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25.花火と火花(一)
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百貨店ですごく悩んで買った三万円の浴衣は、姿見ではまぁおかしくはない。白緑(びゃくろく)のシンプルな浴衣。芍薬の柄も、全体ではなく裾に多くあしらわれている。本当は五万円の牡丹柄も良かったのだけど、派手すぎるかと思って、やめた。
緑青(ろくしょう)色の帯は文庫結び。髪は三つ編みを下のほうでまとめて、緩くお団子にして、髪飾りをつけただけ。
翔吾くんなら「あかりは暖色系がいい」と言うだろうけど、緑系統の浴衣は女の子にはあまり選ばれない気がしたし、地味で私によく似合ったのだ。あまりの気合の入ってなさに、怒られてしまいそうだ。
新品の下駄は鼻緒を直した。巾着にスマートフォンや小銭入れ、定期券、社員証などを入れて、部屋を出る。
カフェデートのとき、荒木さんから待ち合わせを提案されたので、快諾した。日向さんを始め総務部の人は会場で準備があるらしく、先に行っているようだ。
私の最寄り駅で待ち合わせ。荒木さんは時間の少し前には到着する性格だから、私も早めに出かける。
足元でカラコロと音が鳴る。見れば、周りの若い子は皆浴衣を着て駅へ向かっている。花火大会へ行くのだろう。仲睦まじいカップルも、友達同士も、楽しそうだ。
「月野さん、こっち」
手を挙げて居場所を知らせてくれる荒木さんは、瑠璃色と白のストライプの浴衣。よく、似合っている。ストライプは叡心先生も好きな柄だった。
「へえ、いいね、すごく。月野さん、浴衣似合うね!」
「ありがとうございます。荒木さんも、よくお似合いです」
男の人が浴衣を着るならもう少し肉がついていてもいいかもしれないけど、歩いてくるときに見たヒョロヒョロの男の子たちよりはずっと似合っている。
似合っている、なぁ。泣きそうになるくらい。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
「改札もホームも混んでいるから気をつけて」
荒木さんが自然に伸ばしてくれた手を、取る。もちろん、握手なんかではない。手を、繋いでいる。はぐれないように。
ドキドキ、する。
暖かな手のひら。その熱が、夢ではないと告げてくる。夢じゃない。
私、荒木さんと――。
「大丈夫?」
心配そうにこちらを見てくれる荒木さんを直視できなくて、困る。
大丈夫じゃない。大丈夫じゃないです。
心臓が保ちません!
◆◇◆◇◆
隅田川に近い駅は、相当な人だかりで、前に進むのもやっとな感じだった。打ち上げにはまだ二時間もあるのに。
荒木さんが手を引いてするすると人混みの中を誘導してくれたおかげで、何とか目当ての会社にたどり着くことができた。普通に歩いていたら、十五分もかからない距離だろう。でも、今日はその三倍くらい時間がかかった。
その間、ずっと手を握っていたので、汗でベトベト。それも、想い出になるだろう。幸せな想い出に。
「大変でしたねぇ」
「本当に」
社員証をつけ、「花火大会特設会場」と書かれた順路の通りにエレベーターへ向かう。玩具会社らしく、そこかしこに玩具がディスプレイされていて、面白い。
三つあるエレベーターの前には、社員証をつけた人たちが並んでいる。この会社の社員だろう。もちろん、皆浴衣だ。
「帰りも混みますかね?」
「何時間かは帰れないと覚悟したほうがいいかもしれないね」
それはナンパ待ちをするには好都合なのだけど、ホテルには行けないだろうなぁ。路地裏? 公園? 野外でセックスをすることを覚悟しておこう。
「月野さん、あまり飲んじゃダメだよ」
荒木さんの、優しい視線。
「さすがにこの格好で背負って帰るのはしんどいかな」
「……善処します」
「まぁ酔い潰れても、家は覚えているからちゃんと送り届けるよ」
「ありがとう、ございます」
その場合、精液確保がシビアになるので、なるべく遠慮したいです。日曜にナンパをするのは結構厳しいです。
荒木さんが送り狼になって、精液をピュッと出してくれるなら良いのだけど、期待はできない。手を繋いだのだって、はぐれたらいけないから、という理由があるだけで、他意はないはずだ。
「あと、営業部には気をつけて」
「……荒木さんも営業部ですよ?」
「この会社の営業部、ね。酒癖が悪い奴ばかりだから」
