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08.週末の終末(二)
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今日は朝から雨。今年の梅雨は雨が少なく、久しぶりに肌寒い気温となった。
宮野さんとはいつも喫茶店で待ち合わせている。
使い古されたテーブルや椅子がコーヒーと同じ色をしている、とてもシックでノスタルジックな気分になる――まぁ、古い喫茶店だ。七十年代くらいに作られたのではないかと思える喫茶店。マスターはしわくちゃおじいちゃん、ウエイトレスもおばちゃんだ。客もまばら。最近流行りのカフェ、ではない。
宮野さんはたいていブレンドを飲みながら、窓際の席でビジネス啓発ものの文庫本を読んでいる。ハードカバーのものはほとんど読んでいない。持ち運びに適さないからだろう。小説ではないあたりが、銀行員の宮野さんらしい。
「お待たせ」
宮野さんの対面に座り、おばちゃんにブレンドを注文する。栞を挟んで、宮野さんが本をしまう。
あれ、珍しい。いつもは私がブレンドを飲み終えるまで読書をしているのに。
ただそれだけで、彼に何かあったのだとわかるくらいには、付き合いが長い。
「どうか、した?」
「うん。結婚が決まった」
セックスフレンドからの結婚報告に、どういう顔をするのが正解か、なんてあるのだろうか。
宮野さんはジィッと私を見つめてくる。私の反応を気にしている、ように見える。試すような視線に、私はどう応えようと考える間もなく、笑みを浮かべた。
「それは、おめでとう。いつ結婚?」
「……結納は再来月、入籍と式は半年後」
期待した反応とは違ったらしい。宮野さんの表情と声が曇る。
なるほど、少しは妬いて欲しかったのか。執着心を見せて欲しかったのか。
ほんと、男ってかわいい。
「おめでとう。お見合い?」
「常務の娘だよ。一方的に決められてた。もう断る空気じゃなくて」
宮野さんは溜め息ばかりついている。なるほど、望んだ結婚ではなかったということか。
「でも、うまく行けば出世できるんでしょう?」
「うまく立ち回れば、ね。その代わり、一生、常務にも結婚相手にも頭が上がらない生活になるけど」
窮屈な生活を強いられるはめになりそうだ、と宮野さんが嘆く。嘆きながら、私の様子を窺っている。
ブレンドにスティックシュガー一本、温かいミルクを少々落として、一口。柔らかな酸味が口に広がる。ヨボヨボのおじいちゃんが淹れてくれるコーヒーは絶品だ。この店を教えてくれた宮野さんには感謝しなければならない。
「じゃあ、関係は今日で終わりにしようね」
「あかり」
「面倒だから不倫はしないよ。わかっていたでしょ?」
「まぁ、そうだけど。少しは……気にかけてくれたって、ねぇ」
宮野さんの歯切れが悪い。彼はそういう性格だ。だから、常務に押し切られる形で結婚が決まったのだろう。
私としては、搾り取れなくなる精液を案じるくらいなら、新たな精液を見つけるほうが建設的だし合理的だ。
「……いいよ、わかってるよ。あかりの性格も、ポリシーも。だから、一晩だけ、俺に時間をちょうだい」
「一晩? 泊まるってこと?」
「俺の部屋。綺麗に掃除したから……今日はホテルじゃなくて、俺の部屋に来て」
一応、何かあったときのためにトラベル用の化粧品なんかは持っているけれど。下着は入れていなかった気がする。しまったなぁ。またコンビニか。次から下着も準備しておこう。
「いいけど、婚約者と鉢合わせだけは勘弁してね」
「大丈夫。まだ合鍵は渡していないから」
宮野さんは嘘はつかない。嘘がつけない、実直な人だ。だから、信用できる。
