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37.兄弟の提携(一)
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『私の妻にならないか』
なりません。
『笑ってくれないか』
笑いません。あなたの前では。
『もう、泣かないでくれ』
だって、叡心先生が。夫が。
『子どもが作れないなら、養子をもらえばいい。だから、私の妻になってほしい』
なりません、絶対に。夫を裏切りたくないの。
『……叡心から、あなたのことを頼まれているんだ』
嘘をつかないで。
夫は、あなたにだけは、私を託すことはしない。
酷い嘘をつかないで。
『本当のことなんだ。叡心の遺言を守らせてくれ』
嘘よ。嘘。私は騙されない。
『あなたを守りたい。そばにいて欲しい』
どうか早く、私を手放して。開放して。お願い。
あなたから離れられるなら、あなたに抱かれる日々だって受け入れるから。
『ミチさん』
『あなたと一緒に生きることが、叡心への贖いとなるんだ』
『ミチさん、返事を。応えてくれないか』
『あなたを慕う男は、ここにもいる』
『ここに、いるんだ――』
◆◇◆◇◆
『次は軽井沢、軽井沢です』
東京からの新幹線の中で眠ってしまったらしい。真っ暗なトンネルが続く中、飲食物のゴミを片付けながら、嫌な夢を見た、と思う。
水森貴一の声は、忘れたくても忘れられない。ずっと覚えている。憎い声、憎い言葉。なのに、私を抱く手は、私を見つめる目は、優しかった。本当に腹立たしい。いっそすべてが憎かったら良かったのに。
翔吾くんが、新幹線のチケットを送ってきてくれた。交通費くらい出せるのに、本当に過保護だ。
軽井沢のホームに降り、外気の暑さに辟易する。避暑地だからと言って、どこも涼しいわけではないようだ。
ストローハットをかぶり、キャリーバッグを転がしながら、指定された北口へ向かう。そこに翔吾くんがいるはずだ。南口はどうやらアウトレットなどのショッピングモールらしく、若い人たちはそちらへ向かって歩いている。
「へぇ、大きそう」
「行ってみる?」
セール中のポスターを眺めていたら、隣から声がかかる。見上げると、懐かしい顔。日に焼けた翔吾くんが、優しげな目で私を見下ろしている。
「久しぶり」
「久しぶり、翔吾くん。焼けたねぇ」
「うん、だいぶ。荷物、置いたら行ってみようか?」
キャリーバッグを持って、翔吾くんが歩き始める。私はそのあとをついていく。
「服とかの買い物は必要ないよ?」
「冷たくて甘いものは?」
「……欲しい、です」
「じゃあ、食べに行こうか」
翔吾くんには私の考えなどお見通しだというわけか。甘いものに釣られてしまう私が情けない。
けれど、少し違和感。
翔吾くんが少し離れて歩いている。私の右手も、彼の左手も、空いている。手を握らないのは、なぜ? 荷物があったとしても、スキンシップ過剰な翔吾くんなら、絶対に繋いでくると思ったのに。
寂しく思いながら、翔吾くんの背中を見つめて歩く。
北口に近いところ、屋根のあるコインパーキングに、車があった。ちょっと大きめの、L字のロゴの白い国産車。レンタカーなのだという。別荘にいる間はたいていレンタカーを借りているのだそうだ。
トランクにキャリーバッグを詰め込んで、南口へ向かう間も、翔吾くんは私に触れようとしない。手も繋がないし、抱きついたりもしない。キスなんてもってのほか。一定の距離を保っている。
……どうしたんだろう、なんて考えてみても、思い当たるのは一つしかない。
私が、健吾くんと、寝たから?
