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50.記憶と記録(二)
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溜め息をつきながら、貴録に目を落とす。
私の嫌な記憶と感情まで呼び起こされてしまう恐ろしい記録だ。
けれど、まぁ、水森貴一が何を考えていたのか、わかるのはありがたい。
縁側の裸婦像が箱根の美術館に収蔵された経緯も何となくわかったし、私を拾ってくれたアサさんのことも思い出した。
水森貴一が私にプレゼントばかりしてくるようになった理由もわかった。あのときは、ありがたいような、迷惑なような、そんな気持ちだったけれど。
ゆっくり、時間は過ぎていたらしい。既に夕方だ。電気をつけて、再度水森貴一の日記に向かう。
この先は、たぶん、しんどいことばかり書いてあるだろうけれど、我慢して、読み進めよう。
我慢できなくなったら、また、放り投げればいいだけなのだから。
◆◇◆◇◆
絵を持ってきた叡心に、話をした。妻を差し出すようにと。今こそ、私への恩義に報いるようにと。
叡心は、その場では首を縦には振らなかった。迷っていたのだろう。ただ、妻に話をする時間が欲しいと言って帰っていった。
了承したなら、三日後、ミチさん一人で私の家に来るようにと念を押しておいた。
三日後。楽しみだ。
明日のために、白無垢を準備した。色打掛のほうが好みかもしれないと、赤いものも準備してある。
あぁ、明日。
明日、私の腕の中に、ミチさんを閉じ込めよう。
夜、ミチさんが裏口から訪ねてきた。私はようやく、叡心の妻を手に入れたのだ。
既に人払いはしてあったので、ミチさんを家に上げ、離れに連れていき、白無垢と色打掛を見せてどちらがいいか選ばせる。ミチさんは赤い色打掛を選んだ。
色打掛を着て化粧をしたミチさんは、とても美しい。触れてもいいのかと戸惑うほどに美しかった。
私の妻になれ、と自然と口にしてしまっていた。けれども、ミチさんは頷かない。ただ、冷たい目で、笑いもせず、泣きもせず、私を見据えただけだった。
強情な女を組み敷いて、私は願う。
妻になって欲しい。
笑って欲しい。
私を、慕って欲しい。
私のものになって欲しい。
しかし、願いは、叶わない。
強情な女は喘ぎ声一つもあげず、私を迎え入れ、その膣内で精を受け入れた。
孕んで欲しい。私のものにならないのなら、せめて私の子を孕んで、産んで欲しい。
狂おしいほどに美味な体に、何度も精を放ち、私は切にそう願った。
今夜もミチさんを抱く。
能面のように表情を変えないミチさんに、何度も妻になるように説得する。けれども、拒絶される。
なぜ、私の想いを受け取ってくれない。
なぜ、笑ってくれない。
なぜ、私の子を孕んでくれない。
なぜ、なぜ、なぜ。
なぜ、それでも、私はミチさんを慕い続けるのか。
いつかミチさんが私のことを慕ってくれると信じるしかない。
またミチさんを呼ぶ。
上等な友禅を着させても、美味な茶菓子を食べさせても、好物の桃を食べさせても、笑顔が見られることはない。
苦しい。
恋い焦がれた女を抱いて、孕ませようとしているのに、女は私を見てはくれない。夫に向けるような穏やかで優しい笑顔を、私には見せてくれない。
なんて、苦しい。
苦しくて、苦しくて、夜通しミチさんを抱いて、潰してしまった。
気をやって眠ってしまったミチさんを抱きしめて、涙を流した。
私は、どこで、何を間違えてしまったのか。
愛しい人に、想いが届かない。
私は、どうすればいいのか。
どうすれば。