今日私と会うのだって、常務から「もし他の女がいるなら、早めに関係を清算しろ」と言われたに違いないのだ。それを素直に受け入れてしまえる人が、宮野さんだ。「夫」には相応しいのかもしれない。
他愛もない話をしながら、ブレンドを飲み干して、伝票を取る。驚いた顔の宮野さんに、財布を見せて、笑う。
「安いけど、結婚祝い。今日くらいはご馳走させて」
ブレンドコーヒー一杯の値段で結婚祝いだなんて、常識的にどうかと思うけど、私たちの関係は何かしらの形に残ってはいけないのだから、仕方ない。
宮野さんはそれを了承してか、神妙な顔をして頷いた。そこで笑ってくれないあたり、宮野さんらしいなと思う。
「ありがとう」
宮野さんの穏やかな声に、ほっとする。
大丈夫。彼はちゃんと、前を向いて歩いていける。
◆◇◆◇◆
帰宅するために駅のホームで電車を待っているとき、私の目の前をフラフラとしながら線路へ向かっていた男性が、宮野さんだった。
自殺しようかどうしようか、まだ踏ん切りがつかないままフラフラしていたのは、すぐにわかった。思わず彼の腕を取って、その死んだような目と土気色の顔を見て、私の判断は間違っていなかったと感じた。
すぐに宮野さんを連れて駅から離れて、近くのラブホテルに入って、奉仕しまくって、果てさせた。自殺未遂者になんてことをしたのかと、精液を搾り取ったあとで頭を抱えた。
後先考えずに行動してしまった私は、自分を責めた。……ちょっとだけ。精液は美味しかったのだ。私の選別眼は確かなものだった。
けれど、直後に宮野さんが号泣しながら事情を――銀行員の生涯給料ほどの大きな損失を出してしまったことを話してくれた。私は銀行の業務なんてわからないから、それをただ聞くだけだったのだけれど、それが良かったのだろう。話してスッキリしたのか、二回目をねだられた。
宮野さんとは、そこからの付き合いだ。
「いいよ、入って」
この小綺麗なマンションは、銀行の独身寮なのだという。半年後には出ないといけない部屋だ。
「お邪魔しまーす」
傘とパンプスを置いた玄関は、とても綺麗。整理されているというよりは、何もない。観葉植物も置き物もない、簡素なものだ。
それはリビングも同じで、生活感が感じられないくらい、ものがなかった。ダイニングテーブルと椅子、ソファがあるくらいで、テレビがない代わりに大きな本棚が据え付けられていた。
「あれ、宮野さん、小説読むんだ?」
「銀行員が主人公のものはね。結構面白いよ」
「へぇ」
それは知らなかった。小説、好きだったんだ。ビジネス本にしか興味がないのかと思っていた。
「荷物、ここに置いて――」
いいか、と聞こうとしたのだけれど、宮野さんが後ろからぎゅうと抱きしめてきたことから言葉が止まる。
腹のあたりで組まれた腕が熱い。背中に宮野さんの暖かさが感じられる。耳元に寄せられた柔らかな唇が、優しく私の名前を紡ぐ。
「あかり」
耳朶を甘噛みされ、その温さと優しさにぞくりと体が震えた。宮野さんの手に私の指を絡め、笑みを浮かべる。ゴツゴツした、筋のある指、好きだった。宮野さんが、壊れ物を扱うかのように優しく私に触れてくれるの、好きだった。
今日と明日で、最後、か……。
「あかり、キスしていい?」
そんなこと聞かなくてもいいのに、宮野さんは律儀に毎回聞いてくれる。一度「ダメ」と意地悪をしたら、捨てられた子犬のような目で私を見つめて、頬や額にキスの雨を降らせてくれたことがあった。
宮野さんの腕の中、くるりと体を反転させると、あのときと同じように切なそうな顔で私を見つめてくる彼と目が合う。
「キスしたい」
掠れた小さな声でねだられる。
聞かなくてもいいのに。言わなくてもいいのに。