山の日。
ショッピングモールには、大勢の人がいる。家族連れもカップルも多い。
手を、繋ぎたい。はぐれないように。安心できるように。
でも、翔吾くんの空いた両手に、私の両手が絡まることはない。するりとかわされてしまう。
「どこに行く? 冷たいものがいいよね。カフェかなぁ。フードコートって気分でもないし」
少し離れて歩く翔吾くんを見つめながら、言いようのない不安に駆られる。パンフレットの情報なんて頭に入ってこない。
男の人が冷たくなるのは、女に飽きたときだろうか。別れの直前だろうか。
私は、健吾くんを手に入れる代わりに、翔吾くんを失うのだろうか。
この、軽井沢で。
「あかり? 何、食べたい?」
優しい視線がぶつかる。翔吾くんはいつだって、優しい。いつだって、私を慈しんでくれた。
でも、その優しさは、翔吾くんの本心だったのだろうか。本当は、遠慮していたのではないだろうか。他のセフレに、健吾くんに。
私が、あの暴力的な性欲を催させるせいで、彼に無理をさせていたとしたら。
私は、翔吾くんを開放してあげるべきなのかもしれない。
――彼が、それを望むなら。
「お店がたくさんあるから目移りしちゃって決められなくて。翔吾くんは何か食べたいものあった?」
「チョコレートの店の中に飲み物とアイスがあるみたいだよ」
「チョコレート!」
「じゃあ、行こうか」
広大な芝生に、青空。緑と水色のコントラストがよく映える。空気は東京ほどはじっとりしていない、気がする。爽やかだ。蝉の鳴き声はうるさいけれど。
芝生には寝ている男性と走り回っている子どもたちが多い。あたりには犬を連れた人が多い。これも不思議な光景。公園に来ているかのように思えてしまう。
ガラスのひし形が組み合わさった、ちょっと特徴的な外観の建物が目的地だ。
チョコレートの量り売りや、アウトレット商品が並んでいる。けれど、目当ては冷たくて甘いもの。翔吾くんは飲み物を、私はソフトクリームを注文する。どちらも、チョコレート……ショコラがふんだんに使われているものだ。
「……濃い!」
早く食べないと、冷たいものはすぐ溶けてしまう。歩きながら手元に視線を落とす。ビターなようで、甘いショコラのソフトクリーム。口へ運びながら、思わず笑顔になってしまう。さすが高級チョコ! 美味しい!
「一口ちょうだい」
「じゃあ、翔吾くんのも一口」
ショコラドリンクとソフトクリームを交換して、「甘いね」「濃いね」と笑い合う。食べ歩きは行儀が悪いけど、ウインドウを覗いたり、パンフレットと見比べたりしながら、翔吾くんの近くを歩く。少しは涼しくなったかな。
有名店のアウトレット店が所狭しと並んでいるのは、見ているだけで楽しい。買うつもりはあまりなくても、楽しい。
ゴミ箱にゴミを捨てて、ふと目に入ったお店のTシャツが、翔吾くんに似合いそうだなぁと思う。あ、あっちのカーキのカットソーも。あれが水色なら、湯川先生に似合いそう。
そんなことを考えて、セフレさんたちにそれぞれお土産を買うのもいいかもしれないなんて思う。私はいつももらってばかりだから。
でも、翔吾くんとのデート中にそんな無粋なことはできない。だから、せめて彼に似合いそうな服なら。
「翔吾くん、Tシャツとカットソーならどっちが」
振り向いた先に、目当ての人はいなかった。
……あれ、翔吾くん?
見知ったはずの笑顔や背中がないと、急に不安になる。
はぐれちゃった?
あたりを見回しても、翔吾くんらしき姿はない。お店の裏の通りにも、その先にも。
「あ、スマホ!」
こういうときのための文明の利器! と慌ててショルダーバッグを漁る。けれど。出会ったときに彼と一緒に選んだはずの赤いスマートフォンが、ない。シャラシャラ音を立てるストラップの感触も、つるりとしたケースの感触も、ない。
嘘、でしょ?
すべてのポケットを見ても、ない。新幹線で来るときのことを思い出しながら、私は一つの結論にたどり着く。
……キャリーバッグのポケットだ!
