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58.黒白の告白(七)
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『結婚を前提に付き合って欲しい』
今まで、いろんな人から言われてきたけれど、それに応じるつもりはなかった。だから、私は、そのときも同じように提案しただけだった。
『結婚も付き合うこともしません。ただし、セックスだけのお付き合いなら大歓迎です』
彼は目を丸くして一瞬悩んだあと、参ったなと呟いて苦笑した。
『あなたの望む形で構いません。名前と連絡先を教えてくれませんか。私は湯川望、外科医です』
差し出された手帳に名前と電話番号を書きながら、ただ、私はセフレが増えたことを喜んでいた。彼は特別若くはないけれど精液をたくさん出してくれる人だといいな、なんて、食事の――セックスのことだけを思いながら。
『……また、雪が降ってきましたね』
『寒いのは苦手です』
湯川先生の声で窓の外を見ると、真っ白だった。風が吹き荒び、雪が舞う。吹雪だ。外に出たくなくなるくらいの。
翔吾くん曰く「ものすごくダサい」もふもふジャケットを着てきて良かったと、心から安堵したことを覚えている。
『月野さん』
『あかり、でいいですよ』
『……今夜、というのは早すぎますか?』
湯川先生の恥ずかしそうな笑みに、きゅんとしたのは事実。そして、その日はとても寒かったのも事実。
寒い夜を、一人で過ごしたくはなかった。そんな理由で、誘いに乗った。
『暖めてくださいますか?』
『もちろん』
『では、今夜。連絡をお待ちしています』
立ち上がると、握手を求められた。初めて触れた湯川先生の手のひらは熱く、どんなふうに私を抱いてくれるのか、期待してしまうくらいには優しい感触だった。
『よろしく、あかり』
『こちらこそ。湯川先生』
それは、二月の、とてもとても寒い日のことだった。
◆◇◆◇◆
ドラマで見る「お医者様の一人暮らしの家」は、翔吾くん健吾くんの住んでいるマンションみたく、たいてい高層マンションの広い部屋なんだけど、湯川先生が住んでいるところは、違った。
病院に近い住宅街の中にある、十二階建てのマンションは、特別お洒落ではない、地味な外観だった。意外だった。
マンションの横に停車している真っ黒いセダンの前を通り過ぎて、エントランスに入る。
管理人の姿もない。もしかしたら、平日だけ常駐しているのかもしれない。
時刻は十時。部屋を訪ねるのに非常識な時間ではない。
エントランスホールから湯川先生の部屋番号六〇一を押して、呼び出す。けれど、インターフォンに応答はない。眠っているのだろうか。
ふと人の気配を感じて顔を上げると、カツカツというヒールの音とともにエントランスの自動ドアが開いて、住人らしき綺麗な女性が通り過ぎていく。ふわり漂う香水は柑橘系。甘い匂いだ。
ドアが開いたので、入ってしまおうかと悩んだけど、悩んでいる間にドアが閉まってしまう。横着するな、ということだろう。
二回目を押しても湯川先生が出ないので、仕方なくスマートフォンを取り出して電話をかける。途中のスーパーで買ってきた食材が腕に食い込んで重い。
『……もしもし、あかり?』
「湯川先生?」
酷い声。風邪を引いて寝込んでいるというのは本当らしい。あまり喋らせたくなくて、早めに用件を伝える。
「今、マンションの下にいるんだけど、鍵を開けてもらえる? ゼリーとか食べられるもの持ってきたよ。顔見たらすぐ帰るから」
『え? は? あ、今の、あかり?』
「もう一回鳴らそうか? インターフォン」
『あ、うん、大丈夫。あかりだったのか……すぐ開けるよ』
自動ドアが開いたので、エレベーターに乗り、六階を目指す。どうやらこのマンションは各階に二部屋しかないらしい。六〇一号室はエレベーターを降りてすぐ左側にあった。
廊下からは柑橘系の匂いがする。あの住人はすぐ右側にある六〇二号室の人なんだろう。
扉の前のインターフォンを再度押そうとしたら、ガチャリと扉が開いた。
「……あかり?」
「お邪魔します、湯川先生」
くしゃくしゃになった水色のパジャマに、ボサボサの髪、マスクをつけた湯川先生の腕の間をすり抜けて、玄関から部屋に入る。
「ごめん、散らかっていて」
ガラガラの声で申し訳なさそうに湯川先生は言うけれど、広めのリビングは散らかっているようには見えない。テーブルの上に郵便物や何かの書類があるくらい。
けれど、なぜか、あの甘い匂いがする。柑橘系の、甘い匂い。あの女の人の。
……先生?
