上 下
4 / 34

004.「奥様、どうしよう。着ていく服がないんです」

しおりを挟む
 サリタの朝は早い。夜が明けきらぬうちから起きて、パンや菓子を焼く窯の準備を始める。吐く息が白くなるものの、作業中は歌っていても誰も聞いていないため、気が楽だ。
 聖女宮で祈りを捧げるとき、サリタはよく歌っていた。賛美歌、故郷の歌、適当に作った歌、何でも歌った。あまり上手ではないため、人に聞かせられるものではないと自覚している。だから、一人きりのときだけ歌うのだ。

 サリタがこの街にやってきたのは、三ヶ月前。髪を黒く染めて、住み込みで働けるところを探した。パン屋の老夫婦は、雇った女が先代聖女であることには気づいていない。聖女の顔を知っている国民はわずかであることが幸いした。ワケありの女だとは思われているが、事情は聞いてこない優しい夫婦だ。
 サリタは上機嫌で窯の様子を見る。
 菓子作りが好きなサリタは、最初、パン屋の大きな窯を見て歓喜した。趣味が続けられることを心底喜んだのだ。焼き菓子を一緒に売ってもいいか老夫婦に掛け合ったのが、つい最近のことのように思える。

「おはよう、サリタちゃん」
「おはようございます。今日は少し寒いですね」
「そうだねぇ」
「昨日の残りはこれだけです」
「じゃあこっちはソーセージを挟んで、こっちは厚焼きベーコンを挟みましょう」

 パン屋の夫婦と他愛ない話をすませたら、早速パン作り。昨日売れ残ったパンに、味を付けた肉や具を入れて惣菜パンを作っていく。街では日雇いの労働者が多いため、朝は腹持ちするようなパンがよく売れるのだ。
 主人は成形したパンを手際よく窯の中に入れ、夫人が頃合いを見計らってそれを取り出す。カゴの中に入れ、店に陳列するのはサリタの仕事だ。
 開店と同時に労働者たちがやって来て、一パン一ペタルを支払っていく。店から出た瞬間に彼らがパンを頬張っている姿を見て、サリタは幸せな気持ちになる。

 そう、サリタは幸せだ。
 朝早く夜も遅い仕事ではあるが、寝る場所にも食べるものにも困らない、充実した日々を送っている。街の近くには『瘴気の澱』がほとんど出現しないため、勇者に出くわすことはない。人口が多いほうが身を隠しやすい上、サリタ好みの筋肉質な自警団員も多く目の保養になる。
 素晴らしい環境である。田舎を転々とせず、最初から大きめの街に転居すればよかったのだ。サリタは一つ賢くなった。

「サリタ、おはよう」
「あ、おはようございます、マルコスさん」

 屈強な体のマルコスは、街の自警団員。毎朝惣菜パンを二つ買って行ってくれる、自警団西支部の常連客だ。結婚適齢期を大幅に過ぎて、白いものが頭髪に混じり始めてはいるが、屈強な体躯を維持している独身者だ。今日も二ペタルを支払っていく。

「明日、定休日だろう? 俺も久々に非番なんだ。一緒にどこかへ出かけないか?」

 サリタは目を丸くする。「デートしよう」などと言ってくる自警団の客は今まで何人もいたが、具体的な話をしてきたのはマルコスが初めてだったのだ。

「サリタちゃん、行っておいでなさい。仕込みのことは気にしなくてもいいから」

 夫人からそんなふうに後押しされ、サリタは恐る恐る頷く。マルコスは大喜びでサリタの手をぎゅっと握り、「明日の朝迎えに来る」と言い置いて仕事へと向かった。

「奥様、どうしよう。着ていく服がないんです」
「あらあら。じゃあ、店が空く昼過ぎにでも買いに行っていらっしゃい」

 サリタは、幸せだった。鼻歌まで歌いながら、こんな日がずっと続けばいいと思っていた。



 自分のために服を買うのは、サリタにとっては久しぶりのことだ。聖女宮で過ごしていたときは決められた服しか着られなかったし、結婚してからは夫が服を与えてくれたからだ。未亡人になってから、サリタは自分のためにお金を使うことができるようになったのだ。
 街には仕立て屋と、既製服を売る店がある。三ヶ月で貯めたお金では既製服を買うくらいしかできない。それでも、サリタは笑顔で店を見て回る。