チケットと一緒にしまって、そのままだ。チケットは出したのに、スマートフォンを出すのは忘れていた。キャリーバッグは翔吾くんの車の中。この状況で、お互いに連絡を取り合うのは、不可能だ。
「はぐれたときの待ち合わせ場所、決めておけばよかった」
とぼとぼ歩きながら、泣きそうになる。心細くて、不安。迷子だ、私。
最後に迷子になったのはいつだろう。道に迷ったのは、いつだっただろうか。
叡心先生が亡くなったときは、人生の道に迷ったけれど、水森貴一が何とか道を作ってくれた。毎日私を抱きながら、対価として、娼婦をしていた頃以上のお金を支払ってくれた。
水森貴一から離れても生活できるように、という、彼なりの手助けだったのかもしれない。あの頃の私には「憎い」という感情しかなかったけれど、彼なりの愛情だったのかもしれない。今でも憎いし、許すことはできないけれど、彼もまた不器用な人だったのだろう。
戦時中、飢えた私に手を差し伸べてくれたのは、田舎の地主の坊っちゃんだった。
生まれつき目が不自由な彼――召集命令すら来なくて親戚中から疎まれていた彼を、母屋から離れて一人でお世話をしながら、彼から精液を与えてもらっていた。
今でも、飢える前に精液が確保できるのは、セフレさんたちがいてくれるおかげだ。彼らがいなければ、私は生きていけない。
ケントくん一人でも精液の確保だけなら何とかなるかもしれないけれど、彼はまだ十五歳という「設定」だ。世間には内緒にしなければならない、リスクの高い関係だ。今、高リスク――ケントくんを選んで、セフレさんたち全員とお別れする勇気はない。
翔吾くんは、どこだろう。どこにいるのだろう。
私を探してくれているだろうか。それとも、探すことを諦めて一人で見て回っているだろうか。
――どうして、手を繋いでくれなかったんだろう。
他のセフレさんなら許せたけど、健吾くんとセックスをした私を、本当は許せなかった? 私は、汚い? 穢らわしい? 触れたくなくなった? もう、抱きたくない? 精液を提供する価値がない?
嫌なことばかり考えてしまう。
宮野さんみたいに「結婚することになった」とハッキリ言われたら、納得した上できちんとお別れすることができるのに。
翔吾くんの気持ちがわからない。
彼は、私と別れたいのだろうか。
「ただいまタイムセール実施中です!」
翔吾くんの姿を探しながら、さっきのお店の前にまた戻ってくる。Tシャツはまだ売れていない。ふらりと店内に入って、それを眺める。やっぱり、翔吾くんに似合いそう。
「あ、こちら、メンズだけじゃなくてレディースもありますよ!」
頼んでもいないのに商品の説明をしてくれた店員さんの声に従って、ふらりとレディースのTシャツも見る。同じ色のもの、違う色のもの、結構種類は豊富だ。
タイムセールで二割引になる赤と青のTシャツを長い列に並んで買って、店外に出る。冷房の効いた店内から出ると、一気に汗が噴き出る。
買っちゃった……別れちゃうかもしれないのに。馬鹿みたい。
少し歩いて、はぁと溜め息をつきながら、ぼんやり外の芝生を見つめる。
小さい子どもたちが駆け回り、転んで泣いている様子を見て、「迷子センター……インフォメーション?」と思いつく。インフォメーションで翔吾くんを呼び出してもらえばいいんだ、と思いついて、慌ててパンフレットを開く。そして、総合案内所の文字を見つけた瞬間に、聞き覚えのある声が遠方から聞こえてきた。
「あかりー!」
「翔吾くん!? しょーごくーん!」
パンフレットをぶんぶん振って、芝生の遊歩道を走る翔吾くんに合図を送る。翔吾くんは、人混みの中に私を見つけたらしく、慌ててこちらへ駆けてくる。私も同じ方向へ走り出す。
「あかり、ごめん!」
「翔吾くん、ごめん、はぐれちゃった!」
炎天下の芝生の中、謝りながら合流する。
「ごめんね、あかり。はぐれたことに気づかなくて」
「私こそ、勝手にはぐれて、ごめんなさい」
翔吾くんの首にも顔にも、大粒の汗。シャツも汗で濡れてべっとり貼り付いている。すごく探してくれたんだろうなと思って、一瞬でも「探すのを諦めたのでは」と思ってしまった自分を恥じる。
「あかり?」
「え、あ、何でもな」
「なんで、泣くの」
日に焼けた優しい顔がぼやける。心配そうな顔が涙で歪む。
「なんかあった? 変な奴に絡まれた?」
「ちが」
「心細かった?」
頷きながら、タオルハンカチで涙を拭く。
不安だった。心細かった。翔吾くんに触れられないだけで、こんなにも動揺している私が恥ずかしい。
「あかり、もう大丈夫だから」
「ん、わかって、る」
「また冷たいものでも食べに行こ」
翔吾くんが困ったように笑うのを、私は涙を浮かべて見上げる。
「……て」
「て?」
「手、繋いじゃ、ダメ?」
一瞬、翔吾くんの動きが止まる。止まって、目を見開いて、私を見下ろす。
その動きだけで、翔吾くんが私と手を繋がなかったのは意図があったのだと理解する。やっぱり、勘違いじゃなかった。手を繋ぎたくなかったんだ。
「繋ぎたい」
「あかり」
「も、私、触りたくない?」
私が汚いから? 許せないから? 別れるから?
