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07.週末の終末(一)
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聞き間違いかと思った。
強くもないお酒を飲んだから、耳がおかしくなったのかと思った。
でも、美山さんがもう一度確認するかのように大声でそれを口にしたものだから、荒木さんの発言は確定のものとなった。
「ええっ!? お前、ほんとにセックス嫌いなの!?」
ジョッキのビールを少しだけ飲んで、荒木さんは――頷いたのだ。
「嫌いと言うよりも、回数は必要ないっていうか。好きな人となら、そういうことをしなくても、そばにいられるだけでいいと思うんですよ」
私の大好きな、困ったような笑顔で――実際、美山さんの発言に困りながら、荒木さんは「セックスは不必要」だと肯定した。
「わかる、わかる! 会うたびにエッチを求められると、体の関係だけのような気がしてイヤになるんだよねー!」
営業部の飲み会なのにちゃっかり参加して、ちゃっかり荒木さんの隣をキープしている日向さんが同調する。
先ほどまでは羨ましさで胸がいっぱいだったけど、今は絶望と安堵しかない。あの場にいて、日向さんのような意見は私には言えない。硬直してしまって、まともに返事ができないだろう。派遣さんばかりのテーブルで良かった。本当に良かった。
それにしても、なんていうことだろう!
荒木さんがセックス嫌いだなんて!
そばにいられるだけでいいと思っているなんて!
――世も末だ。
私の周りのお友達はかなりがっつくタイプなのか。肉食系男子というやつなのか。まぁ、セックスフレンドと言うくらいだし、性欲が強くて当たり前か。
そんな当たり前のことに、今気づいた。
でも、なに、本当に、草食系男子なんて、いたんだ? 生存していたんだ? 都市伝説だと思っていた。
それが、私の好きな人だなんて、絶望的すぎる。
「荒木さんて見るからに草食系だもんね」
「美山さんは絶対肉食系でしょ」
「確かに、性欲強そう。ハゲってそうなんでしょ?」
派遣さんたちがコソコソと話しているのを聞きながら、私はアプリコットフィズを飲み干した。飲まなきゃ。飲まなきゃやっていられない――!
「でも、私は肉食系が好きだわ」
「あ、わかる。がっついて欲しいよね、自分だけに」
「そうそう。求められたいよね」
頷きながら、カシスオレンジを注文する。飲もう。そして、忘れよう。忌まわしい記憶を消してしまおう。
佐々木先輩が呆れながら私を見てくる。私がお酒に強くないことを知っている彼女は、心配そうに助言してくれる。
「度が低いからって、あまり飲み過ぎちゃダメよ」
「……わかっています」
耳をそばだてて荒木さんの言葉を拾う。ダメージは大きいけど、まだ諦めたわけではない。諦めたわけではないのだ。
「そもそも、セックスは子作りのために必要な行為であって、付き合っている間は必要ないと思うんです」
必要です。私はセックス――精液を出してもらわないと生きていけませんけど、男女のコミュニケーションの一部としてセックスは必要だと思います。
「コミュニケーションだよ、セックスは!」
美山さん、よく言ってくださった! その通りです! よく混ぜたカシスオレンジ美味しいです!
「セックスでコミュニケーションを取らなければならない関係性も、恋人としてはどうかと思いますよ。恋人同士ならもっと会話をするべきです」
会話も必要だけど、体の会話も必要なんですよ! 腹割って話すのと同じように、中に割って挿入って気持ち良くなるのも必要なんです!
「え、お前、女の意味不明なオチのない話に長時間付き合えるの? 途中で切り上げたくならない?」
「なりませんよ。ちゃんと聞いてあげますよ。女の人って共感してもらいたいんでしょう? なら、コミュニケーションに一番必要なのは会話だと思いますけどね」
その心意気と考え方は嬉しいけど、がっついて欲しいときもあるんです! 狼に迫られたいんです! 羊のままじゃダメなんです! 女としては!