今夜は叡心の家に行った。粗末な家に、油絵具の臭いが染み付いている。家を汚しても構わないと伝えて住まわせた通り、絵具があちこちについている。
この家で、叡心とミチさんが暮らしている。この、幸せな家があるから、ミチさんが私のものにならないのだ。
床に入る寸前の二人を見つけ、怯えるミチさんを押さえつけて、叡心に、描け、と命じた。嫌だ嫌だと泣き叫ぶミチさんの中に無理やり押し入り、描け、と叡心に命じた。
叡心は絵筆を取り、泣きながら描き始めた。泣き喚く妻を、蹂躙する私を。獣のようにまぐわう二人を。
精を出しても、充足感などない。苦しいだけだった。
それでも、ミチさんの泣き顔を見られたことは収穫だった。能面のような顔が涙に歪むのは、嬉しいことだった。
幸せな家の記憶に、私の記憶を刻み込んでやったのだ。
今夜も叡心の家に行く。そして、また、泣き喚くミチさんを抱き、叡心にその絵を描かせる。
早く絵を完成させないと、妻が汚される一方だということに、叡心は気づいているのか。いないのか。
ミチさんに子ができた気配はない。まだ孕まないのか。まだ足りないのか。ならば、もっと、抱かなくては。
叡心の絵が変わった。
美しく描かれたミチさんの体に、絵具をさらに塗りつけているのは、私への抗議だろう。妻を蹂躙されて喜ぶ夫はいない。ミチさんを抱く私への憎悪、なのかもしれない。
どちらでも構わない。
それでも、叡心の絵の中のミチさんは変わらず美しいのだから。
叡心が絵を持ってきた。
横たわるミチさんと、繋がれた手。しっかりと握られた手が、絆の強さを象徴している。
叡心が自分の体の一部を絵に描き込むのは珍しい。自らの肖像画でさえ描かなかった男だったのに。
理由を尋ねたら、叡心は言った。
もし自分に何かあったら、ミチのことを頼む、と。ミチは男に抱かれていなければ生きていけない。だから、あんたがその役目を引き継いでくれ、と。
どういう意味か、今でもわからない。
縁起でもない、と私は叡心を怒鳴りつけた。私はミチさんを慕っているが、叡心の絵も高く評価しているのだ、と。
筆を折らないでくれ。
叡心の絵は、ミチさんは、私のすべてなのだ。
嵐が来た。
穏やかな海が荒れ、船が激しく揺れる。診療所は休みにし、急患だけ受け入れることにした。
昼、ミチさんが診療所にずぶ濡れでやって来た。叡心はいるか、と尋ねてきたが、叡心は来ていない。そう告げると、ミチさんは泣きながら、叡心が死ぬかもしれないと訴えてきた。
嫌な予感は的中する。
船着き場から、叡心が荒れ狂う海に身を投げそうだと連絡をもらう。駆けつけたが、遅かった。叡心の体が、波にさらわれ、沈みそうになっていた。
取り乱し、半狂乱になって海へ飛び込もうとするミチさんを羽交い締めにして、漁師に縄を投げ込むよう指示をしたが、漁師は無駄だと言って投げ入れない。あとで、縄を投げ入れても叡心は受け取らなかったのだと聞いた。
叡心の頭が波間に消えた。ミチさんが泣き叫ぶ声が、頭から離れない。あんな悲しげな声、聞いたことがなかった。
もう助かるまいと漁師が呟いた声が聞こえたらしく、ミチさんは気を失った。
ミチさんを連れ帰り、着物を着せ替えたあと、いつも使っていた離れに連れていき、布団に寝かせた。
叡心は死んだ。その妻は私のもとにある。
叡心から、ミチさんのことを頼まれている。
私はようやく、ミチさんを手に入れたのだ。
けれども、友を喪った悲しみのほうが勝るのか、ミチさんを抱く気にはなれなかった。
嵐が停滞したせいで、叡心の亡骸は上がらなかった。ただひっそりと、懇意にしていた寺で読経してもらい、供養してもらった。