だったら、生殺しみたいなことはしないで、ハッキリそう言って。
「わた……きたない?」
ぎゅう、と抱きすくめられる。
熱い熱い抱擁に、涙が止まらない。精一杯手を伸ばして、翔吾くんの背中を抱きしめる。
「ごめん、あかり。不安にさせたね」
「しょーごく」
「あかりは汚くない。触りたいよ、俺だって。でも、一瞬でも触れたら、歯止めがきかなくなるから……我慢してた」
「はど、め?」
「我慢、してたのに――あかりのバカ」
公衆の面前で抱き合っていることを、恥ずかしいと思わないわけじゃない。でも、それ以上に嬉しいのだから、仕方ない。
「あかり、ごめん……今すぐ抱きたい」
耳元に落とされた甘い爆弾に、私の理性が吹き飛ばされる。
謝らなきゃいけないのは私なのに。
抱いて欲しいのは私なのに。
翔吾くん、ありがとう――。
なりません。
『笑ってくれないか』
笑いません。あなたの前では。
『もう、泣かないでくれ』
だって、叡心先生が。夫が。
『子どもが作れないなら、養子をもらえばいい。だから、私の妻になってほしい』
なりません、絶対に。夫を裏切りたくないの。
『……叡心から、あなたのことを頼まれているんだ』
嘘をつかないで。
夫は、あなたにだけは、私を託すことはしない。
酷い嘘をつかないで。
『本当のことなんだ。叡心の遺言を守らせてくれ』
嘘よ。嘘。私は騙されない。
『あなたを守りたい。そばにいて欲しい』
どうか早く、私を手放して。開放して。お願い。
あなたから離れられるなら、あなたに抱かれる日々だって受け入れるから。
『ミチさん』
『あなたと一緒に生きることが、叡心への贖いとなるんだ』
『ミチさん、返事を。応えてくれないか』
『あなたを慕う男は、ここにもいる』
『ここに、いるんだ――』
◆◇◆◇◆
『次は軽井沢、軽井沢です』
東京からの新幹線の中で眠ってしまったらしい。真っ暗なトンネルが続く中、飲食物のゴミを片付けながら、嫌な夢を見た、と思う。
水森貴一の声は、忘れたくても忘れられない。ずっと覚えている。憎い声、憎い言葉。なのに、私を抱く手は、私を見つめる目は、優しかった。本当に腹立たしい。いっそすべてが憎かったら良かったのに。
翔吾くんが、新幹線のチケットを送ってきてくれた。交通費くらい出せるのに、本当に過保護だ。
軽井沢のホームに降り、外気の暑さに辟易する。避暑地だからと言って、どこも涼しいわけではないようだ。
ストローハットをかぶり、キャリーバッグを転がしながら、指定された北口へ向かう。そこに翔吾くんがいるはずだ。南口はどうやらアウトレットなどのショッピングモールらしく、若い人たちはそちらへ向かって歩いている。
「へぇ、大きそう」
「行ってみる?」
セール中のポスターを眺めていたら、隣から声がかかる。見上げると、懐かしい顔。日に焼けた翔吾くんが、優しげな目で私を見下ろしている。
「久しぶり」
「久しぶり、翔吾くん。焼けたねぇ」
「うん、だいぶ。荷物、置いたら行ってみようか?」
キャリーバッグを持って、翔吾くんが歩き始める。私はそのあとをついていく。
「服とかの買い物は必要ないよ?」
「冷たくて甘いものは?」
「……欲しい、です」
「じゃあ、食べに行こうか」