会話が途切れたときに、自然と見つめ合って、唇が触れ合って、そのまま押し倒されて、「ヤダもう、バカ」って言いながらキスを受け入れて……というシチュエーションが必要なときがあるんですよ!
「わかる! 男の人って話を聞いてくれないから、そういうのステキ」
いや、もう、日向さんはほんと黙ってて。セックスを「エッチ」なんて言う女は、私、信用できないから。できないからー!
「荒木さんの考えは確かにステキだけど、恋人には向かないわね」
「確かに。友達でいいよね」
「愚痴の言える男友達としては最高。手ぇ出してこないんだもの」
派遣さんたちの容赦のない評価に、私も同意する。
荒木さんの考え方は、男友達としては最高だ。恋人としては、物足りない。圧倒的に「狼」の部分が足りないのだ。
「だからお前は、付き合ってもすぐ別れるんだよ! いつまで経っても彼女ができないんだよ! いいお友達で終わるんだよ!」
美山さんの発言に、日向さん以外の女性陣と営業部の男性陣は、皆頷いていた。それが世間の「一般」であるのに、荒木さんは相変わらず困った顔のまま、笑っていた。
「月野さん、飲み過ぎ。もうカシスオレンジ飲んじゃったの? もう烏龍茶しか飲んじゃダメよ」
なんで、セックスが必要な私の好きな人が、こんなに性欲の薄い人なんだろう。
たとえ、荒木さんに振り向いてもらえたとしても、食欲は満たされないということじゃないの。他の誰かで食事をしなければならないということじゃないの。
そんなの、不毛すぎる。
悲しすぎて、涙が出そう。
「あ、こら、バカ! 月野さん、これ焼酎……!!」
佐々木先輩の制止を無視して、彼女の小さなグラスを奪って飲む。喉が焼けるように熱かったけど、気にしない。世界がぐるぐる回って、佐々木先輩の顔が四つ五つ六つに増えようが、気にしない。気にしないのだ。
◆◇◆◇◆
悲鳴が上がる。泣き叫ぶ声が聞こえてくる。
川の中に飛沫が上がり、白くて細い腕が見えた瞬間に、私は駆け出していた。水着を着ていて良かったと、砂利に足を取られながらワンピースを脱ぎ、ひたすら走っていた。
水の冷たさと流れの速さに驚きながら、ただ一点のみを見据えて、泳ぐ。
ザバザバと揺れる水面に、少年の顔と腕を確認しながら、少しずつ距離を縮めていって。
冷たくなった腕をぐいと引っ張って、まだ暴れる少年を見て、安堵した。
良かった。今度は、助けられた――。
◆◇◆◇◆
まるで雲の上にいるかのような浮遊感。いい匂いがして、暖かくて気持ちがいい。
二日酔いはしんどいけど、お酒を飲んだあとにこんな幸せな気分になれるのなら悪くない。
「……んう」
街灯に照らされた地面が揺れている。ぼんやりとした頭でキョロキョロとあたりを見ると、私の住んでいるアパートの近くだとわかる。
「目、覚めた?」
下から声が聞こえてきた。下から。荒木さんの声。
頭からサァッと血の気が引いていく。
……一瞬で、覚醒、しました。
「っえ!? あ、あ、あら、き、さ!?」
「月野さん、飲み過ぎ。佐々木さんから住所聞いて、今送ってるとこだよ」
「えええ!? すみません、すみません、すぐ降りますから!」
私は荒木さんにおんぶされていた。道理で幸せな気分になっていたはずだ。好きな人の背中で眠りこけていたなんて、申し訳ないんだけど、幸せすぎる。
しかし、ジタバタしても彼が降ろしてくれる気配はない。
「あと少しでしょ? 送っていくよ」
「でも、そんな、悪いです」
「大丈夫。さっきまでタクシーだったし、こう見えてジムにも通っているんだから」
ふふんと得意そうな声。その得意そうな顔も見たいけど、贅沢は言わない。こんなに近くで声が聞けるだけで、触れ合えるだけで、幸せ。
あああ、もう! 佐々木先輩、グッジョブです!!