あの女の人、今までここにいたの? あの人、誰?
何で、何の用で、病人の先生に会いに来たの?
いろいろと聞きたい気持ちを抑えて、明るく尋ねる。
「……何か食べる? 飲み物飲む?」
「じゃあ、ゼリーと飲み物を」
「寝室まで持っていくから、寝てていいよ。冷蔵庫にいろいろ入れておくね」
「……ごめん、ありがとう」
フラフラしながらドアを開けて、寝室に湯川先生の姿が消える。それを見届けてから、キッチンに向かう。
詮索はしない。湯川先生は病人だ。
ほら、家族とか同僚かもしれないし。……運転手付きの、三つの頂点を持つ星型のエンブレムが目立つ、真っ黒なセダンに乗ってくる家族とか同僚がいるかもしれないし。
いるかもしれないよ、ね。うん、高級店で買った果物の詰め合わせとか、持ってくるような家族とか同僚が、ね。
カゴに入ったままの果物の詰め合わせが無造作に調理台の上に置いてあって、彼女が湯川先生のお見舞いに来たことがわかる。その詰め合わせの内容から、どれだけ湯川先生のことを想っているのか、も。
同僚なんかじゃない。絶対に違う。
――彼女が、病院長の娘、だ。
ここに、来たんだ。
それを理解しただけで胸が痛む。
もう、部屋に来るような間柄だってことなんだろう。顔合わせまで済んで、連絡先まで交換している関係なんだろう。風邪を引いたと聞いたら、お見舞いに気軽に来られるような、親しい関係、なんだろう。
何もかもが、私とは、違う。
わかっている。
病院長の娘との縁談なら、湯川先生に拒否権はないはずだ。拒否したら、病院にいられなくなってしまう。それくらいはわかる。
それに、お父様を超えたい湯川先生は、出世したいはずだ。病院長の娘が妻になるなら、将来は安泰のはず。
いずれは大きな病院の院長。そして、心臓血管外科の権威。
私が、その華やかな将来を壊していいはずがない。邪魔をする権利もない。
私は、湯川先生のセフレでしかない。彼女ですらないのだから、彼の付き合いに口を出すことはできない。
潔く、フラれよう。
そう思いながら電車に揺られてきたはずなのに、実際に湯川先生を見てしまうと心が揺れる。実際に女の人の影を見つけてしまうと、心が乱される。
なんて自分勝手な女なんだろう、私は。最低だ。
流しには、コンビニ弁当の空きトレイとペットボトルがいくつか残っている。洗う気力も体力もなかったのだろう。普段几帳面な湯川先生がかなりしんどくなっている証拠だ。
冷蔵庫は案の定空っぽ。ビールと調味料くらいしかない。
買ってきた野菜やら玉子やらを入れて、果肉少なめの白桃ゼリーとスポーツドリンクだけ出しておく。果物の詰め合わせはとりあえず無視。触りたくない。
スプーンもコップも簡単に見つかったけど、トレイは見つからなかったので、手で持っていくとする。
寝室に入ると、大きめのベッドの縁に湯川先生が腰掛けていた。マスクも外してしまっている。寝ていて欲しかったのに。
寝室では香水の匂いがしなくて、ホッとする。……本当に、ホッとした。ここまでは入っていないみたいだ。
「横になってていいのに」
「……眠れるわけないよ。何で、ここに?」
「先生が風邪を引いたって、水森さんから聞いたよ」
「あいつ……ほんとに、もう」
コップとゼリーをサイドに置いて、ぎゅうと先生の頭に抱きつく。先生が慌てて「シャワー浴びていないから、臭いから!」と逃げようとするのを、離さない。
……あぁ、先生だ……湯川先生だ。甘い匂いのしない、汗臭いだけの、先生だ。
じんわりと胸の奥が暖かくなっていく。
実際に先生に触れると、決心が揺らいでしまう。でも、ならば最後に思い残すことのないようにしておきたい――そんな気持ちだ。
「迷惑だった?」
「め、迷惑だなんて! そんなこと!」
「会いたかった」
好きだと自覚したら、どうしてこんなふうに素直になれるのか。フラれることを覚悟したら、どうしてこんなふうに大胆になれるのか。
不思議だ。