翔吾くんには私の考えなどお見通しだというわけか。甘いものに釣られてしまう私が情けない。
けれど、少し違和感。
翔吾くんが少し離れて歩いている。私の右手も、彼の左手も、空いている。手を握らないのは、なぜ? 荷物があったとしても、スキンシップ過剰な翔吾くんなら、絶対に繋いでくると思ったのに。
寂しく思いながら、翔吾くんの背中を見つめて歩く。
北口に近いところ、屋根のあるコインパーキングに、車があった。ちょっと大きめの、L字のロゴの白い国産車。レンタカーなのだという。別荘にいる間はたいていレンタカーを借りているのだそうだ。
トランクにキャリーバッグを詰め込んで、南口へ向かう間も、翔吾くんは私に触れようとしない。手も繋がないし、抱きついたりもしない。キスなんてもってのほか。一定の距離を保っている。
……どうしたんだろう、なんて考えてみても、思い当たるのは一つしかない。
私が、健吾くんと、寝たから?
山の日。
ショッピングモールには、大勢の人がいる。家族連れもカップルも多い。
手を、繋ぎたい。はぐれないように。安心できるように。
でも、翔吾くんの空いた両手に、私の両手が絡まることはない。するりとかわされてしまう。
「どこに行く? 冷たいものがいいよね。カフェかなぁ。フードコートって気分でもないし」
少し離れて歩く翔吾くんを見つめながら、言いようのない不安に駆られる。パンフレットの情報なんて頭に入ってこない。
男の人が冷たくなるのは、女に飽きたときだろうか。別れの直前だろうか。
私は、健吾くんを手に入れる代わりに、翔吾くんを失うのだろうか。
この、軽井沢で。
「あかり? 何、食べたい?」
優しい視線がぶつかる。翔吾くんはいつだって、優しい。いつだって、私を慈しんでくれた。
でも、その優しさは、翔吾くんの本心だったのだろうか。本当は、遠慮していたのではないだろうか。他のセフレに、健吾くんに。
私が、あの暴力的な性欲を催させるせいで、彼に無理をさせていたとしたら。
私は、翔吾くんを開放してあげるべきなのかもしれない。
――彼が、それを望むなら。
「お店がたくさんあるから目移りしちゃって決められなくて。翔吾くんは何か食べたいものあった?」
「チョコレートの店の中に飲み物とアイスがあるみたいだよ」
「チョコレート!」
「じゃあ、行こうか」
広大な芝生に、青空。緑と水色のコントラストがよく映える。空気は東京ほどはじっとりしていない、気がする。爽やかだ。蝉の鳴き声はうるさいけれど。
芝生には寝ている男性と走り回っている子どもたちが多い。あたりには犬を連れた人が多い。これも不思議な光景。公園に来ているかのように思えてしまう。
ガラスのひし形が組み合わさった、ちょっと特徴的な外観の建物が目的地だ。
チョコレートの量り売りや、アウトレット商品が並んでいる。けれど、目当ては冷たくて甘いもの。翔吾くんは飲み物を、私はソフトクリームを注文する。どちらも、チョコレート……ショコラがふんだんに使われているものだ。
「……濃い!」
早く食べないと、冷たいものはすぐ溶けてしまう。歩きながら手元に視線を落とす。ビターなようで、甘いショコラのソフトクリーム。口へ運びながら、思わず笑顔になってしまう。さすが高級チョコ! 美味しい!