ミチさんは、あれからずっと離れで生活している。ただ、生きている、だけだ。食事も摂らず、泣き暮らしている。
そのミチさんを毎日抱いて、毎日、孕んで欲しい、と願っている愚かな男が私だ。静かに泣く女を抱いて、笑って欲しいと願い、泣かないで欲しい、私を見て欲しいと願っている。
愚かだ。
ミチさんに叡心の遺言を伝えても、信じてもらえない。私はミチさんからは信用されていないのだと痛感する。
どうすれば、信じてもらえるのか。
どうすれば、夫婦になれるのか。
どうすれば、笑ってくれるのか。
叡心、どうすればいいのか、教えてくれ。
昼、縁側に座るミチさんを見つけ、声をかけようとした。かけられなかった。
叡心の絵から抜け出てきたかのように美しい女が、物憂げに庭を眺めていた。叡心なら迷わず絵筆を取り、妻を描くだろう。その絵を、見てみたかった。
愚かなことをした。
なぜ、私は叡心からミチさんを奪い、ミチさんから叡心を奪ったのか。
なぜ、絵の中の女に恋い焦がれた、ただの愚かな男のままでいられなかったのか。
なぜ、奪った。
なぜ、私は、壊した。
そうだ。壊したのだ。私が、私の手で。
私のしたことは、間違いだった。間違いだったのだ。
しばらく、家を離れていた。東京から帰って離れを覗くと、ミチさんが布団で伏せっていた。聞けば、食事もほとんど摂っていない、薬も飲んでいないという。
脈を取ろうとして、腕の細さに驚く。十日でこれほど衰弱してしまうのか。
そばにいられなかったことを詫びると、力なく私を見つめて、ミチさんは言った。
このまま死なせて、と。
馬鹿な。
私を置いていくなんて許さない。
叡心のもとへ旅立つなんて許さない。
死にかけているミチさんを抱く。涙を流して拒絶する女の膣内を蹂躙し、久方ぶりに精を吐き出す。
叡心の代わりに生きろ、と何度も囁きながら、何度も抱く。
ミチさんは気をやったが、顔色は良くなった。脈も正常だ。
明日から、また、毎日抱かなければ。
子ができない。ミチさんに尋ねたら、できない体だと言う。娼妓には多いとは聞いていたが、ミチさんもそうだったのか。
しかし、子ができないのなら、養子をもらうのでも構わない。
私の妻になってくれと何度言っただろうか。ミチさんは頷かない。
守らせて欲しい、そばにいて欲しいと何度も言った。けれども、ミチさんは頷かない。
私は、どうすればいい。
夫を亡くした女を手に入れたが、女は決して心を開かない。私は狂おしいほどに慕っているというのに、その目が私を映すことはない。
苦しい。
つらい。
狂ってしまいたい。
こんなことなら、いっそ、二人で死んでしまいたい。
あぁ、そうだ、それがいい。
二人で、死んでしまおうか。
ミチさんを抱いたあと、その細い首に手をかける。少し絞めるだけで、簡単に折れてしまいそうな白い首。
ミチさんは私を見上げて、笑った。
笑ったのだ。
初めて。
私の目を見て。
殺して、と唇が動いた。逝かせて、と。
できるわけがない。
私はミチさんを慕っている。
そばにいて欲しいだけなのに、なぜ、慕って欲しいと願う。
なぜ、見返りを求めたがる。
私は卑しい男だ。なんて愚かなんだ。
泣きながら、すまないと詫びる。すまない。許してくれとは言わない。すまない。すまない。
終わりにしよう。
ミチさんを苦しめたくはない。
今までの街娼としての報酬と、心付けを渡して、ミチさんを解放しよう。
給金だと言って、少なくはない金を渡す。どこかの町へ行き、しばらくは暮らしていけるだけの路銀になるだろう。着物なども用意しておいた。
ミチさんは私を見上げ、驚いていた。呆けたように口を開けた姿を初めて見たが、滑稽だった。
慰み者にしたかったわけじゃない。
