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45.兄弟の提携(九)
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結局、夕飯は自分で作って、一人で食べた。お風呂も一人で入った。
こんな広い別荘に一人残されるのは不安だったし、寂しかった。
翔吾くんに連絡しようとして、何度メッセージアプリを起動したか。でも、メッセージを送ることはできなかった。
なんて、言えばいいんだろう。
健吾くんが別荘を出ていったから帰ってきて? 何で出ていったのか聞かれたら、どう答えればいいのか、私にはわからない。
わからない。
何もかも。
施錠と消灯を確認したあと客室に戻り、財布から一枚の紙を取り出して、番号をタップする。そして、震える指で通話ボタンを、押した。
プルルルルという無機質なコール音。六コール目で、相手が電話口に出る。
『……もしもし?』
不機嫌なのか、訝しげなのか、私にはわからない。知らない番号から、休日の夜に電話がかかってきたのだから、仕方のない反応だ。
「月野です。夜分遅くにすみません。どうしても、伺いたいことがありまして」
電話の向こうの相手は、一瞬だけ息を飲んで、その後ハァと溜め息を吐き出した。
『……場所を移動します。すぐこちらからかけ直しますのでしばらくの間待ってくれますか?』
「あ、はい。大丈夫です」
『では、後ほど』
後ろで『康太さん、仕事の電話なら遠慮してちょうだい』と年配の女性の声がした。千恵子さんだろうか。実家に帰っていたようだ。家族団らん中なら、迷惑ではなかっただろうか。
けれども、言葉通り、すぐにコール音が鳴る。深呼吸をして、通話ボタンをスワイプさせる。
「もしもし。ご迷惑でしたか」
『いえ、大丈夫です。何かありましたか?』
「……私が何を望むのか、わからなくなりまして。相談になら、いつでも乗ってくださるんですよね?」
『構いませんよ。それで、あかりさんが望むこととは?』
だから、それがわからなくなったから水森さんに相談しているんだってば。
窓から木々が揺れているのが見える。ザワザワとかすかに音が聞こえる。静かなようで騒がしい夜だ。
「……精液だけを望むのは、難しいことですか?」
『難しいから悩んでいるのでは?』
「それは、そうなんですけど……どうすれば、精液だけ確保することができますか?」
『セックスフレンドを本気にさせないようにするか、セックスフレンドではなく、恋人か夫を迎えたらいいのでは?』
恋人か、夫?
こいびとか、おっと?
セックスフレンドでは、なくて?
それは、考えてもみなかった。青天の霹靂だ。
「恋人か夫、ですか?」
『男はそれで満足するのでしょう? ならば、別にいいではないですか』
「で、でも、私は叡心先生のことが」
『それも話せばいいじゃないですか。それでもいいという男だけを恋人か夫にすればいいでしょう』
話す……叡心先生のことを、話す……。
『村上叡心のことを知りながら、それでもあなたのことを愛するという男性が現れたら?』という水森さんの問いに、私はなんて答えたんだった?
そういう男性が現れたら、恋人か、夫に、する?
いや、でも、やっぱりそれは、無理。無理な気がする。無理でしょ? 無理だよね?
『恋人が結婚して欲しいと言うのであれば、結婚してあげたらいいでしょう。世の中には事実婚という便利な手段もありますよ』
「でも、私は歳を取らなくて」
『何年かなら騙せるでしょう?』
「男の人が一人だけは不安です」
『別に一人に絞らなくてもいいのでは? 一夫多妻制と同じように、一妻多夫制と考えたらいいでしょう』
「でも倫理的に」
『セフレを何人も抱えるあなたが倫理を語るなんておかしな話ですね』
水森さんは、私の問いに最初から答えを用意していたかのように、淀みなく応じてくれる。皮肉を交えながら。
なんで、それに安心しているのか、わからない。なんで腹が立たないのか。
水森さんが、いつもと変わらないから、だろうか。
「それは、相手の貴重な時間を奪うことにはなりませんか?」
『貴重かどうかは、あなたが決めることではありませんよね? あなたが無駄だと思う時間は、相手にとっては貴重な時間かもしれないのですし、もちろん、逆も然りですから』
「水森さん」
『はい』
「私は……叡心先生を裏切りたくはありません」
叡心先生だけを愛したままで生きていたい。それ以外の男の人に、心の中に入ってきてほしくない。
それは、我が儘だろうか。
『村上叡心の前で水森貴一に抱かれたあなたがそれを言いますか。叡心を裏切りたくないと』
「……」
『失礼。意地悪なことを言いました』
本当に。それは、意地悪な切り返しだ。
けれど、他人から見たら――水森家の人から見たら、私の行為は、叡心先生を裏切るものだったのかもしれない。
『相手を愛さなくても、好意だけでも構わないのでは?』
「付き合うのに、ですか?」
『結婚もですよ。愛がなくてもできることでしょう』
「……愛がなくても、許してくれますか?」
あなたを愛してはいないけれど、情はあります、と公言する女を、男の人は許してくれるだろうか。
『少なくとも、あかりさんから好意を示してもらえたら、湯川は喜ぶと思いますよ。あなたに本気になっているセフレなら、特に喜ぶのでは?』
「そんなものでしょうか?」
『男は単純なので』
そういう問題なのだろうか?