「わ、あ……可愛い」

 目に入ったのは、濃い紫色のワンピースだ。白い襟が可愛らしく、裾に同じ白で蔦の刺繍がしてある。このワンピースを着た自分を想像して、サリタは「悪くない」と笑う。
 しかし、試着させてもらうと、黒い髪が思いの外ずっしりと重い雰囲気になってしまう。店員も「淡い色のほうがいいかも」と言って、藤色のワンピースを持ってきてくれるほど、今の黒髪のサリタには似合わなかった。
 銀色の髪なら――そう考えて、サリタは首を振る。髪の色を地毛に戻す勇気はまだない。パン屋の夫婦にもマルコスにもまだ見せられない。
 サリタは溜め息をつきながら、藤色のワンピースを買う。ついでに予備の染粉を買おうとして、黒色の染粉がないことに気づく。

「あの、黒色の染粉はありますか?」
「あぁ……欲しい? あなた、それ、染めているの? 黒はやめておいたほうがいいわよ」

 店員は声を潜めて、サリタに忠告する。

「最近、このあたりで黒髪の女の子が立て続けに行方不明になっているの。だから、黒の染粉を売りたくないのよ。悪いことは言わないから、こっちの茶色にしておきなさい」
「じゃあ、黒と茶色を」
「あなたも頑固ねぇ。黒も一応、あるけどさぁ」

 店員は渋々店の奥から黒色の染粉を持ってきて、「本当に気をつけるのよ」と散々念押ししてくる。「どうしても黒がいいなら茶色と混ぜて使いなさい」という助言を念頭に入れて、サリタはパン屋へと向かう。
 マルコスも「久々の非番」だと言っていた。自警団員たちは休みも取らず、黒髪の女の子を探していたのかもしれない。

「早く見つかるといいんだけど」

 村だけでなく、街も物騒なことに変わりないのだろう。特に女子どもにとっては、どこにいても常に危険がつきまとう。
 聖女宮でぬくぬくと過ごしていたサリタは、聖女を引退したあとで初めて、国内における女の立場の弱さを知ることとなった。夫を失って初めて、後ろ盾がないことを恐ろしく感じるようになった。
 けれども、一人で生きていかなければならないのだ。サリタ自身の幸せのために。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

幸福な初恋の終わり方~王子は傷もの令嬢を寵愛す~

二階堂まや
恋愛
令嬢ヨアンナは、顔にある痘痕が理由で婚約が決まらないでいた。そんな折、父親から次の誕生日を迎える前に結婚相手が見つからなければ、修道院送りにすると宣告される。 彼女は結婚相手を探すために渋々夜会に参加するが、引っ込み思案が故上手くいかない。しかしある夜会で、ヨアンナは大国ラフタシュの王女テレサに気に入られる。そして彼女は王室の宮殿に招かれ、テレサの兄ヘンリクと出会う。やがて三人は事ある毎に行動を共にするようになる。 奔放な兄妹と過ごす日々は、いつしかヨアンナの生活を彩っていく。そしてヘンリクとの仲も深まっていくが、別れの日は刻一刻と迫っていて……?

