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36.傷にキス(五)
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足取り重く、駅のコンコースを行く。スーツ姿のまま、化粧直しもしないまま、待ち合わせ場所へ急ぐ。周りの人たちの足取りは軽い。明日は八月の初めての祝日だからだ。
気が重い。本当に重い。できれば会いたくない。
けれど、彼はコンコースを抜けた先の出口の、銅像の近くで待っていた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
「そんなに嫌そうな顔をしなくても」
「嫌ですから」
彼から「会いたい」と連絡があったのは、月曜日。木曜日から夏休みということもあって、月火水と忙しいと言って断ったのだけれど、「どうしても」とお願いされたので、すべての仕事を片付けた水曜の夜にわざわざ出向いたのだ。
「なぜ私の連絡先を?」
「湯川から聞きました。渡したいものがあるのだと言って」
「じゃあ、それをもらったら帰りますので」
「いいじゃないですか。せっかく会えたのですから、少しくらいは楽しんでも。近くに美味しい居酒屋がありますので、そちらへ行きましょう」
いや、全然楽しくないんですけど。
今日は残業で疲れたし、明日からの軽井沢滞在に向けて荷造りをしないといけないんですけど。
あなたに会っている暇なんて、これっぽっちもないのですが。
「ここですよ。予約してあるので」
「はあ」
外観こそ普通の赤ちょうちんのある居酒屋だけど、名前が明らかにおかしい。なに、どら猫亭って。いや、かわいい名前だけど、居酒屋っぽくはない。
ガラ、と扉を開けると「いらっしゃいませぇ」とかわいらしい声が聞こえてきた。出迎えてくれたのは、実際にかわいらしい女性従業員だ。
「あ、水森先生! お待ちしておりましたよ! あら、そちらは彼女さんですか?」
「いえ、違います」
「そんな、照れなくても! じゃあ、ご案内しますね」
ふわふわした感じの女性に席へ案内してもらう。簾で仕切られた、半個室のテーブル席だ。
彼女は「水森先生」と呼んでいた。患者さんか、知り合いなのかもしれない。水森さんがこの店の常連客なのかもしれない。まぁ、興味はないけど。
そして、ビールを頼んでいる間にメニューを見て、だし巻きは絶対に食べようと思う。美味しそうだ。
「水森さん、あの」
「最近、湯川に会っていないでしょう?」
「……湯川先生が忙しいからです」
新しいセフレたちにがっつかれていたわけではない。断じて違う。彼らの若さゆえの回復力から、回数も量も多いので空腹になることはないけれど、断じて。本当に。
湯川先生との穏やかなセックスも好きなのだ。でも、旅行以降は先生の仕事が忙しくて会えない。今月末に一度会えるかどうかもわからない。
「捨てられたんじゃないかと心配していましたよ」
「別れるときはちゃんと言いますから」
自然消滅を狙うこともできるけれど、お世話になったのだから、最後はきちんと「さようなら」と言いたい。セックスだけの関係であったとしても、恋人同士のように。
「はぁい、水森先生、お待たせしました!」
中ジョッキが二つとお通しが運ばれてくる。山芋の明太子和え。美味しそうだ。
ついでにいくつか注文をする。だし巻きは頼んだ。というか、水森さんが頼んでくれた。好きなのかもしれない。
広くはない店内は、テーブル席とカウンター席がすべて客で埋まっている。水森さんが予約をしておいてくれて良かった。たぶん、流行っているのだろう。
ピリ辛の山芋がシャクシャクと口の中で音を立てる。瑞々しい。美味しい。ぺろりと食べてしまう。
「美味しい」
「でしょう?」
水森さんが目を細める。一瞬だけだけど、笑ったように見えた。水森さんも、こんなふうに笑うのか。
「よくこういうお店知っていましたね。水森さんは高級店にしか行かないのかと思っていました」
「あぁ、知り合いの店なんです」
