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26.花火と火花(二)
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「来ないでくださいっ!」
「いいじゃん。久しぶりだから、楽しもうよ、ミヤちゃん」
「だから、私はっ、そんな名前じゃっ」
「ミヤちゃん。ねぇ、楽しもうよ」
巾着を引っ掴んで、階段を駆け下りる。その途中で、妹尾さんは笑いながら追いかけてきた。不慣れな社内と居場所を知らせてしまううるさい下駄に恐怖しながら、ようやく女子トイレに籠もることができたのに。
「ミーヤちゃん」
女子トイレの出入り口に、妹尾さんがいる。このままだと、出られない。酔っ払いのセクハラ男より、昔の女に似た女を追い掛け回して関係を迫る男のほうが、手に負えない。
最悪だ。
「ミヤちゃん、わさびとか生姜、苦手だったよねぇ」
「……」
「そのくせ、明太子は好きだったよね」
「……」
抑揚のない声。怖い。機械が喋っているみたい。
妹尾さんは、こんな喋り方だった?
「なんで名前が変わったのか知らないけど……あ、結婚でもした? 月野美也子?」
「月野あかり、です! 美也子さんて名前じゃありません!」
「どうでもいいよ、そんなの」
バン、と板か何かが蹴られたような、殴られたような音が響く。蝶番が揺れる音もしたから、たぶん、トイレのドアを殴るか蹴るかしたのだ。
「早く出てこいよ、美也子。ヤラせろよ。溜まってんだよ、こっちは」
暴力的な言葉に、ゾッとする。
怖い、怖い、怖い――。
「それとも、トイレでヤルの? 広い会議室でヤリたかったけど、まぁ、別に、どこでもいいか」
「……っ!?」
「ヤレるなら」
カランコロンと下駄が鳴る。女子トイレに、入ってきた――!?
巾着を握りしめて、個室の奥で震える。冷房が切られていて暑いはずなのに、背筋は凍るかのように冷えている。
「ミーヤちゃん?」
確かに、精液は生きていくために必要で、なくてはならないものだけど、食事に――セックスに、お互いの合意は必要で……それがないと、濡れないし、痛いし、怪我をするだけ。
強姦は――最低最悪の食事方法だ。
「ミヤちゃん。俺、溜まってんの」
声が、ドアのすぐ向こうから聞こえる。ねっとりと、まとわりついてくるような、声。
「昔みたいにさぁ、抜いてよ」
見動きができない。助けを呼ぶこともできない。私は、なんて、非力なんだろう――。
「ねぇ、美也子」
ガシャン、と鍵が揺れた。体が震え、声にならない悲鳴が、喉に張り付く。
や、やだ、来ないで! 来ないで!
二度、三度、ガシャガシャとドアが揺れて――。
「ヤラせろよ」
ドアの上、両手と、ニヤリと笑う妹尾さんの顔が見えた。窓の外の花火が映って、ドアによじ登った彼の顔を青く染める。
「美也子、見ぃつけた」
下卑た笑みに、私はただ、助けを求める。
誰か……誰か……荒木さん、助けて――!
◆◇◆◇◆
「やっだ、妹尾さん、何、してんですか!?」
「妹尾さん、ここ男子トイレじゃありませんよ! 酔ってるんですかぁ?」
突然、二人の女子社員の声が聞こえた。それは、私にとって、救いの声だ。
「部長が探していましたよぉ?」
「そうそう、サキタの営業さんと話すみたいでー」
「……へぇ。俺、こんな酔ってんのに、大丈夫かなぁ」
ガシャンと音を立て、ドアから降りて、妹尾さんは女子トイレの出入り口へ向かっている。
さすがに、ここでさらに迫ってくることはしないみたいだ。
「早く行って、商談頑張ってくださいね!」
「お、おう。……また、な」
また、な。
それは、私に向けられた言葉だとすぐにわかった。イトイが取引先である以上、サキタに彼が出入りすることもあるだろう。そうなったら、また体の関係を迫られるに違いない。
……最悪だ。辞めるしか、ないのか?
