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第一夜

029.ラルスの事情

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 聖女が召喚されて七日目、茶の君との初夜を迎える日、赤の国と黄の国の命の実がいくつか結実したとの知らせがあった。満開の翌日のことだ。異例の速さに、二国の国民は大喜びだという。
 あとは熟れるまで待ち、収穫係が収穫してから聖水に浸す。一日待てば、命の実の完成だ。

 ラルスは聖女が召喚されてからずっと宮のそばに侍っていた。何かあったとき、すぐに対応できるように。しかし、それは杞憂であった。緑の君の邸宅に勝手に押しかけた以外は、大きな問題は起きていない。
 だから、ラルスは夜の番を宮女官に任せ、久方ぶりに自宅へと戻ることにしたのだ。

 ラルスの妻トニアは、彼と同じ紫の国出身の女官だった。今は結婚をして家のことをしている。
 十日ほど家を空けていたのだから寂しいだろう、とラルスは花売りの娘から一輪の花を買って帰る。薄紫色の、何という名前とも知れない花。トニアの髪の色に似ていたのだ。

 薄紫色の花を手にしながら、長屋のある区画へと差し掛かる。ラルスの家は長屋の一部にある。少し奥まったところにあるため、人の通りはほとんどなく静かな場所だ。近所は聖職者夫妻の家ばかりのため、自分が不在でも、トニアは他の聖職者の妻たちと仲良くしているようだった。
 トニアは喜んでくれるだろうかと考えながらふと顔を上げると、自宅の前に誰かが立っているのが見えた。ラルスは思わず近くの柱の影に隠れる。トニアと仲良く話をしているのは、ラルスの同期の金髪の男。

「エレミアス?」

 エレミアスはトニアと親しげに話をしている。彼の家はこの区画にはない。偶然、ラルスの家の前を通りかかることはない。
 何のために自分の家に――と、考えた瞬間、ラルスはその理由を知った。エレミアスとトニアが周囲を気にしながら、キスをしたからだ。
 補佐官のトマスが言っていたことを思い出す。聖職者の妻の間で不倫が流行っているのだと。嫌いな同僚の妻を寝取ったのが始まりだと。
 妻を信用している――ラルスはそう笑った。妻が不倫などするわけがない、そう信じていたのだ。
 まさか、裏切られていたとは。

 そこで二人の間に出て行って、激昂しながらエレミアスを殴りつけることができれば、ラルスはトニアに自らの愛を示すことができたであろう。エレミアスの醜聞を広く知らしめ、出世の道を遅らせることもできたであろう。
 しかし、ラルスはそうはしなかった。エレミアスが立ち去るのを待ち、妻トニアの待つ家に帰ったのだ。

「あら、お帰りなさい。珍しいわね、あなたがこんな時間に帰ってくるなんて」
「あぁ……忘れ物を取りに帰ったんだ。またすぐに宮に戻らなければならない」
「忙しいのね。聖女様が落ち着くまでは家にいられないわね」

 ラルスはトニアに気づかれないように、空気中の匂いを嗅ぐ。エレミアスの甘い香水の残り香が、確かにそこにある。彼は家に入ったのだ。エレミアスは家から出たところだったのだ。
 それを確信したラルスは、食卓の上に紫色の花を置く。夫に背を向けて台所に立つトニアは、まだ花に気づいていない。
 ラルスはトニアの背後からそっと抱きつく。甘えたようにうなじに唇を寄せ、匂いを嗅ぐ。

「うふふ。どうしたの?」
「十日ぶりに可愛い妻に会ったんだ。少しくらい、いいじゃないか」
「んもう、ダメよ。まだ三つ時が過ぎただけじゃないの」

 トニアの体から、甘い匂いがする。エレミアスが妻に触れたのだとラルスは確信する。触れるだけで終わったはずがない。確認してはいないが、寝室には情事の残り香が充満していることだろう。
 しかし、ラルスはトニアの不貞を今ここで暴くつもりはない。トニアの膣内を探る勇気を持ち合わせていないし、エレミアスの残滓に触れたくもない。

「何か変わったことはなかったか?」
「何もないわ。ただ退屈な日々が続くだけよ。そういえば、そろそろ命の実ができそうなんですって? 紫の国はどうなのかしら?」
「あぁ……まだだね」
「そうなの? 紫の君は盲目だから、後回しなのね。残念だわ。早くこの退屈な日々を終わらせたいのに」

 紫の君は後回し――その言葉は、先日エレミアスの口からも聞いた。二人は繋がっているのだ。
 ラルスは二人だけの穏やかな生活でも不満はない。しかし、トニアは刺激を求めている。命の実を食べ、妊娠することは、確かに退屈な日々に彩りを与えることだろう。子どもが生まれたら、世界がひっくり返るほどの驚きと興奮に満ち溢れた日々になることだろう。ラルスにも想像できる。
 だから、退屈を持て余したトニアは、刺激を求めてエレミアスに抱かれたのかもしれない。その心理を理解することはできても、ラルスが許容できるわけではない。

「ねぇ、あなた、紫の国に命の実がなったら一番に食べたいわ。そのための宮文官なんだもの。少しは優遇してもらえないかしら?」

 黄の国の実のほうがいいのではないのか――ラルスはそう言いたいのを我慢する。お前が欲しいのはエレミアスの子ではないのか。言葉を、ぐっと飲み込む。
 ラルスは妻の問いには答えず、家を出た。薄紫色の花は、食卓の上に置かれたまま少し萎びていた。