ジョッキも何だか不思議と似合わない感じ。ワイングラスのほうが似合いそう。でも、枝豆も普通に食べている。
案外、庶民的なのだろうか。医者の家系でそれはないか。
「あ、これ先にお返ししておきます」
借りたままだったハンカチを差し出す。もちろん、洗濯してアイロンまできっちりかけてある。
水森さんは「忘れていました」と受け取る。私も、会う予定がなかったので、返すつもりもなかったのだけど、それは内緒だ。
ニコニコと笑いながら、ふわりとした笑顔の女性――名札に店長永田と書いてある彼女が、お皿を置いていく。だし巻きも来た。彼女、店長さんだったのか。
「永田さん、これは頼んでいませんけど」
「デート中の水森先生に、主人からのプレゼントです。鰯のさっぱり煮です。気にせず召し上がってくださいませ」
若そうに見えたのに、既婚者だったのか。しかも、ご主人もここで働いているということは、夫婦で切り盛りしているのかもしれない。
「デートではありませんが、いただきますか」と水森さんは早速皿に手をつける。……だし巻き、好きなんですね。半分も持っていくなんて。
「……!!」
醤油をつける前にだし巻きを一口食べて、私は立ち上がった。この味は、まさか。
そして、カウンター席の奥にいる男性を見て――やっぱり、と思う。水森さんは不思議そうに私を見上げるだけ。
「永田板長!」と声をかけると、カウンターの向こうで作業をしていた男性がこちらを見て、「おおっ!?」と破顔した。
「ツッキーじゃねえか、お前。こんなところでどうした?」
「お久しぶりです! だし巻きの味、全然変わっていないから、すぐわかりましたよ!」
「そりゃ、お前、俺の至高の一品ってやつだからよ。相変わらず美味いだろ?」
「あら、お知り合いだったんですか?」
永田店長が微笑みながらお皿を手にやってくる。微笑んでいる、のに、めちゃくちゃ怖い。目、笑ってない。一瞬、後退りしてしまう。
「ツッキーは料亭のときの従業員だよ、フジちゃん」
「仕事中はその名前で呼ばないでください、板長。私は店長です」
「ツッキー、そこの別嬪さんは俺のワイフな。妻な。奥さんな。ヤキモチ焼きなんだ、すまんな」
デレデレの表情で笑う板長に、カウンター席の女性客二人が「本当に美女と野獣ですよねぇ」と冷やかす。
美女と野獣……なるほど、確かに。
「ご結婚されて、お店まで持てたなんて、おめでとうございます! 奥様のおかげですか?」
「当たり前よぉ。フジちゃんが……店長がいなければこの店は終わりだもんな、別嬪さん方」
板長の言葉に、カウンター席の常連客二人が頷いて笑う。髪の綺麗な常連客の女性のお腹は大きい。妊婦さんらしい。どうやらウーロン茶を飲みながら、ご飯を楽しんでいるようだ。
「そうですね、店長さんがいなくなったら終わりですよね、智子先生」
「そうね。通う意味がなくなっちゃうわね、しの……さとちゃん」
「いや、旧姓でいいんですけど」
所狭しと動き回っている店長の顔は、彼女たちから褒められたせいか嬉しそうだ。男女問わず、彼女目当ての客が多いということだろう。もちろん、永田板長の料理目当ての常連客もいるだろうけれど。いい奥さんをもらったんだなと、私まで嬉しくなる。
仕事の邪魔をしては悪いので、挨拶だけすませて席に戻る。水森さんはテーブルの上のものをきっちり半分くらい食べている。私の分を残してくれていたみたいだ。半分以上食べても良かったのに。
「……料亭でも働いていたんですね」
「住み込みで働かせてもらえたので」
「なるほど。よく覚えていましたね、だし巻きの味を」
「好き、なので」
「僕もです」
それだけで、何も言うことはない。美味しい料理を前に、頑なになるのも変な話だ。美味しいものは、美味しい。
水森貴一は水森貴一。
水森さんは、水森貴一ではない。
わかっている。
子孫は関係ないと言ったのは私なのに、一番気にしているのは、他でもない、私。私自身なんだ。
「……水森さん」
「はい」
「私、インキュバスに会いました」
一瞬、目を見開いた水森さんは、「そうですか」と言いながら眼鏡を直す。そうは見えないけど、驚いたようだ。わかりづらい。