「なぁにが、またな、よ! 撮れた?」
「バッチリ。サキタの月野さん、大丈夫ですか?」
「助けが遅くなって、すみません!」
……へ? 私の、名前?
ドキドキしながら鍵を開けると、女子社員二名が心配そうな顔をして、立っていた。一人はビデオカメラを構えている。
「うちの社員が、本当にすみませんでした」
「あの人、酒癖が本当に悪くて……あ、一部始終を撮らせてもらいましたが、会社に提出するときは加工します」
「後日、部長から正式な謝罪で伺います。その際、妹尾の処分を通知いたしますね」
「あ、あの……」
わけがわからなくて、二人の顔を見比べる。二人は社員証を示し、さらに名刺を手渡してくれた。
「人事部の白鳥です」
「同じく、麻生です。何かありましたら、私たちまで連絡ください」
「は、はぁ……」
わけがわからないけど、とりあえず、助かったということだ。ホッとしたら、腰が抜けた。慌てて、近くにいた白鳥さんが支えてくれる。
「サキタの月野さんですよね? 荒木さんが心配なさっていましたよ」
「荒木、さんが?」
「はい。でも、とりあえず今日はこのまま帰りましょう。妹尾と一緒にいたくはないでしょう。会費は後日お返しいたしますから」
荒木さんに助けられたのか、私。もしかして、妹尾さんにキスされたところも、見られていた? それは、最悪だ。最悪だ。
「大丈夫ですか? 一人で帰れますか? 荒木さん呼んできましょうか?」
「あ、いえ、大丈夫です。帰れます。ご迷惑をおかけして」
「それは私たちのセリフです。うちの社員がご迷惑をおかけいたしまして、誠に申し訳ありませんでした」
二人に頭を下げられ、恐縮してしまう。まぁ、でも、良かった……何もなくて。本当に良かった。
「妹尾さんはどうなりますか?」
一階へのエレベーターを待ちながら、一階まで送ってくれると言う白鳥さんに尋ねる。
「未遂とはいえ、女性をトイレに閉じ込めて『ヤラせろよ』はアウトなので、一度子会社に出向してもらって、その後解雇でしょうか。子会社で成果を出しても、こういう問題で左遷された人は本社には戻さないので、東京には来られないようにしますよ」
「はぁ……スゴい、ですね」
「あぁ、気に病まないでください。妹尾のセクハラ問題はかなり前からあったのですが、証拠がなくて。今回の件でようやく追求できそうなので、頑張ります。月野さんには囮の真似事みたいなことをさせてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
「あ、それは大丈夫、です」
私とそう変わらない年齢に見えるのに、しっかりしている人だ。こういう人が集まる会社なんだろう。さすが日本一の玩具会社だ。
一階の、玩具がディスプレイされたエントランスホールを抜け、白鳥さんに礼を言ってから、人混みの中へと紛れていく。
さて、どこでナンパを待とうか。
あんなことがあっても、お腹は空く。男の人が怖くても、空腹は待ってくれない。それとこれとは別問題なのだ。
駅までゆっくり歩く。やはり、カップルが多い。友達同士も多い。一人だけの男性はいない。当たり前か。一人、いや、二人……二人連れの男性ならまぁ何とか相手にできるだろう。三人は、応相談、だなぁ。
そういえば、メッセージの通知があったんだった。誰だろう? 誰か会えるようになったなら、嬉しいのだけど。
「あれ、翔吾くん?」
「さくらい」と表示されたメッセージは、ただ一言。
『たすけて』
……たすけて? 助けて? 助けて!?