あぁ、でも、そういう簡単な、単純な問題なのかもしれない。
「水森さんは、それでいいと思いますか?」
『別にいいんじゃないですか? 安心安全に精液を確保するには、手っ取り早い算段だと思いますけど』
「……わかりました。伝えてみます」
翔吾くんに、話してみよう。叡心先生のこと、私の、私たちの今後のこと。過去を受け入れてくれるなら、未来も一緒に生きてくれるだろうか。
『もういっそ、あなたと結婚したい人たち全員と一緒に住めばいいんじゃないですか?』
「その案はどうかと思います」
翔吾くん・健吾くんだけでも大変だったのだ。複数人はちょっと厳しいと思う。
まぁ、水森さんも本気で言っているわけではないだろう。私も本気にはしないでおこう。
『あかりさんの好きにすればいいと思いますよ』
「……はい、そうします」
『そういえば、村上叡心の画集には目を通しましたか?』
「いえ、まだですが」
水森さんにもらった紙袋の中身は、軽井沢への荷造りで疲れてしまってまだ見ていないままだ。帰宅したら見ようと思っていた。
『二冊ともゆっくり目を通してください』
「はい、連休明けには」
軽井沢から帰ったら、見よう。ゆっくり、落ち着いて、先生との思い出に浸ろう。
『必要があれば、また連絡ください』
「はい。ありがとうございました」
『……あかりさん』
「はい?」
電話の向こうで、水森さんが何かを言い淀んでいる、そんな気配がする。けれど、一瞬の逡巡のあと、彼はその言葉を飲み込んだ。
『いえ、何でもありません。では、おやすみなさい』
「おやすみなさい」
通話はふつりと切れる。
水森さんが最後に言いたかったことは何なのか、私にはわからない。私は彼をよく知らない。知る必要もないと思っている。
ザワザワと揺れる木々を見たあとで、私はもう一度頭の中を整理しようとベッドに倒れ込んだ。
翔吾くんに叡心先生のことを話そう。
そうして、翔吾くんに、本気かどうか、もう一回聞こう。付き合いたいかどうか、聞こう。
でも、たぶん、セフレは必要だから、それを許してくれるなら、だけど。もちろん、そんなうまい話が、あるわけ、ないと、思う、けど……。
そして、そのまま、眠ってしまった。電気もつけたまま、スマートフォンも握りしめたまま。
あれだけ濁っていた気持ちが、少し晴れたのにすら、気づかないまま。
◆◇◆◇◆
頬に誰かが触れている。優しく、髪を梳いてくれる。時折、生温い何かが頬や額に触れる。それがキスだとわかるのに、時間はかからない。私を慈しんでくれているのだとわかって、安堵する。
目をゆっくりと開け、ぼんやりとした視界にその姿を映して、笑う。
「……おはよう」
「おはよう、あかり」
隣で寝そべっているセフレにぎゅうと抱きつく。いつもの香水の匂いはしない。
「健吾から、今朝、連絡もらって。一人にさせてごめん。寂しかったでしょ?」
「……寂しかったよ」
「うん、ごめん。今日はずっと一緒にいるから」
「そばにいて。どこにも行かないで」
そばにいて欲しいと願う気持ちは、好意。私は翔吾くんを好ましいと思っている。それは、否定できない。
「……あかり?」
「もっと、キスして」
キスして欲しい。キスしたい。
触れて欲しい。触れていたい。
この気持ちに名前をつけるなら、何? 何が一番、適切?
