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「……え? どうして?」
眠っているはずのフィオリーノがいない。部屋のどこにもその姿がない。リーナから床に降ろされ、ルーチェは困惑したまま彼女を見上げる。
「どういう、こと?」
「ここにフィオリーノはいないの」
「フィオ王子は、どこ? どこにいる?」
リーナは窓に近づき、カーテンを開ける。明るいような暗いような茜色が窓の外に見える。ちょうど日が落ちていく頃合いなのだが、その美しい夕焼けを見ることなく、ルーチェはリーナを見つめる。
「まさか病気が悪化して朱の宮殿に移ったとでも?」
「いいえ、フィオはずっとここにいるわ」
「……何を、言って……」
ルーチェの思考が止まる。何しろ、この部屋にはルーチェとリーナしかいないのだ。アディは隣の支度室。この部屋のどこかにフィオが隠れているとでも言うのだろうか。
「そろそろ、かしら」
何が、と問おうとした瞬間に、窓から橙色が消えた。
「ルーチェ、僕の可愛い葡萄の妖精さん。絶対に、僕から目を逸らさないで」
同じ言葉を、夢の中で聞いた。この台詞のような言葉は、二回目だ。ルーチェは目を丸くする。夢で見た光景が、もう一度繰り返されていたからだ。
リーナの胸が平らになり、腕や腹がきしむような音を立てる。丸みを帯びた女性の体が、喉仏のある角ばった男性の体へと転じていく。
そうして一瞬のうちに現れたのは、リーナではない。この部屋の主であるフィオリーノだ。どこからどう見ても、夢で見たものと同じ姿だ。
「二回目なんだから、もうそろそろ慣れてくれると嬉しいんだけどな」
「……え? えっ? これも夢?」
「今日、熱はある? じゃあ、夢じゃないんじゃないかな?」
ルーチェはフィオの姿を見つめながら、頬をつねる。痛い。両手でパンと頬を叩く。どうしても、痛い。熱もない。
「覚えてる? 前は服が破れたけど、今回は破れていないでしょう? 星の別邸で着るものは、こうでなくちゃいけないんだ。僕たちは昼と夜で体型が変わるからね」
若草色のワンピースの下にある厚い胸板と筋肉質な腕に、ルーチェはようやく「病弱な王子様」が偽りであることを知る。
「まさか、これが、呪い?」
「そう。僕たちの秘密だよ。さて、お腹が空いたね。夕食でも食べながら話そうか?」
ルーチェが無言のまま頷くと、フィオはするりと手を取る。その滑らかさと、右手の手のひらの硬い部分は二人とも同じだ。兄妹だから似たのではない。同一人物だったから、同じで当たり前だったのだ。
リーナと出会ってから今までのことを思い返し、ルーチェはあまりの恥ずかしさに泣きそうになる。フィオのことが好きだと言ったり、キスをしたり、ハグをしたり――リーナにしたことはすべて、フィオにしたことだったのだ。
若草色の可愛いワンピースを着たフィオに支えられて支度室へ向かいながら、ルーチェはただ羞恥に打ち震える。
「あぁ、もう、意気地なしのお兄様。わたくしが言う通り、さっさと伝えてしまったほうが良かったでしょう?」
隣の支度室にいたのは、金色の猫ではない。部屋着を来て、腕と足を組んで、ソファに座った――。
「えっ!? リーナ!?」
「この姿では初めまして、ルーチェ。わたくしがアデリーナ王女です。昼間は猫の姿だと言ったほうが話が早いかしら?」
「ええっ!?」
目の前にいるリーナは、昼のリーナとは違う。リーナに似ているが、リーナではない。
――待って。混乱してきた。
「つまり、僕は昼間は女、夜は男。アデリーナは、昼間は猫、夜は女の姿になるんだ。呪いのせいでね。こんな僕たちは気持ち悪い?」
「え……ええと」
「気味が悪い?」
「大丈夫。ちょっと驚いているだけ。気持ち悪くも、気味が悪くも、ない、かな」