絵と同じように、私を癒やして欲しかっただけなのだ。笑いかけて欲しかっただけなのだ。
そして、絵と違い、私を、慕って欲しかった。
それは叶わない。
私が叡心を殺したようなものだ。
その上、ミチさんを殺すわけにはいかない。
ミチさんの生きる場所は、ここではない。私のそばではない。
ミチさんが出て行った。
昨夜、最後に抱いたとき、ミチさんは泣いていた。嬉しかったのか、寂しかったのか、私にはわからない。
けれども、ミチさんは水森の家を出て行った。
何度、追いかけて、縋って、泣いて、私のそばにいて欲しいと叫ぼうと思ったか。
小さくなっていく後ろ姿を見ながら、私は泣いた。ミチさんは一度も振り返らなかった。
私は、また一人、焦がれた人を失ったのだ。
◆◇◆◇◆
溢れてくる、後悔の念。
叡心先生への、贖罪の意識。
私への、恋慕と執着。
水森貴一は、叡心先生の遺言を守ろうとした。私はそれを受け入れなかった。
その決断は、正しかったのだと、今でも思う。間違いではなかった、と。
けれど、彼を受け入れていたら、違った結末があったのかもしれない、とも思う。
翔吾くんのように、違う未来が。
画集の最後に収録されている絵を、もう一度見る。
畳の上、微笑みながら横たわる私の右手を、叡心先生の左手が握る。右手で絵筆を持ち、たまに手を離しながら、器用に描いていたと記憶している。
これが、遺作だったのか。
離さない。どんなにつらい思いをしても、妻だけは離さない――叡心先生の想いが伝わってくる。
でも、先生は、私を遺して逝ってしまった。しかも、水森貴一に絵と私を託して。
明らかに矛盾する叡心先生の気持ちを、私はどう解釈すればいいのか。
先生に会いたい。
叡心先生に、答えを聞きたい。
あのとき、私は、どうすれば良かったのですか、と。
私の嫌な記憶と感情まで呼び起こされてしまう恐ろしい記録だ。
けれど、まぁ、水森貴一が何を考えていたのか、わかるのはありがたい。
縁側の裸婦像が箱根の美術館に収蔵された経緯も何となくわかったし、私を拾ってくれたアサさんのことも思い出した。
水森貴一が私にプレゼントばかりしてくるようになった理由もわかった。あのときは、ありがたいような、迷惑なような、そんな気持ちだったけれど。
ゆっくり、時間は過ぎていたらしい。既に夕方だ。電気をつけて、再度水森貴一の日記に向かう。
この先は、たぶん、しんどいことばかり書いてあるだろうけれど、我慢して、読み進めよう。
我慢できなくなったら、また、放り投げればいいだけなのだから。
◆◇◆◇◆
絵を持ってきた叡心に、話をした。妻を差し出すようにと。今こそ、私への恩義に報いるようにと。
叡心は、その場では首を縦には振らなかった。迷っていたのだろう。ただ、妻に話をする時間が欲しいと言って帰っていった。
了承したなら、三日後、ミチさん一人で私の家に来るようにと念を押しておいた。
三日後。楽しみだ。
明日のために、白無垢を準備した。色打掛のほうが好みかもしれないと、赤いものも準備してある。
あぁ、明日。
明日、私の腕の中に、ミチさんを閉じ込めよう。
夜、ミチさんが裏口から訪ねてきた。私はようやく、叡心の妻を手に入れたのだ。
既に人払いはしてあったので、ミチさんを家に上げ、離れに連れていき、白無垢と色打掛を見せてどちらがいいか選ばせる。ミチさんは赤い色打掛を選んだ。
色打掛を着て化粧をしたミチさんは、とても美しい。触れてもいいのかと戸惑うほどに美しかった。
私の妻になれ、と自然と口にしてしまっていた。けれども、ミチさんは頷かない。ただ、冷たい目で、笑いもせず、泣きもせず、私を見据えただけだった。