「月野さんち、俺と同じ方向だったし、送り狼にはならないだろうと判断されて、俺が送ることになったんだよ」
送り狼……あぁ、でしょうね、性欲の薄い荒木さんには似合わない言葉ですもんね。間違いない人選だと思います。女としては悔しいですが。
私の荷物は彼の肩にかかっている。太腿を抱えてくれている腕が、熱い。背中が熱い。ドキドキする。
いい匂いがする。翔吾くんのような香水の匂いではない。たぶん、荒木さんの体臭だ。嫌な匂いじゃない。
「ありがとうございます。重いでしょう? 本当にすみません」
「え、軽いよ。ビックリしたよ。月野さんはもう少し太らないと……あ、ごめん、セクハラになるかな。今のナシで」
「だ、大丈夫、です……」
ありがとうございます、と小さく呟く。
今、私、きっと真っ赤だ。荒木さんの顔を見たいけど、今は振り向かないでほしい。
あぁ、本当に、今このまま時が止まってしまえばいいのに。好きな人におんぶされたまま、止まってしまいたい。
「えっと、ここかな?」
「あ、はい、そうです、ここです」
無情にも、時間は過ぎる。
三階建ての小さなアパートが私の住処だ。ワンルームだけど、浴室とトイレが別になっているのが嬉しい。
「こ、ここで大丈夫ですっ」
「はい。じゃあ、カバン」
荷物を手渡してもらい、フラフラしながら地面に立つ。多少お酒は醒めたみたいで、視界は思ったほど回っていない。部屋まで戻ることはできそうだ。
「あ、ありがとうございました!」
「いいよ、いいよ。お礼は仕事で返してくれたらいいからね」
なんてスマートなお礼の断り方! 「今日のお礼に食事でも」なんて誘えなくなってしまったじゃないの!
荒木さんのそういうフラグクラッシャーなところ、狙っているのか天然なのか、彼の笑顔からは本当に判断がつかない。罪な人だ。
「でも、タクシー代のこともありますし、そういう、わけにはいかないのでっ」
頑張ってる。
私にしては頑張ってる。
めちゃくちゃ勇気だしてる。
指も声も震えてる。
「今度、あの、一緒に、おい、美味しいケーキのあるカフェに行きませんかっ!」
噛んだ恥ずかしさから、最後はめちゃくちゃ早口になってしまった。荒木さん、聞き取れただろうか。
「美味しいケーキ……」
「ラズベリーのタルトとレアチーズケーキが絶品なんです。アップルパイも季節のケーキも、美味しいです。毎日お店で焼いているんです。だから、あの、早めに行かないとすぐなくなっちゃうんですけど」
わたわたと身振り手振りでケーキの美味しさを伝えようとしたけれど、そんなもので味が伝わるわけがない。私はバカか。
荒木さんの顔を見ることができず、声が小さくなる。私は本当にバカか。
「へぇ。どこにあるの?」
「あ、吉祥寺です」
思わぬ質問に、思わず顔を上げる。荒木さんの満面の笑みが目の前にあった。
「レアチーズケーキ、好きなんだ。日曜ならたいてい暇してるから、月野さんの都合がいいときに誘ってよ」
「え、あ、っはい!」
あ……誘えた。
全身の力が抜けてしまいそうになるくらい、ホッとした。
どうしよう、誘えちゃった……!