「好き」
唇に触れようとした翔吾くんの顔が止まる。目が真ん丸になって、私を見つめる。喉が鳴る。言葉は、出ない。
「翔吾くんのことが好き」
「……」
「……ダメ、かな?」
じわり、涙が浮かぶ。
本気になっちゃいけないって思っていた。本気にさせちゃいけないと思っていた。
だって、いずれは別れなくちゃいけないから。そんな気持ちがお互いに芽生えてしまったら、別れがつらくなるだけだから。
でも、それでも、好きだと言ってくれるなら、私はその気持ちに応えたい。
叡心先生を愛したように、私も好きになりたい。
――それが、許されるなら。
「ルール違反、わかってる。でも、翔吾、のこと、好きだなぁ、って思う、の」
「あかり」
ぎゅうと、強く抱きしめられる。翔吾くんの顔が見えない。けれど、体が震えているのはわかる。
「本当に?」
「ほんと」
「今日は誕生日でもクリスマスでもないよ」
「わかってる」
「俺の聞き間違いじゃない?」
「私、好きだ、って言ったよ」
「あぁ、あかり!」
強く抱かれながらするキスは、なんて気持ちがいいのか。
興奮した翔吾くんが唇を貪るせいで、私は言葉を紡ぐことができない。けれど、今は、いいや。それでも。
「あ、ちょっ、んんっ」
カエルのTシャツの裾からいきなり入れられた指に、体が素直に反応する。それはマズい。私、まだ肝心なことを翔吾くんに伝えていない。
「翔、吾っ」
「いいんだよね? あかりの全部をもらっても」
「だからっ、まだっ」
「今、無性にあかりを抱きたいんだけど、まだ我慢しなきゃダメ?」
「ダメ!」と叫んで、翔吾くんの顎をぐいと押し上げる。「痛い痛い」と言いながら、翔吾くんは笑う。笑っている。
「翔吾くんのことは好きだけど、私、他にも好きな人が」
「俺のこと、好きなんでしょ?」
「好きだけど、他にも好きな人が」
「いいよ」
「はっ?」
え、今、なんて?
私は翔吾くんの他にも好きな人がいるのに、翔吾くんはそれでもいいと? いいって? へ?
翔吾くんは顎を押さえたまま、笑う。満面の笑みだ。喜んでいるのだとわかる。こんな酷い提案を、彼は喜んでいる。
「別に、一番じゃなくてもいいよ。二番目でも三番目でも、不特定多数の中の一人でいい。元はセフレだったんだから、それくらい、構わない。驚きもしないよ」
「でも」
「でも、何? あかりは俺のこと好きなんでしょ? 好きになってくれたんでしょ?」
好きになって、しまった、のだろう。きっと。気づかないまま。絆されて、情が移ってしまった。
「う、ん。好き」
「だったら、いいよ。俺以外に好きな人がいても構わない。俺のこともちゃんと好きなら、それでいい」
「でも、普通じゃないよ」
「セフレを好きになること自体、普通じゃないよ」
好きな人が何人もいて、いいわけがないのに。それはおかしいことなのに。
翔吾くんが私の太腿の上に馬乗りになる。いつの間に、ボクサーパンツだけになったのか。いや、最初からボクサーパンツだけだったのか、わからない。
形がはっきりと浮かび上がる肉棒は、その欲望を私に伝えてくる。
「あかり、好きだよ」
「翔吾く」
「愛してる。あかりのことを愛している」
甘い声が耳元に落とされ、ふるりと体が震える。あぁ、なんて、甘美な響きなんだろう。
「あかりも、同じ気持ちだと思っていいんだよね?」
「……うん」
「だったら、もう、セフレじゃなくてもいいよね?」
「え?」
「あかりを彼女にしてもいいんだよね?」
彼女。かのじょ。……彼女!?
「好きだよ、あかり。俺と付き合ってください」
「あ、あの、だから、私の話を」
「無理。もう我慢の限界。あかりがかわいすぎる。挿れて、ぐちゃぐちゃにして、中で思いきりあかりを汚したい」
「しょう、ごっ」
「限界。汚すよ」
だから、私の話を、聞いて!
