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029.「死なせは、しない。絶対に」

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 東の空が白んできた頃、聖獣プルケルは神殿の庭に降り立った。聖獣使いの荒い主人に命令されるままに、嘴で持ったブリキのバケツを振り回し、壁に当ててガンガンと音を立てる。勇者の読み通り、早朝から神殿にいた神官や仮眠を取っていた聖騎士たちが慌ててやって来る。

「先代聖女様が刺された! 今すぐ医者を呼べ! 湯を沸かし、氷とありったけのカンテラを準備しろ!」

 戸惑う人間には「俺が全責任を持つ!」と声を張り上げ、「近くに医者がいなければ王宮から連れて来い!」と命令するエリアスに異を唱える者はいない。副神官長フィデルでさえ、エリアスの横暴を許し、その腕の中でぐったりしているサリタに駆け寄るほどだ。

「サリタ様!?」
「息はまだある。大丈夫だ、死なせない。それより、今すぐラウラ様を起こして、この聖獣を連れてロッソトリアに向かうんだ」
「な、え? 何です? ロッソトリア?」
「詳しい話はボクがするよー! 『道』は清らかな人間以外に、ボクたち聖獣も使えるでしょ? ほーら、早く早く!」

 ウェールスに促され、フィデルはわけもわからないままに聖獣モタビリーを抱え、聖女宮へと向かう。こんな早朝にラウラを聖女宮から出すための言い訳を考えながら、走る。
 フィデルが立ち去ったことを確認し、エリアスは荒い息を繰り返しているサリタを見下ろす。顔色は真っ白。プルケルにも血が滴り落ちている。危険な状態だ。

「サリタ様」

 エリアスの呼びかけにも応えない。目を閉じ、時折顔を歪めながら、サリタは歌う。消えそうな声で、途切れ途切れの音痴な歌を、口ずさむ。

「死にかけているのに、あなたという人は……」

 夜中であれ、体調が優れないときであれ、国と民のために歌うサリタだからこそ、エリアスは好きになったのだ。殺されかけてもなお、その人のために祈るサリタだからこそ、エリアスはそばにいたいと思っているのだ。

「死なせは、しない。絶対に」

 プルケルは庭に座り込んだまま、心配そうに二人を見つめている。病人のための寝台ベッドが到着し、二人がいなくなっても、プルケルはいつもの厩舎に戻ることなく、大人しくその場にいるのだった。

 神殿に到着した医者にサリタの処置を任せ、エリアスは庭へと戻る。サリタのそばにいたいと後ろ髪を引かれる思いだったが、悠長にしていられる時間はない。サリタは眠っており、ラウラはロッソトリアへ帰った。この国に『瘴気の澱』を祓うことができる者は、今、勇者しかいないのだ。
 プルケルは血やすすで汚れた姿のまま、庭で待っていた。美しい毛並みが台無しだ。落ち着いたら綺麗に洗ってやろう、とエリアスは考える。

「プルケル、行けるか? お前が無理なら馬で行くけど、どうだ?」

 プルケルは勇者を背に乗せ、立ち上がる。そうして、休めていた翼を広げて、羽ばたいた。目的地は、南。ブロテ領だ。エリアスにはまだ、やることがある。



 サリタがさらわれた日、エリアスは彼女を救出することを優先しなかった。サリタの気配が途絶えたため、焦る気持ちもあったのだが、先に自分たちの考えが正しいのかどうかを確認しておきたかったのだ。
 若い娘たちを救うために黒い飴の出どころを潰す。サリタならそうするだろうと、自分の安全よりも優先するだろうと、エリアスは考えた。そうしなければ、彼女に認めてはもらえないだろうと考えた。

