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20.過日の果実(五)
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部屋で朝食を食べたあと、荷物をまとめて旅館を出る。温泉のおかげか、セックスのおかげか、肌はスベスベだ。
登山鉄道で箱根湯本駅まで降り、湯川先生が病院用の土産物を買ったあと、浪漫トレインで新宿に戻る。今回は特別席ではなかったけど、駅弁は食べることができたので満足だ。
「今日はどこに行くの?」
「銀座へ行くよ。丸ノ内線で行ってもいいけど、荷物もあるし、タクシーで行こうか」
銀座……銀座かぁ。
ロータリーに停まっていたタクシーに乗り、銀座へ向かうように伝えて、先生はふぅと溜め息をつく。
「楽しかった?」
「うん、楽しかった! また行きたいなぁ」
「じゃあ、また連休が取れたら行こうか」
わざわざ客室露天風呂付きの宿は取らなくてもいいよと笑う。温泉セックスは堪能できたことだし。
「北海道かな。島根や金沢もいいな。京都も……広島も」
広島。湯川先生の声のトーンが少しだけ低くなった気がする。広島に何があるのか、聞かなくてもわかる。水森さんの家に出入りしていたなら、水森家のルーツも、村上叡心がどこに住んでいたのかも、先生なら知っているはずだ。
「本当は広島にも連れて行ってあげたいなぁ。あかりのお祖母様が住んでいた場所だもんね」
「私は別に、行かなくてもいいんだけど……」
叡心先生が亡くなってから、あの町には近づかないようにしていた。思い出が多すぎて、どうしても行く気にはなれなくて、避けていた土地だ。
だって、どうしたって、叡心先生の姿を、影を、追ってしまうに決まっている。それに耐えられるかどうか、わからないのだ。
「ねえ、銀座に何かあるの?」
「知り合いが貸し画廊で展示をやっていてね」
流れる景色を見ながら、先生はぼんやり呟く。
そして、私はポーチの中の招待券のことを思い出す。水森さんのお祖母様からいただいたものだ。銀座のギャラリーが展示場所だった気がする。
「……村上叡心?」
「そうだよ。よくわかったね」
ポーチから招待券を取り出して、先生に見せる。村上叡心展……やっぱり銀座のギャラリーだ。
二枚のチケットを見て、先生は驚く。
「……水森に会ったの?」
「うん」
あれ? もう水森さんから連絡が入っているものだと思っていたけど、湯川先生は知らなかったみたいだ。水森さんは私と会ったことを湯川先生に話さなかったみたいだ。
「……寝たの?」
「まさか。たまたまカフェで会って、たまたま家に行って……怪我を手当してもらったの」
「そっか……って、怪我? 大丈夫だった?」
「足首を捻挫したけど、大丈夫だったよ。あ、チケットはお祖母様からいただいたの」
湯川先生は「なるほど」と呟く。水森さんのお祖母様も先生と同じように、私の先祖が絵のモデルをしていたのではないかと考えていた。先生には、その気持ちが理解できたのかもしれない。
「俺を誘えって言われたでしょ?」
「うん。村上叡心が好きだからって」
「好きなのは村上叡心のあの裸婦像だけなんだけどなぁ。千恵子さんもお節介だね」
先生は「でも、せっかくだから使わせてもらおうか」と笑う。私も頷く。
水森家が持っている村上叡心の絵がどれだけあるのか、興味がある。どれだけ、残っているだろう。状態は良いのだろうか。気になる。
叡心先生は、画商に売るより実入りがいいから、と水森貴一にかなりの数の絵を買ってもらっていた。後年の絵はほとんどが水森貴一に売られていたと記憶している。そして、生活の面倒まで見てもらっていた。
それだけ、水森貴一が叡心先生の絵を気に入ってくれていたということだ。
ただ、後年の絵は……正直に言うと、あまり見たくはない。箱根の美術館に展示されていた絵は、三十代前半のもの。私たちがまだ幸せだった頃のものだ。
けれど、水森貴一が多く所持していたのは、おそらく――。