さっきまで私もそう思っていたのに、慌てて、そのメッセージの無料通話ボタンを押す。何回かのコールのあと、繋がる。
「翔吾くん? どうしたの? 今どこ?」
『……家……うっ』
「翔吾くん? 翔吾くん!?」
花火のせいか、混雑しているせいか、声が聞き取りづらい。でも、マンションにいるなら、ここから遠くはない。湘南だったら、さすがに遠いけど。
「あぁ、もう!」
助けて、なんて言われたら、助けにいかないわけにはいかないでしょ、もう!
世話の焼けるセフレだなぁ、と思いながら、まさか誘拐とかじゃないよね、と嫌な考えを振り払う。何か事件に巻き込まれたとかじゃないといいんだけど。
そんなドラマみたいなことを考えながら、カラコロと下駄を鳴らし、駅へと向かうのだ。
◆◇◆◇◆
あれから一時間くらいたっただろうか。人混みをかき分け、何本か電車を見送って、都内で何箇所か花火大会が行われている現実に直面する。
佐々木先輩の言う通り、家でじっとしていたほうが良かったのかもしれない。
エントランスはコンシェルジュを頼らず翔吾くんに何とか開けてもらい、誘拐ではないと知ってホッとする。玄関のドアも開けてもらって、倒れ込んできた人影を何とか支える。
「翔吾くん? 翔吾くん!?」
「んー……」
酷い臭いだ。お酒と、吐瀉物の臭い。どうやらかなり酔っ払って、かなり吐いたみたいだ。シャツにもついている。
……これは、酷い。
メッセージを受け取ってからかなりの時間がたっているので、胃の中身はもうほとんど残っていないだろう。吐くものはない、はず。
翔吾くんがこんなになるまで飲むことはない。何があったのだろう。健吾くんはどこだ? 喧嘩でもしたのだろうか。
「翔吾くん、立てる? 大丈夫? 服脱げる?」
「……むり」
「じゃあ、私が脱がしていい? 汚れてるから着替えないと」
もたれかかってくる翔吾くんを起こそうとして、手首を掴まれる。熱い。熱でもあるの? いや、額に手を当てても熱はない。ただ、手が熱いだけだ。
「翔吾くん、お水飲む?」
「……い、ら、ない」
「おかゆか雑炊作ろうか?」
「……いい」
「翔吾くん?」
手首をぐいと引き寄せられて、翔吾くんの腕の中。荒い吐息が首筋にかかる。
「……そばにいて」
「いるよ」
「どこにも、行くな」
「うん」
へたり込んだ翔吾くんの足の間で膝立ちになり、髪を撫でる。あれ? 髪の毛伸びた? 香水もつけていない? あれ?
ぎゅうと強く抱きしめられる。彼の口から苦しげな言葉が零れる。
「あの男が、テレビに……あの男が」
「あの、男?」
「あいつ、俺の……っ!」
彼の首筋に目を落とす。日焼けしていない、白い肌。……白い、肌。
そうだ。彼も「さくらい」だ。
「俺の、命の恩人を殴っ……!」
「……殴られている女の人を、見たんだね」
「殴って、馬乗りに、なって……嫌がるあの人を……っ!」
あぁ、そうか。
見られていたのか。
――十歳かそこらだった、彼に。
「大丈夫。大丈夫だから」
「なん、っ、あいつがっ、都知事選にっ」
藍川道弘は、長野で当時、県議をしていた。十年前に私のセフレだったその男は、セックスのたびに暴力を振るう人だった。そういうプレイが好きな人だった。
首を絞められたり、ナイフを突き付けられたりする毎日に耐えきれなくなって、藍川から逃げるために、福岡へ行った。そこで、妹尾さんを始めとするセフレたちに出会った。
それも、もう八年も前の話だ。
藍川が都知事選に立候補したことで、テレビでの露出が増え、彼のトラウマが蘇ったのだろう。
飲まずにはいられない、平静ではいられない――その気持ちは、よくわかる。
「大丈夫だから、健吾くん」
健吾くんの震える背中を撫でながら、言い聞かせる。
大丈夫。私はここにいる。
あなたのそばにいてあげるから。
「大丈夫」
だから、泣き止んで。
私のために、泣かなくていいんだよ。
「いいじゃん。久しぶりだから、楽しもうよ、ミヤちゃん」
「だから、私はっ、そんな名前じゃっ」
「ミヤちゃん。ねぇ、楽しもうよ」
巾着を引っ掴んで、階段を駆け下りる。その途中で、妹尾さんは笑いながら追いかけてきた。不慣れな社内と居場所を知らせてしまううるさい下駄に恐怖しながら、ようやく女子トイレに籠もることができたのに。
「ミーヤちゃん」
女子トイレの出入り口に、妹尾さんがいる。このままだと、出られない。酔っ払いのセクハラ男より、昔の女に似た女を追い掛け回して関係を迫る男のほうが、手に負えない。
最悪だ。
「ミヤちゃん、わさびとか生姜、苦手だったよねぇ」
「……」
「そのくせ、明太子は好きだったよね」
「……」
抑揚のない声。怖い。機械が喋っているみたい。
妹尾さんは、こんな喋り方だった?