社員さんたちに聞かれないような声のトーンで、エレベーター内でこっそりと教えてくれた情報。取引先の営業部同士、接待をすることもあるのだろう。内情は書類を作るだけの私よりずっと詳しいはずだ。
うん、荒木さんの忠告は、聞いておこう。
エレベーターから降りてみると、確かにそこは花火大会特設会場だった。夏の暑い空気に混じって、食べ物の匂いがする。
広い屋上には、参加者が座れるようにブルーシートが敷かれ、端っこにはパイプ椅子と、ケータリングの料理と飲み物。既にビールを飲んで笑い合っているお偉いさんの姿があれば、ビールが足りないと走り回っている女性の姿もある。子どももいる。
「どこで食べてもいいし、どこで見てもいいみたいだね」
大きなタライの中に氷と一緒に浮かぶ缶ジュースを取って、ポテトとフランクフルトをもらって、適当に空いているブルーシートに座る。荒木さんは缶ビールを持っている。
「あ! 荒木くん!」
ほら、彼の姿を見つけた瞬間に、彼女が駆け寄ってくる。
日向さんは、緋色の牡丹の浴衣に、向日葵のような鮮やかな黄色の帯。とても、華やかだ。五万円のを買わなくて良かった。牡丹柄がかぶるところだった。
「荒木くん、浴衣よく似合ってるね!」
「ありがと。日向さんもね」
「ありがとー! あ、こっちのほうが花火見やすいんだって! こっちおいでよ!」
日向さんが強引に荒木さんを引っ張っていく。荒木さんは「一緒に行こう」と私も誘ってきたけど、彼の向こうに「来るな」と日向さんの無言の圧力を感じるので、苦笑いだけ浮かべて二人を見送る。
まぁ、こうなることはわかっていたけどね。私の視界内に二人がいなければ、それはそれで気が楽だ。
ブルーシートに座ったまま、あたりを見回すと、美山さんは既にビール片手に顔が真っ赤になっているし、課長や部長はそれぞれ同い年くらいの社員と談笑している。見たことがあるうちの社員も何人かいて、皆楽しそうだ。
……やっぱり、佐々木先輩と来たかったなぁ。
今さら、そんな心細い気分になる。
打ち上げまで、何しようかなぁとスマートフォンを取り出したとき。
「ダーメだって! スマホなんか出しちゃあ!」
いきなり、私の赤いスマートフォンが誰かに奪われた。見上げると、真っ赤な顔をした――誰? 見知らぬ男性だ。年齢は湯川先生と同じくらい。
「花火撮るならまだしも、待ち時間にスマホ出すなら、俺とお話ししようよぉ!」
「えっ? あの、スマホ返してくだ」
「わぁ! 美人さんじゃん! 浴衣かっわいいーね!」
「あ、あの、スマ」
「カレシいるのー? 俺と付き合わなーい?」
酔っ払いだ! 完全に出来上がった酔っ払いだ! 酒癖が悪い人だ!
スマートフォンを取り返すために立ち上がり、手を伸ばす。けれど、背の高い男性がさらにスマートフォンを掲げるので、届かない。はるか頭上で、シャラシャラと金色の三日月が揺れる。
「返して、くださっ」
「へへへー! やだねー! 付き合ってくれるなら返すけどー」
ガキか!
下駄でスネに蹴りを入れたくなる気持ちを抑えて、我慢して、「返して」と懇願する。さすがに取引先の社員に怪我をさせるわけにはいかないのだ。
「きみ、いい匂いがするねぇ! 俺とキスする? してくれたら、返してあ・げ・るー!」
このクソ酔っ払い!
足を踏むくらいなら許されるだろうかと、ちょっと足の位置を確認したときだ。
「はい、先輩、セクハラでアウト」
スマートフォンで動画を撮りながら、男性が歩いてきた。その後ろには、鬼の形相の年配の男性がいる。上司だろうか。
「証拠もありますから、次回の会議で出しますね。いいですよね、部長」
「もちろん。サキタさん、うちの社員が申し訳ないことをしてしまいました! 非礼についてはまた後日お詫びしますので!」
「ぶ、ぶちょー!?」
「はい、先輩、彼女のスマホ、返してもらいますね」
流れるような連携に、慣れているんだなと納得する。酔っ払いは部長に引きずられていく。
「こーみーやーまー!! お前、今日という今日は許さんぞー!! 他の取引先の女子社員もいるというのに、何たる体たらく! お前それでも……」
「はい、スマホ、お返しします」
「あ、ありがとうございます」
遠ざかっていく二人を見送り、後輩さんからスマートフォンを受け取ってホッとする。傷もなくて良かった。
見ると、通知ランプが点滅している。誰かからメッセージでも来たのだろうか。
「――失礼ですが」
後輩さんを見上げて、あれ、と思う。あれ。どこかで見たことが、ある?