私が拒否するわけ、ないのに。
「潤の好きなようにしていいよ」
カバンは床に落として、腕を宮野さんの首の後ろに巻きつける。密着度が増して、もっと宮野さんの熱が伝わる。宮野さんの頬にキスをして、一瞬だけ視線を絡めて。
「あかり、好き」
震える唇が軽く重なって、離れたと思ったらまたすぐに重なる。啄まれるような優しいキス。何度も何度も角度を変え、甘い息を吐き出しながらお互いの唇の柔らかさを堪能する。そう、宮野さんの唇は、男性にしては珍しく柔らかいのだ。
ねだるように薄く唇を開くと、宮野さんの舌が恐る恐る挿入ってくる。彼はいつだって「本当にいいの?」という顔で私の体に触れてくる。彼の不安は、結局、払拭させてあげられなかった。
彼の温い舌に吸い付いて唾液を飲んだあと、私の舌を絡め合わせる。宮野さんは舌に吸い付きながら、ぎゅうと強く私を抱きしめる。窒息してしまいそうなくらいの強さだ。少し痛い。
「じゅ、っ」
宮野さんに抗議しようとしても、言葉を発することが許されない。唇が、舌が、私を貪る。
体重をかけられ、後ろにあったソファに倒れ込む。それでも、唇は離れない。革張りのソファの冷たさが気持ちいい。体が沈み込むくらいに柔らかい。
「じゅ、ここで?」
一瞬だけ舌が離れたときに、聞く。
宮野さんはラブホでは必ずベッドを使っていた。ソファや浴室では繋がったことがない。真面目で「普通」が大好きな人なのに、自分の部屋だからベッドじゃなくても良いのだろうか。何だか、いつもと違う雰囲気に、飲まれてしまいそうだ。
「ここでしたい。あかりを抱きたい」
「ベッドじゃなくていいの?」
「……ベッドは新居に持っていかないけど、ソファは持っていく予定なんだ」
いや、意味がわからない。何の話?
新居に持っていく家具の話をしているんじゃなくて。
「あかりと抱き合った記憶を、持っていきたい」
え。
宮野さんの声が、目が、心配そうに「ダメかな?」と聞いてくる。
宮野さんとはいつもラブホテルで抱き合っていた。それは、私みたいなセフレを部屋に入れたくないからだと思っていた。銀行員という堅い職業と、真面目な性格から、勝手にそう思っていた。
宮野さんは、私にキスマークがついていても何も言わない、どんな服装でも褒めたりはしない、私には無関心な人だと思っていた。
もしかして、違う?
もしかして、さっきの「好き」も?
「このソファは新居のリビングには置かない。俺の部屋に置くんだ。あかりと抱き合ったことを思い出せるものが欲しい。そしたら、どんなことがあっても生きていける気がするんだ」
宮野さんにとって私とのセックスは、死から救ってくれた行為に他ならず、つまりは、生きるための糧だったのだ。私とは違う意味での、糧。
宮野さんは目を細めて、笑う。苦しそうに。切なそうに。
「あかり。本当は、君を独占したかった。本当は、他の男に抱かれて欲しくなかった」
「……」
「でも、そんなこと言ったら、あかりは離れてしまうから、言えなかっただけなんだ。俺は醜い男だよ。君を忘れなきゃいけないのに、君との思い出を刻みたいと思ってしまった」
苦しそうに顔を歪めて、私への愛の言葉を降らせてくれる彼を、醜い男だなんて、思えない。ただの、愛しい男だ。
「……潤」
「うん」
「好きなようにしていい、って言ったよ、私」
「……うん」
「明日まで、潤の好きなように――」
震える宮野さんの体を抱きしめる。そんなことで彼の不安は払拭できないと思うけど、構わない。かわいい男を抱きしめたいと思ったのだから、そうするだけだ。
「――私を抱いて」
宮野さんがそれで生きていけるなら、気がすむまで、好きなように、私を抱けばいい。
