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第一夜

039.【幕間】初夜翌日(緑橙)

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【緑の君】

 聖女が帰ったあと、リヤーフは寝室にこもったまま誰とも会おうとしなかった。バラーはおろおろとしつつも食事の準備をして主人を気遣い、サーディクはのんびり茶を淹れる。
 先ほど、宮文官ラルスが聖女の訪問を謝罪に来た。バラーがこちらにも非があることを伝えても、ラルスは頑なに「聖女様の勝手が過ぎたことですので」と譲らなかった。

「サーディク、聖女様は次も来てくれるでしょうか? 一度きりという可能性もあるのではないですかね?」
「来てくれるんじゃないですかねぇ。聖女様はリヤーフ様のこと、嫌いじゃないと思いますよ」
「そう、ですか。ならばいいのですが……あぁぁ、リヤーフ様が何か粗相をしていないか気がかりです」
「粗相していても、あの聖女様なら大丈夫だと思いますよ。では、僕はリヤーフ様を起こしてきますね。聖樹会の準備もありますので」

 サーディクがノックをして寝室に入ると、リヤーフは寝台の上でゴロゴロのたうち回っているところだった。サーディクは苦笑したのち、主人に声をかける。

「リヤーフ様、香茶が入りましたよ」
「ん」
「今日は聖樹会の日ですよ。早めに準備をなさいませ」
「……サーディク」

 リヤーフは消え入りそうな声で、尋ねる。

「あの女から文は届いていないか?」
「届いていないですね。そもそも、聖女様はこちらの文字をご存知ないと思いますよ」
「本当か! あいつ、文字が書けないのか!? あぁ、そうか、異世界から喚び出したんだったな。文字を知らんのか……」
「次回、リヤーフ様が文字を教えて差し上げたらいいじゃないですか」

 リヤーフは一瞬言葉に詰まる。これから先、文を交わす機会もあるだろう、とサーディクは考える。聖女の暇潰しにもなるだろう、と。

「……あいつはまた来るのか?」
「リヤーフ様が行かない限りは、来てくださると思いますよ。ただ、融通の利かない宮文官には叱られるでしょうが」

 ラルスは「緑の君がお出でくださらない限り、聖女様はそちらを訪問なさると思います。ご迷惑をおかけいたします」と苦々しそうに二人に伝えた。迷惑をかけているのはこちら側なのだとバラーが取り繕うのを、サーディクはのんびり眺めていた。

「叱られたのか、あいつ」
「ええ、宮文官から叱られたでしょうね。聖文官は規則を破ることを何よりも恐れますから」

 あの謝罪も「そういうもの」だとサーディクにもわかっている。聖女が規律を破ることがないよう――緑の君に規律を守らせるよう、こちらに釘を差しに来たのだ、と。

「叱られるのに、来るのか?」
「夫が来ないのなら、いらっしゃるでしょうねぇ」
「バカなのか、あいつは」
「それを知っていて聖女の部屋に行かない夫も愚かだと思いますよ、リヤーフ様」

 リヤーフは口ごもる。サーディクから辛辣なことを言われても、そこまで口答えはしない。サーディクもバラーもリヤーフの扱いには慣れているため、「俺は王子だぞ!」と激昂したところで簡単にあしらわれるだけであることを学習しているのだ。

「……文は、書かないほうがいいな。読めないなら意味がない」
「何か贈り物を準備なさいますか?」
「そうだな! いや、しかし、宮の予算からは出せないな。俺の個人的な財産から……あの女は何に喜ぶ? 金も宝石もいらんと言った女だぞ。服か? 花か? 食べ物は……警戒して食べんだろうし」

「そうですねぇ」とサーディクは微笑む。傲慢な黒の王子が妻のために贈り物を考えているなど、緑の国の王家の人々に伝えても信じてくれないだろう。頭がおかしくなったのかと心配されるに違いない。
 しかし、サーディクの前で悩むリヤーフは、ただの青年に見える。黒の王子と言われ恐れられていた頃ほどの毒気はない。