湯川先生の体は熱い。そして、硬直している。カチコチだ。
「……あかり?」
「先生に会いたかった」
「俺も、会いたかった。連絡できなくて、ごめん」
「ん、いいよ、会いに来たから」
「ありがとう、あかり」
腰に回された腕はやはり熱い。夏風邪をかなりこじらせているみたいだ。これが医者の不養生ってやつか。
ボサボサの髪を撫で、頬にキスを落とす。剃っていないヒゲがまばらに生えている。チクチクするのも新鮮だ。
何度もキスをすると、湯川先生はビクリと体を震わせて逃げようとする。
「ダメ、あかり、風邪が移るから」
「キスしたい」
「ダメ。移したくない」
「せんせ」
逃げようとする先生の太腿の上に座り、腕を首の後ろで組んで、ほぼ同じ視線の高さで、笑う。
「望」
「だから、あかり、ダ――」
もう、「ダメ」は言わせない。風邪なんていくらでも移してもいいから、最後にキスくらいさせてよ。
ぎゅうと抱きついて、唇と言葉を奪う。薄く開いた唇の隙間から、湯川先生の熱い舌を見つけ出す。
戸惑いながらも舌を絡めて来てくれる先生の、太腿の中央は硬く勃ってしまっている。でも、それには触れないように気をつける。さすがに、最後だからと言って、病人を無理やり押し倒してしまうのは気が引ける。
「……あかり、どうしたの?」
「どうもしないよ。久しぶりに会えて嬉しいだけ」
嬉しいのは嘘じゃない。
どうもしないのは嘘。だって、不意に香ってくるこの匂い、やっぱり腹立たしくて仕方ない。
先生の頭や体からは匂いはしなかった。でも、パジャマからは薄っすらと柑橘系の匂いがするのだ。彼女が抱きついたのだろう。……もしかして、先生も抱きしめた?
先生に触れないで。
私の湯川先生に近づかないで。
私から、先生を奪わないで。
最後の最後で、そんなふうに嫉妬してしまう自分が惨めで情けない。
「……あかり、俺、実は」
「先生、ゼリー食べて、それ飲んで、寝て。その間に、温めるだけで食べられるもの作っておくから」
湯川先生が何か言いかけたのを遮って、指示を出す。きっと、縁談のことだろう。さっきの彼女のことだろう。……別れ話のことだろう。
でも、今は聞きたくない。
もう、何も考えたくない。
私は我が儘だ。先生の口から「結婚することになった」なんて聞きたくなくなったのだ。心の準備はしてきたのに。バカみたい。
「いろいろ作ったら、帰るね」
「……ありがとう」
熱を持ち、汗ばんだ額にキスをして、湯川先生の太腿から降りる。本当はカチコチのそれを口で抜いてあげたいけど、止められなくなってしまう気がするからやめておく。
行為も止められないけど、想いも溢れてきてしまいそうで、困る。困らせてしまう。それは嫌だった。
「食べたら、寝てね」
「……わかった」
「おやすみなさい」
名残惜しそうな先生の視線に気づかないふりをして、寝室を出る。そして、溜め息をつく。
先生に会えて嬉しい。
でも、先生を失いたくない。
先生の幸せを願っている。
でも、先生が幸せでない関係は終わりにしなくちゃいけない。
先生の幸せが出世の先にあるのなら、私ではその幸せを与えることができない。彼女なら先生に、望みのものを与えられる。
そういうことだ。
諦めるしかない、と思った。
翔吾くんには「諦めないで」と言ったのに、私は先生を諦めようとするなんてバカみたい。
本当に、矛盾している。
胸が痛い。苦しい。つらい。
忘れていた。
好きだという気持ちは、こういうものだった。
好きな人と別れるということは、こういうことだった。
涙で前が見えなくなるくらい先生のことを愛しいと思うのに、やっぱり、うまくはいかないんだ。
今まで、いろんな人から言われてきたけれど、それに応じるつもりはなかった。だから、私は、そのときも同じように提案しただけだった。
『結婚も付き合うこともしません。ただし、セックスだけのお付き合いなら大歓迎です』
彼は目を丸くして一瞬悩んだあと、参ったなと呟いて苦笑した。