強情な女を組み敷いて、私は願う。
妻になって欲しい。
笑って欲しい。
私を、慕って欲しい。
私のものになって欲しい。
しかし、願いは、叶わない。
強情な女は喘ぎ声一つもあげず、私を迎え入れ、その膣内で精を受け入れた。
孕んで欲しい。私のものにならないのなら、せめて私の子を孕んで、産んで欲しい。
狂おしいほどに美味な体に、何度も精を放ち、私は切にそう願った。
今夜もミチさんを抱く。
能面のように表情を変えないミチさんに、何度も妻になるように説得する。けれども、拒絶される。
なぜ、私の想いを受け取ってくれない。
なぜ、笑ってくれない。
なぜ、私の子を孕んでくれない。
なぜ、なぜ、なぜ。
なぜ、それでも、私はミチさんを慕い続けるのか。
いつかミチさんが私のことを慕ってくれると信じるしかない。
またミチさんを呼ぶ。
上等な友禅を着させても、美味な茶菓子を食べさせても、好物の桃を食べさせても、笑顔が見られることはない。
苦しい。
恋い焦がれた女を抱いて、孕ませようとしているのに、女は私を見てはくれない。夫に向けるような穏やかで優しい笑顔を、私には見せてくれない。
なんて、苦しい。
苦しくて、苦しくて、夜通しミチさんを抱いて、潰してしまった。
気をやって眠ってしまったミチさんを抱きしめて、涙を流した。
私は、どこで、何を間違えてしまったのか。
愛しい人に、想いが届かない。
私は、どうすればいいのか。
どうすれば。
今夜は叡心の家に行った。粗末な家に、油絵具の臭いが染み付いている。家を汚しても構わないと伝えて住まわせた通り、絵具があちこちについている。
この家で、叡心とミチさんが暮らしている。この、幸せな家があるから、ミチさんが私のものにならないのだ。
床に入る寸前の二人を見つけ、怯えるミチさんを押さえつけて、叡心に、描け、と命じた。嫌だ嫌だと泣き叫ぶミチさんの中に無理やり押し入り、描け、と叡心に命じた。
叡心は絵筆を取り、泣きながら描き始めた。泣き喚く妻を、蹂躙する私を。獣のようにまぐわう二人を。
精を出しても、充足感などない。苦しいだけだった。
それでも、ミチさんの泣き顔を見られたことは収穫だった。能面のような顔が涙に歪むのは、嬉しいことだった。
幸せな家の記憶に、私の記憶を刻み込んでやったのだ。
今夜も叡心の家に行く。そして、また、泣き喚くミチさんを抱き、叡心にその絵を描かせる。
早く絵を完成させないと、妻が汚される一方だということに、叡心は気づいているのか。いないのか。
ミチさんに子ができた気配はない。まだ孕まないのか。まだ足りないのか。ならば、もっと、抱かなくては。
叡心の絵が変わった。
美しく描かれたミチさんの体に、絵具をさらに塗りつけているのは、私への抗議だろう。妻を蹂躙されて喜ぶ夫はいない。ミチさんを抱く私への憎悪、なのかもしれない。
どちらでも構わない。
それでも、叡心の絵の中のミチさんは変わらず美しいのだから。
叡心が絵を持ってきた。
横たわるミチさんと、繋がれた手。しっかりと握られた手が、絆の強さを象徴している。
叡心が自分の体の一部を絵に描き込むのは珍しい。自らの肖像画でさえ描かなかった男だったのに。
理由を尋ねたら、叡心は言った。
もし自分に何かあったら、ミチのことを頼む、と。ミチは男に抱かれていなければ生きていけない。だから、あんたがその役目を引き継いでくれ、と。
どういう意味か、今でもわからない。
縁起でもない、と私は叡心を怒鳴りつけた。私はミチさんを慕っているが、叡心の絵も高く評価しているのだ、と。
筆を折らないでくれ。
叡心の絵は、ミチさんは、私のすべてなのだ。
嵐が来た。