頑張って、付き合うよ。
宮野さんとはいつも喫茶店で待ち合わせている。
使い古されたテーブルや椅子がコーヒーと同じ色をしている、とてもシックでノスタルジックな気分になる――まぁ、古い喫茶店だ。七十年代くらいに作られたのではないかと思える喫茶店。マスターはしわくちゃおじいちゃん、ウエイトレスもおばちゃんだ。客もまばら。最近流行りのカフェ、ではない。
宮野さんはたいていブレンドを飲みながら、窓際の席でビジネス啓発ものの文庫本を読んでいる。ハードカバーのものはほとんど読んでいない。持ち運びに適さないからだろう。小説ではないあたりが、銀行員の宮野さんらしい。
「お待たせ」
宮野さんの対面に座り、おばちゃんにブレンドを注文する。栞を挟んで、宮野さんが本をしまう。
あれ、珍しい。いつもは私がブレンドを飲み終えるまで読書をしているのに。
ただそれだけで、彼に何かあったのだとわかるくらいには、付き合いが長い。
「どうか、した?」
「うん。結婚が決まった」
セックスフレンドからの結婚報告に、どういう顔をするのが正解か、なんてあるのだろうか。
宮野さんはジィッと私を見つめてくる。私の反応を気にしている、ように見える。試すような視線に、私はどう応えようと考える間もなく、笑みを浮かべた。
「それは、おめでとう。いつ結婚?」
「……結納は再来月、入籍と式は半年後」
期待した反応とは違ったらしい。宮野さんの表情と声が曇る。
なるほど、少しは妬いて欲しかったのか。執着心を見せて欲しかったのか。
ほんと、男ってかわいい。
「おめでとう。お見合い?」
「常務の娘だよ。一方的に決められてた。もう断る空気じゃなくて」
宮野さんは溜め息ばかりついている。なるほど、望んだ結婚ではなかったということか。
「でも、うまく行けば出世できるんでしょう?」
「うまく立ち回れば、ね。その代わり、一生、常務にも結婚相手にも頭が上がらない生活になるけど」
窮屈な生活を強いられるはめになりそうだ、と宮野さんが嘆く。嘆きながら、私の様子を窺っている。
ブレンドにスティックシュガー一本、温かいミルクを少々落として、一口。柔らかな酸味が口に広がる。ヨボヨボのおじいちゃんが淹れてくれるコーヒーは絶品だ。この店を教えてくれた宮野さんには感謝しなければならない。
「じゃあ、関係は今日で終わりにしようね」
「あかり」
「面倒だから不倫はしないよ。わかっていたでしょ?」
「まぁ、そうだけど。少しは……気にかけてくれたって、ねぇ」
宮野さんの歯切れが悪い。彼はそういう性格だ。だから、常務に押し切られる形で結婚が決まったのだろう。
私としては、搾り取れなくなる精液を案じるくらいなら、新たな精液を見つけるほうが建設的だし合理的だ。
「……いいよ、わかってるよ。あかりの性格も、ポリシーも。だから、一晩だけ、俺に時間をちょうだい」
「一晩? 泊まるってこと?」
「俺の部屋。綺麗に掃除したから……今日はホテルじゃなくて、俺の部屋に来て」
一応、何かあったときのためにトラベル用の化粧品なんかは持っているけれど。下着は入れていなかった気がする。しまったなぁ。またコンビニか。次から下着も準備しておこう。
「いいけど、婚約者と鉢合わせだけは勘弁してね」
「大丈夫。まだ合鍵は渡していないから」
宮野さんは嘘はつかない。嘘がつけない、実直な人だ。だから、信用できる。
今日私と会うのだって、常務から「もし他の女がいるなら、早めに関係を清算しろ」と言われたに違いないのだ。それを素直に受け入れてしまえる人が、宮野さんだ。「夫」には相応しいのかもしれない。
他愛もない話をしながら、ブレンドを飲み干して、伝票を取る。驚いた顔の宮野さんに、財布を見せて、笑う。