「じゃあ、おやすみ、月野さん。ゆっくり休んでね」
「は、はい! 荒木さんも、っ、おやすみなさいっ」
セフレの皆の腕の中で言う「おやすみなさい」とは全然違う、ふわふわした心地の挨拶だった。
荒木さんは一度だけ手をヒラヒラさせて、元来た道を戻っていく。大通りでまたタクシーでも捕まえるのだろう。
くしゃくしゃになったジャケットの背中が遠く去っていくのを見つめながら、私はハァと一息吐き出した。
「っしゃ!」
小さなガッツポーズは、誰に聞こえることなく、闇に溶けていくだけだったけれど、私の心は光に包まれているかのように晴れやかだった。
強くもないお酒を飲んだから、耳がおかしくなったのかと思った。
でも、美山さんがもう一度確認するかのように大声でそれを口にしたものだから、荒木さんの発言は確定のものとなった。
「ええっ!? お前、ほんとにセックス嫌いなの!?」
ジョッキのビールを少しだけ飲んで、荒木さんは――頷いたのだ。
「嫌いと言うよりも、回数は必要ないっていうか。好きな人となら、そういうことをしなくても、そばにいられるだけでいいと思うんですよ」
私の大好きな、困ったような笑顔で――実際、美山さんの発言に困りながら、荒木さんは「セックスは不必要」だと肯定した。
「わかる、わかる! 会うたびにエッチを求められると、体の関係だけのような気がしてイヤになるんだよねー!」
営業部の飲み会なのにちゃっかり参加して、ちゃっかり荒木さんの隣をキープしている日向さんが同調する。
先ほどまでは羨ましさで胸がいっぱいだったけど、今は絶望と安堵しかない。あの場にいて、日向さんのような意見は私には言えない。硬直してしまって、まともに返事ができないだろう。派遣さんばかりのテーブルで良かった。本当に良かった。
それにしても、なんていうことだろう!
荒木さんがセックス嫌いだなんて!
そばにいられるだけでいいと思っているなんて!
――世も末だ。
私の周りのお友達はかなりがっつくタイプなのか。肉食系男子というやつなのか。まぁ、セックスフレンドと言うくらいだし、性欲が強くて当たり前か。
そんな当たり前のことに、今気づいた。
でも、なに、本当に、草食系男子なんて、いたんだ? 生存していたんだ? 都市伝説だと思っていた。
それが、私の好きな人だなんて、絶望的すぎる。
「荒木さんて見るからに草食系だもんね」
「美山さんは絶対肉食系でしょ」
「確かに、性欲強そう。ハゲってそうなんでしょ?」
派遣さんたちがコソコソと話しているのを聞きながら、私はアプリコットフィズを飲み干した。飲まなきゃ。飲まなきゃやっていられない――!
「でも、私は肉食系が好きだわ」
「あ、わかる。がっついて欲しいよね、自分だけに」
「そうそう。求められたいよね」
頷きながら、カシスオレンジを注文する。飲もう。そして、忘れよう。忌まわしい記憶を消してしまおう。
佐々木先輩が呆れながら私を見てくる。私がお酒に強くないことを知っている彼女は、心配そうに助言してくれる。
「度が低いからって、あまり飲み過ぎちゃダメよ」
「……わかっています」
耳をそばだてて荒木さんの言葉を拾う。ダメージは大きいけど、まだ諦めたわけではない。諦めたわけではないのだ。
「そもそも、セックスは子作りのために必要な行為であって、付き合っている間は必要ないと思うんです」
必要です。私はセックス――精液を出してもらわないと生きていけませんけど、男女のコミュニケーションの一部としてセックスは必要だと思います。
「コミュニケーションだよ、セックスは!」
美山さん、よく言ってくださった! その通りです! よく混ぜたカシスオレンジ美味しいです!
「セックスでコミュニケーションを取らなければならない関係性も、恋人としてはどうかと思いますよ。恋人同士ならもっと会話をするべきです」
会話も必要だけど、体の会話も必要なんですよ! 腹割って話すのと同じように、中に割って挿入って気持ち良くなるのも必要なんです!
「え、お前、女の意味不明なオチのない話に長時間付き合えるの? 途中で切り上げたくならない?」
「なりませんよ。ちゃんと聞いてあげますよ。女の人って共感してもらいたいんでしょう? なら、コミュニケーションに一番必要なのは会話だと思いますけどね」
その心意気と考え方は嬉しいけど、がっついて欲しいときもあるんです! 狼に迫られたいんです! 羊のままじゃダメなんです! 女としては!
会話が途切れたときに、自然と見つめ合って、唇が触れ合って、そのまま押し倒されて、「ヤダもう、バカ」って言いながらキスを受け入れて……というシチュエーションが必要なときがあるんですよ!
