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019.「……不思議ですね。あなたとは今日初めて会った気がしません」

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 翌朝、時鐘が一つ時を告げる前に、エリアスは聖女宮から退出していた。元気だったかどうかはわからないが、ウキウキとしながら去っていったと扉番の聖騎士が女官に伝えていたため、体調は良くなったのだろう。
 それを聞いたサリタはホッとしたが、ラウラは不満そうだ。もっと大好きな勇者様とおしゃべりがしたかったのだろう。

「わぁ、可愛いウサギ!」

 聖獣ウェールスを聖女宮に残したまま出て行ったエリアスに、サリタは「一筋縄ではいかないわね」と嘆く。サリタが聖女宮から逃げ出そうとすれば、ウェールスがエリアスに伝えるのだろう。聖女宮から逃げるときにはウェールスを花街に置いてくるべきだ、とサリタは思う。

「サリィが作ってくれた焼き菓子、美味しいね。勇者様にも食べてもらえればよかったね」
「……いたみいります」

 ラウラが飴を思い出さないように、サリタは毎朝せっせと菓子を焼いて食べさせる。聖女宮に持ち込まれる食材の中に怪しいものはないため、やはり父親経由の差し入れには目を光らせておかなければならないようだ。

 体調が良くなったラウラは、よく勉強をし、ウェールスと一緒によく庭を走り回る。体力をつけるための遊び相手として、ウサギは申し分ない。ウェールスは時折女官たちに抱いてもらったり、おやつを食べさせてもらったりしながら、悠々自適に過ごしている。

「サリィ、あなたのそれ、『老け専』とか『枯れ専』って言うみたいよ」
「フケセン? カレセン?」
「そう。老けているとか枯れているとか、自分よりずっと年上の人を恋愛対象として好きになる、って意味があるみたい」
「……なるほど! まさしくそれだわ!」

 サリィとしての、女官たちとの会話にも慣れてきた。簡易厨房でおやつを食べることの罪悪感も薄れてきた。
 毎朝、小神殿で歌い、暇があれば祈りを捧げる生活だ。聖女だった頃と変わりがない。既に勇者には所在がバレているため、逃げ回ることもない。聖女という重圧がない分、サリタは自由だ。聖女宮という狭い世界にいて、先代聖女であることがバレないようにしていればいい。サリタはエリアスの忠告を守っている。ゴヨ老教師やパン屋の老夫婦には手紙を、同じ街の自警団西支部にはマルコスの件を証言した書簡をそれぞれ送ったりはしていたが、自身の所在を明かすことはなかった。

「サリィ、わたくしの父が会ってみたいと言っているのだけれど」

 ソラナが困ったような表情でサリタにそう伝えてきたとき、「レグロが私に興味を!?」と一瞬だけ浮かれたものの、聖女宮からは出ないほうがいいのではないかと半日ほど悩んだものだ。エリアス派のドロレスは「今はやめておいたほうがいいのでは」と言い、フィデル派のラウラは「フィデルのほうがお似合いだと思うけどなぁ」と首を傾げ、ソラナも「二人がうまくいって再婚するとなると、とても複雑な気持ちになります」と乗り気ではない。
 しかし、さっさと再婚相手を見つけておきたかったサリタは、欲に忠実に従うことにする。再婚する時期はいろんなことが片付いてからになるだろうが、相手とある程度仲を深めておくことは悪くないはずだ。ウェールスには聞こえないようにこっそりとソラナにデートの取りつけを頼むことにしたのだ。

 デートの日までに、フィデルは帰ってこなかった。エリアスからの連絡もなかった。
 瓶に木綿布ガーゼ浴布タオルをぐるぐる巻いて厳重に封をして、木箱の中に入れて、サリタは久しぶりに女官服以外の服に袖を通した。デートの服は、女官や女官の娘のお下がりではあったが、サリタは首巻きで顔を隠しながら、勇者の聖獣に見つからないように聖女宮を出た。
 聖教会神殿の出入り口に、レグロはいた。サリタが聖女だった頃と変わらず、筋肉質な体躯が目を引く。日に焼けた肌も、強面の顔も、刻まれた皺もサリタの好みだ。「格好いい……」とうっとりしながら、サリタはレグロに近寄る。

「初めまして、レグロ様」

 レグロは厳つい顔をサリタに向ける。そうして、「おや?」と不思議そうな顔をする。髪の色や眼鏡だけでは、先代聖女の雰囲気が消せなかったようだ。

「サリィです。ソラナから話を聞いて、ぜひお会いしたいと我儘を言ってしまいました。ご迷惑ではありませんでしたか?」
「あぁ、あなたがサリィ殿。迷惑だなんて、そんな。こんな可愛らしいお嬢さんだとは思いませんでしたよ」
「お、お嬢さんだなんてっ」

 サリタは顔を真っ赤にしながら、レグロの隣を歩く。神殿の丘の上には王宮があるため、二人は街に向けて丘を下る。眼下に広がる貴族街や平民区、どこに行こうかと相談をしながら。