穏やかな海が荒れ、船が激しく揺れる。診療所は休みにし、急患だけ受け入れることにした。
昼、ミチさんが診療所にずぶ濡れでやって来た。叡心はいるか、と尋ねてきたが、叡心は来ていない。そう告げると、ミチさんは泣きながら、叡心が死ぬかもしれないと訴えてきた。
嫌な予感は的中する。
船着き場から、叡心が荒れ狂う海に身を投げそうだと連絡をもらう。駆けつけたが、遅かった。叡心の体が、波にさらわれ、沈みそうになっていた。
取り乱し、半狂乱になって海へ飛び込もうとするミチさんを羽交い締めにして、漁師に縄を投げ込むよう指示をしたが、漁師は無駄だと言って投げ入れない。あとで、縄を投げ入れても叡心は受け取らなかったのだと聞いた。
叡心の頭が波間に消えた。ミチさんが泣き叫ぶ声が、頭から離れない。あんな悲しげな声、聞いたことがなかった。
もう助かるまいと漁師が呟いた声が聞こえたらしく、ミチさんは気を失った。
ミチさんを連れ帰り、着物を着せ替えたあと、いつも使っていた離れに連れていき、布団に寝かせた。
叡心は死んだ。その妻は私のもとにある。
叡心から、ミチさんのことを頼まれている。
私はようやく、ミチさんを手に入れたのだ。
けれども、友を喪った悲しみのほうが勝るのか、ミチさんを抱く気にはなれなかった。
嵐が停滞したせいで、叡心の亡骸は上がらなかった。ただひっそりと、懇意にしていた寺で読経してもらい、供養してもらった。
ミチさんは、あれからずっと離れで生活している。ただ、生きている、だけだ。食事も摂らず、泣き暮らしている。
そのミチさんを毎日抱いて、毎日、孕んで欲しい、と願っている愚かな男が私だ。静かに泣く女を抱いて、笑って欲しいと願い、泣かないで欲しい、私を見て欲しいと願っている。
愚かだ。
ミチさんに叡心の遺言を伝えても、信じてもらえない。私はミチさんからは信用されていないのだと痛感する。
どうすれば、信じてもらえるのか。
どうすれば、夫婦になれるのか。
どうすれば、笑ってくれるのか。
叡心、どうすればいいのか、教えてくれ。
昼、縁側に座るミチさんを見つけ、声をかけようとした。かけられなかった。
叡心の絵から抜け出てきたかのように美しい女が、物憂げに庭を眺めていた。叡心なら迷わず絵筆を取り、妻を描くだろう。その絵を、見てみたかった。
愚かなことをした。
なぜ、私は叡心からミチさんを奪い、ミチさんから叡心を奪ったのか。
なぜ、絵の中の女に恋い焦がれた、ただの愚かな男のままでいられなかったのか。
なぜ、奪った。
なぜ、私は、壊した。
そうだ。壊したのだ。私が、私の手で。
私のしたことは、間違いだった。間違いだったのだ。
しばらく、家を離れていた。東京から帰って離れを覗くと、ミチさんが布団で伏せっていた。聞けば、食事もほとんど摂っていない、薬も飲んでいないという。
脈を取ろうとして、腕の細さに驚く。十日でこれほど衰弱してしまうのか。
そばにいられなかったことを詫びると、力なく私を見つめて、ミチさんは言った。
このまま死なせて、と。
馬鹿な。
私を置いていくなんて許さない。
叡心のもとへ旅立つなんて許さない。
死にかけているミチさんを抱く。涙を流して拒絶する女の膣内を蹂躙し、久方ぶりに精を吐き出す。
叡心の代わりに生きろ、と何度も囁きながら、何度も抱く。
ミチさんは気をやったが、顔色は良くなった。脈も正常だ。
明日から、また、毎日抱かなければ。
子ができない。ミチさんに尋ねたら、できない体だと言う。娼妓には多いとは聞いていたが、ミチさんもそうだったのか。
しかし、子ができないのなら、養子をもらうのでも構わない。