 丸一日かけてブロテ領をつぶさに調べて回った結果、嫌な気配のするブロテキビの畑は、ブロテ侯爵の邸の中にあった。黒い塗料――魔石が使われた木造の建物の中に、大量に生い茂っていたのだ。
 侯爵の留守中に押し入ったことを咎めることなく、侯爵の娘ビクトリアは「勇者様のためなら」と、建物ごとブロテキビを焼却してもいいと許可してくれた。侯爵夫人も、ビクトリアも、この建物のことを気味悪がっている様子であった。
 反対したのは、侯爵家嫡男だ。「父上の留守中にそんなことは許されない!」と、喚き散らし、暴れた。そんな長男を殴りつけ、震えながら父親の悪行を説いたのは、次男ロランドだ。
 彼の話を聞き、エリアスはサリタが監禁されているおおよその場所を知った。

 ブロテキビを焼却している間、エリアスに協力してくれたのもロランドだ。収穫されたブロテキビを砂糖に加工するための工場と、魔石を加工するカルド領の工場を、いくつか教えてくれたのだ。
 焼却した跡地から骨が出てくるかもしれないとロランドに伝えると、彼はすぐに「聖水を手配します」と頷いた。聡い青年であった。

「サリィを助けてあげてください」

 ロランドは、サリタを巻き込んでしまったことを後悔していた。自分が彼女に興味を持たなければ――そんなふうに自責していた。

「まぁ仕方ないよ。サリタ様は魅力的だから。俺はよく知ってる」
「えっ? サリタ、様? えっ?」
「君はすごくいい人だけど、俺は絶対にサリタ様を譲らないから。……もう、絶対に譲らないから」

 ベルトランはエリアスの恩人だった。領主として農場主の不正に気づいていなかったことを領民たちに詫び、遺族にも従業員にも手厚い見舞金を配った。そして、天涯孤独となったエリアスを引き取り、世話してくれた。
 彼の助けがなければ、エリアスは勇者になるまで生きていくことができなかったし、勇者になったあとも聖職者や神官の意見をまとめることなどできなかっただろう。
 サリタが結婚したがっているものの、自分の求婚は断られてしまうという話をベルトランに打ち明けると、彼は「ならば、私がサリタ様を妻として迎えよう」と提案した。
 曰く、金持ちの男色家の自分のもとにいれば、聖女の純潔は保たれたまま、自分の死後は多くの遺産を譲ることができる。その後、エリアスが聖女と再婚すればいい。
 そんな甘言に乗るのではなかった、とエリアスは後悔した。
 好きな女が婚礼衣装を身に着けて笑っているのを、遠くから眺めるのはつらく悲しいことだった。ベルトランにそのつもりは一切ないとわかっていても、サリタが幸せそうにベルトランの手を握るのを見て、嫉妬しないほどエリアスは成熟していなかった。
 未熟だったからこそ、あの日、愚かにもサリタの眠る寝台ベッドに潜り込んだのだ。緊張のあまり手も足も出せなかったが、サリタは純潔を奪われたと誤解し、エリアスを一層拒絶した。

 サリタから嫌われても仕方がないことだ。エリアスは納得した。しかし、やはり諦めきれない。エリアスは葛藤した。
 触れたいが触れられない、結婚したいが結婚できない、そんな矛盾を抱えたまま、逃げるサリタをエリアスは追いかけた。捕まえたいが、捕まらないでいてほしい。逃がしたくはないが、逃げていてほしい。
 歪んだ矛盾を自覚しているからこそ、サリタから「気持ち悪い」と罵られてもエリアスは納得することができた。だが、彼女を愛する気持ちはどうしても止めることができなかったのだ。



 数時間後、昼に近い時間、エリアスは寝ず飲まず食わずでプルケルの背にいた。まだサリタの歌声が聞こえない。意識は回復していないようだ。エリアスは焦る気持ちを抑え、先を急ぐ。
 エドガルドの邸へ向かう途中、エリアスは眼下に大勢の人の波ができていることに気づく。プルケルを下降させ、近くを走る男に何があったのかを尋ねる。