「安いけど、結婚祝い。今日くらいはご馳走させて」
ブレンドコーヒー一杯の値段で結婚祝いだなんて、常識的にどうかと思うけど、私たちの関係は何かしらの形に残ってはいけないのだから、仕方ない。
宮野さんはそれを了承してか、神妙な顔をして頷いた。そこで笑ってくれないあたり、宮野さんらしいなと思う。
「ありがとう」
宮野さんの穏やかな声に、ほっとする。
大丈夫。彼はちゃんと、前を向いて歩いていける。
◆◇◆◇◆
帰宅するために駅のホームで電車を待っているとき、私の目の前をフラフラとしながら線路へ向かっていた男性が、宮野さんだった。
自殺しようかどうしようか、まだ踏ん切りがつかないままフラフラしていたのは、すぐにわかった。思わず彼の腕を取って、その死んだような目と土気色の顔を見て、私の判断は間違っていなかったと感じた。
すぐに宮野さんを連れて駅から離れて、近くのラブホテルに入って、奉仕しまくって、果てさせた。自殺未遂者になんてことをしたのかと、精液を搾り取ったあとで頭を抱えた。
後先考えずに行動してしまった私は、自分を責めた。……ちょっとだけ。精液は美味しかったのだ。私の選別眼は確かなものだった。
けれど、直後に宮野さんが号泣しながら事情を――銀行員の生涯給料ほどの大きな損失を出してしまったことを話してくれた。私は銀行の業務なんてわからないから、それをただ聞くだけだったのだけれど、それが良かったのだろう。話してスッキリしたのか、二回目をねだられた。
宮野さんとは、そこからの付き合いだ。
「いいよ、入って」
この小綺麗なマンションは、銀行の独身寮なのだという。半年後には出ないといけない部屋だ。
「お邪魔しまーす」
傘とパンプスを置いた玄関は、とても綺麗。整理されているというよりは、何もない。観葉植物も置き物もない、簡素なものだ。
それはリビングも同じで、生活感が感じられないくらい、ものがなかった。ダイニングテーブルと椅子、ソファがあるくらいで、テレビがない代わりに大きな本棚が据え付けられていた。
「あれ、宮野さん、小説読むんだ?」
「銀行員が主人公のものはね。結構面白いよ」
「へぇ」
それは知らなかった。小説、好きだったんだ。ビジネス本にしか興味がないのかと思っていた。
「荷物、ここに置いて――」
いいか、と聞こうとしたのだけれど、宮野さんが後ろからぎゅうと抱きしめてきたことから言葉が止まる。
腹のあたりで組まれた腕が熱い。背中に宮野さんの暖かさが感じられる。耳元に寄せられた柔らかな唇が、優しく私の名前を紡ぐ。
「あかり」
耳朶を甘噛みされ、その温さと優しさにぞくりと体が震えた。宮野さんの手に私の指を絡め、笑みを浮かべる。ゴツゴツした、筋のある指、好きだった。宮野さんが、壊れ物を扱うかのように優しく私に触れてくれるの、好きだった。
今日と明日で、最後、か……。
「あかり、キスしていい?」
そんなこと聞かなくてもいいのに、宮野さんは律儀に毎回聞いてくれる。一度「ダメ」と意地悪をしたら、捨てられた子犬のような目で私を見つめて、頬や額にキスの雨を降らせてくれたことがあった。
宮野さんの腕の中、くるりと体を反転させると、あのときと同じように切なそうな顔で私を見つめてくる彼と目が合う。
「キスしたい」
掠れた小さな声でねだられる。
聞かなくてもいいのに。言わなくてもいいのに。
私が拒否するわけ、ないのに。
「潤の好きなようにしていいよ」
カバンは床に落として、腕を宮野さんの首の後ろに巻きつける。密着度が増して、もっと宮野さんの熱が伝わる。宮野さんの頬にキスをして、一瞬だけ視線を絡めて。
「あかり、好き」