インキュバスに会った。それだけで、水森さんはすべてを理解する。
「セフレに加えたのですか?」
「まぁ、相性は悪くなかったので」
「相性どころか、性質的には最高の相手ではないですか?」
「おそらくは。でも、彼と生きたいとは思いませんでした」
ケントくんとはパートナーにならない。それは、彼との約束。空腹のときは、それぞれ力を貸すけれど、それ以上の関係にはならない。そう決めた。
「村上叡心だけですか?」
「叡心先生だけです」
「これからも?」
「これからも」
……たぶん。
誰かが私と一緒に生きようとしてくれたとしても、私はどうしたって、叡心先生を想ってしまう。叡心先生を想いながら他の誰かを愛する、そんな器用なことは、私にはできそうもない。
「いずれ湯川の前から姿を消すのですか?」
「はい」
「他のセフレの前からも?」
「そうやって、生きてきましたから」
だし巻きがなくなってしまった。鰯も美味しかったけど、お刺身も美味しい。エイヒレもお酒によく合う。やっぱり魚は好きだ。
ビールからチューハイに切り替えて、飲むスピードを落とす。皿を持ってきたり片付けたりしてくれる永田店長は、私への誤解が解けたのか愛想が良い。
「……悲しいですね」
「仕方のないことです」
「もしも、村上叡心のことを知りながら、それでもあなたのことを愛するという男性が現れたら?」
カンパチの刺し身をもぐもぐ食べながら、思案する。
叡心先生を愛したままでいい、二番目でもいい、ということ? そんな都合のいい男性は、いるだろうか。そんな私だけに都合のいい話を、受け入れる男性が?
それは……セックスフレンドよりも険しい、茨の道ではないだろうか。
そもそも、私はその人を愛せるのだろうか。
「……難しいのでは?」
「それは、そんな男性はいないという意味ですか? それとも、あなたの心情的に?」
「どちらもです。叡心先生を想いながら他の男性に心を許すのは、不器用な私にはできません。そんな私を好きになってくれる人も、いないと思います」
でも、本当に?
私がまだ出会っていないだけで、本当に叡心先生よりも愛せる人が現れたら、どうなるのだろう?
私は、そのときも「無理だ」と諦めるのだろうか。それとも、その手を離したくなくて、縋って追いかけるのだろうか。
……わからない。
「あなたは周りが見えていないのですね」
「……?」
「鈍感だということですよ」
うん、私、やっぱり水森さんは嫌いだ。
私が睨んでも、彼は動じない。薄く笑みを浮かべているだけだ。
苦手、なんかじゃない。そんな優しい感情じゃない。大っ嫌いだ。
「差し上げます」
水森さんが紙袋を出してきた。受け取って覗くと、厚い冊子が二冊入っている。
「村上叡心の絵をまとめた画集です」
「それは、ありがとうございます」
渡したいもの、とはこれのことだったのか。
ポストカードも嬉しかったけど、画集はもっと嬉しい。本当に嬉しい。毎日眺めて思い出に浸ろう。楽しかった頃の思い出に。
「あかりさん」
「はい?」
「あなたは本当に残酷な人だ」
水森さんから言われるのは、何回目だ? 初対面のときに言われたから、二回は確実に言われている。
本当に、失礼な人だ。
腹が立つから、チューハイのグラスを睨む。水森さんの顔を見たくない。
「せっかく出会えた最高の相性のインキュバスを、村上叡心への想いだけで切り捨てたのは、浅はかだと思いますよ」
「……言われなくても、わかっています」
「言われてもわからないくせに?」
本当に、大嫌いだ、この人。
なんで、そんなふうに「あなたのことなら何でもわかっていますよ」という顔をするのか。不思議でしょうがない。不愉快でしょうがない。
あなたに、私の、何がわかるというの。
「セックスフレンドが、体だけの関係で本当に満足していると思っているなら、大きな勘違いですよ」
「……水森さんに、何がわかるんですか」
「湯川を見ていれば何となく想像はつきます。あなたの魅力は、その内面にあるのでしょう。残念ながら、当の本人は全く気づいていませんが」
……それは、褒められているのか、呆れられているのか、どっちだ?
