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032.「俺にはもう、サリタ様しかいないんだ。どうしたらわかってくれる?」

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 聖女は聖女宮で、勇者は国内の各地で、それぞれ国のために民のために『瘴気の澱』を祓う。ラグナベルデ王国の聖女は初の「出戻り聖女」と呼ばれ、人々から親しまれている――。

「……出戻り聖女なんて最悪。絶対親しみを込めて言う名称じゃないでしょ。蔑称じゃないの。ねえ、ドロレスはどう思う?」
「先代でも出戻りでも、聖女様は聖女様ですよ。あまり気になさらないように」

 前に座った女官長はこともなげにそう返す。「出戻りは事実だものね」と呟き、サリタはつまらなさそうに馬車の窓から外を見る。
 葡萄畑が広がるのどかな田舎だ。このどこかで勇者エリアスの両親が亡くなったのだと聞いている。
 ここは元々はサリタの夫が領主に任ぜられていた伯爵領だった。先代聖女だった頃――勇者から逃げ回っていた頃には信頼できる人間に経営を任せていたものの、サリタが聖女に復帰すると同時に、その人は高齢を理由に引退してしまった。そのため、国に返還し、今は別の人間が治めている。夫の邸と財産だけになってしまったが、随分と身軽になったことをサリタは喜んでいる。
 一年のうち何度か、サリタは夫が遺した邸に戻る。それは以前から変わらない。結婚の記念の日、夫の誕生日、夫が亡くなった日――祝い、弔うために邸に戻るのだ。
 もちろん、「出戻り聖女」だからこそ許された特権だ。通常、聖女は聖母神殿からの外出は許されない。家族の死に目にも会えないものなのだ。

 葡萄畑を超えると、白く大きな邸が見えてくる。馬車から降りると、何人かの青年たちが木箱を運んでいるところであった。

「あぁ、奥様、結婚記念日おめでとうございます。お祝いの品がこんなにも届いております」
「ありがとう。でも、こんなに食べ切れないわね。余ったものは皆で分けたあとに近隣の教会に持っていくことにしましょうか」

 野菜や果物、葡萄酒などの加工品などが山のように積まれている。滞在するのは二日か三日ほどを予定しているので、余らせてしまったものは必要な人にあげようと思いながら、サリタは邸の中に入る。
 邸にはベルトランの生前から管理を任されている青年たちがいるため、内部も庭も美しく保たれている。ベルトランは先に彼らに二十年分ほどの賃金を支払っているらしい。青年たちの中にはその賃金を元手に事業を始めた者や結婚をした者もいる。
 彼らのうち、誰がベルトランの相手だったのかはわからないが、サリタを敬いしっかりと働いてくれるため、その手の追求をすることはしない。ただ、青年たちの容姿や性格から、エリアスも夫の好みだったのだろうということだけはわかった。ベルトランは好みの美青年に囲まれて、晩年を毎日幸せに過ごしていたのだ。
 それに気づいてから、エドガルドの嫉妬心にも納得できるものを感じてしまったサリタである。エドガルドが刺し殺したかったのは、自分ではなくもしかしたらベルトランだったのかもしれないとさえ思うのだ。
 そんな魔性をベルトランが隠していたことに驚き、慄きつつも、亡き夫を悼むことは忘れない。

「庭も綺麗ね」
「はい。近所の子どもたちが遊びに来るため、棘のついた花は植えておりません。華やかさに欠けるかもしれませんが……」
「いいえ、素晴らしい心がけだわ。ありがとう。ベルトランも喜んでいるわね」

 広大な庭の、邸の近くに、ベルトランの墓はある。周りの芝生は整えられ、墓石も美しく磨かれている。サリタは持ってきた花と焼き菓子を手向け、亡き夫を弔う。
 そうして、浴布タオルを芝生に敷いて座り、ぼんやりと庭を眺める。低木の向こうに、ひょこひょこと何人かの子どもたちの頭が見える。元気な笑い声を聞きながら、サリタは微笑む。

 勇者エリアスとは、あれからほとんど会っていない。聖母会や大聖母会で顔を合わせることはあっても、以前ほどしつこく言い寄られることはない。諦めたのだろうと思って、サリタはホッと胸を撫で下ろしたものだ。
 しかし、だからといって、サリタの再婚話が進むわけでもない。相変わらず「愛人に」と言い寄ってくる信徒や聖職者は多いが、「結婚」という言葉を使う者はいない。フィデルも積極的に再婚話をまとめようとしていない。
 もちろん、サリタは結婚を諦めていない。だが、「結婚したい」と喚いても現状では実現しないことはわかっている。聖騎士を押し倒す作戦もうまくいかないため、八方塞がりである。

「エリアス以外で、どこかに私と結婚してもいいって言う人はいないかしら? ほんと、エリアス以外で」

 エリアス以外、というのはサリタにとっては大事なことである。だが、意固地になっている自分にも気づいている。
 エリアスを許すべきだという気持ちと、許したくないという気持ちが、最近はごちゃまぜになっている。どうするべきか、サリタ自身にもわかっていない。
 エリアスが自分の純潔を奪ったのではないことを、サリタは随分前に知っている。彼がサリタを守っていたことにも気づいている。サリタが一命を取りとめたのはエリアスのおかげであることも、色んな人から教えられたものだ。
 嫌だ嫌だと言いつつも、絆されかけているのだと、サリタも自覚している。