「福岡にいたことはありますか?」
「い、え、ありませんけど……?」
嘘だ。東京に出てくる前は福岡にいた。そのときの名前は「月野あかり」ではなかったけど。
「じゃあ、他人の空似ですね。あなたによく似た人を福岡で……知っていたので」
「よくある顔ですよ。よく言われます」
……思い出した。
彼がまだ大学生のときに、セフレをしてもらっていたんだった。遠方に就職をして疎遠になったけど、まさか、こんなところにいたなんて。
「あ、俺、妹尾(せのお)です。イトイの営業五課です」
「月野、です。サキタの営業部に派遣されています。はじめまして」
妹尾大輔。社員証を見て確認する。懐かしい名前だ。少し、太ったのかな。精悍な顔つきになった。どれくらい、年月が経ったのだろう。彼は、いくつになった?
「月野さん……ご一緒してもいいですか?」
「え、あ、はい、どうぞ」
ブルーシートの右隣に、昔のセフレ。彼の左手薬指には、銀色のリング。そうか、結婚したのかぁ。それは、おめでたい。
「先ほどは先輩が失礼なことをして、本当に申し訳ありませんでした」
「いえ、大丈夫です」
酔っ払いに絡まれセクハラ発言をされる程度ならまだマシだ。慣れている。
冷めたポテトとフランクフルトを食べ、少し温くなったジュースを飲む。他にも、カレーやうどん、フライ系やおつまみ系の食べ物、かき氷などのケータリングがあるみたいだ。各会社の総務部の社員たちとアルバイトの子たちが、器によそったり、足りなくなったものを補充したりして、右往左往している。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
妹尾さんが持ってきてくれたのは、焼きそばだ。ありがたく、もらおう。
「……紅しょうが、苦手ですか?」
「あ、ちょっと苦手です」
よけていた紅しょうがを見られて、苦笑する。刺激物系は少し苦手。たこ焼きやお好み焼きの生地に入っている小さなものなら食べられるのだけど。
ドン、と音がして、まだ薄い宵の空に真っ赤な花が咲く。始まった、みたいだ。
そこかしこで酔っ払いの歓声があがる。出来上がっている人は多そうだ。
近すぎず、遠すぎない距離で、花火大会が始まった。
赤から緑へ変わる花火。形のある花火。柳のような尾を引いて長く空に留まる花火。
昔は、こんなに綺麗なものが夜空を彩るなんて思わなかった。夜空を見上げることすら、しなかった。地面ばかり、落ちているものばかり、見ていた。
なんて、裕福な時代になったのだろう。
「……綺麗ですね」
「とても」
日は沈み、闇の中に色とりどりの花が浮かぶ。珍しい花火が咲くたび、歓声があがり、拍手が起きる。
荒木さんも、日向さんと一緒に見ているだろうか。日向さんに、あの優しい笑顔を見せているのだろうか。
あぁ、それは、嫌だな。見なくて、いいや。
「月野さんは、サキタで何年目ですか?」
「まだ半年ちょっとです」
「今年は彼氏と見なくていいんですか?」
露骨な聞き方じゃないあたり、慣れている感じがする。さすが、上場企業の、口の巧い営業部。
待っているのは「彼氏いないんです」の一言だ。
妹尾さんは、昔から、結構ガツガツ来るタイプの人だった。営業部なら、いい成績を残せるだろう。それは納得できる。
でも、彼が元セフレだとしても、指輪をしている人とどうこうなるつもりは、ない。どれだけ精液が不足していても。
「来週行く予定です」
「江戸川?」
「板橋のほうに」
「へぇ。彼氏、いるんですね」
いますよ、と笑う。
こういう人には恋人の存在をちらつかせても、無駄だとは知っているけど。一応、牽制にはなるだろう。
不倫のお誘いなんて、御免だ。
「……ところで、ミヤちゃん」
「はい」
口を塞いだが、もう遅い。
ミヤちゃん――美也子。私の、少し前の名前。東京に出てくる前に使っていた、妹尾さんが知っている、私の昔の名前。
「すみません、反射的に応えてしまいましたけど、私、そんな名前じゃ」
「ここにいたんだね、ミヤちゃん」
「ですから、私――」
ドン、と体に響く重低音。間近で聞こえたその音に、皆歓声をあげて、夜空を見上げる。
重ねられた唇は、ビールの味。
太腿に置かれた左手が、指が、既婚者の証が――誘う。
泥の、沼へ。