【R18完結】男装令嬢と呪われた王子の不健全な婚約

千咲
恋愛
【ハピエン完結、「男装令嬢と呪われた王子の×××な婚約」の改稿・R18版。不健全なR部分を大幅に加筆しています!】 伯爵令嬢ルーチェは、長身かつ中性的な顔立ちから、可愛いドレスが似合わず幼少期から男装をして過ごしてきた。 ある日、姉の結婚式で、貴族の息子たちから執拗に追いかけられている絶世の美女に出会い、彼女の窮地を助ける。 その縁で絶世の美女ことアデリーナ第三王女から「兄と結婚してもらいたい」とお願いされたものの、その相手とは、病弱で社交界にも公務にも出られない第五王子フィオリーノのことだった。 でも、アデリーナとフィオリーノ――王家の兄妹には何やら秘密がありそうで……。 「おとぎ話ではないから、この呪いは真実の愛なんかでは解くことができないんだ」 「どんな姿のフィオでも、私は構わないよ」 可愛いもの大好きな男装令嬢と、呪いを解きたくて仕方ない王子様の、すれ違い婚姻譚。 【要注意】 昼夜逆転TSF、似非百合(盛大なネタバレゆえに、好物な方・気にならない方はそのままお読みください。苦手な方は回れ右) 獣化する人間あり(もふもふしていますがメインではないです) 他でも更新しています。

溺愛の始まりは魔眼でした。騎士団事務員の貧乏令嬢、片想いの騎士団長と婚約?!

恋愛
 男爵令嬢ミナは実家が貧乏で騎士団の事務員と騎士団寮の炊事洗濯を掛け持ちして働いていた。ミナは騎士団長オレンに片想いしている。バレないようにしつつ長年真面目に働きオレンの信頼も得、休憩のお茶まで一緒にするようになった。  ある日、謎の香料を口にしてミナは魔法が宿る眼、魔眼に目覚める。魔眼のスキルは、筋肉のステータスが見え、良い筋肉が目の前にあると相手の服が破けてしまうものだった。ミナは無類の筋肉好きで、筋肉が近くで見られる騎士団は彼女にとっては天職だ。魔眼のせいでクビにされるわけにはいかない。なのにオレンの服をびりびりに破いてしまい魔眼のスキルを話さなければいけない状況になった。  全てを話すと、オレンはミナと協力して魔眼を治そうと提案する。対処法で筋肉を見たり触ったりすることから始まった。ミナが長い間封印していた絵描きの趣味も魔眼対策で復活し、よりオレンとの時間が増えていく。片想いがバレないようにするも何故か魔眼がバレてからオレンが好意的で距離も近くなり甘やかされてばかりでミナは戸惑う。別の日には我慢しすぎて自分の服を魔眼で破り真っ裸になった所をオレンに見られ彼は責任を取るとまで言いだして?! ※結構ふざけたラブコメです。 恋愛が苦手な女性シリーズ、前作と同じ世界線で描かれた2作品目です(続きものではなく単品で読めます)。今回は無自覚系恋愛苦手女性。 ヒロインによる一人称視点。全56話、一話あたり概ね1000~2000字程度で公開。 前々作「訳あり女装夫は契約結婚した副業男装妻の推し」前作「身体強化魔法で拳交える外交令嬢の拗らせ恋愛~隣国の悪役令嬢を妻にと連れてきた王子に本来の婚約者がいないとでも?~」と同じ時代・世界です。 ※小説家になろう、ノベルアップ+にも投稿しています。※R15は保険です。

【完結】転生令嬢はハッピーエンドを目指します!

かまり
恋愛
〜転生令嬢 2 〜 連載中です! 「私、絶対幸せになる!」 不幸な気持ちで死を迎えた少女ティアは 精霊界へいざなわれ、誰に、何度、転生しても良いと案内人に教えられると ティアは、自分を愛してくれなかった家族に転生してその意味を知り、 最後に、あの不幸だったティアを幸せにしてあげたいと願って、もう一度ティアの姿へ転生する。 そんなティアを見つけた公子は、自分が幸せにすると強く思うが、その公子には大きな秘密があって… いろんな事件に巻き込まれながら、愛し愛される喜びを知っていく。そんな幸せな物語。 ちょっと悲しいこともあるけれど、ハッピーエンドを目指してがんばります! 〜転生令嬢 2〜 「転生令嬢は宰相になってハッピーエンドを目指します!」では、 この物語の登場人物の別の物語が現在始動中!