震える唇が軽く重なって、離れたと思ったらまたすぐに重なる。啄まれるような優しいキス。何度も何度も角度を変え、甘い息を吐き出しながらお互いの唇の柔らかさを堪能する。そう、宮野さんの唇は、男性にしては珍しく柔らかいのだ。
ねだるように薄く唇を開くと、宮野さんの舌が恐る恐る挿入ってくる。彼はいつだって「本当にいいの?」という顔で私の体に触れてくる。彼の不安は、結局、払拭させてあげられなかった。
彼の温い舌に吸い付いて唾液を飲んだあと、私の舌を絡め合わせる。宮野さんは舌に吸い付きながら、ぎゅうと強く私を抱きしめる。窒息してしまいそうなくらいの強さだ。少し痛い。
「じゅ、っ」
宮野さんに抗議しようとしても、言葉を発することが許されない。唇が、舌が、私を貪る。
体重をかけられ、後ろにあったソファに倒れ込む。それでも、唇は離れない。革張りのソファの冷たさが気持ちいい。体が沈み込むくらいに柔らかい。
「じゅ、ここで?」
一瞬だけ舌が離れたときに、聞く。
宮野さんはラブホでは必ずベッドを使っていた。ソファや浴室では繋がったことがない。真面目で「普通」が大好きな人なのに、自分の部屋だからベッドじゃなくても良いのだろうか。何だか、いつもと違う雰囲気に、飲まれてしまいそうだ。
「ここでしたい。あかりを抱きたい」
「ベッドじゃなくていいの?」
「……ベッドは新居に持っていかないけど、ソファは持っていく予定なんだ」
いや、意味がわからない。何の話?
新居に持っていく家具の話をしているんじゃなくて。
「あかりと抱き合った記憶を、持っていきたい」
え。
宮野さんの声が、目が、心配そうに「ダメかな?」と聞いてくる。
宮野さんとはいつもラブホテルで抱き合っていた。それは、私みたいなセフレを部屋に入れたくないからだと思っていた。銀行員という堅い職業と、真面目な性格から、勝手にそう思っていた。
宮野さんは、私にキスマークがついていても何も言わない、どんな服装でも褒めたりはしない、私には無関心な人だと思っていた。
もしかして、違う?
もしかして、さっきの「好き」も?
「このソファは新居のリビングには置かない。俺の部屋に置くんだ。あかりと抱き合ったことを思い出せるものが欲しい。そしたら、どんなことがあっても生きていける気がするんだ」
宮野さんにとって私とのセックスは、死から救ってくれた行為に他ならず、つまりは、生きるための糧だったのだ。私とは違う意味での、糧。
宮野さんは目を細めて、笑う。苦しそうに。切なそうに。
「あかり。本当は、君を独占したかった。本当は、他の男に抱かれて欲しくなかった」
「……」
「でも、そんなこと言ったら、あかりは離れてしまうから、言えなかっただけなんだ。俺は醜い男だよ。君を忘れなきゃいけないのに、君との思い出を刻みたいと思ってしまった」
苦しそうに顔を歪めて、私への愛の言葉を降らせてくれる彼を、醜い男だなんて、思えない。ただの、愛しい男だ。
「……潤」
「うん」
「好きなようにしていい、って言ったよ、私」
「……うん」
「明日まで、潤の好きなように――」
震える宮野さんの体を抱きしめる。そんなことで彼の不安は払拭できないと思うけど、構わない。かわいい男を抱きしめたいと思ったのだから、そうするだけだ。
「――私を抱いて」
宮野さんがそれで生きていけるなら、気がすむまで、好きなように、私を抱けばいい。
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感想募集中。更新中は励みになりますし、完結後は次回作への糧になります。
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