『あなたの望む形で構いません。名前と連絡先を教えてくれませんか。私は湯川望、外科医です』
差し出された手帳に名前と電話番号を書きながら、ただ、私はセフレが増えたことを喜んでいた。彼は特別若くはないけれど精液をたくさん出してくれる人だといいな、なんて、食事の――セックスのことだけを思いながら。
『……また、雪が降ってきましたね』
『寒いのは苦手です』
湯川先生の声で窓の外を見ると、真っ白だった。風が吹き荒び、雪が舞う。吹雪だ。外に出たくなくなるくらいの。
翔吾くん曰く「ものすごくダサい」もふもふジャケットを着てきて良かったと、心から安堵したことを覚えている。
『月野さん』
『あかり、でいいですよ』
『……今夜、というのは早すぎますか?』
湯川先生の恥ずかしそうな笑みに、きゅんとしたのは事実。そして、その日はとても寒かったのも事実。
寒い夜を、一人で過ごしたくはなかった。そんな理由で、誘いに乗った。
『暖めてくださいますか?』
『もちろん』
『では、今夜。連絡をお待ちしています』
立ち上がると、握手を求められた。初めて触れた湯川先生の手のひらは熱く、どんなふうに私を抱いてくれるのか、期待してしまうくらいには優しい感触だった。
『よろしく、あかり』
『こちらこそ。湯川先生』
それは、二月の、とてもとても寒い日のことだった。
◆◇◆◇◆
ドラマで見る「お医者様の一人暮らしの家」は、翔吾くん健吾くんの住んでいるマンションみたく、たいてい高層マンションの広い部屋なんだけど、湯川先生が住んでいるところは、違った。
病院に近い住宅街の中にある、十二階建てのマンションは、特別お洒落ではない、地味な外観だった。意外だった。
マンションの横に停車している真っ黒いセダンの前を通り過ぎて、エントランスに入る。
管理人の姿もない。もしかしたら、平日だけ常駐しているのかもしれない。
時刻は十時。部屋を訪ねるのに非常識な時間ではない。
エントランスホールから湯川先生の部屋番号六〇一を押して、呼び出す。けれど、インターフォンに応答はない。眠っているのだろうか。
ふと人の気配を感じて顔を上げると、カツカツというヒールの音とともにエントランスの自動ドアが開いて、住人らしき綺麗な女性が通り過ぎていく。ふわり漂う香水は柑橘系。甘い匂いだ。
ドアが開いたので、入ってしまおうかと悩んだけど、悩んでいる間にドアが閉まってしまう。横着するな、ということだろう。
二回目を押しても湯川先生が出ないので、仕方なくスマートフォンを取り出して電話をかける。途中のスーパーで買ってきた食材が腕に食い込んで重い。
『……もしもし、あかり?』
「湯川先生?」
酷い声。風邪を引いて寝込んでいるというのは本当らしい。あまり喋らせたくなくて、早めに用件を伝える。
「今、マンションの下にいるんだけど、鍵を開けてもらえる? ゼリーとか食べられるもの持ってきたよ。顔見たらすぐ帰るから」
『え? は? あ、今の、あかり?』
「もう一回鳴らそうか? インターフォン」
『あ、うん、大丈夫。あかりだったのか……すぐ開けるよ』
自動ドアが開いたので、エレベーターに乗り、六階を目指す。どうやらこのマンションは各階に二部屋しかないらしい。六〇一号室はエレベーターを降りてすぐ左側にあった。
廊下からは柑橘系の匂いがする。あの住人はすぐ右側にある六〇二号室の人なんだろう。
扉の前のインターフォンを再度押そうとしたら、ガチャリと扉が開いた。
「……あかり?」
「お邪魔します、湯川先生」
くしゃくしゃになった水色のパジャマに、ボサボサの髪、マスクをつけた湯川先生の腕の間をすり抜けて、玄関から部屋に入る。
「ごめん、散らかっていて」
ガラガラの声で申し訳なさそうに湯川先生は言うけれど、広めのリビングは散らかっているようには見えない。テーブルの上に郵便物や何かの書類があるくらい。
けれど、なぜか、あの甘い匂いがする。柑橘系の、甘い匂い。あの女の人の。
……先生?
