【R18】サキュバスちゃんの純情

千咲

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69.性欲か生欲か(一)

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 東京駅から、三時間半。新幹線は速い。ボーッと景色を見ていたら、目的地に着く。
 傘と鞄を持って、新幹線を降りる。

 九月十八日。
 新幹線から在来線に乗り換えて、窓からやはり曇ったままの外を見る。台風が近づいてきている。
 昨日のうちに来られれば良かったのだけれど、精液の確保のために健吾くんとセックスをするしかなかったのだ。翔吾くんはサッカーの試合、湯川先生は仕事。ケントくんは体育祭だったかな。仕方なかったのだ。
 電車は鉄橋を超え、市街地を抜け、山と田んぼの田舎を走る。
 景色がガラリと変わるのは、海が見えた瞬間だろうか。頭上に、本州と島を結ぶ橋が二つ現れ、造船所のドックと巨大なクレーンが見えるようになる。
 線路脇、坂の中に建つ家は木造が多い。古い家が多い。この場所だけ時間が止まってしまったかのように、ただただ懐かしい。
 緑と、黒い海と、灰色の空。山と海に挟まれた線路を、電車は小さく揺れながら進む。

「次は尾道、尾道です」

 ホームに降り小さな構内を抜けると、目の前に、向島(むかいしま)と二百メートルほどしか離れていない小さな海が広がっている。
 潮の匂いがふわり漂う小さな港町。村上ミチとして暮らした坂の町。思い出がたくさんある場所だ。良い思い出も、悪い思い出も。
 駅から商店街のほうへ向かう。林芙美子の像の前で観光客が写真を撮っている。『海が見える。海が見えた。五年ぶりに見る尾道の海はなつかしい』と彼女は『放浪記』に書いた。一年ぶりに訪れても、私は毎回懐かしく思う。
 そう、懐かしい。
 懐かしくて――胸が痛くなる。

 商店街の入り口から少し入ったところにある甘味処に入り、本わらびもちを頼んで石臼を挽くか、うさぎの耳を模した団子を食べるか、悩む。この時期限定の巨大なかき氷も捨てがたい。
 うんうん悩みながら、結局、団子と抹茶オーレのセットを頼む。
 レトロで落ち着いた焦げ茶色の店内で、オルゴールの音を聞きながら、甘味を食べるのが毎年のイベントになっている。甘味処の新規開拓は、このあとのイベントだ。

 商店街を歩く。
 刃物の店、金物屋、カフェ、定食屋、ラーメン屋にお好み焼き屋……いろんな匂いがする。
 大和湯を改築した土産物屋は、本当に懐かしくて、涙が出そうになる。叡心先生と通ったときのことを、否が応でも思い出してしまうから。
 画廊はもうない。水森診療所もない。線路の向こう側にあった、私たちが過ごした絵の具だらけの古い家も、もうない。
 ――のに、思い出だけが、ここにある。

 行列のできるラーメン屋の横を通り、海へ向かう。雨はまだ降っていない。
 水森診療所があった場所から叡心先生が身を投げた船着き場まで歩くのが、毎年のルートだ。百年前は息を切らして走った道を、今は歩く。ゆっくり、ゆっくり。新しい店を見つけながら。古い店に顔を出しながら。

 兼吉渡しは、まだ営業している渡船場だ。
 車や自転車が小さなフェリーに乗って、目の前にある向島に渡っていく。トットットッという船独特の音、ザバンザバンと揺らぐ波の音が耳に心地良い。
 いつの間にかウッドデッキができていた。ベンチもあるけれど、私は防波堤にもたれてぼうっとしながら、その小さな海を眺める。台風の影響か、少し波が高い。風もある。

 海、は私にとっては、この小さな海だ。海が広くて大きいものだなんて、水平線を見た今でも信じられない。
 海は小さくていい。そうじゃないと、叡心先生がどこへ行ってしまったのか……ずっと探さなければならないから。
 叡心先生が眠るのは、この小さな海の中。
 手を伸ばせば届きそうな、真っ黒な棺。