「なんで名前が変わったのか知らないけど……あ、結婚でもした? 月野美也子?」
「月野あかり、です! 美也子さんて名前じゃありません!」
「どうでもいいよ、そんなの」
バン、と板か何かが蹴られたような、殴られたような音が響く。蝶番が揺れる音もしたから、たぶん、トイレのドアを殴るか蹴るかしたのだ。
「早く出てこいよ、美也子。ヤラせろよ。溜まってんだよ、こっちは」
暴力的な言葉に、ゾッとする。
怖い、怖い、怖い――。
「それとも、トイレでヤルの? 広い会議室でヤリたかったけど、まぁ、別に、どこでもいいか」
「……っ!?」
「ヤレるなら」
カランコロンと下駄が鳴る。女子トイレに、入ってきた――!?
巾着を握りしめて、個室の奥で震える。冷房が切られていて暑いはずなのに、背筋は凍るかのように冷えている。
「ミーヤちゃん?」
確かに、精液は生きていくために必要で、なくてはならないものだけど、食事に――セックスに、お互いの合意は必要で……それがないと、濡れないし、痛いし、怪我をするだけ。
強姦は――最低最悪の食事方法だ。
「ミヤちゃん。俺、溜まってんの」
声が、ドアのすぐ向こうから聞こえる。ねっとりと、まとわりついてくるような、声。
「昔みたいにさぁ、抜いてよ」
見動きができない。助けを呼ぶこともできない。私は、なんて、非力なんだろう――。
「ねぇ、美也子」
ガシャン、と鍵が揺れた。体が震え、声にならない悲鳴が、喉に張り付く。
や、やだ、来ないで! 来ないで!
二度、三度、ガシャガシャとドアが揺れて――。
「ヤラせろよ」
ドアの上、両手と、ニヤリと笑う妹尾さんの顔が見えた。窓の外の花火が映って、ドアによじ登った彼の顔を青く染める。
「美也子、見ぃつけた」
下卑た笑みに、私はただ、助けを求める。
誰か……誰か……荒木さん、助けて――!
◆◇◆◇◆
「やっだ、妹尾さん、何、してんですか!?」
「妹尾さん、ここ男子トイレじゃありませんよ! 酔ってるんですかぁ?」
突然、二人の女子社員の声が聞こえた。それは、私にとって、救いの声だ。
「部長が探していましたよぉ?」
「そうそう、サキタの営業さんと話すみたいでー」
「……へぇ。俺、こんな酔ってんのに、大丈夫かなぁ」
ガシャンと音を立て、ドアから降りて、妹尾さんは女子トイレの出入り口へ向かっている。
さすがに、ここでさらに迫ってくることはしないみたいだ。
「早く行って、商談頑張ってくださいね!」
「お、おう。……また、な」
また、な。
それは、私に向けられた言葉だとすぐにわかった。イトイが取引先である以上、サキタに彼が出入りすることもあるだろう。そうなったら、また体の関係を迫られるに違いない。
……最悪だ。辞めるしか、ないのか?