「私に、魅力、なんてありませんよ」
「そうですか? 少なくとも、僕はあなたに興味がありますが」
「それは、ただの学術的な興味でしょう? サキュバスは、エサに困らないように、異性から魅力的に見えるようになっているんですよ? 湯川先生も、他の人も、私に騙されているだけなんです」
男の人に好かれるような仕草も、煽るような言動も行動も、エサにありつくための、精液を出してもらうための、処世術に過ぎない。そこに魅力を感じたところで、それが私の本質というわけではない。
私の体に、外見に、仕草に、甘い匂いに、甘い体液に、みんな、騙されている。
みんながセックスをしたがるのは、ただの中毒症状なのだ。
「あかりさん、あなたは、本当に鈍感なんですね」
「だから」
「あなたへの好意を、騙されているだなんて言葉で片付けないほうがいい。それはセフレに失礼だ」
「でも、実際」
「あなたのセフレに聞いてみてください。私のどこが好きなのか、と。あなたの体だと答える人はいませんよ。断言します」
そんなこと、言われても。
なんで、セフレでもない水森さんが、そんなふうに、怒るの?
納得できないのに、素直に聞いてしまう自分が嫌だ。
水森さんの言葉から、プロポーズまでしてくれた湯川先生と、私を彼女にしたがる翔吾くんの顔がちらりと脳裏をかすめるのだ。
彼らの気持ちを、私は、受け入れていない。彼らの発言を、ただの気まぐれだと思い込もうとしているのは事実。
彼らの本心を、私は知らない。知ろうとしなかった。
だって、彼らの気持ちが本気なら――私は、彼らの前から姿を消さなければならないから。
「だから、あなたは残酷なんだ。自分の体は武器にするくせに、心は明け渡さない。男が一番欲するものを、あなたは絶対に渡さない。それが男を追い詰め、狂わせるのに、あなたは気づかない」
だから、私は。私は――。
「――水森貴一は、自殺しました」
……え?
顔を上げると、水森さんの冷たい視線。
「村上叡心と同じように、海で」
なに、それ。何、それ。知らない。
「結婚し、子を作っても、あなたへの想いを断ち切ることができないまま、あなたを手放したことを悔いながら、死にました」
水森さん、私は。
「もう一度、よく考えたほうがいい。あなたの生き方を。男への接し方を。あなたが何を望むのかを」
私、は。
「……相談になら、いつでも乗りますので」
だから、私は、会いたくなかったんだ。
この人は、私の心を乱していく。私の心にいつの間にか入り込んでくる。
私が一生懸命作った壁を、こんなに簡単に壊していく。
優しい顔、水森貴一と同じ。
本当に――本当に、大っ嫌い。
気が重い。本当に重い。できれば会いたくない。
けれど、彼はコンコースを抜けた先の出口の、銅像の近くで待っていた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
「そんなに嫌そうな顔をしなくても」
「嫌ですから」
彼から「会いたい」と連絡があったのは、月曜日。木曜日から夏休みということもあって、月火水と忙しいと言って断ったのだけれど、「どうしても」とお願いされたので、すべての仕事を片付けた水曜の夜にわざわざ出向いたのだ。
「なぜ私の連絡先を?」
「湯川から聞きました。渡したいものがあるのだと言って」
「じゃあ、それをもらったら帰りますので」
「いいじゃないですか。せっかく会えたのですから、少しくらいは楽しんでも。近くに美味しい居酒屋がありますので、そちらへ行きましょう」
いや、全然楽しくないんですけど。
今日は残業で疲れたし、明日からの軽井沢滞在に向けて荷造りをしないといけないんですけど。
あなたに会っている暇なんて、これっぽっちもないのですが。
「ここですよ。予約してあるので」
「はあ」
外観こそ普通の赤ちょうちんのある居酒屋だけど、名前が明らかにおかしい。なに、どら猫亭って。いや、かわいい名前だけど、居酒屋っぽくはない。
ガラ、と扉を開けると「いらっしゃいませぇ」とかわいらしい声が聞こえてきた。出迎えてくれたのは、実際にかわいらしい女性従業員だ。