 何度、一緒にいたいと思ったことか。
 連れて行って欲しいと願ったことか。
 そう思いながら、何度、海の中へ落ちたことか。

 けれども、叡心先生は現れてはくれない。私の手を取り、海の中へと引きずり込んではくれないのだ。いつだって、邪魔が入る。誰かに助けられてしまう。
 それが、叡心先生の答え。
 生きろ、というメッセージ。

 生きてもいいのですか。
 幸せになってもいいのですか。

 あなたへの愛を忘れたくはないのに。
 他の愛を受け入れても構わないのですか。

 叡心先生は答えてはくれない。

 だから、私が、答えを出すしかないのだ。

 叡心先生への心の操を捨て去ることができるのは、私だけなのだから。


◆◇◆◇◆


 九月十八日は、一日、兼吉渡しの近くで海を眺めながらぼうっと過ごす。
 叡心先生が亡くなった日。亡くなった場所。そして、水森貴一も亡くなった日。
 今年は二人の冥福を祈りながら、海を眺める。

 今朝、健吾くんには何も言わずに出てきてしまった。慌てているかもしれない。でも、朝セックスをしたら、確実に新幹線の乗車時間には間に合わなかった。仕方なかったのだ。

 翔吾くんと湯川先生の関係は良好、のように見える。お互いが譲り合って、お互いを気にして、私と会っている。
 それを「苦しい、つらい」と二人は言わない。思っているのかもしれないけれど、表情にすら出さない。均衡が崩れてしまうことを恐れているように見える。
 心苦しいと思うべきか、ありがたいと思うべきか、私にはまだ判断できない。

 健吾くんも、ケントくんも、マイペースだ。「会いたい」と言えばたいてい会ってセックスをしてくれるし、同じように「会いたい」と言ってくれるからありがたい。そして、翔吾くん・湯川先生をまずは優先してくれるのも、ありがたいと思う。たまにケントくんは我が儘を言うけれど、想定の範囲内のことだ。
 現段階では、セフレさんたちとの関係も良好、のように思える。

 荒木さんは、いつも通り。
 資料作成は頼まれるし、その資料で契約も取ってきてくれる。廊下で会えば挨拶はしてくれるし、エレベーターで乗り合わせて二人きりになっても襲っては来ない。
 告白される前と同じ状況だ。
 いや、佐々木先輩がいなくなってバタバタしているところを、結構助けてくれているから、まったく同じというわけではない。
 けれど、たぶん諦めてくれた、と思う。もちろん、油断は禁物だけれど。

 水森さんとはあれから会っていない。それでいい、と思う。今のところ、会う理由がないし、会ったとしても喧嘩腰になってしまう。
 知られすぎているということは、居心地がいいのかもしれないけれど、それに甘えることができるのは……相手によるのだ。水森さんにはあまり甘えたくはない。

 海風がびゅうと吹きすさぶ。西の空は暗い。台風はどこまで近づいているのだろう。
 叡心先生の命を奪った嵐は、台風だった。しかも巨大でゆっくりと進むタイプ。この瀬戸内の近辺に甚大な被害をもたらしたと聞いている。

 あの日。
 目が覚めたら最愛の夫がいなかった。
 それくらいなら、なんてことはない。どこかにふらりと出かけることは多い人だったから。
 けれど、その前の晩、叡心先生はうわ言のように「愛している」「生きてくれ」と言いながら、私を抱いた。情事の際に言葉を発するのは少ない人だったから、言葉はよく覚えている。

 ――生きてくれ。
 その意味に気づいたとき。

 ――生きて幸せに。
 その重さに気づいたとき。

 先生は、夫はもう、私の手の届かないところにいた。

 叡心先生の遺言の「生きる」ことは守ってきた。
 飢えてどうしようもなくて、気がついたら酷い格好のまま道で倒れていたこともある。乱暴にされたことも、何人もの男を相手にしたこともある。衣服についた精液を舐めながら飢えをしのいだこともある。
 生きていたくない、と思ったことは数知れず。けれど、自ら死ぬことはできなかった。
『生きてくれ』
 それは、呪いの言葉のように私の体に染み込んで、離れてはくれなかった。