「聖女様! これあげる!」
「綺麗なお花あげる! 結婚記念日なんでしょう?」
「違うよ、聖女様の誕生日なんだよ!」

 遊ぶのをやめた五人の子どもたちが、それぞれ赤い花を手にやって来る。庭にいた人に一輪ずつ花をもらったのだと子どもたちは笑う。

「ふふ、ありがとう。どっちも正解、私の誕生日で、結婚記念日なの。綺麗な赤い薔薇ね……」
「じゃあね! さようならー!」
「誕生日おめでとう! 結婚おめでとう!」

 棘が取られた五本の薔薇を見つめ、サリタは溜め息をつく。棘のあるものは植えていないと青年が言っていた。この鮮やかな薔薇が庭の花ではないことに、すぐに気づいたのだ。

「こんな遠回りなこと、しなくてもいいのに」
「そうしないと花も受け取ってくれないでしょ?」
「……そうね。これは子どもたちがくれたものだもの。仕方ないわね」

 目の前に、薔薇よりも深い赤色の瞳がある。勇者エリアスは、困ったような笑みを浮かべてそこに跪いている。花束を抱えながら。

「仕方ないついでにこれも受け取ってくれる?」
「……全部合わせると二十八本?」
「当たり。誕生日おめでとう、サリタ様」

 受け取るべきか拒絶するべきか、一瞬だけサリタは悩む。だが、「ありがとう」と小さく呟いて受け取る。二十三本の薔薇の花束は随分と重い。
 ホッとしたような長い溜め息を、エリアスは吐き出す。跪いたまま顔を覆い、「ありがとう、ございます」と涙声で笑う。どうやら拒絶されるものと思っていたようだ。

「そんなに喜ぶこと?」
「だって、今まで贈り物なんて一つも受け取ってくれなかったからね。全部突き返されたもんね。毎回俺が落ち込んでいたの、知らないでしょ」

 自分の一挙手一投足がエリアスにどれほどの負担を強いてきたのか、サリタはようやく思い至る。拒絶されても拒絶されても、繰り返し愛を伝えるには、それだけの精神力が必要なのだ。二十八本の薔薇には、やはり重くて深い愛が込められているのだ。

「……いい匂い。プルケルは?」
「教会で休んでる」
「あなたはちゃんと休めているの?」
「サリタ様が頑張ってくれているから、だいぶ俺の負担は少なくなったよ。ちゃんと休めているから安心して。まぁ、あんまり安眠はできてないけど」
「そう」

 エリアスはサリタと少し距離を開け、芝生の上に座る。白銀の服が汚れていても気にしない。二人はぼんやり庭を眺める。

「ねぇ、サリタ様。あのとき、どうして俺を助けたの? 別に俺、刺されても良かったんだけど、どうして?」
「そうね……勇者、だから」
「違うね。俺が勇者じゃなくてもきっと助けてくれたよ」
「そうかな」
「そうだよ」

 エドガルドに刺されそうになっているのが誰であっても、サリタはその人物を助けたであろう。勇者であってもなくても、エリアスを助けただろう。サリタは「そうだね」と頷く。

「俺は勇者になる前から、サリタ様にずっと救われているんだよ」
「そう」
「信じていないでしょ? まぁ、別にいいけど」
「でも、私はあなたを同じくらい傷つけているでしょう?」

 エリアスが驚きのあまり目を見開く。「まさかそんな言葉がサリタ様の口から聞けるなんて」というような表情をして、実際にそう口にした。
 傷つくのがわかっているのに、どうして近づいてくるのか、なぜ追ってくるのか。サリタの無意識のうちの「救い」にそれだけの価値があると、どうしても思えない。

「だから」
「あー、なるほど、『だから私を諦めなさい』『だから私以外の女の子と結婚しなさい』ってやつね。そんな殊勝なこと言ってもダメだよ。俺は絶対にあなたを諦めないから」
「ど」
「『どうして』だって? そんなの、ずっと言っているじゃないか。サリタ様のことが好きだからだよ。あなたのことしか目に入らないんだよ。あなたのことを幸せにしたいんだよ」

 エリアスは深々と溜め息をつく。

「俺にはもう、サリタ様しかいないんだ。どうしたらわかってくれる?」

 純粋な狂気だとサリタは思う。だから、彼を恐ろしいと思ったのだ。怖い、逃れたい、と。
 ただ、それではずっと同じことを死ぬまで繰り返すだけだ。それもわかっている。どこかで断ち切らねばならないことを、サリタも理解している。

「エリアスは、私と結婚してどうしたいの?」
「どう、ってそれは……」

 サリタはエリアスに具体的なことを聞いたことがなかった。子どもが百人欲しいとか、ずっとそばにいて欲しいとか、ずっと愛し続けるとか、実現不可能なことを夢見ているのだろうと、勝手に想像していた。実際、そうやって求婚されてきたからだ。今でも夢見がちなのだろうと思っていたのだ。
 しかし、今のエリアスの願いはどれでもなかった。
 エリアスは顔を真っ赤にしながら、ぽつりと呟いたのだ。

「……熟睡したい」

 勇者はその多忙さから、安眠したことがない。地方の教会では気が休まらず、副神官長室や仮眠室では熟睡もできない。聖獣の背中ではうたた寝程度しかできない。
 ただ、サリタのそばにいるときだけ、ゆっくりと眠ることができる。サリタが聖女であったときも、引退したあとも、ずっとそうだった。
 エリアスは耳まで真っ赤にしながら、そう答える。

 思わぬ返答に、サリタは声を上げて笑う。浴布の上で転がり、笑う。エリアスから「そんなに笑わなくても」と抗議されるまで、ずっと笑っていた。
 そうして、笑い終わったあと、涙を拭いながら気づくのだ。エリアスに対する恐怖心や嫌悪感が、サリタの中からすっかりなくなってしまっていることに。


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