緑青(ろくしょう)色の帯は文庫結び。髪は三つ編みを下のほうでまとめて、緩くお団子にして、髪飾りをつけただけ。
翔吾くんなら「あかりは暖色系がいい」と言うだろうけど、緑系統の浴衣は女の子にはあまり選ばれない気がしたし、地味で私によく似合ったのだ。あまりの気合の入ってなさに、怒られてしまいそうだ。
新品の下駄は鼻緒を直した。巾着にスマートフォンや小銭入れ、定期券、社員証などを入れて、部屋を出る。
カフェデートのとき、荒木さんから待ち合わせを提案されたので、快諾した。日向さんを始め総務部の人は会場で準備があるらしく、先に行っているようだ。
私の最寄り駅で待ち合わせ。荒木さんは時間の少し前には到着する性格だから、私も早めに出かける。
足元でカラコロと音が鳴る。見れば、周りの若い子は皆浴衣を着て駅へ向かっている。花火大会へ行くのだろう。仲睦まじいカップルも、友達同士も、楽しそうだ。
「月野さん、こっち」
手を挙げて居場所を知らせてくれる荒木さんは、瑠璃色と白のストライプの浴衣。よく、似合っている。ストライプは叡心先生も好きな柄だった。
「へえ、いいね、すごく。月野さん、浴衣似合うね!」
「ありがとうございます。荒木さんも、よくお似合いです」
男の人が浴衣を着るならもう少し肉がついていてもいいかもしれないけど、歩いてくるときに見たヒョロヒョロの男の子たちよりはずっと似合っている。
似合っている、なぁ。泣きそうになるくらい。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
「改札もホームも混んでいるから気をつけて」
荒木さんが自然に伸ばしてくれた手を、取る。もちろん、握手なんかではない。手を、繋いでいる。はぐれないように。
ドキドキ、する。
暖かな手のひら。その熱が、夢ではないと告げてくる。夢じゃない。
私、荒木さんと――。
「大丈夫?」
心配そうにこちらを見てくれる荒木さんを直視できなくて、困る。
大丈夫じゃない。大丈夫じゃないです。
心臓が保ちません!
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隅田川に近い駅は、相当な人だかりで、前に進むのもやっとな感じだった。打ち上げにはまだ二時間もあるのに。
荒木さんが手を引いてするすると人混みの中を誘導してくれたおかげで、何とか目当ての会社にたどり着くことができた。普通に歩いていたら、十五分もかからない距離だろう。でも、今日はその三倍くらい時間がかかった。
その間、ずっと手を握っていたので、汗でベトベト。それも、想い出になるだろう。幸せな想い出に。
「大変でしたねぇ」
「本当に」
社員証をつけ、「花火大会特設会場」と書かれた順路の通りにエレベーターへ向かう。玩具会社らしく、そこかしこに玩具がディスプレイされていて、面白い。
三つあるエレベーターの前には、社員証をつけた人たちが並んでいる。この会社の社員だろう。もちろん、皆浴衣だ。
「帰りも混みますかね?」
「何時間かは帰れないと覚悟したほうがいいかもしれないね」
それはナンパ待ちをするには好都合なのだけど、ホテルには行けないだろうなぁ。路地裏? 公園? 野外でセックスをすることを覚悟しておこう。
「月野さん、あまり飲んじゃダメだよ」
荒木さんの、優しい視線。
「さすがにこの格好で背負って帰るのはしんどいかな」
「……善処します」
「まぁ酔い潰れても、家は覚えているからちゃんと送り届けるよ」
「ありがとう、ございます」
その場合、精液確保がシビアになるので、なるべく遠慮したいです。日曜にナンパをするのは結構厳しいです。
荒木さんが送り狼になって、精液をピュッと出してくれるなら良いのだけど、期待はできない。手を繋いだのだって、はぐれたらいけないから、という理由があるだけで、他意はないはずだ。
「あと、営業部には気をつけて」
「……荒木さんも営業部ですよ?」
「この会社の営業部、ね。酒癖が悪い奴ばかりだから」
社員さんたちに聞かれないような声のトーンで、エレベーター内でこっそりと教えてくれた情報。取引先の営業部同士、接待をすることもあるのだろう。内情は書類を作るだけの私よりずっと詳しいはずだ。