 ただ、生きるだけだった。
 男から精液を搾り取って、飢えをしのいで、生きるだけ。
 生きることにも死ぬことにも、何の執着もなかった。
 時代が変わり、飢えて死ぬことはなくなっても、生きていることに何の意味も見出だせなかった。
 ――のに。

 今、目の前の海を眺めながら、私はただ一つのことを祈っている。

 先生。
 私、幸せになってもいいですか。
 幸せに、なりたいんです。

 生きていることを喜びたい。
 愛する人に……愛する人たちに出会えたことに感謝したい。

 先生が『生きてくれ』と言ってくれなければ、たどり着けなかった未来に、私はようやくたどり着けた気がする。
 先生以外では絶対に手に入れることができないと思っていた「幸せ」が、今、目の前にあって。
 私はそれを、受け入れたいと思う。

 先生。
 ミチは、あなたと過ごせて幸せでした。
 本当に本当に、幸せでした。

 あなたに捧げた愛を、捧げ続けた心を――今度はあかりとして、二人に捧げたいと思います。

 叡心。
 ありがとう。

 今まで、ありがとうございました。


◆◇◆◇◆


 小さな海を、何度もフェリーが往復する。夕方なのにだいぶ薄暗くなってきた。波が高くなる前に帰宅を急ぐ人々を眺めながら、私は何度もハンカチで涙を拭う。
 叡心先生を喪ったときと同じくらいの悲しみが胸に広がっている。毎年、こんな気持ちになる。これを癒やすことができるのは、たぶん、二人しかいない。

 会いたいなぁ、と思う。
 湯川先生と翔吾くんに会いたい。
 今、無性に、二人に会いたい。

 いつかは、私がサキュバスだということを伝えなきゃいけない。老いのない体、精液がないと生きられない体だと、伝えなければならない。村上ミチだったと、沖野旭の情婦だったと、伝えなければならない。
 そのとき、二人はなんて言うだろう。
「騙したのか」と罵られるだろうか。
「バケモノ」と蔑まれるだろうか。
 幸せな場所から追い立てられて、また、私はゼロから人生を始めなければならなくなるだろうか。

 あぁ、でも、そうなったら、もう生きる必要はない。潔くこの海に沈もう。夫と一緒なら、きっと寂しくはない。
 百年も好き勝手に生きてきたのに、虫のいい話だと思われるかもしれないけど、叡心先生はまた私を妻に迎えてくれないかな。多くは望まない。そばにいられるだけでいいんだけどな。

 ポツリ、頭に冷たい水滴が落ちてきた。雨だ。降り出したみたいだ。
 雨粒が地面を打ち、次第にあたりの色を変えていく。潮の匂いが雨に邪魔されて薄らいでいく。
 あぁ、今日はここまでにしておいて、ホテルにチェックインするかなと思ったときだ。

「あかり!」

 どん、と軽い衝撃が背中に響く。ふらりと倒れそうになっても、倒れない。
 ……え?
 私の腰に、腕。誰かが背中から私を抱きしめているのだ、と気づく。

「濡れるよ」

 そして、頭上に傘を差し出してくる人の顔を見て、私は文字通り、絶句した。

「台風が過ぎたら、穏やかな海なんだろうね。瀬戸内は」
「あかり、勝手にいなくならないでよ。心配したよ、俺ら」
「それは同意見。ま、見つかったからいいよ。風邪引くから、行こうか」
「あれ、俺の傘? あぁっ、俺の傘!」

 翔吾くんは風に煽られて転がっていく傘を拾いに走り、その間に湯川先生が私の肩を抱いて傘の中に入れてくれる。
 ……なん、で。
 なんで、二人がここに?