私の声は、結局、翔吾くんには届かなかった。翔吾くんは私の返事を聞かないまま、私の体に赤い痕を残し始めるのだった。
こんな広い別荘に一人残されるのは不安だったし、寂しかった。
翔吾くんに連絡しようとして、何度メッセージアプリを起動したか。でも、メッセージを送ることはできなかった。
なんて、言えばいいんだろう。
健吾くんが別荘を出ていったから帰ってきて? 何で出ていったのか聞かれたら、どう答えればいいのか、私にはわからない。
わからない。
何もかも。
施錠と消灯を確認したあと客室に戻り、財布から一枚の紙を取り出して、番号をタップする。そして、震える指で通話ボタンを、押した。
プルルルルという無機質なコール音。六コール目で、相手が電話口に出る。
『……もしもし?』
不機嫌なのか、訝しげなのか、私にはわからない。知らない番号から、休日の夜に電話がかかってきたのだから、仕方のない反応だ。
「月野です。夜分遅くにすみません。どうしても、伺いたいことがありまして」
電話の向こうの相手は、一瞬だけ息を飲んで、その後ハァと溜め息を吐き出した。
『……場所を移動します。すぐこちらからかけ直しますのでしばらくの間待ってくれますか?』
「あ、はい。大丈夫です」
『では、後ほど』
後ろで『康太さん、仕事の電話なら遠慮してちょうだい』と年配の女性の声がした。千恵子さんだろうか。実家に帰っていたようだ。家族団らん中なら、迷惑ではなかっただろうか。
けれども、言葉通り、すぐにコール音が鳴る。深呼吸をして、通話ボタンをスワイプさせる。
「もしもし。ご迷惑でしたか」
『いえ、大丈夫です。何かありましたか?』
「……私が何を望むのか、わからなくなりまして。相談になら、いつでも乗ってくださるんですよね?」
『構いませんよ。それで、あかりさんが望むこととは?』
だから、それがわからなくなったから水森さんに相談しているんだってば。
窓から木々が揺れているのが見える。ザワザワとかすかに音が聞こえる。静かなようで騒がしい夜だ。
「……精液だけを望むのは、難しいことですか?」
『難しいから悩んでいるのでは?』
「それは、そうなんですけど……どうすれば、精液だけ確保することができますか?」
『セックスフレンドを本気にさせないようにするか、セックスフレンドではなく、恋人か夫を迎えたらいいのでは?』
恋人か、夫?
こいびとか、おっと?
セックスフレンドでは、なくて?
それは、考えてもみなかった。青天の霹靂だ。
「恋人か夫、ですか?」
『男はそれで満足するのでしょう? ならば、別にいいではないですか』
「で、でも、私は叡心先生のことが」
『それも話せばいいじゃないですか。それでもいいという男だけを恋人か夫にすればいいでしょう』
話す……叡心先生のことを、話す……。
『村上叡心のことを知りながら、それでもあなたのことを愛するという男性が現れたら?』という水森さんの問いに、私はなんて答えたんだった?
そういう男性が現れたら、恋人か、夫に、する?
いや、でも、やっぱりそれは、無理。無理な気がする。無理でしょ? 無理だよね?
『恋人が結婚して欲しいと言うのであれば、結婚してあげたらいいでしょう。世の中には事実婚という便利な手段もありますよ』
「でも、私は歳を取らなくて」
『何年かなら騙せるでしょう?』
「男の人が一人だけは不安です」
『別に一人に絞らなくてもいいのでは? 一夫多妻制と同じように、一妻多夫制と考えたらいいでしょう』
「でも倫理的に」
『セフレを何人も抱えるあなたが倫理を語るなんておかしな話ですね』
水森さんは、私の問いに最初から答えを用意していたかのように、淀みなく応じてくれる。皮肉を交えながら。
なんで、それに安心しているのか、わからない。なんで腹が立たないのか。
水森さんが、いつもと変わらないから、だろうか。
「それは、相手の貴重な時間を奪うことにはなりませんか?」
『貴重かどうかは、あなたが決めることではありませんよね? あなたが無駄だと思う時間は、相手にとっては貴重な時間かもしれないのですし、もちろん、逆も然りですから』
「水森さん」
『はい』
「私は……叡心先生を裏切りたくはありません」
叡心先生だけを愛したままで生きていたい。それ以外の男の人に、心の中に入ってきてほしくない。
それは、我が儘だろうか。
『村上叡心の前で水森貴一に抱かれたあなたがそれを言いますか。叡心を裏切りたくないと』
「……」
『失礼。意地悪なことを言いました』
本当に。それは、意地悪な切り返しだ。
けれど、他人から見たら――水森家の人から見たら、私の行為は、叡心先生を裏切るものだったのかもしれない。
『相手を愛さなくても、好意だけでも構わないのでは?』
「付き合うのに、ですか?」
『結婚もですよ。愛がなくてもできることでしょう』
「……愛がなくても、許してくれますか?」
あなたを愛してはいないけれど、情はあります、と公言する女を、男の人は許してくれるだろうか。
『少なくとも、あかりさんから好意を示してもらえたら、湯川は喜ぶと思いますよ。あなたに本気になっているセフレなら、特に喜ぶのでは?』
「そんなものでしょうか?」
『男は単純なので』
そういう問題なのだろうか?