「わかる! 男の人って話を聞いてくれないから、そういうのステキ」
いや、もう、日向さんはほんと黙ってて。セックスを「エッチ」なんて言う女は、私、信用できないから。できないからー!
「荒木さんの考えは確かにステキだけど、恋人には向かないわね」
「確かに。友達でいいよね」
「愚痴の言える男友達としては最高。手ぇ出してこないんだもの」
派遣さんたちの容赦のない評価に、私も同意する。
荒木さんの考え方は、男友達としては最高だ。恋人としては、物足りない。圧倒的に「狼」の部分が足りないのだ。
「だからお前は、付き合ってもすぐ別れるんだよ! いつまで経っても彼女ができないんだよ! いいお友達で終わるんだよ!」
美山さんの発言に、日向さん以外の女性陣と営業部の男性陣は、皆頷いていた。それが世間の「一般」であるのに、荒木さんは相変わらず困った顔のまま、笑っていた。
「月野さん、飲み過ぎ。もうカシスオレンジ飲んじゃったの? もう烏龍茶しか飲んじゃダメよ」
なんで、セックスが必要な私の好きな人が、こんなに性欲の薄い人なんだろう。
たとえ、荒木さんに振り向いてもらえたとしても、食欲は満たされないということじゃないの。他の誰かで食事をしなければならないということじゃないの。
そんなの、不毛すぎる。
悲しすぎて、涙が出そう。
「あ、こら、バカ! 月野さん、これ焼酎……!!」
佐々木先輩の制止を無視して、彼女の小さなグラスを奪って飲む。喉が焼けるように熱かったけど、気にしない。世界がぐるぐる回って、佐々木先輩の顔が四つ五つ六つに増えようが、気にしない。気にしないのだ。
◆◇◆◇◆
悲鳴が上がる。泣き叫ぶ声が聞こえてくる。
川の中に飛沫が上がり、白くて細い腕が見えた瞬間に、私は駆け出していた。水着を着ていて良かったと、砂利に足を取られながらワンピースを脱ぎ、ひたすら走っていた。
水の冷たさと流れの速さに驚きながら、ただ一点のみを見据えて、泳ぐ。
ザバザバと揺れる水面に、少年の顔と腕を確認しながら、少しずつ距離を縮めていって。
冷たくなった腕をぐいと引っ張って、まだ暴れる少年を見て、安堵した。
良かった。今度は、助けられた――。
◆◇◆◇◆
まるで雲の上にいるかのような浮遊感。いい匂いがして、暖かくて気持ちがいい。
二日酔いはしんどいけど、お酒を飲んだあとにこんな幸せな気分になれるのなら悪くない。
「……んう」
街灯に照らされた地面が揺れている。ぼんやりとした頭でキョロキョロとあたりを見ると、私の住んでいるアパートの近くだとわかる。
「目、覚めた?」
下から声が聞こえてきた。下から。荒木さんの声。
頭からサァッと血の気が引いていく。
……一瞬で、覚醒、しました。
「っえ!? あ、あ、あら、き、さ!?」
「月野さん、飲み過ぎ。佐々木さんから住所聞いて、今送ってるとこだよ」
「えええ!? すみません、すみません、すぐ降りますから!」
私は荒木さんにおんぶされていた。道理で幸せな気分になっていたはずだ。好きな人の背中で眠りこけていたなんて、申し訳ないんだけど、幸せすぎる。
しかし、ジタバタしても彼が降ろしてくれる気配はない。
「あと少しでしょ? 送っていくよ」
「でも、そんな、悪いです」
「大丈夫。さっきまでタクシーだったし、こう見えてジムにも通っているんだから」
ふふんと得意そうな声。その得意そうな顔も見たいけど、贅沢は言わない。こんなに近くで声が聞けるだけで、触れ合えるだけで、幸せ。
あああ、もう! 佐々木先輩、グッジョブです!!