「着いたよ」
タクシーのドアが開き、一歩踏み出て、日差しの強さと暑さに辟易する。本当に暑い。
「暑いね。早く入ろう」
湯川先生に肩を押され、煉瓦色の建物へと向かう。陽の当たるショーウィンドウの中に、「村上叡心展」のポスターを見つけて、思わず立ち止まってしまう。
「……あぁ、これをポスターにしたんだ」
少し首を傾げて、女がこちらを振り返っている。その口元には薄く笑みが浮かび、乱れた髪と背中のほくろが何とも言えない妖艶さを醸し出している。
――見返りの裸婦像。
この、絵だったのか。
私を、ここまで綺麗に描いてくれた人は、叡心先生だけだ。いや、叡心先生だからこそ描くことができた、のだろうか。
この絵を境に、私たちは地獄を見るというのに。こんなにも、綺麗に。
「相変わらず、綺麗だな」
チラと湯川先生を見上げると、その視線を抗議だと受け取ったのか、先生は慌てて「あかりのほうが綺麗だよ」と笑った。
すみませんね、何だか余計な気を遣わせちゃったみたいで。
ギャラリーは程よく冷房が効いている。受付をすませて、ギャラリーの廊下を歩く。展示室の作品に陽が当たらないように、廊下を作っているのだろう。その壁には、ポスターやフライヤーが所狭しと貼り付けてある。統一感はない。現代アート、写真、彫刻……個展や所蔵品を展示するのによく使われているギャラリーらしい。
展示室は二箇所。今回は二部屋とも村上叡心の作品を展示してあるようだ。
順路と書かれた札の通り、部屋へ入る。
瞬間――。
『俺ァ風景画なんて描かねェよ。人間を描きてえんだ』
人間を描きたい――叡心先生はその言葉通り、風景だけの絵は描かなかった。けれど、叡心先生があの町を愛していたのはよく知っていた。町の中に生きる人間――叡心先生が描きたかったのは、それだ。
だから、こんなにも、懐かしい気持ちになる。
「瀬戸内は穏やかな海なんだね」
船で魚を捕るおじいちゃん。魚の行商をするおばさん。坂の上から眼下に広がる景色を見る子ども。縁側で猫を抱いたまま眠るおばあちゃん。桜の木の下に佇む若い女。
叡心先生は、すべてを、愛していた。
「内海だからね」
「いつか、行ってみたいな、あかりと」
約束のできない、いつか。遠い未来の話だ。
叡心先生の二十代の若々しい筆致に、不思議な気持ちになる。こういう描き方もしていたのだと。
けれど、この頃の絵のほとんどは、画商に売っていたはず。水森家が買ったのだろうか。状態もすごくいい。きちんと保管されていたのだとわかる。
大事に、扱ってくれていたのだ。それがわかるだけでも嬉しい。
「あら、湯川くん、来てくださったのね」
「千恵子さん。お久しぶりです」
五つ紋の色留袖を着た水森さんのお祖母様が、他の客との話を切り上げてこちらへやってきた。日曜日だからか、客入りは悪くない。年配の方が多い。
「月野さんも、来てくださってありがとう」
「いえ、こちらこそお招きいただき、ありがとうございます」
湯川先生が持っていた箱根土産をお祖母様に渡す。お祖母様は「必要ないのに」とおっしゃって、微笑む。
「ゆっくりしていらして。康太は今日来るかどうかわからないけれど」
「休みの日くらい、あいつの顔なんて見たくないですよ」
「あら、そうねぇ」
軽く冗談を言い合う二人から、仲の良さが窺える。さすが、水森家にほぼ毎日通っていたというだけある湯川先生の態度だ。
が、展示室にいる水森家の関係者はお祖母様だけだ。接客はすべて彼女が担当するのだろうか。お客様が入ってくるたび、そちらへ挨拶に向かう。忙しそうだけど、お祖母様はとても嬉しそうに、楽しそうに、絵の解説もしている。
「次はあっちの部屋かな」
順路の札を見つけて、湯川先生と向かう。たぶん、もう一つの部屋にある絵は、すべて――。
「……すごい」
先ほどの展示室より大きめの部屋。その壁に、大小様々な絵が飾られている。すべて、裸婦像――私だ。
裸のまま横たわっているもの、裸の上に着物を羽織っているだけのもの、水浴びをしているときのもの、窓枠にもたれているもの、笑っているもの、無表情のもの……様々だ。