あぁ、でも、そういう簡単な、単純な問題なのかもしれない。
「水森さんは、それでいいと思いますか?」
『別にいいんじゃないですか? 安心安全に精液を確保するには、手っ取り早い算段だと思いますけど』
「……わかりました。伝えてみます」
翔吾くんに、話してみよう。叡心先生のこと、私の、私たちの今後のこと。過去を受け入れてくれるなら、未来も一緒に生きてくれるだろうか。
『もういっそ、あなたと結婚したい人たち全員と一緒に住めばいいんじゃないですか?』
「その案はどうかと思います」
翔吾くん・健吾くんだけでも大変だったのだ。複数人はちょっと厳しいと思う。
まぁ、水森さんも本気で言っているわけではないだろう。私も本気にはしないでおこう。
『あかりさんの好きにすればいいと思いますよ』
「……はい、そうします」
『そういえば、村上叡心の画集には目を通しましたか?』
「いえ、まだですが」
水森さんにもらった紙袋の中身は、軽井沢への荷造りで疲れてしまってまだ見ていないままだ。帰宅したら見ようと思っていた。
『二冊ともゆっくり目を通してください』
「はい、連休明けには」
軽井沢から帰ったら、見よう。ゆっくり、落ち着いて、先生との思い出に浸ろう。
『必要があれば、また連絡ください』
「はい。ありがとうございました」
『……あかりさん』
「はい?」
電話の向こうで、水森さんが何かを言い淀んでいる、そんな気配がする。けれど、一瞬の逡巡のあと、彼はその言葉を飲み込んだ。
『いえ、何でもありません。では、おやすみなさい』
「おやすみなさい」
通話はふつりと切れる。
水森さんが最後に言いたかったことは何なのか、私にはわからない。私は彼をよく知らない。知る必要もないと思っている。
ザワザワと揺れる木々を見たあとで、私はもう一度頭の中を整理しようとベッドに倒れ込んだ。
翔吾くんに叡心先生のことを話そう。
そうして、翔吾くんに、本気かどうか、もう一回聞こう。付き合いたいかどうか、聞こう。
でも、たぶん、セフレは必要だから、それを許してくれるなら、だけど。もちろん、そんなうまい話が、あるわけ、ないと、思う、けど……。
そして、そのまま、眠ってしまった。電気もつけたまま、スマートフォンも握りしめたまま。
あれだけ濁っていた気持ちが、少し晴れたのにすら、気づかないまま。
◆◇◆◇◆
頬に誰かが触れている。優しく、髪を梳いてくれる。時折、生温い何かが頬や額に触れる。それがキスだとわかるのに、時間はかからない。私を慈しんでくれているのだとわかって、安堵する。
目をゆっくりと開け、ぼんやりとした視界にその姿を映して、笑う。
「……おはよう」
「おはよう、あかり」
隣で寝そべっているセフレにぎゅうと抱きつく。いつもの香水の匂いはしない。
「健吾から、今朝、連絡もらって。一人にさせてごめん。寂しかったでしょ?」
「……寂しかったよ」
「うん、ごめん。今日はずっと一緒にいるから」
「そばにいて。どこにも行かないで」
そばにいて欲しいと願う気持ちは、好意。私は翔吾くんを好ましいと思っている。それは、否定できない。
「……あかり?」
「もっと、キスして」
キスして欲しい。キスしたい。
触れて欲しい。触れていたい。
この気持ちに名前をつけるなら、何? 何が一番、適切?