うん、荒木さんの忠告は、聞いておこう。
エレベーターから降りてみると、確かにそこは花火大会特設会場だった。夏の暑い空気に混じって、食べ物の匂いがする。
広い屋上には、参加者が座れるようにブルーシートが敷かれ、端っこにはパイプ椅子と、ケータリングの料理と飲み物。既にビールを飲んで笑い合っているお偉いさんの姿があれば、ビールが足りないと走り回っている女性の姿もある。子どももいる。
「どこで食べてもいいし、どこで見てもいいみたいだね」
大きなタライの中に氷と一緒に浮かぶ缶ジュースを取って、ポテトとフランクフルトをもらって、適当に空いているブルーシートに座る。荒木さんは缶ビールを持っている。
「あ! 荒木くん!」
ほら、彼の姿を見つけた瞬間に、彼女が駆け寄ってくる。
日向さんは、緋色の牡丹の浴衣に、向日葵のような鮮やかな黄色の帯。とても、華やかだ。五万円のを買わなくて良かった。牡丹柄がかぶるところだった。
「荒木くん、浴衣よく似合ってるね!」
「ありがと。日向さんもね」
「ありがとー! あ、こっちのほうが花火見やすいんだって! こっちおいでよ!」
日向さんが強引に荒木さんを引っ張っていく。荒木さんは「一緒に行こう」と私も誘ってきたけど、彼の向こうに「来るな」と日向さんの無言の圧力を感じるので、苦笑いだけ浮かべて二人を見送る。
まぁ、こうなることはわかっていたけどね。私の視界内に二人がいなければ、それはそれで気が楽だ。
ブルーシートに座ったまま、あたりを見回すと、美山さんは既にビール片手に顔が真っ赤になっているし、課長や部長はそれぞれ同い年くらいの社員と談笑している。見たことがあるうちの社員も何人かいて、皆楽しそうだ。
……やっぱり、佐々木先輩と来たかったなぁ。
今さら、そんな心細い気分になる。
打ち上げまで、何しようかなぁとスマートフォンを取り出したとき。
「ダーメだって! スマホなんか出しちゃあ!」
いきなり、私の赤いスマートフォンが誰かに奪われた。見上げると、真っ赤な顔をした――誰? 見知らぬ男性だ。年齢は湯川先生と同じくらい。
「花火撮るならまだしも、待ち時間にスマホ出すなら、俺とお話ししようよぉ!」
「えっ? あの、スマホ返してくだ」
「わぁ! 美人さんじゃん! 浴衣かっわいいーね!」
「あ、あの、スマ」
「カレシいるのー? 俺と付き合わなーい?」
酔っ払いだ! 完全に出来上がった酔っ払いだ! 酒癖が悪い人だ!
スマートフォンを取り返すために立ち上がり、手を伸ばす。けれど、背の高い男性がさらにスマートフォンを掲げるので、届かない。はるか頭上で、シャラシャラと金色の三日月が揺れる。
「返して、くださっ」
「へへへー! やだねー! 付き合ってくれるなら返すけどー」
ガキか!
下駄でスネに蹴りを入れたくなる気持ちを抑えて、我慢して、「返して」と懇願する。さすがに取引先の社員に怪我をさせるわけにはいかないのだ。
「きみ、いい匂いがするねぇ! 俺とキスする? してくれたら、返してあ・げ・るー!」
このクソ酔っ払い!
足を踏むくらいなら許されるだろうかと、ちょっと足の位置を確認したときだ。
「はい、先輩、セクハラでアウト」
スマートフォンで動画を撮りながら、男性が歩いてきた。その後ろには、鬼の形相の年配の男性がいる。上司だろうか。
「証拠もありますから、次回の会議で出しますね。いいですよね、部長」
「もちろん。サキタさん、うちの社員が申し訳ないことをしてしまいました! 非礼についてはまた後日お詫びしますので!」
「ぶ、ぶちょー!?」
「はい、先輩、彼女のスマホ、返してもらいますね」
流れるような連携に、慣れているんだなと納得する。酔っ払いは部長に引きずられていく。
「こーみーやーまー!! お前、今日という今日は許さんぞー!! 他の取引先の女子社員もいるというのに、何たる体たらく! お前それでも……」
「はい、スマホ、お返しします」
「あ、ありがとうございます」
遠ざかっていく二人を見送り、後輩さんからスマートフォンを受け取ってホッとする。傷もなくて良かった。
見ると、通知ランプが点滅している。誰かからメッセージでも来たのだろうか。
「――失礼ですが」
後輩さんを見上げて、あれ、と思う。あれ。どこかで見たことが、ある?