「こんなにあったんだ……見たことない絵もある」
村上叡心は、私の絵をコンクールに出していない。あの時代、裸婦を描くことは糾弾の的だった。だから、裸婦を描けば必ず買ってくれる好事家だけを相手にしていた。その筆頭が水森貴一。
先生は町の人々の生を描きながら、世には出せない性を描き続けた。先生が本当はどちらを描き続けたかったのか、最後まで口にしなかった。
叡心先生の年齢の順に飾られた絵の、後半を見て、湯川先生は唸る。
「このあたりは知らないなぁ。なんか、見ていて……つらい」
四十代からの絵は、私もあまり見たくない。叡心先生の苦悩や悲哀が筆に込められているからだ。
私の表情は暗く、背景すら淀んでいる。裸の上に重ねられた鮮やかすぎる絵の具が、叡心先生の辛さを物語る。
私は、叡心先生を支えられなかった。先生が心を病んでいくのを、見ているしかできなかった。
「あかりのお祖母様は、変わらないまま、綺麗だね。あ、でも、やっぱりこのあたりから笑わなくなってる」
湯川先生も気づくほどに、私の風貌は変わらない。けれど、絵には顕著に変化が現れる。トーンが暗くなり、肌の上に絵の具が重ねられている絵が多くなる。
展示室にいるお客様は、私が裸婦像の女だとは気づいていない。皆、叡心先生の絵を見てくれている。それが、嬉しい。
「……っと、病院から呼び出しだ。ちょっとごめんね」
展示室を出ていった湯川先生は、すぐに戻ってきた。とても申し訳なさそうにしながら。その表情だけで、何があったのかわかってしまうほどに。
「ごめん、あかり。急患が」
「行ってらっしゃい。温泉、楽しかった。また連絡するね」
「うん。本当にごめん。また、連絡する」
湯川先生は、たまに休日でも呼び出される。三日間、一緒にいられたこと自体、奇跡に近い気がする。
湯川先生の背中を見送ったあと、裸婦の絵を順番に見ていく。
これはアトリエで、これは寝室で……先生とセックスをしたあとで。これは、どこだったかな。こっちは、和室で寝てしまったときのものかな。
懐かしさのあまり、涙が浮かんでくる。
先生が、いる。
先生が、ここに、いる。
私、こんなに愛されていた。
こんなに、愛していた。
この、絵、までは。
……見返りの裸婦像。
私、このとき、先生になんて言ったんだった? 大丈夫、だよ? 慕っているのは、あなただけ? 私は誰のものにもならないから?
泣きじゃくる先生を前に、私が言えることなんて、なくて。
ただ、笑っただけだった?
「どうぞ」
差し出されたハンカチに、いつの間にか涙が零れていたことに気づく。
「ありがとう、ございます……」
「村上叡心、四十一歳。苦悩の日々が始まった、絵です」
もう、驚かない。
声に聞き覚えがあっても。ハンカチの主が誰であっても。
「水森貴一は、絵の中のあなただけでは我慢できなくなった。衣食住と絵画の買取額を約束する代わりに、あなたを差し出すように村上叡心に迫ったのでしょう」
『一緒に死ぬか? 今なら、まだ間に合う。一緒に、死んでくれるか?』
裸婦像の首筋に薄く描かれた赤い痣に、誰も気づかないだろう。よく見ないとわからないその赤い筋は、先生が私の首を絞めたときの――愛の証なのに。
私は、頷けなかった。先生の絵が、先生のことが、本当に大好きだったから。
生きていて欲しいと、願ってしまった。
その先の地獄を、知らないで。
残酷な運命を、先生に強いてしまった。
あのとき、一緒に死んでいれば――先生を一人で逝かせてしまうことはなかったのに。
「私、あなたが嫌いです」
「似ていますか? 水森貴一に」
それとも、と水森さんは呟いて。
「水森貴一の子孫だから、ですか?」
両方だ。
そのいやみったらしい口調も、優しい眼差しも、無遠慮に私の心と体に踏み込んでくる、あの男を思い出す。みんな、みんな、大嫌い。
「村上、ミチ」
その名前を、呼ぶな。私の、大事な大事な、名前だ。
軽々しく、呼ぶな。