「好き」
唇に触れようとした翔吾くんの顔が止まる。目が真ん丸になって、私を見つめる。喉が鳴る。言葉は、出ない。
「翔吾くんのことが好き」
「……」
「……ダメ、かな?」
じわり、涙が浮かぶ。
本気になっちゃいけないって思っていた。本気にさせちゃいけないと思っていた。
だって、いずれは別れなくちゃいけないから。そんな気持ちがお互いに芽生えてしまったら、別れがつらくなるだけだから。
でも、それでも、好きだと言ってくれるなら、私はその気持ちに応えたい。
叡心先生を愛したように、私も好きになりたい。
――それが、許されるなら。
「ルール違反、わかってる。でも、翔吾、のこと、好きだなぁ、って思う、の」
「あかり」
ぎゅうと、強く抱きしめられる。翔吾くんの顔が見えない。けれど、体が震えているのはわかる。
「本当に?」
「ほんと」
「今日は誕生日でもクリスマスでもないよ」
「わかってる」
「俺の聞き間違いじゃない?」
「私、好きだ、って言ったよ」
「あぁ、あかり!」
強く抱かれながらするキスは、なんて気持ちがいいのか。
興奮した翔吾くんが唇を貪るせいで、私は言葉を紡ぐことができない。けれど、今は、いいや。それでも。
「あ、ちょっ、んんっ」
カエルのTシャツの裾からいきなり入れられた指に、体が素直に反応する。それはマズい。私、まだ肝心なことを翔吾くんに伝えていない。
「翔、吾っ」
「いいんだよね? あかりの全部をもらっても」
「だからっ、まだっ」
「今、無性にあかりを抱きたいんだけど、まだ我慢しなきゃダメ?」
「ダメ!」と叫んで、翔吾くんの顎をぐいと押し上げる。「痛い痛い」と言いながら、翔吾くんは笑う。笑っている。
「翔吾くんのことは好きだけど、私、他にも好きな人が」
「俺のこと、好きなんでしょ?」
「好きだけど、他にも好きな人が」
「いいよ」
「はっ?」
え、今、なんて?
私は翔吾くんの他にも好きな人がいるのに、翔吾くんはそれでもいいと? いいって? へ?
翔吾くんは顎を押さえたまま、笑う。満面の笑みだ。喜んでいるのだとわかる。こんな酷い提案を、彼は喜んでいる。
「別に、一番じゃなくてもいいよ。二番目でも三番目でも、不特定多数の中の一人でいい。元はセフレだったんだから、それくらい、構わない。驚きもしないよ」
「でも」
「でも、何? あかりは俺のこと好きなんでしょ? 好きになってくれたんでしょ?」
好きになって、しまった、のだろう。きっと。気づかないまま。絆されて、情が移ってしまった。
「う、ん。好き」
「だったら、いいよ。俺以外に好きな人がいても構わない。俺のこともちゃんと好きなら、それでいい」
「でも、普通じゃないよ」
「セフレを好きになること自体、普通じゃないよ」
好きな人が何人もいて、いいわけがないのに。それはおかしいことなのに。
翔吾くんが私の太腿の上に馬乗りになる。いつの間に、ボクサーパンツだけになったのか。いや、最初からボクサーパンツだけだったのか、わからない。
形がはっきりと浮かび上がる肉棒は、その欲望を私に伝えてくる。
「あかり、好きだよ」
「翔吾く」
「愛してる。あかりのことを愛している」
甘い声が耳元に落とされ、ふるりと体が震える。あぁ、なんて、甘美な響きなんだろう。
「あかりも、同じ気持ちだと思っていいんだよね?」
「……うん」
「だったら、もう、セフレじゃなくてもいいよね?」
「え?」
「あかりを彼女にしてもいいんだよね?」
彼女。かのじょ。……彼女!?
「好きだよ、あかり。俺と付き合ってください」
「あ、あの、だから、私の話を」
「無理。もう我慢の限界。あかりがかわいすぎる。挿れて、ぐちゃぐちゃにして、中で思いきりあかりを汚したい」
「しょう、ごっ」
「限界。汚すよ」
だから、私の話を、聞いて!
私の声は、結局、翔吾くんには届かなかった。翔吾くんは私の返事を聞かないまま、私の体に赤い痕を残し始めるのだった。
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感想募集中。更新中は励みになりますし、完結後は次回作への糧になります。
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