「サリィ殿も連れ合いを亡くされたのですか」
「はい、去年の秋に。レグロ殿も同じだと伺っておりますが」
「ええ。私にはできた妻でしたよ。私には剣の才能しかありませんでしたから、妻には迷惑ばかりかけてきましてね……」
「感謝の言葉を伝えたり、何かをしてあげたいと思ったときには、もう遅いんですよね……」

 同時に溜め息をついたあと、二人は顔を見合わせて笑う。どちらの心の中にも亡くした妻や夫がいる。それを隠すことのない関係というものは、心地がよいものだ。
 貴族街には貴族の街邸が多く立ち並ぶ。しかし、その一角や空いた敷地を使って、飲食店や服飾店が開店していることがある。貴族街の西二番街のカフェで庭を見ながら、二人はホットチョコレートと細長い焼き菓子を楽しむ。

「聖騎士を引退なさったあとは何を?」
「今はブロテ侯爵の街邸で警護をしております」
「体を動かすことがお好きでしたものね……っと、好きだったとソラナから聞いています」
「ハハハ。お恥ずかしい。それしか取り柄がないものですから」

 レグロが肩車をしてくれたり、腕にぶら下がらせてくれたりしたことを、サリタはよく覚えている。神殿で体調が悪くなってしまったときも、レグロが抱きかかえて聖女宮まで連れ帰ってくれた。ソラナという、サリタと歳の近い娘がいるから親切にしてくれるのだと知っていても、やはり憧れてしまうものだ。
 聖女宮の扉番の職から離れて久しいが、彼ほど好きになった聖騎士はいない。サリタは幸せな気分だ。

「……不思議ですね。あなたとは今日初めて会った気がしません」
「ふふ。私もです」
「こんなことを言うと聖教会からは咎められてしまうのでしょうが、サリィ殿は、先代聖女様によく似ておられます」
「まぁ。とても光栄なことでございます」

 サリタはにっこりと微笑む。レグロが気づいていても気づいていなくても、ここでは「サリィ」で通さなければならないのだ。
 この穏やかな時間が、サリタは好きだ。のんびりとした優しい時間がたまらなく愛しい。老いること、枯れていることは悪いことではないとサリタは思う。

「おや、レグロじゃないか」

 ガタン、と音を立てていきなりレグロが立ち上がる。サリタの背後にいる人物に向かって礼をしている。見ると、そばに座っていた人たちも皆、立ったまま座ったまま、頭を下げている。

「そういえば今日は非番だったね。娘と香茶かね」
「娘、ではないのですが……まぁ、その」
「なるほど。君も隅に置けないじゃないか、親子ほど歳の離れたお嬢さんとデートとは」
「おそれ入ります、ブロテ侯爵」

 レグロの雇い主だ。しかし、サリタは振り向くことができない。ブロテ侯爵は、高位貴族であり、高位聖職者だ。先代聖女の顔を知っているのだ。いくら変装をしているからと言っても、不用意に顔を晒したくはない。サリタは首巻きでこっそり顔を隠して頭を下げる。

「まぁ楽しみたまえ。せっかくの非番なのだから」
「はい」
「では、失礼するよ。邪魔者は退散しよう」

 ブロテ侯爵が去っていくときになり、ようやくサリタは彼のほうを向いて辞儀をした。ブロテ侯爵の後ろ姿を見てホッとしたものの、彼に続く人影を見て顔を上げたことを後悔した。
 ブロテ侯爵の後ろにいたのは、彼の息子らしき青年と、ラウラの父カルド伯爵だったのだ。カルド伯爵からは「おや?」という視線を向けられ、サリタは笑顔のまま硬直する。しかし、カルド伯爵は特に何も言わずに侯爵についていく。青年のほうが妙にサリタを見ていたことが気がかりではあったが、すぐにレグロに向き直る。

「まさかブロテ侯爵とカルド伯爵がいらっしゃるなんて……驚きました」
「ここはブロテ侯爵のご子息が経営しているカフェなのです。あぁ、先程侯爵と一緒だった青年ですよ。二階や三階には個室があるため、侯爵は諸侯や聖職者と会談を行なうこともあるのです」

 なるほど、とサリタは頷く。

「では、レグロ様は馴染みのある場所に私を連れてきてくださったのですね。嬉しいです」
「えっ、いやぁ、ハハハ……他に店を知らないだけですよ」

 サリタに見つめられて、レグロは頬を染める。照れる姿も素敵、などとうっとりしながらサリタは微笑む。
 その後は、街を散歩したり、食べ歩きをしたりなどして、二人は楽しく休日を過ごした。もちろん、レグロはしっかりと聖女宮までサリタを送り届けてくれた。
 サリタは紳士的なレグロの行動を大変好ましく思うと同時に、「紳士的じゃなくても大丈夫なのに」と少し寂しくも思うのだった。


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