「説明はあと。さ、ホテルに行こうか」

 私が取ったホテルはこの船着き場から目と鼻の先なのだけれど、湯川先生は迷うことなく停車していたタクシーに誘導してくれる。どうやらここまでタクシーで来たみたいだ。

「望さん! 俺も! ちょっと、置いてくなよ!」
「……追いつかれたか」

 湯川先生と私が後部座席に座り、翔吾くんが助手席に座る。湯川先生が運転手さんにどこかのホテルの名前を告げると、タクシーはスムーズに走り出す。

「湯川先生、私、ホテル予約してて」
「あぁ、キャンセルしてきたよ。キャンセル料も支払い済み」
「へっ!?」
「三人で泊まれるところをリザーブしてあるから、大丈夫」
「夕飯もあるみたいだよ」
「なんっ!?」

 ……根回しが良すぎやしませんか?
 二人がこんなに狡猾だったとは知らなかった。

「健吾がすごい慌てながら、あかりがいないって連絡してくれて。ほんと、電話にも出ないし、俺も困ったよ」
「で、翔吾から連絡もらったあと、水森に聞いてみたら、きっと尾道の海岸だろうって。何で水森が知っているのか、あとで教えてね」
「で、新幹線に乗っている間に尾道中のホテルに電話して『月野あかりですが』って予約の確認してさぁ。ま、すぐ見つかって良かった。海岸沿いにはそんなにホテルないんだね」
「ついでに、三人泊まれる他のホテルに予約を入れたってわけ。俺は同じホテルでも良かったんだけど、三人部屋が空いてなかったからね」

 狡猾というより、探偵みたいだなぁ、二人とも。
 ……なんて、感心している場合じゃなくて。
 健吾くんに黙って出てきたことがアダになったか。水森さんも、今日が叡心先生と水森貴一の命日だって知っているから、湯川先生に伝えたんだな。前に会ったとき、連休の予定、カマかけられたし。
 ほんとに、もう。
 みんな余計なお節介だなぁ、もう!

 余計なお節介なのに……何でだろう、すごく、嬉しい。
 二人に会いたかったからなのか。
 今日が大切な日だからなのか。
 とにかく、嬉しい。

「翔吾くん、サッカーの試合は?」
「昨日だけだったから、今朝東京に帰ってきたよ」
「湯川先生、仕事は?」
「休みにしてきた。どうせ辞めるから、我が儘聞いてもらいやすくてさ」

 つまり、今日は二人とも身動きが取りやすかったというわけか。全然知らなかった。
 それにしても、この雨の中、タクシーはどこへ向かっているのだろう。尾道から離れていっている気がする。

「まったく。男同士で新幹線とか、ほんと勘弁して欲しいよ」
「しかも、何時間? 四時間近くも二人きりなんて、地獄だったよ……本当に」

 その割には、仲良くなったみたいだけど?
 悪態をつきながらも、お互いの口調は柔らかな気がする。気のせいではないと思う。
 だって、私、二人が連絡先を交換していたなんて知らなかった。お互いには不干渉だとばかり思っていた。
 二人が仲良くしてくれたら、私も嬉しい。嬉しいけど。

 ……でも、本当に、どこに向かっているのだろう。駅から離れたら、高い旅館と高いリゾートホテルしかなかったはずだけど。あ、新幹線の駅の近くかもしれない。ホテルたくさんあるし。
 でも、一向に周りの景色が「街」にはならない。どう見ても「海岸」だ。クルーザーがたくさん見える。そして、タクシーは海岸から離れて小高い丘を登っていく。

「お客様、着きましたよ」

 運転手さんからそう言われ、傘を差した翔吾くんにエスコートされてタクシーを降りる。そして、目の前に広がる景色と建物を見て、息を飲む。一泊四万も五万もする、有名人御用達の「高いリゾートホテル」だとすぐさま理解した。

「じゃ、行こうか」

 湯川先生の目が「どう? こっちのホテルに泊まってみたかったでしょ?」と意地悪く聞いてくる。
 確かに、一度は泊まってみたかったホテルではあるけれど! 派遣社員の安月給では絶対に手が出ないホテルではあるけれども!

「これだからお金持ちはっ!」

 私の思いもつかないサプライズをやってのけるのだ。悔しいことに。

 めちゃくちゃ庶民的なお土産のもみじ饅頭なんて、この白亜のホテルの前では霞んでしまうなぁと思いながら、笑顔の二人を睨みつけるのだ。

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