュールの確認をして「休憩してきます」とジャケットを持って出ていく俺を、誰も気にする様子はない。いつも通り、遅い昼食か間食だと思われているのだ。
 救急車の音も聞こえない。急な呼び出しも、ないと思いたい。

「さっむ!」

 曇天から雪がちらほら舞い落ちてくる。ジャケットのポケットに手を突っ込んで、早歩き。走りたい気持ちを抑えて、喫茶店へ向かう。

「いらっしゃい」

 昔からある喫茶店には、よく通っている。髭の白いマスターとも顔馴染みだ。ブレンドを注文して、あたりを見回す。病院の先生方が何人かいるかと思ったが、普通の客しかいなかった。
 目当ての彼女は、窓際に座ってこちらを見ていた。目が合うと、小さく手を振ってくれる。かわいい……めちゃくちゃかわいい。鼻血出そう。

「すみません、お待たせして」
「いえ、いいですよ。コーヒー、美味しかったですし」

 彼女の正面に座り、さて、何から話そうと考える。
 患者の容態? 天気の話?
 友達になりませんか?
 あぁ、一体、何から話せば。

「結婚を前提に付き合って欲しい」

 自分の、女性に対する免疫力のなさを舐めていた。まさか、初めて会った人にそんな直球を投げてしまうとは思わなかった。死にたい。
 けれども、彼女は驚いて目を見開いたあと、微笑んだ。微笑んで、くれたのだ。

「結婚も付き合うこともしません。ただし、セックスだけのお付き合いなら大歓迎です」

 今度は俺が驚く番だった。直球を、見事に打ち返してきた。しかも、ピッチャー返し。

「参ったな」

 どうしよう。それでも、嬉しい。
 俺はまんまと捕球してしまった。
 彼女の提案はアウトなのに、嬉しい。
 世間的にはアウトでも、俺にとってはセーフだ。
 彼女がそばで笑ってくれるなら、何だっていい。その笑顔を俺に向けてくれるなら、何だって。

「あなたの望む形で構いません。名前と連絡先を教えてくれませんか。私は湯川望、外科医です」

 手帳とペンを差し出し、記入してもらう。
 名前は……月野あかり、月野さん。かわいい名前、綺麗な字だ。

 ブレンドコーヒーを飲みながらふと外を見ると、先程までちらほら降っていた雪が、一気に量を増し、風に煽られて吹雪いている様子が見えた。寒そうだ。今夜は冷えるだろう。

「……また、雪が降ってきましたね」

 俺の言葉に月野さんが顔を上げ、心底嫌そうに眉間にしわを寄せる。

「寒いのは苦手です」

 モコモコのジャケットから、何となく想像はしていた。お洒落より防寒対策が重要なんだな、と。

「月野さん」
「あかり、でいいですよ」

 見つめられると、ダメだ。ただの雄に成り下がってしまいたくなる。
 絵の中の女が、俺の目の前で喋っている。俺を見てくれている。本人ではないと知りつつも、体は反応する。

「……今夜、というのは早すぎますか?」

 あぁ、もう! 何を口走っているんだ、俺は!
 口にした瞬間に、後悔する。
 どれだけがっついているんだ、俺は!
 絶対呆れられているぞと思いながらあかりさんを見ると、笑っていた。バカにしたような笑みではなく、本当に面白いものを見たときのように、屈託なく。

「暖めてくださいますか?」

 イエスという意味だと、すぐに気づく。
 本当に? 今夜? いいんですか?

「もちろん!」
「では、今夜。連絡をお待ちしています」

 立ち上がったあかりさんに握手を求めたのは、なぜだったか。
 たぶん、この出会いが夢ではないと実感したかったんだ。触れて、感触を確かめて、幻ではないと思いたかったんだ。
 握られた手は、冷たく、細い。柔らかな、女の人の手、だった。

 その手を引いて、今すぐ抱きしめてしまいたい。もっと奥まで触れてみたい。その柔らかな体を、もっと実感したい。
 そんな妄想をしてしまうくらい、愛しさが込み上げてきた。
 そう、愛しさだった。間違いなく。

「よろしく、あかり」
「こちらこそ。湯川先生」

 俺は、長年待ち焦がれた奇跡を、今日ようやく手に入れたのだ。

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