「月野さんち、俺と同じ方向だったし、送り狼にはならないだろうと判断されて、俺が送ることになったんだよ」
送り狼……あぁ、でしょうね、性欲の薄い荒木さんには似合わない言葉ですもんね。間違いない人選だと思います。女としては悔しいですが。
私の荷物は彼の肩にかかっている。太腿を抱えてくれている腕が、熱い。背中が熱い。ドキドキする。
いい匂いがする。翔吾くんのような香水の匂いではない。たぶん、荒木さんの体臭だ。嫌な匂いじゃない。
「ありがとうございます。重いでしょう? 本当にすみません」
「え、軽いよ。ビックリしたよ。月野さんはもう少し太らないと……あ、ごめん、セクハラになるかな。今のナシで」
「だ、大丈夫、です……」
ありがとうございます、と小さく呟く。
今、私、きっと真っ赤だ。荒木さんの顔を見たいけど、今は振り向かないでほしい。
あぁ、本当に、今このまま時が止まってしまえばいいのに。好きな人におんぶされたまま、止まってしまいたい。
「えっと、ここかな?」
「あ、はい、そうです、ここです」
無情にも、時間は過ぎる。
三階建ての小さなアパートが私の住処だ。ワンルームだけど、浴室とトイレが別になっているのが嬉しい。
「こ、ここで大丈夫ですっ」
「はい。じゃあ、カバン」
荷物を手渡してもらい、フラフラしながら地面に立つ。多少お酒は醒めたみたいで、視界は思ったほど回っていない。部屋まで戻ることはできそうだ。
「あ、ありがとうございました!」
「いいよ、いいよ。お礼は仕事で返してくれたらいいからね」
なんてスマートなお礼の断り方! 「今日のお礼に食事でも」なんて誘えなくなってしまったじゃないの!
荒木さんのそういうフラグクラッシャーなところ、狙っているのか天然なのか、彼の笑顔からは本当に判断がつかない。罪な人だ。
「でも、タクシー代のこともありますし、そういう、わけにはいかないのでっ」
頑張ってる。
私にしては頑張ってる。
めちゃくちゃ勇気だしてる。
指も声も震えてる。
「今度、あの、一緒に、おい、美味しいケーキのあるカフェに行きませんかっ!」
噛んだ恥ずかしさから、最後はめちゃくちゃ早口になってしまった。荒木さん、聞き取れただろうか。
「美味しいケーキ……」
「ラズベリーのタルトとレアチーズケーキが絶品なんです。アップルパイも季節のケーキも、美味しいです。毎日お店で焼いているんです。だから、あの、早めに行かないとすぐなくなっちゃうんですけど」
わたわたと身振り手振りでケーキの美味しさを伝えようとしたけれど、そんなもので味が伝わるわけがない。私はバカか。
荒木さんの顔を見ることができず、声が小さくなる。私は本当にバカか。
「へぇ。どこにあるの?」
「あ、吉祥寺です」
思わぬ質問に、思わず顔を上げる。荒木さんの満面の笑みが目の前にあった。
「レアチーズケーキ、好きなんだ。日曜ならたいてい暇してるから、月野さんの都合がいいときに誘ってよ」
「え、あ、っはい!」
あ……誘えた。
全身の力が抜けてしまいそうになるくらい、ホッとした。
どうしよう、誘えちゃった……!
「じゃあ、おやすみ、月野さん。ゆっくり休んでね」
「は、はい! 荒木さんも、っ、おやすみなさいっ」
セフレの皆の腕の中で言う「おやすみなさい」とは全然違う、ふわふわした心地の挨拶だった。
荒木さんは一度だけ手をヒラヒラさせて、元来た道を戻っていく。大通りでまたタクシーでも捕まえるのだろう。
くしゃくしゃになったジャケットの背中が遠く去っていくのを見つめながら、私はハァと一息吐き出した。
「っしゃ!」
小さなガッツポーズは、誰に聞こえることなく、闇に溶けていくだけだったけれど、私の心は光に包まれているかのように晴れやかだった。
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