私の妻になってくれと何度言っただろうか。ミチさんは頷かない。
守らせて欲しい、そばにいて欲しいと何度も言った。けれども、ミチさんは頷かない。
私は、どうすればいい。
夫を亡くした女を手に入れたが、女は決して心を開かない。私は狂おしいほどに慕っているというのに、その目が私を映すことはない。
苦しい。
つらい。
狂ってしまいたい。
こんなことなら、いっそ、二人で死んでしまいたい。
あぁ、そうだ、それがいい。
二人で、死んでしまおうか。
ミチさんを抱いたあと、その細い首に手をかける。少し絞めるだけで、簡単に折れてしまいそうな白い首。
ミチさんは私を見上げて、笑った。
笑ったのだ。
初めて。
私の目を見て。
殺して、と唇が動いた。逝かせて、と。
できるわけがない。
私はミチさんを慕っている。
そばにいて欲しいだけなのに、なぜ、慕って欲しいと願う。
なぜ、見返りを求めたがる。
私は卑しい男だ。なんて愚かなんだ。
泣きながら、すまないと詫びる。すまない。許してくれとは言わない。すまない。すまない。
終わりにしよう。
ミチさんを苦しめたくはない。
今までの街娼としての報酬と、心付けを渡して、ミチさんを解放しよう。
給金だと言って、少なくはない金を渡す。どこかの町へ行き、しばらくは暮らしていけるだけの路銀になるだろう。着物なども用意しておいた。
ミチさんは私を見上げ、驚いていた。呆けたように口を開けた姿を初めて見たが、滑稽だった。
慰み者にしたかったわけじゃない。
絵と同じように、私を癒やして欲しかっただけなのだ。笑いかけて欲しかっただけなのだ。
そして、絵と違い、私を、慕って欲しかった。
それは叶わない。
私が叡心を殺したようなものだ。
その上、ミチさんを殺すわけにはいかない。
ミチさんの生きる場所は、ここではない。私のそばではない。
ミチさんが出て行った。
昨夜、最後に抱いたとき、ミチさんは泣いていた。嬉しかったのか、寂しかったのか、私にはわからない。
けれども、ミチさんは水森の家を出て行った。
何度、追いかけて、縋って、泣いて、私のそばにいて欲しいと叫ぼうと思ったか。
小さくなっていく後ろ姿を見ながら、私は泣いた。ミチさんは一度も振り返らなかった。
私は、また一人、焦がれた人を失ったのだ。
◆◇◆◇◆
溢れてくる、後悔の念。
叡心先生への、贖罪の意識。
私への、恋慕と執着。
水森貴一は、叡心先生の遺言を守ろうとした。私はそれを受け入れなかった。
その決断は、正しかったのだと、今でも思う。間違いではなかった、と。
けれど、彼を受け入れていたら、違った結末があったのかもしれない、とも思う。
翔吾くんのように、違う未来が。
画集の最後に収録されている絵を、もう一度見る。
畳の上、微笑みながら横たわる私の右手を、叡心先生の左手が握る。右手で絵筆を持ち、たまに手を離しながら、器用に描いていたと記憶している。
これが、遺作だったのか。
離さない。どんなにつらい思いをしても、妻だけは離さない――叡心先生の想いが伝わってくる。
でも、先生は、私を遺して逝ってしまった。しかも、水森貴一に絵と私を託して。
明らかに矛盾する叡心先生の気持ちを、私はどう解釈すればいいのか。
先生に会いたい。
叡心先生に、答えを聞きたい。
あのとき、私は、どうすれば良かったのですか、と。
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感想募集中。更新中は励みになりますし、完結後は次回作への糧になります。
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