辺境伯へ嫁ぎます。

アズやっこ
恋愛
私の父、国王陛下から、辺境伯へ嫁げと言われました。 隣国の王子の次は辺境伯ですか… 分かりました。 私は第二王女。所詮国の為の駒でしかないのです。 例え父であっても国王陛下には逆らえません。 辺境伯様… 若くして家督を継がれ、辺境の地を護っています。 本来ならば第一王女のお姉様が嫁ぐはずでした。 辺境伯様も10歳も年下の私を妻として娶らなければいけないなんて可哀想です。 辺境伯様、大丈夫です。私はご迷惑はおかけしません。 それでも、もし、私でも良いのなら…こんな小娘でも良いのなら…貴方を愛しても良いですか?貴方も私を愛してくれますか? そんな望みを抱いてしまいます。  ❈ 作者独自の世界観です。  ❈ 設定はゆるいです。  (言葉使いなど、優しい目で読んで頂けると幸いです)  ❈ 誤字脱字等教えて頂けると幸いです。  (出来れば望ましいと思う字、文章を教えて頂けると嬉しいです)

宮廷外交官の天才令嬢、王子に愛想をつかれて婚約破棄されたあげく、実家まで追放されてケダモノ男爵に読み書きを教えることになりました

悠木真帆
恋愛
子爵令嬢のシャルティナ・ルーリックは宮廷外交官として日々忙しくはたらく毎日。 クールな見た目と頭の回転の速さからついたあだ名は氷の令嬢。 婚約者である王子カイル・ドルトラードを長らくほったらかしてしまうほど仕事に没頭していた。 そんなある日の夜会でシャルティナは王子から婚約破棄を宣言されてしまう。 そしてそのとなりには見知らぬ令嬢が⋯⋯ 王子の婚約者ではなくなった途端、シャルティナは宮廷外交官の立場まで失い、見かねた父の強引な勧めで冒険者あがりの男爵のところへ行くことになる。 シャルティナは宮廷外交官の実績を活かして辣腕を振るおうと張り切るが、男爵から命じられた任務は男爵に文字の読み書きを教えることだった⋯⋯

お兄様の指輪が壊れたら、溺愛が始まりまして

みこと。
恋愛
お兄様は女王陛下からいただいた指輪を、ずっと大切にしている。 きっと苦しい片恋をなさっているお兄様。 私はただ、お兄様の家に引き取られただけの存在。血の繋がってない妹。 だから、早々に屋敷を出なくては。私がお兄様の恋路を邪魔するわけにはいかないの。私の想いは、ずっと秘めて生きていく──。 なのに、ある日、お兄様の指輪が壊れて? 全7話、ご都合主義のハピエンです! 楽しんでいただけると嬉しいです! ※「小説家になろう」様にも掲載しています。

【完結】冷酷眼鏡とウワサされる副騎士団長様が、一直線に溺愛してきますっ!

楠結衣
恋愛
触ると人の心の声が聞こえてしまう聖女リリアンは、冷酷と噂の副騎士団長のアルバート様に触ってしまう。 (リリアン嬢、かわいい……。耳も小さくて、かわいい。リリアン嬢の耳、舐めたら甘そうだな……いや寧ろ齧りたい……) 遠くで見かけるだけだったアルバート様の思わぬ声にリリアンは激しく動揺してしまう。きっと聞き間違えだったと結論付けた筈が、聖女の試験で必須な魔物についてアルバート様から勉強を教わることに──! (かわいい、好きです、愛してます) (誰にも見せたくない。執務室から出さなくてもいいですよね?) 二人きりの勉強会。アルバート様に触らないように気をつけているのに、リリアンのうっかりで毎回触れられてしまう。甘すぎる声にリリアンのドキドキが止まらない! ところが、ある日、リリアンはアルバート様の声にうっかり反応してしまう。 (まさか。もしかして、心の声が聞こえている?) リリアンの秘密を知ったアルバート様はどうなる? 二人の恋の結末はどうなっちゃうの?! 心の声が聞こえる聖女リリアンと変態あまあまな声がダダ漏れなアルバート様の、甘すぎるハッピーエンドラブストーリー。 ✳︎表紙イラストは、さらさらしるな。様の作品です。 ✳︎小説家になろうにも投稿しています♪

処理中です...