「なぁにが、またな、よ! 撮れた?」
「バッチリ。サキタの月野さん、大丈夫ですか?」
「助けが遅くなって、すみません!」
……へ? 私の、名前?
ドキドキしながら鍵を開けると、女子社員二名が心配そうな顔をして、立っていた。一人はビデオカメラを構えている。
「うちの社員が、本当にすみませんでした」
「あの人、酒癖が本当に悪くて……あ、一部始終を撮らせてもらいましたが、会社に提出するときは加工します」
「後日、部長から正式な謝罪で伺います。その際、妹尾の処分を通知いたしますね」
「あ、あの……」
わけがわからなくて、二人の顔を見比べる。二人は社員証を示し、さらに名刺を手渡してくれた。
「人事部の白鳥です」
「同じく、麻生です。何かありましたら、私たちまで連絡ください」
「は、はぁ……」
わけがわからないけど、とりあえず、助かったということだ。ホッとしたら、腰が抜けた。慌てて、近くにいた白鳥さんが支えてくれる。
「サキタの月野さんですよね? 荒木さんが心配なさっていましたよ」
「荒木、さんが?」
「はい。でも、とりあえず今日はこのまま帰りましょう。妹尾と一緒にいたくはないでしょう。会費は後日お返しいたしますから」
荒木さんに助けられたのか、私。もしかして、妹尾さんにキスされたところも、見られていた? それは、最悪だ。最悪だ。
「大丈夫ですか? 一人で帰れますか? 荒木さん呼んできましょうか?」
「あ、いえ、大丈夫です。帰れます。ご迷惑をおかけして」
「それは私たちのセリフです。うちの社員がご迷惑をおかけいたしまして、誠に申し訳ありませんでした」
二人に頭を下げられ、恐縮してしまう。まぁ、でも、良かった……何もなくて。本当に良かった。
「妹尾さんはどうなりますか?」
一階へのエレベーターを待ちながら、一階まで送ってくれると言う白鳥さんに尋ねる。
「未遂とはいえ、女性をトイレに閉じ込めて『ヤラせろよ』はアウトなので、一度子会社に出向してもらって、その後解雇でしょうか。子会社で成果を出しても、こういう問題で左遷された人は本社には戻さないので、東京には来られないようにしますよ」
「はぁ……スゴい、ですね」
「あぁ、気に病まないでください。妹尾のセクハラ問題はかなり前からあったのですが、証拠がなくて。今回の件でようやく追求できそうなので、頑張ります。月野さんには囮の真似事みたいなことをさせてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
「あ、それは大丈夫、です」
私とそう変わらない年齢に見えるのに、しっかりしている人だ。こういう人が集まる会社なんだろう。さすが日本一の玩具会社だ。
一階の、玩具がディスプレイされたエントランスホールを抜け、白鳥さんに礼を言ってから、人混みの中へと紛れていく。
さて、どこでナンパを待とうか。
あんなことがあっても、お腹は空く。男の人が怖くても、空腹は待ってくれない。それとこれとは別問題なのだ。
駅までゆっくり歩く。やはり、カップルが多い。友達同士も多い。一人だけの男性はいない。当たり前か。一人、いや、二人……二人連れの男性ならまぁ何とか相手にできるだろう。三人は、応相談、だなぁ。
そういえば、メッセージの通知があったんだった。誰だろう? 誰か会えるようになったなら、嬉しいのだけど。
「あれ、翔吾くん?」
「さくらい」と表示されたメッセージは、ただ一言。
『たすけて』
……たすけて? 助けて? 助けて!?