「あ、水森先生! お待ちしておりましたよ! あら、そちらは彼女さんですか?」
「いえ、違います」
「そんな、照れなくても! じゃあ、ご案内しますね」
ふわふわした感じの女性に席へ案内してもらう。簾で仕切られた、半個室のテーブル席だ。
彼女は「水森先生」と呼んでいた。患者さんか、知り合いなのかもしれない。水森さんがこの店の常連客なのかもしれない。まぁ、興味はないけど。
そして、ビールを頼んでいる間にメニューを見て、だし巻きは絶対に食べようと思う。美味しそうだ。
「水森さん、あの」
「最近、湯川に会っていないでしょう?」
「……湯川先生が忙しいからです」
新しいセフレたちにがっつかれていたわけではない。断じて違う。彼らの若さゆえの回復力から、回数も量も多いので空腹になることはないけれど、断じて。本当に。
湯川先生との穏やかなセックスも好きなのだ。でも、旅行以降は先生の仕事が忙しくて会えない。今月末に一度会えるかどうかもわからない。
「捨てられたんじゃないかと心配していましたよ」
「別れるときはちゃんと言いますから」
自然消滅を狙うこともできるけれど、お世話になったのだから、最後はきちんと「さようなら」と言いたい。セックスだけの関係であったとしても、恋人同士のように。
「はぁい、水森先生、お待たせしました!」
中ジョッキが二つとお通しが運ばれてくる。山芋の明太子和え。美味しそうだ。
ついでにいくつか注文をする。だし巻きは頼んだ。というか、水森さんが頼んでくれた。好きなのかもしれない。
広くはない店内は、テーブル席とカウンター席がすべて客で埋まっている。水森さんが予約をしておいてくれて良かった。たぶん、流行っているのだろう。
ピリ辛の山芋がシャクシャクと口の中で音を立てる。瑞々しい。美味しい。ぺろりと食べてしまう。
「美味しい」
「でしょう?」
水森さんが目を細める。一瞬だけだけど、笑ったように見えた。水森さんも、こんなふうに笑うのか。
「よくこういうお店知っていましたね。水森さんは高級店にしか行かないのかと思っていました」
「あぁ、知り合いの店なんです」
ジョッキも何だか不思議と似合わない感じ。ワイングラスのほうが似合いそう。でも、枝豆も普通に食べている。
案外、庶民的なのだろうか。医者の家系でそれはないか。
「あ、これ先にお返ししておきます」
借りたままだったハンカチを差し出す。もちろん、洗濯してアイロンまできっちりかけてある。
水森さんは「忘れていました」と受け取る。私も、会う予定がなかったので、返すつもりもなかったのだけど、それは内緒だ。
ニコニコと笑いながら、ふわりとした笑顔の女性――名札に店長永田と書いてある彼女が、お皿を置いていく。だし巻きも来た。彼女、店長さんだったのか。
「永田さん、これは頼んでいませんけど」
「デート中の水森先生に、主人からのプレゼントです。鰯のさっぱり煮です。気にせず召し上がってくださいませ」
若そうに見えたのに、既婚者だったのか。しかも、ご主人もここで働いているということは、夫婦で切り盛りしているのかもしれない。
「デートではありませんが、いただきますか」と水森さんは早速皿に手をつける。……だし巻き、好きなんですね。半分も持っていくなんて。
「……!!」
醤油をつける前にだし巻きを一口食べて、私は立ち上がった。この味は、まさか。
そして、カウンター席の奥にいる男性を見て――やっぱり、と思う。水森さんは不思議そうに私を見上げるだけ。
「永田板長!」と声をかけると、カウンターの向こうで作業をしていた男性がこちらを見て、「おおっ!?」と破顔した。
「ツッキーじゃねえか、お前。こんなところでどうした?」
「お久しぶりです! だし巻きの味、全然変わっていないから、すぐわかりましたよ!」
「そりゃ、お前、俺の至高の一品ってやつだからよ。相変わらず美味いだろ?」
「あら、お知り合いだったんですか?」
永田店長が微笑みながらお皿を手にやってくる。微笑んでいる、のに、めちゃくちゃ怖い。目、笑ってない。一瞬、後退りしてしまう。
「ツッキーは料亭のときの従業員だよ、フジちゃん」