あの女の人、今までここにいたの? あの人、誰?
何で、何の用で、病人の先生に会いに来たの?
いろいろと聞きたい気持ちを抑えて、明るく尋ねる。
「……何か食べる? 飲み物飲む?」
「じゃあ、ゼリーと飲み物を」
「寝室まで持っていくから、寝てていいよ。冷蔵庫にいろいろ入れておくね」
「……ごめん、ありがとう」
フラフラしながらドアを開けて、寝室に湯川先生の姿が消える。それを見届けてから、キッチンに向かう。
詮索はしない。湯川先生は病人だ。
ほら、家族とか同僚かもしれないし。……運転手付きの、三つの頂点を持つ星型のエンブレムが目立つ、真っ黒なセダンに乗ってくる家族とか同僚がいるかもしれないし。
いるかもしれないよ、ね。うん、高級店で買った果物の詰め合わせとか、持ってくるような家族とか同僚が、ね。
カゴに入ったままの果物の詰め合わせが無造作に調理台の上に置いてあって、彼女が湯川先生のお見舞いに来たことがわかる。その詰め合わせの内容から、どれだけ湯川先生のことを想っているのか、も。
同僚なんかじゃない。絶対に違う。
――彼女が、病院長の娘、だ。
ここに、来たんだ。
それを理解しただけで胸が痛む。
もう、部屋に来るような間柄だってことなんだろう。顔合わせまで済んで、連絡先まで交換している関係なんだろう。風邪を引いたと聞いたら、お見舞いに気軽に来られるような、親しい関係、なんだろう。
何もかもが、私とは、違う。
わかっている。
病院長の娘との縁談なら、湯川先生に拒否権はないはずだ。拒否したら、病院にいられなくなってしまう。それくらいはわかる。
それに、お父様を超えたい湯川先生は、出世したいはずだ。病院長の娘が妻になるなら、将来は安泰のはず。
いずれは大きな病院の院長。そして、心臓血管外科の権威。
私が、その華やかな将来を壊していいはずがない。邪魔をする権利もない。
私は、湯川先生のセフレでしかない。彼女ですらないのだから、彼の付き合いに口を出すことはできない。
潔く、フラれよう。
そう思いながら電車に揺られてきたはずなのに、実際に湯川先生を見てしまうと心が揺れる。実際に女の人の影を見つけてしまうと、心が乱される。
なんて自分勝手な女なんだろう、私は。最低だ。
流しには、コンビニ弁当の空きトレイとペットボトルがいくつか残っている。洗う気力も体力もなかったのだろう。普段几帳面な湯川先生がかなりしんどくなっている証拠だ。
冷蔵庫は案の定空っぽ。ビールと調味料くらいしかない。
買ってきた野菜やら玉子やらを入れて、果肉少なめの白桃ゼリーとスポーツドリンクだけ出しておく。果物の詰め合わせはとりあえず無視。触りたくない。
スプーンもコップも簡単に見つかったけど、トレイは見つからなかったので、手で持っていくとする。
寝室に入ると、大きめのベッドの縁に湯川先生が腰掛けていた。マスクも外してしまっている。寝ていて欲しかったのに。
寝室では香水の匂いがしなくて、ホッとする。……本当に、ホッとした。ここまでは入っていないみたいだ。
「横になってていいのに」
「……眠れるわけないよ。何で、ここに?」
「先生が風邪を引いたって、水森さんから聞いたよ」
「あいつ……ほんとに、もう」
コップとゼリーをサイドに置いて、ぎゅうと先生の頭に抱きつく。先生が慌てて「シャワー浴びていないから、臭いから!」と逃げようとするのを、離さない。
……あぁ、先生だ……湯川先生だ。甘い匂いのしない、汗臭いだけの、先生だ。
じんわりと胸の奥が暖かくなっていく。
実際に先生に触れると、決心が揺らいでしまう。でも、ならば最後に思い残すことのないようにしておきたい――そんな気持ちだ。
「迷惑だった?」
「め、迷惑だなんて! そんなこと!」
「会いたかった」
好きだと自覚したら、どうしてこんなふうに素直になれるのか。フラれることを覚悟したら、どうしてこんなふうに大胆になれるのか。