「あれ、ラルス。帰ったんじゃなかったの?」

 聖女宮に戻ると、真新しい茶色の寝間着に身を包んだ聖女が湯殿から部屋に向かうところであった。濡れた黒い髪に浴布をかぶせ、ゴシゴシと拭きながら歩いている。
 行儀が悪いですよ、とたしなめたところで、この聖女は聞かないだろう。明るく「すみませーん」と言われるだけだ。反省などしないのだ。

「聖女様が心配でしたので」
「大丈夫よ。茶色の夫の欲も解放してあげるから、心配なんてしなくてもいいのに」

 欲の解放。トニアと抱き合って眠ったのはいつだったか。ラルスは全く覚えていない。最後に欲を解放したのはいつだったか。
 思い出せない夫より、言い寄ってくる男を選んだのだ、妻は。ラルスは妻を蔑ろにしていた己を恥じる。ただ、相手はできればエレミアスでないほうが良かった。勝ち誇ったような顔が容易く想像できる。

「聖女様は……欲を解放するのがお好きですか?」
「うん、好き。気持ちいいもん」
「では、自分に触れてこないご夫君がいらっしゃったら、どうなさいます?」
「自分から触りに行くよ。だって触りたいし、キスしたいもん。あ……その節は、どうもすみませんでした」

 緑の君との件を謝っているのだと、ラルスにもすぐにわかる。その件を責めているのではないのだが、訂正はしない。勘違いさせたままにしておく。

「緑の君は、気難しい方でしょう? もしまた次回も緑の君がいらっしゃらなければ、どうなさいますか?」
「うーん。やっぱり行くかなぁ。緑の国の人も命の実を待っているでしょ? で、翌朝、ラルスに叱られる準備だけしておくよ」
「あなたという人は……」

 ラルスは呆れたのではない。いや、呆れもしたが、そこまでして会いに行きたいと思ってもらえる緑の君を、心底羨ましく思ったのだ。
 トニアはラルスに我儘を言ったことも、寂しいと泣いたこともない。夫が不在がちでも気丈に振る舞う、よくできた妻だと思っていた。
 しかし、ラルスは今日確信した。トニアは子どもが欲しいだけなのだ。退屈な日々に別れを告げたいがために、命の実に一番近い場所にいるラルスと結婚したのだ。
 それに気づくと、残酷なまでに、トニアがラルスに興味を持っていないような発言だけが思い出される。トニアの興味は、あくまで命の実――子どもなのだ。

「あなたに愛されるご夫君方が羨ましいですよ」

 ぽろりと零れた本音に、聖女は立ち止まる。髪を拭きながら、ラルスを見上げる。その瞳の色は、ラルスと同じ漆黒の色だ。前の聖女と同じ、美しい黒。ラルスはそれだけが誇りだった。

「羨ましい? ラルスも愛されたいの? 奥さんから愛されていないの?」
「い、いえ、今のは失言でした。取り消します。忘れてください」
「えっ、忘れたほうがいいの? 別に誰にも言わないけど」
「聖職者にあるまじき発言でしたので、忘れてください」

 聖女は「そっかぁ」とつまらなさそうに呟いたあと。

「わたしはラルスのことも好きだから、夫が一人増えるくらいどうってことないんだけど」

 さらりと、聖女はラルスの邪な想いを肯定した。ラルスが顔を真っ赤にしたのと、聖女が廊下の段差に引っかかってよろけたのは、同時だった。

「あぶな……っ」

 ラルスは慌てて聖女の体を抱き寄せる。聖女はつんのめったものの、しっかりと踏み止まる。どちらからとなく、ホッと溜め息が零れる。

「うわー、ラルス、ごめん。転ぶところだったわぁ。ありがとうね」
「……いえ」

 聖女の柔らかな体、温かさ、そして、石鹸の匂い。先ほど抱き寄せたトニアのそれとは、全く違う。
 ラルスは咄嗟に腰を引く。聖女に知られてはなるまい、という聖職者としての矜持だ。しかし、そんな矜持も虚しく、欲は体に如実に現れる。妻のトニアには反応しなかったのに、皮肉なことだ。

「ラルス、もう大丈夫よ」

 聖女がラルスの腕をポンポンと軽く叩く。しかし、ラルスの腕は聖女の体を抱いたまま離れない。聖女は困ったようにラルスの腕を優しく撫でる。

「八人かぁ……体、もつかしら」
「っも、申し訳ありません! 聖女様! 聖女様のお体に私から触れるなど、あってはならないこと……!」
「じゃ、わたしから触れたってことで、お咎めなしね」

 ラルスは慌てて両手を広げ、聖女を解放する。聖女はあっけらかんと笑いながらまた廊下を進み始める。
 ラルスは両手に目を落としながら、先ほどの聖女の温もりを思い出す。それを妻に求めるのが、既婚者の「普通」である。たとえ妻が他の男に浮ついていても、自分は他の女に浮つくわけにはいかない。ラルスにもわかっている。
 真面目なラルスは、自分への嫌悪感を増幅させた。神聖な聖女に対し、一瞬でも懸想してしまったことを恥じ入る。

「ねぇ、ラルス。夫の数は増やせるの?」

 聖女は無邪気な笑みで、ラルスの欲を煽ってくる。聖職者として、既婚者として、その欲を貫くわけにはいかない。ラルスは固く誓うのだ。男としての自分を、置き去りにして。


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