「一口ちょうだい」
「じゃあ、翔吾くんのも一口」
ショコラドリンクとソフトクリームを交換して、「甘いね」「濃いね」と笑い合う。食べ歩きは行儀が悪いけど、ウインドウを覗いたり、パンフレットと見比べたりしながら、翔吾くんの近くを歩く。少しは涼しくなったかな。
有名店のアウトレット店が所狭しと並んでいるのは、見ているだけで楽しい。買うつもりはあまりなくても、楽しい。
ゴミ箱にゴミを捨てて、ふと目に入ったお店のTシャツが、翔吾くんに似合いそうだなぁと思う。あ、あっちのカーキのカットソーも。あれが水色なら、湯川先生に似合いそう。
そんなことを考えて、セフレさんたちにそれぞれお土産を買うのもいいかもしれないなんて思う。私はいつももらってばかりだから。
でも、翔吾くんとのデート中にそんな無粋なことはできない。だから、せめて彼に似合いそうな服なら。
「翔吾くん、Tシャツとカットソーならどっちが」
振り向いた先に、目当ての人はいなかった。
……あれ、翔吾くん?
見知ったはずの笑顔や背中がないと、急に不安になる。
はぐれちゃった?
あたりを見回しても、翔吾くんらしき姿はない。お店の裏の通りにも、その先にも。
「あ、スマホ!」
こういうときのための文明の利器! と慌ててショルダーバッグを漁る。けれど。出会ったときに彼と一緒に選んだはずの赤いスマートフォンが、ない。シャラシャラ音を立てるストラップの感触も、つるりとしたケースの感触も、ない。
嘘、でしょ?
すべてのポケットを見ても、ない。新幹線で来るときのことを思い出しながら、私は一つの結論にたどり着く。
……キャリーバッグのポケットだ!
チケットと一緒にしまって、そのままだ。チケットは出したのに、スマートフォンを出すのは忘れていた。キャリーバッグは翔吾くんの車の中。この状況で、お互いに連絡を取り合うのは、不可能だ。
「はぐれたときの待ち合わせ場所、決めておけばよかった」
とぼとぼ歩きながら、泣きそうになる。心細くて、不安。迷子だ、私。
最後に迷子になったのはいつだろう。道に迷ったのは、いつだっただろうか。
叡心先生が亡くなったときは、人生の道に迷ったけれど、水森貴一が何とか道を作ってくれた。毎日私を抱きながら、対価として、娼婦をしていた頃以上のお金を支払ってくれた。
水森貴一から離れても生活できるように、という、彼なりの手助けだったのかもしれない。あの頃の私には「憎い」という感情しかなかったけれど、彼なりの愛情だったのかもしれない。今でも憎いし、許すことはできないけれど、彼もまた不器用な人だったのだろう。
戦時中、飢えた私に手を差し伸べてくれたのは、田舎の地主の坊っちゃんだった。
生まれつき目が不自由な彼――召集命令すら来なくて親戚中から疎まれていた彼を、母屋から離れて一人でお世話をしながら、彼から精液を与えてもらっていた。
今でも、飢える前に精液が確保できるのは、セフレさんたちがいてくれるおかげだ。彼らがいなければ、私は生きていけない。
ケントくん一人でも精液の確保だけなら何とかなるかもしれないけれど、彼はまだ十五歳という「設定」だ。世間には内緒にしなければならない、リスクの高い関係だ。今、高リスク――ケントくんを選んで、セフレさんたち全員とお別れする勇気はない。
翔吾くんは、どこだろう。どこにいるのだろう。
私を探してくれているだろうか。それとも、探すことを諦めて一人で見て回っているだろうか。
――どうして、手を繋いでくれなかったんだろう。
他のセフレさんなら許せたけど、健吾くんとセックスをした私を、本当は許せなかった? 私は、汚い? 穢らわしい? 触れたくなくなった? もう、抱きたくない? 精液を提供する価値がない?