「エドガルド様の邸が火事なのさ!」

 道理で、皆がバケツを持って走っているというわけだ。侯爵が火をつけたのだろうか、などと考えていると、一人の中年の女が人混みをかき分けてエリアスのほうへと駆けてくる。

「勇者様! エドガルド様の邸に! 邸の地下に! 若い娘がいるんです! 助けてやってください!」

 サリタのことだとすぐにわかる。もう救出していたが、そのことを伏せたまま「わかったよ」と頷く。女が安堵の表情を浮かべたのを見て、エリアスは彼らより先にエドガルドの邸へと向かう。

 エドガルドは、自ら短剣を喉に突き立てた。エリアスが聖剣を振るう前に、自害したのだ。
 サリタを恨み、エリアスを憎み、前の副神官長とあろう者が、聖教会から禁じられている自害を選んだ。その怨念はすぐにでも『瘴気の澱』を発生させ、邸を、敷地を、いずれはブロテ領を覆い尽くすだろう。憎み恨む気持ちが大きければ大きいほど、『瘴気の澱』は濃く昏くなるのではないか。
 エリアスは、そう考えていた。
 エリアスは勇者だ。サリタのそばで、彼女の手を握り、彼女の意識が戻るのを待つだけの男ではない。彼には与えられた責務がある。勇者にしかできない仕事がある。それを完遂してこそ、聖女の隣に並び立つことが許されるのだ。
 エリアスは、そう信じている。
 だから、エリアスはエドガルドの死後発生するであろう『瘴気の澱』を祓いに来た。
 祓いに来たはずだった。

「……どういう、こと、かな?」

 火の回りが予想以上に早く、既にゴウゴウと燃え盛る邸からは、『瘴気の澱』の気配を感じない。あの日、エリアスの両親を飲み込んだような昏い気配が、全くない。

「消火活動、急げ!」
「川は北だ! 池は東!」
「エドガルド様は!? エドガルド様は無事なの!?」

 真っ赤な炎が、邸全体を覆っていく。すべての不都合を燃やし、侯爵とエドガルドの罪を隠していく。

「恨み、ではない? それとも、遺体を移動させた?」

 侯爵がエドガルドの遺体を移動させた可能性はあるものの、邸の周囲から強い『瘴気の澱』の気配は感じられない。西のほうに嫌な気配があったために向かってみたが、小さなブロテキビの畑から微々たる反応があっただけだ。それも、神殿から持ってきた聖水をかけてやるとふわりと立ち消える。
 侯爵が逃げおおせたかどうかもわからない。火事に巻き込まれていても助ける義理はない、とエリアスは判断した。むしろ、早く死んで次男か長女に家督を継がせたほうがいいような気もしている。長男は論外だ。

「『瘴気の澱』の発生は、死後一日程度と思っていたんだけどな……おかしいな」

 エリアスは首をひねる。
 死んだ人間は周囲の人々の協力を得て教会や神殿に運び込まれる。道中で弔いの祈りを捧げる人もいるが、安置した上で聖水で清め、近親者で弔いの祈りを捧げ、聖母神のもとへ送るのが習わしだ。
 大抵の場合、周りの人々が弔いの祈りを捧げるまで、半日もかからない。だから、エリアスは恨みを抱く者が『瘴気の澱』を生み出すのには、半日から一日程度かかると考えていたのだ。
 しかし、今嫌な気配はしないものの、後々『瘴気の澱』が発生しないとも限らない。時間差があるのかもしれない。今、王都へ戻った直後に『瘴気の澱』が発生したら、ここにいる人々を巻き込んでしまう。
 エリアスは、眠気を我慢しながらしばらく様子を見ることにした。

「勇者様も手伝って!」
「えっ、あ、うん、いいよー」

 勇者は人々に促されるままにバケツを順に運んでいく。今は邸の様子を窺い、あくびをしながら、消火活動に協力するしかなかったのだ。


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