「福岡にいたことはありますか?」
「い、え、ありませんけど……?」
嘘だ。東京に出てくる前は福岡にいた。そのときの名前は「月野あかり」ではなかったけど。
「じゃあ、他人の空似ですね。あなたによく似た人を福岡で……知っていたので」
「よくある顔ですよ。よく言われます」
……思い出した。
彼がまだ大学生のときに、セフレをしてもらっていたんだった。遠方に就職をして疎遠になったけど、まさか、こんなところにいたなんて。
「あ、俺、妹尾(せのお)です。イトイの営業五課です」
「月野、です。サキタの営業部に派遣されています。はじめまして」
妹尾大輔。社員証を見て確認する。懐かしい名前だ。少し、太ったのかな。精悍な顔つきになった。どれくらい、年月が経ったのだろう。彼は、いくつになった?
「月野さん……ご一緒してもいいですか?」
「え、あ、はい、どうぞ」
ブルーシートの右隣に、昔のセフレ。彼の左手薬指には、銀色のリング。そうか、結婚したのかぁ。それは、おめでたい。
「先ほどは先輩が失礼なことをして、本当に申し訳ありませんでした」
「いえ、大丈夫です」
酔っ払いに絡まれセクハラ発言をされる程度ならまだマシだ。慣れている。
冷めたポテトとフランクフルトを食べ、少し温くなったジュースを飲む。他にも、カレーやうどん、フライ系やおつまみ系の食べ物、かき氷などのケータリングがあるみたいだ。各会社の総務部の社員たちとアルバイトの子たちが、器によそったり、足りなくなったものを補充したりして、右往左往している。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
妹尾さんが持ってきてくれたのは、焼きそばだ。ありがたく、もらおう。
「……紅しょうが、苦手ですか?」
「あ、ちょっと苦手です」
よけていた紅しょうがを見られて、苦笑する。刺激物系は少し苦手。たこ焼きやお好み焼きの生地に入っている小さなものなら食べられるのだけど。
ドン、と音がして、まだ薄い宵の空に真っ赤な花が咲く。始まった、みたいだ。
そこかしこで酔っ払いの歓声があがる。出来上がっている人は多そうだ。
近すぎず、遠すぎない距離で、花火大会が始まった。
赤から緑へ変わる花火。形のある花火。柳のような尾を引いて長く空に留まる花火。
昔は、こんなに綺麗なものが夜空を彩るなんて思わなかった。夜空を見上げることすら、しなかった。地面ばかり、落ちているものばかり、見ていた。
なんて、裕福な時代になったのだろう。
「……綺麗ですね」
「とても」
日は沈み、闇の中に色とりどりの花が浮かぶ。珍しい花火が咲くたび、歓声があがり、拍手が起きる。
荒木さんも、日向さんと一緒に見ているだろうか。日向さんに、あの優しい笑顔を見せているのだろうか。
あぁ、それは、嫌だな。見なくて、いいや。
「月野さんは、サキタで何年目ですか?」
「まだ半年ちょっとです」
「今年は彼氏と見なくていいんですか?」
露骨な聞き方じゃないあたり、慣れている感じがする。さすが、上場企業の、口の巧い営業部。
待っているのは「彼氏いないんです」の一言だ。
妹尾さんは、昔から、結構ガツガツ来るタイプの人だった。営業部なら、いい成績を残せるだろう。それは納得できる。
でも、彼が元セフレだとしても、指輪をしている人とどうこうなるつもりは、ない。どれだけ精液が不足していても。
「来週行く予定です」
「江戸川?」
「板橋のほうに」
「へぇ。彼氏、いるんですね」
いますよ、と笑う。
こういう人には恋人の存在をちらつかせても、無駄だとは知っているけど。一応、牽制にはなるだろう。
不倫のお誘いなんて、御免だ。
「……ところで、ミヤちゃん」
「はい」
口を塞いだが、もう遅い。
ミヤちゃん――美也子。私の、少し前の名前。東京に出てくる前に使っていた、妹尾さんが知っている、私の昔の名前。
「すみません、反射的に応えてしまいましたけど、私、そんな名前じゃ」
「ここにいたんだね、ミヤちゃん」
「ですから、私――」
ドン、と体に響く重低音。間近で聞こえたその音に、皆歓声をあげて、夜空を見上げる。
重ねられた唇は、ビールの味。
太腿に置かれた左手が、指が、既婚者の証が――誘う。
泥の、沼へ。
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