「……コーヒーでも、飲みましょうか」
水森さんは、ただ、微笑んだ。
その、底の知れない笑みは、水森貴一そっくりだった。
登山鉄道で箱根湯本駅まで降り、湯川先生が病院用の土産物を買ったあと、浪漫トレインで新宿に戻る。今回は特別席ではなかったけど、駅弁は食べることができたので満足だ。
「今日はどこに行くの?」
「銀座へ行くよ。丸ノ内線で行ってもいいけど、荷物もあるし、タクシーで行こうか」
銀座……銀座かぁ。
ロータリーに停まっていたタクシーに乗り、銀座へ向かうように伝えて、先生はふぅと溜め息をつく。
「楽しかった?」
「うん、楽しかった! また行きたいなぁ」
「じゃあ、また連休が取れたら行こうか」
わざわざ客室露天風呂付きの宿は取らなくてもいいよと笑う。温泉セックスは堪能できたことだし。
「北海道かな。島根や金沢もいいな。京都も……広島も」
広島。湯川先生の声のトーンが少しだけ低くなった気がする。広島に何があるのか、聞かなくてもわかる。水森さんの家に出入りしていたなら、水森家のルーツも、村上叡心がどこに住んでいたのかも、先生なら知っているはずだ。
「本当は広島にも連れて行ってあげたいなぁ。あかりのお祖母様が住んでいた場所だもんね」
「私は別に、行かなくてもいいんだけど……」
叡心先生が亡くなってから、あの町には近づかないようにしていた。思い出が多すぎて、どうしても行く気にはなれなくて、避けていた土地だ。
だって、どうしたって、叡心先生の姿を、影を、追ってしまうに決まっている。それに耐えられるかどうか、わからないのだ。
「ねえ、銀座に何かあるの?」
「知り合いが貸し画廊で展示をやっていてね」
流れる景色を見ながら、先生はぼんやり呟く。
そして、私はポーチの中の招待券のことを思い出す。水森さんのお祖母様からいただいたものだ。銀座のギャラリーが展示場所だった気がする。
「……村上叡心?」
「そうだよ。よくわかったね」
ポーチから招待券を取り出して、先生に見せる。村上叡心展……やっぱり銀座のギャラリーだ。
二枚のチケットを見て、先生は驚く。
「……水森に会ったの?」
「うん」
あれ? もう水森さんから連絡が入っているものだと思っていたけど、湯川先生は知らなかったみたいだ。水森さんは私と会ったことを湯川先生に話さなかったみたいだ。
「……寝たの?」
「まさか。たまたまカフェで会って、たまたま家に行って……怪我を手当してもらったの」
「そっか……って、怪我? 大丈夫だった?」
「足首を捻挫したけど、大丈夫だったよ。あ、チケットはお祖母様からいただいたの」
湯川先生は「なるほど」と呟く。水森さんのお祖母様も先生と同じように、私の先祖が絵のモデルをしていたのではないかと考えていた。先生には、その気持ちが理解できたのかもしれない。
「俺を誘えって言われたでしょ?」
「うん。村上叡心が好きだからって」
「好きなのは村上叡心のあの裸婦像だけなんだけどなぁ。千恵子さんもお節介だね」
先生は「でも、せっかくだから使わせてもらおうか」と笑う。私も頷く。
水森家が持っている村上叡心の絵がどれだけあるのか、興味がある。どれだけ、残っているだろう。状態は良いのだろうか。気になる。
叡心先生は、画商に売るより実入りがいいから、と水森貴一にかなりの数の絵を買ってもらっていた。後年の絵はほとんどが水森貴一に売られていたと記憶している。そして、生活の面倒まで見てもらっていた。
それだけ、水森貴一が叡心先生の絵を気に入ってくれていたということだ。
ただ、後年の絵は……正直に言うと、あまり見たくはない。箱根の美術館に展示されていた絵は、三十代前半のもの。私たちがまだ幸せだった頃のものだ。
けれど、水森貴一が多く所持していたのは、おそらく――。
「着いたよ」
タクシーのドアが開き、一歩踏み出て、日差しの強さと暑さに辟易する。本当に暑い。
「暑いね。早く入ろう」
湯川先生に肩を押され、煉瓦色の建物へと向かう。陽の当たるショーウィンドウの中に、「村上叡心展」のポスターを見つけて、思わず立ち止まってしまう。