さっきまで私もそう思っていたのに、慌てて、そのメッセージの無料通話ボタンを押す。何回かのコールのあと、繋がる。
「翔吾くん? どうしたの? 今どこ?」
『……家……うっ』
「翔吾くん? 翔吾くん!?」
花火のせいか、混雑しているせいか、声が聞き取りづらい。でも、マンションにいるなら、ここから遠くはない。湘南だったら、さすがに遠いけど。
「あぁ、もう!」
助けて、なんて言われたら、助けにいかないわけにはいかないでしょ、もう!
世話の焼けるセフレだなぁ、と思いながら、まさか誘拐とかじゃないよね、と嫌な考えを振り払う。何か事件に巻き込まれたとかじゃないといいんだけど。
そんなドラマみたいなことを考えながら、カラコロと下駄を鳴らし、駅へと向かうのだ。
◆◇◆◇◆
あれから一時間くらいたっただろうか。人混みをかき分け、何本か電車を見送って、都内で何箇所か花火大会が行われている現実に直面する。
佐々木先輩の言う通り、家でじっとしていたほうが良かったのかもしれない。
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「んー……」
酷い臭いだ。お酒と、吐瀉物の臭い。どうやらかなり酔っ払って、かなり吐いたみたいだ。シャツにもついている。
……これは、酷い。
メッセージを受け取ってからかなりの時間がたっているので、胃の中身はもうほとんど残っていないだろう。吐くものはない、はず。
翔吾くんがこんなになるまで飲むことはない。何があったのだろう。健吾くんはどこだ? 喧嘩でもしたのだろうか。
「翔吾くん、立てる? 大丈夫? 服脱げる?」
「……むり」
「じゃあ、私が脱がしていい? 汚れてるから着替えないと」
もたれかかってくる翔吾くんを起こそうとして、手首を掴まれる。熱い。熱でもあるの? いや、額に手を当てても熱はない。ただ、手が熱いだけだ。
「翔吾くん、お水飲む?」
「……い、ら、ない」
「おかゆか雑炊作ろうか?」
「……いい」
「翔吾くん?」
手首をぐいと引き寄せられて、翔吾くんの腕の中。荒い吐息が首筋にかかる。
「……そばにいて」
「いるよ」
「どこにも、行くな」
「うん」
へたり込んだ翔吾くんの足の間で膝立ちになり、髪を撫でる。あれ? 髪の毛伸びた? 香水もつけていない? あれ?
ぎゅうと強く抱きしめられる。彼の口から苦しげな言葉が零れる。
「あの男が、テレビに……あの男が」
「あの、男?」
「あいつ、俺の……っ!」
彼の首筋に目を落とす。日焼けしていない、白い肌。……白い、肌。
そうだ。彼も「さくらい」だ。
「俺の、命の恩人を殴っ……!」
「……殴られている女の人を、見たんだね」
「殴って、馬乗りに、なって……嫌がるあの人を……っ!」
あぁ、そうか。
見られていたのか。
――十歳かそこらだった、彼に。
「大丈夫。大丈夫だから」
「なん、っ、あいつがっ、都知事選にっ」
藍川道弘は、長野で当時、県議をしていた。十年前に私のセフレだったその男は、セックスのたびに暴力を振るう人だった。そういうプレイが好きな人だった。
首を絞められたり、ナイフを突き付けられたりする毎日に耐えきれなくなって、藍川から逃げるために、福岡へ行った。そこで、妹尾さんを始めとするセフレたちに出会った。
それも、もう八年も前の話だ。
藍川が都知事選に立候補したことで、テレビでの露出が増え、彼のトラウマが蘇ったのだろう。
飲まずにはいられない、平静ではいられない――その気持ちは、よくわかる。
「大丈夫だから、健吾くん」
健吾くんの震える背中を撫でながら、言い聞かせる。
大丈夫。私はここにいる。
あなたのそばにいてあげるから。
「大丈夫」
だから、泣き止んで。
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