「仕事中はその名前で呼ばないでください、板長。私は店長です」
「ツッキー、そこの別嬪さんは俺のワイフな。妻な。奥さんな。ヤキモチ焼きなんだ、すまんな」
デレデレの表情で笑う板長に、カウンター席の女性客二人が「本当に美女と野獣ですよねぇ」と冷やかす。
美女と野獣……なるほど、確かに。
「ご結婚されて、お店まで持てたなんて、おめでとうございます! 奥様のおかげですか?」
「当たり前よぉ。フジちゃんが……店長がいなければこの店は終わりだもんな、別嬪さん方」
板長の言葉に、カウンター席の常連客二人が頷いて笑う。髪の綺麗な常連客の女性のお腹は大きい。妊婦さんらしい。どうやらウーロン茶を飲みながら、ご飯を楽しんでいるようだ。
「そうですね、店長さんがいなくなったら終わりですよね、智子先生」
「そうね。通う意味がなくなっちゃうわね、しの……さとちゃん」
「いや、旧姓でいいんですけど」
所狭しと動き回っている店長の顔は、彼女たちから褒められたせいか嬉しそうだ。男女問わず、彼女目当ての客が多いということだろう。もちろん、永田板長の料理目当ての常連客もいるだろうけれど。いい奥さんをもらったんだなと、私まで嬉しくなる。
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「なるほど。よく覚えていましたね、だし巻きの味を」
「好き、なので」
「僕もです」
それだけで、何も言うことはない。美味しい料理を前に、頑なになるのも変な話だ。美味しいものは、美味しい。
水森貴一は水森貴一。
水森さんは、水森貴一ではない。
わかっている。
子孫は関係ないと言ったのは私なのに、一番気にしているのは、他でもない、私。私自身なんだ。
「……水森さん」
「はい」
「私、インキュバスに会いました」
一瞬、目を見開いた水森さんは、「そうですか」と言いながら眼鏡を直す。そうは見えないけど、驚いたようだ。わかりづらい。
インキュバスに会った。それだけで、水森さんはすべてを理解する。
「セフレに加えたのですか?」
「まぁ、相性は悪くなかったので」
「相性どころか、性質的には最高の相手ではないですか?」
「おそらくは。でも、彼と生きたいとは思いませんでした」
ケントくんとはパートナーにならない。それは、彼との約束。空腹のときは、それぞれ力を貸すけれど、それ以上の関係にはならない。そう決めた。
「村上叡心だけですか?」
「叡心先生だけです」
「これからも?」
「これからも」
……たぶん。
誰かが私と一緒に生きようとしてくれたとしても、私はどうしたって、叡心先生を想ってしまう。叡心先生を想いながら他の誰かを愛する、そんな器用なことは、私にはできそうもない。
「いずれ湯川の前から姿を消すのですか?」
「はい」
「他のセフレの前からも?」
「そうやって、生きてきましたから」
だし巻きがなくなってしまった。鰯も美味しかったけど、お刺身も美味しい。エイヒレもお酒によく合う。やっぱり魚は好きだ。
ビールからチューハイに切り替えて、飲むスピードを落とす。皿を持ってきたり片付けたりしてくれる永田店長は、私への誤解が解けたのか愛想が良い。
「……悲しいですね」
「仕方のないことです」
「もしも、村上叡心のことを知りながら、それでもあなたのことを愛するという男性が現れたら?」
カンパチの刺し身をもぐもぐ食べながら、思案する。
叡心先生を愛したままでいい、二番目でもいい、ということ? そんな都合のいい男性は、いるだろうか。そんな私だけに都合のいい話を、受け入れる男性が?
それは……セックスフレンドよりも険しい、茨の道ではないだろうか。
そもそも、私はその人を愛せるのだろうか。
「……難しいのでは?」
「それは、そんな男性はいないという意味ですか? それとも、あなたの心情的に?」
「どちらもです。叡心先生を想いながら他の男性に心を許すのは、不器用な私にはできません。そんな私を好きになってくれる人も、いないと思います」
でも、本当に?
私がまだ出会っていないだけで、本当に叡心先生よりも愛せる人が現れたら、どうなるのだろう?