「……あぁ、これをポスターにしたんだ」
少し首を傾げて、女がこちらを振り返っている。その口元には薄く笑みが浮かび、乱れた髪と背中のほくろが何とも言えない妖艶さを醸し出している。
――見返りの裸婦像。
この、絵だったのか。
私を、ここまで綺麗に描いてくれた人は、叡心先生だけだ。いや、叡心先生だからこそ描くことができた、のだろうか。
この絵を境に、私たちは地獄を見るというのに。こんなにも、綺麗に。
「相変わらず、綺麗だな」
チラと湯川先生を見上げると、その視線を抗議だと受け取ったのか、先生は慌てて「あかりのほうが綺麗だよ」と笑った。
すみませんね、何だか余計な気を遣わせちゃったみたいで。
ギャラリーは程よく冷房が効いている。受付をすませて、ギャラリーの廊下を歩く。展示室の作品に陽が当たらないように、廊下を作っているのだろう。その壁には、ポスターやフライヤーが所狭しと貼り付けてある。統一感はない。現代アート、写真、彫刻……個展や所蔵品を展示するのによく使われているギャラリーらしい。
展示室は二箇所。今回は二部屋とも村上叡心の作品を展示してあるようだ。
順路と書かれた札の通り、部屋へ入る。
瞬間――。
『俺ァ風景画なんて描かねェよ。人間を描きてえんだ』
人間を描きたい――叡心先生はその言葉通り、風景だけの絵は描かなかった。けれど、叡心先生があの町を愛していたのはよく知っていた。町の中に生きる人間――叡心先生が描きたかったのは、それだ。
だから、こんなにも、懐かしい気持ちになる。
「瀬戸内は穏やかな海なんだね」
船で魚を捕るおじいちゃん。魚の行商をするおばさん。坂の上から眼下に広がる景色を見る子ども。縁側で猫を抱いたまま眠るおばあちゃん。桜の木の下に佇む若い女。
叡心先生は、すべてを、愛していた。
「内海だからね」
「いつか、行ってみたいな、あかりと」
約束のできない、いつか。遠い未来の話だ。
叡心先生の二十代の若々しい筆致に、不思議な気持ちになる。こういう描き方もしていたのだと。
けれど、この頃の絵のほとんどは、画商に売っていたはず。水森家が買ったのだろうか。状態もすごくいい。きちんと保管されていたのだとわかる。
大事に、扱ってくれていたのだ。それがわかるだけでも嬉しい。
「あら、湯川くん、来てくださったのね」
「千恵子さん。お久しぶりです」
五つ紋の色留袖を着た水森さんのお祖母様が、他の客との話を切り上げてこちらへやってきた。日曜日だからか、客入りは悪くない。年配の方が多い。
「月野さんも、来てくださってありがとう」
「いえ、こちらこそお招きいただき、ありがとうございます」
湯川先生が持っていた箱根土産をお祖母様に渡す。お祖母様は「必要ないのに」とおっしゃって、微笑む。
「ゆっくりしていらして。康太は今日来るかどうかわからないけれど」
「休みの日くらい、あいつの顔なんて見たくないですよ」
「あら、そうねぇ」
軽く冗談を言い合う二人から、仲の良さが窺える。さすが、水森家にほぼ毎日通っていたというだけある湯川先生の態度だ。
が、展示室にいる水森家の関係者はお祖母様だけだ。接客はすべて彼女が担当するのだろうか。お客様が入ってくるたび、そちらへ挨拶に向かう。忙しそうだけど、お祖母様はとても嬉しそうに、楽しそうに、絵の解説もしている。
「次はあっちの部屋かな」
順路の札を見つけて、湯川先生と向かう。たぶん、もう一つの部屋にある絵は、すべて――。
「……すごい」
先ほどの展示室より大きめの部屋。その壁に、大小様々な絵が飾られている。すべて、裸婦像――私だ。
裸のまま横たわっているもの、裸の上に着物を羽織っているだけのもの、水浴びをしているときのもの、窓枠にもたれているもの、笑っているもの、無表情のもの……様々だ。
「こんなにあったんだ……見たことない絵もある」
村上叡心は、私の絵をコンクールに出していない。あの時代、裸婦を描くことは糾弾の的だった。だから、裸婦を描けば必ず買ってくれる好事家だけを相手にしていた。その筆頭が水森貴一。