「あぁぁ、もう! 考えるのがこんなに面倒だとは!」
「では、贈り物は準備しなくてもよろしいですか?」
「いや、待て! ……まだ、考える」
「わかりました。昼食を摂り、聖樹会の準備をなさったあとで考えましょう」

 サーディクの提案にリヤーフは頷く。やけに素直な黒の王子を見下ろし、従者は「このまま穏やかな性格になっていただければいいのですけどねぇ」と呟く。
 しかし、その後も聖樹会の衣装が気に入らないなどと言ったり、装飾品にケチをつけたり、我儘なところは健在なので、聖女にもっと毒気を抜いてもらわなければならない、とサーディクは期待するのだ。


◆◇◆◇◆


【橙の君】

「果実酒はどれが弱いかしら。長く飲んでいられるものがいいわ」

 ドゥルーヴは顎に手をやり逡巡したのち、「香茶で割ってみてはどうでしょう?」と応ずる。アールシュは「いいわね、それ」と手を叩いて喜ぶ。次回も聖女と酒盛りをしたい、とアールシュは微笑んでいる。ドゥルーヴは「宮のほうに酒に合う茶葉を渡しておきましょう」と、厳つい顔を緩めもせずに頷く。
 アールシュのその風貌と性格を、聖女はすんなり受け入れたと言う。実の親や兄弟ですら受け入れ難かったものを、聖女だけが許容した。アールシュの喜びがいかほどのものであったか、ドゥルーヴも容易く想像できる。

「王子は本当に母君に似ていらっしゃる」と母親を知る人々から言われ続けたが、その母は物心ついたときには既にアールシュのそばにはいなかった。母の面影を鏡の中に見出し、母に近づくことで、アールシュは自我を保っていたのだ。
 寂しい王子が、母を求めて女装をする――ドゥルーヴはそれを不健全だと思ってはいたが、正すことはできなかった。それが正しくはないことだと認識していても「誤り」だとはどうしても思えなかったのだ。

 橙の国の王は、そんなアールシュを疎ましく思っていた。息子が母親に似てくるのは自然のことだが、アールシュのそれは不自然なものと認識したらしい。アールシュの兄弟たちも同じだ。
 アールシュは何も言わなかった。母に会いたいとも、王や兄弟たちから認められたいとも、何も願わなかった。ただ、臣籍降下だけを求めた。
 前の聖女崩御後、女装王子を新たな聖女の夫に――そのように提言する家臣が増えたが、しばらくの間は王はそれに応じなかった。だが、緑の国も王子を聖女の夫に据えると決めたことを聞き、王も決断したのだった。

「苺酒がいいかしら、それとも梅酒? 香茶で割るとどれが一番美味しいかしら」
「すべて試してみてはどうでしょう? 香茶だけでなく、果実水でもいいかもしれません。苺酒に香茶、オレンジ酒にオレンジ水、というような組み合わせも良いのでは」
「ドゥルーヴ、素敵じゃないの、それ! やってみましょ!」

 アールシュは笑顔だ。橙の国を出てから、彼はよく笑うようになった。聖女と同衾してからは、ずっと幸せそうに笑っている。
 聖女宮へ来て良かった、とドゥルーヴは思う。主人は母親を探すことはできなくなったが、幸せを手に入れることはできたようだ。聖女と相性が良ければ、命の実もじきに結実するだろう。

「イズミちゃんを程良く酔わせて楽しみたいわねぇ」
「……楽しむ?」
「うふふ。言わせないでよ、ドゥルーヴったらぁ!」

 アールシュがウキウキと試飲のためのグラスを準備し始める。手伝いながら、ドゥルーヴはホッとしていた。もう、彼は「ここから逃げ出したい」などと言って自由を求めることはないだろう。家出を繰り返すアールシュを、何度も連れて帰っていたドゥルーヴは、本当に安堵したのだった。


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