私は、そのときも「無理だ」と諦めるのだろうか。それとも、その手を離したくなくて、縋って追いかけるのだろうか。
……わからない。
「あなたは周りが見えていないのですね」
「……?」
「鈍感だということですよ」
うん、私、やっぱり水森さんは嫌いだ。
私が睨んでも、彼は動じない。薄く笑みを浮かべているだけだ。
苦手、なんかじゃない。そんな優しい感情じゃない。大っ嫌いだ。
「差し上げます」
水森さんが紙袋を出してきた。受け取って覗くと、厚い冊子が二冊入っている。
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「それは、ありがとうございます」
渡したいもの、とはこれのことだったのか。
ポストカードも嬉しかったけど、画集はもっと嬉しい。本当に嬉しい。毎日眺めて思い出に浸ろう。楽しかった頃の思い出に。
「あかりさん」
「はい?」
「あなたは本当に残酷な人だ」
水森さんから言われるのは、何回目だ? 初対面のときに言われたから、二回は確実に言われている。
本当に、失礼な人だ。
腹が立つから、チューハイのグラスを睨む。水森さんの顔を見たくない。
「せっかく出会えた最高の相性のインキュバスを、村上叡心への想いだけで切り捨てたのは、浅はかだと思いますよ」
「……言われなくても、わかっています」
「言われてもわからないくせに?」
本当に、大嫌いだ、この人。
なんで、そんなふうに「あなたのことなら何でもわかっていますよ」という顔をするのか。不思議でしょうがない。不愉快でしょうがない。
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……それは、褒められているのか、呆れられているのか、どっちだ?
「私に、魅力、なんてありませんよ」
「そうですか? 少なくとも、僕はあなたに興味がありますが」
「それは、ただの学術的な興味でしょう? サキュバスは、エサに困らないように、異性から魅力的に見えるようになっているんですよ? 湯川先生も、他の人も、私に騙されているだけなんです」
男の人に好かれるような仕草も、煽るような言動も行動も、エサにありつくための、精液を出してもらうための、処世術に過ぎない。そこに魅力を感じたところで、それが私の本質というわけではない。
私の体に、外見に、仕草に、甘い匂いに、甘い体液に、みんな、騙されている。
みんながセックスをしたがるのは、ただの中毒症状なのだ。
「あかりさん、あなたは、本当に鈍感なんですね」
「だから」
「あなたへの好意を、騙されているだなんて言葉で片付けないほうがいい。それはセフレに失礼だ」
「でも、実際」
「あなたのセフレに聞いてみてください。私のどこが好きなのか、と。あなたの体だと答える人はいませんよ。断言します」
そんなこと、言われても。
なんで、セフレでもない水森さんが、そんなふうに、怒るの?
納得できないのに、素直に聞いてしまう自分が嫌だ。
水森さんの言葉から、プロポーズまでしてくれた湯川先生と、私を彼女にしたがる翔吾くんの顔がちらりと脳裏をかすめるのだ。
彼らの気持ちを、私は、受け入れていない。彼らの発言を、ただの気まぐれだと思い込もうとしているのは事実。
彼らの本心を、私は知らない。知ろうとしなかった。
だって、彼らの気持ちが本気なら――私は、彼らの前から姿を消さなければならないから。
「だから、あなたは残酷なんだ。自分の体は武器にするくせに、心は明け渡さない。男が一番欲するものを、あなたは絶対に渡さない。それが男を追い詰め、狂わせるのに、あなたは気づかない」
だから、私は。私は――。
「――水森貴一は、自殺しました」
……え?
顔を上げると、水森さんの冷たい視線。
「村上叡心と同じように、海で」
なに、それ。何、それ。知らない。
「結婚し、子を作っても、あなたへの想いを断ち切ることができないまま、あなたを手放したことを悔いながら、死にました」
水森さん、私は。
「もう一度、よく考えたほうがいい。あなたの生き方を。男への接し方を。あなたが何を望むのかを」
私、は。
「……相談になら、いつでも乗りますので」
だから、私は、会いたくなかったんだ。
この人は、私の心を乱していく。私の心にいつの間にか入り込んでくる。
私が一生懸命作った壁を、こんなに簡単に壊していく。
優しい顔、水森貴一と同じ。
本当に――本当に、大っ嫌い。
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