嫌なことばかり考えてしまう。
宮野さんみたいに「結婚することになった」とハッキリ言われたら、納得した上できちんとお別れすることができるのに。
翔吾くんの気持ちがわからない。
彼は、私と別れたいのだろうか。
「ただいまタイムセール実施中です!」
翔吾くんの姿を探しながら、さっきのお店の前にまた戻ってくる。Tシャツはまだ売れていない。ふらりと店内に入って、それを眺める。やっぱり、翔吾くんに似合いそう。
「あ、こちら、メンズだけじゃなくてレディースもありますよ!」
頼んでもいないのに商品の説明をしてくれた店員さんの声に従って、ふらりとレディースのTシャツも見る。同じ色のもの、違う色のもの、結構種類は豊富だ。
タイムセールで二割引になる赤と青のTシャツを長い列に並んで買って、店外に出る。冷房の効いた店内から出ると、一気に汗が噴き出る。
買っちゃった……別れちゃうかもしれないのに。馬鹿みたい。
少し歩いて、はぁと溜め息をつきながら、ぼんやり外の芝生を見つめる。
小さい子どもたちが駆け回り、転んで泣いている様子を見て、「迷子センター……インフォメーション?」と思いつく。インフォメーションで翔吾くんを呼び出してもらえばいいんだ、と思いついて、慌ててパンフレットを開く。そして、総合案内所の文字を見つけた瞬間に、聞き覚えのある声が遠方から聞こえてきた。
「あかりー!」
「翔吾くん!? しょーごくーん!」
パンフレットをぶんぶん振って、芝生の遊歩道を走る翔吾くんに合図を送る。翔吾くんは、人混みの中に私を見つけたらしく、慌ててこちらへ駆けてくる。私も同じ方向へ走り出す。
「あかり、ごめん!」
「翔吾くん、ごめん、はぐれちゃった!」
炎天下の芝生の中、謝りながら合流する。
「ごめんね、あかり。はぐれたことに気づかなくて」
「私こそ、勝手にはぐれて、ごめんなさい」
翔吾くんの首にも顔にも、大粒の汗。シャツも汗で濡れてべっとり貼り付いている。すごく探してくれたんだろうなと思って、一瞬でも「探すのを諦めたのでは」と思ってしまった自分を恥じる。
「あかり?」
「え、あ、何でもな」
「なんで、泣くの」
日に焼けた優しい顔がぼやける。心配そうな顔が涙で歪む。
「なんかあった? 変な奴に絡まれた?」
「ちが」
「心細かった?」
頷きながら、タオルハンカチで涙を拭く。
不安だった。心細かった。翔吾くんに触れられないだけで、こんなにも動揺している私が恥ずかしい。
「あかり、もう大丈夫だから」
「ん、わかって、る」
「また冷たいものでも食べに行こ」
翔吾くんが困ったように笑うのを、私は涙を浮かべて見上げる。
「……て」
「て?」
「手、繋いじゃ、ダメ?」
一瞬、翔吾くんの動きが止まる。止まって、目を見開いて、私を見下ろす。
その動きだけで、翔吾くんが私と手を繋がなかったのは意図があったのだと理解する。やっぱり、勘違いじゃなかった。手を繋ぎたくなかったんだ。
「繋ぎたい」
「あかり」
「も、私、触りたくない?」
私が汚いから? 許せないから? 別れるから?
だったら、生殺しみたいなことはしないで、ハッキリそう言って。
「わた……きたない?」
ぎゅう、と抱きすくめられる。
熱い熱い抱擁に、涙が止まらない。精一杯手を伸ばして、翔吾くんの背中を抱きしめる。
「ごめん、あかり。不安にさせたね」
「しょーごく」
「あかりは汚くない。触りたいよ、俺だって。でも、一瞬でも触れたら、歯止めがきかなくなるから……我慢してた」
「はど、め?」
「我慢、してたのに――あかりのバカ」
公衆の面前で抱き合っていることを、恥ずかしいと思わないわけじゃない。でも、それ以上に嬉しいのだから、仕方ない。
「あかり、ごめん……今すぐ抱きたい」
耳元に落とされた甘い爆弾に、私の理性が吹き飛ばされる。
謝らなきゃいけないのは私なのに。
抱いて欲しいのは私なのに。
翔吾くん、ありがとう――。
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感想募集中。更新中は励みになりますし、完結後は次回作への糧になります。
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