先生は町の人々の生を描きながら、世には出せない性を描き続けた。先生が本当はどちらを描き続けたかったのか、最後まで口にしなかった。
叡心先生の年齢の順に飾られた絵の、後半を見て、湯川先生は唸る。
「このあたりは知らないなぁ。なんか、見ていて……つらい」
四十代からの絵は、私もあまり見たくない。叡心先生の苦悩や悲哀が筆に込められているからだ。
私の表情は暗く、背景すら淀んでいる。裸の上に重ねられた鮮やかすぎる絵の具が、叡心先生の辛さを物語る。
私は、叡心先生を支えられなかった。先生が心を病んでいくのを、見ているしかできなかった。
「あかりのお祖母様は、変わらないまま、綺麗だね。あ、でも、やっぱりこのあたりから笑わなくなってる」
湯川先生も気づくほどに、私の風貌は変わらない。けれど、絵には顕著に変化が現れる。トーンが暗くなり、肌の上に絵の具が重ねられている絵が多くなる。
展示室にいるお客様は、私が裸婦像の女だとは気づいていない。皆、叡心先生の絵を見てくれている。それが、嬉しい。
「……っと、病院から呼び出しだ。ちょっとごめんね」
展示室を出ていった湯川先生は、すぐに戻ってきた。とても申し訳なさそうにしながら。その表情だけで、何があったのかわかってしまうほどに。
「ごめん、あかり。急患が」
「行ってらっしゃい。温泉、楽しかった。また連絡するね」
「うん。本当にごめん。また、連絡する」
湯川先生は、たまに休日でも呼び出される。三日間、一緒にいられたこと自体、奇跡に近い気がする。
湯川先生の背中を見送ったあと、裸婦の絵を順番に見ていく。
これはアトリエで、これは寝室で……先生とセックスをしたあとで。これは、どこだったかな。こっちは、和室で寝てしまったときのものかな。
懐かしさのあまり、涙が浮かんでくる。
先生が、いる。
先生が、ここに、いる。
私、こんなに愛されていた。
こんなに、愛していた。
この、絵、までは。
……見返りの裸婦像。
私、このとき、先生になんて言ったんだった? 大丈夫、だよ? 慕っているのは、あなただけ? 私は誰のものにもならないから?
泣きじゃくる先生を前に、私が言えることなんて、なくて。
ただ、笑っただけだった?
「どうぞ」
差し出されたハンカチに、いつの間にか涙が零れていたことに気づく。
「ありがとう、ございます……」
「村上叡心、四十一歳。苦悩の日々が始まった、絵です」
もう、驚かない。
声に聞き覚えがあっても。ハンカチの主が誰であっても。
「水森貴一は、絵の中のあなただけでは我慢できなくなった。衣食住と絵画の買取額を約束する代わりに、あなたを差し出すように村上叡心に迫ったのでしょう」
『一緒に死ぬか? 今なら、まだ間に合う。一緒に、死んでくれるか?』
裸婦像の首筋に薄く描かれた赤い痣に、誰も気づかないだろう。よく見ないとわからないその赤い筋は、先生が私の首を絞めたときの――愛の証なのに。
私は、頷けなかった。先生の絵が、先生のことが、本当に大好きだったから。
生きていて欲しいと、願ってしまった。
その先の地獄を、知らないで。
残酷な運命を、先生に強いてしまった。
あのとき、一緒に死んでいれば――先生を一人で逝かせてしまうことはなかったのに。
「私、あなたが嫌いです」
「似ていますか? 水森貴一に」
それとも、と水森さんは呟いて。
「水森貴一の子孫だから、ですか?」
両方だ。
そのいやみったらしい口調も、優しい眼差しも、無遠慮に私の心と体に踏み込んでくる、あの男を思い出す。みんな、みんな、大嫌い。
「村上、ミチ」
その名前を、呼ぶな。私の、大事な大事な、名前だ。
軽々しく、呼ぶな。
「……コーヒーでも、飲みましょうか」
水森さんは、ただ、微笑んだ。
その、底の知れない笑みは、水森貴一そっくりだった。
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