不思議だ。
湯川先生の体は熱い。そして、硬直している。カチコチだ。
「……あかり?」
「先生に会いたかった」
「俺も、会いたかった。連絡できなくて、ごめん」
「ん、いいよ、会いに来たから」
「ありがとう、あかり」
腰に回された腕はやはり熱い。夏風邪をかなりこじらせているみたいだ。これが医者の不養生ってやつか。
ボサボサの髪を撫で、頬にキスを落とす。剃っていないヒゲがまばらに生えている。チクチクするのも新鮮だ。
何度もキスをすると、湯川先生はビクリと体を震わせて逃げようとする。
「ダメ、あかり、風邪が移るから」
「キスしたい」
「ダメ。移したくない」
「せんせ」
逃げようとする先生の太腿の上に座り、腕を首の後ろで組んで、ほぼ同じ視線の高さで、笑う。
「望」
「だから、あかり、ダ――」
もう、「ダメ」は言わせない。風邪なんていくらでも移してもいいから、最後にキスくらいさせてよ。
ぎゅうと抱きついて、唇と言葉を奪う。薄く開いた唇の隙間から、湯川先生の熱い舌を見つけ出す。
戸惑いながらも舌を絡めて来てくれる先生の、太腿の中央は硬く勃ってしまっている。でも、それには触れないように気をつける。さすがに、最後だからと言って、病人を無理やり押し倒してしまうのは気が引ける。
「……あかり、どうしたの?」
「どうもしないよ。久しぶりに会えて嬉しいだけ」
嬉しいのは嘘じゃない。
どうもしないのは嘘。だって、不意に香ってくるこの匂い、やっぱり腹立たしくて仕方ない。
先生の頭や体からは匂いはしなかった。でも、パジャマからは薄っすらと柑橘系の匂いがするのだ。彼女が抱きついたのだろう。……もしかして、先生も抱きしめた?
先生に触れないで。
私の湯川先生に近づかないで。
私から、先生を奪わないで。
最後の最後で、そんなふうに嫉妬してしまう自分が惨めで情けない。
「……あかり、俺、実は」
「先生、ゼリー食べて、それ飲んで、寝て。その間に、温めるだけで食べられるもの作っておくから」
湯川先生が何か言いかけたのを遮って、指示を出す。きっと、縁談のことだろう。さっきの彼女のことだろう。……別れ話のことだろう。
でも、今は聞きたくない。
もう、何も考えたくない。
私は我が儘だ。先生の口から「結婚することになった」なんて聞きたくなくなったのだ。心の準備はしてきたのに。バカみたい。
「いろいろ作ったら、帰るね」
「……ありがとう」
熱を持ち、汗ばんだ額にキスをして、湯川先生の太腿から降りる。本当はカチコチのそれを口で抜いてあげたいけど、止められなくなってしまう気がするからやめておく。
行為も止められないけど、想いも溢れてきてしまいそうで、困る。困らせてしまう。それは嫌だった。
「食べたら、寝てね」
「……わかった」
「おやすみなさい」
名残惜しそうな先生の視線に気づかないふりをして、寝室を出る。そして、溜め息をつく。
先生に会えて嬉しい。
でも、先生を失いたくない。
先生の幸せを願っている。
でも、先生が幸せでない関係は終わりにしなくちゃいけない。
先生の幸せが出世の先にあるのなら、私ではその幸せを与えることができない。彼女なら先生に、望みのものを与えられる。
そういうことだ。
諦めるしかない、と思った。
翔吾くんには「諦めないで」と言ったのに、私は先生を諦めようとするなんてバカみたい。
本当に、矛盾している。
胸が痛い。苦しい。つらい。
忘れていた。
好きだという気持ちは、こういうものだった。
好きな人と別れるということは、こういうことだった。
涙で前が見えなくなるくらい先生のことを愛しいと思うのに、やっぱり、うまくはいかないんだ。
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