「……良かった。嫌われてはいないと思っていいんだね?」
フィオは嬉しそうに微笑む。ようやく零れた笑顔からは安堵の色が見える。
「もちろん、王家の秘密を知ったからには、僕との婚約を解消することはできない。つまり、僕と絶対に結婚しなければならないのだけれど……それでもいい?」
「……はい」
うっかり口を滑らせた「はい」ではない。兄妹で愛し合っていることを知らされるより、呪いのせいで昼夜で性別が逆転するほうがずっとマシだとルーチェは思う。多少の不自由は、最初から覚悟の上だ。「リーナ」のことも嫌いではない。
つまり、ルーチェには婚約を解消する理由がないのだ。
「じゃあ、着替えるから二人は先に執務室に行ってくれると嬉しいな」
「あっ、ごめんなさい」
フィオの言葉で、ルーチェとアデリーナは執務室へと向かう。初めて見る居室よりも、いつもの部屋で夕食を食べるほうがいいと判断されたのだろう。アデリーナはそのまま廊下にいるディーノに事情を説明しに行った。
道理で、支度室には男物と女物の服がごちゃごちゃと置いてあったのだとルーチェは思い至る。猫になるアディと違い、フィオにはどちらも必要なのだ。
――なるほど。
不思議と気持ちが落ち着いているルーチェである。
フィオとリーナが同一人物であるとすると、合点がいくことが多々ある。アリーチェの結婚披露宴で踊ったのはリーナの姿をしたフィオで、その際に求婚をしてきたのはフィオの意志。コルヴォに対して妙に対抗心を燃やしていたのは嫉妬していたからで、「フィオのことが好きか」と執拗に聞いてきたのは不安だったから。
「お兄様のことを許してあげてちょうだい、とはわたくしの口からは言えないわね。あなたを騙していたことに変わりはないんだもの」
アデリーナとリーナ――フィオはよく似ているが、髪の色も瞳の色も若干異なる。アデリーナの瞳は少し吊り目がちで、冷たい印象を受ける。リーナのほうからは人懐こさを感じるのだ。
近くに座るアデリーナからは、柑橘の匂いはしない。ルーチェには猫の嗅覚がどれほどのものかはわからないが、アデリーナは香水を好まないのかもしれないと考える。今までアディからは何の匂いもしなかったからだ。
「私も、自分を偽っているところがありましたので」
「可愛いものが好きだってこと? そんなの、ルーチェのことをしっかりと見ていたらすぐにわかることでしょう。気づかなかったお兄様が悪いの。わたくしたちの嘘と、あなたの嘘は別物よ」
アデリーナはふんぞり返っている。まるでアディがそこに座っているかのように錯覚し、ルーチェは微笑む。
「王女殿下は、本当にアディなのですね」
「そうよ。可愛らしさは変わらないでしょう」
「ええ。油断すると撫でてしまいたくなります」
「わたくし、ルーチェの手のひらが好きなの。この姿のときも特別に撫でても構わなくてよ?」
アディがそうするように、アデリーナもルーチェの手のひらを自分の頭に載せようとする。戸惑うルーチェに、アデリーナは構うことなくむぎゅと抱きつく。
「アデリーナ!!」
扉のほうからずんずんと歩いてくるのは、着替え終わったフィオだ。
「ルーチェは僕の婚約者だと、何度言ったら……!」
「あら。わたくしは未来のお義姉様と仲良くしたいだけなのに、お兄様ったら酷いわね」
「邪魔をするなら、ジラルドと同じように花と蔦の宮殿に引っ越してもらっても構わないんだよ!?」
「これだから余裕のない男って嫌よね。ルーチェもそう思わない? 独占欲が過ぎると嫌われるわよ」
「んなっ……それは、困る」
急にしおらしくなったフィオを見て、アデリーナは「ふふん」と勝ち誇ったかのような表情を浮かべる。このやり取りだけで、ルーチェは兄妹の上下関係を把握するに至る。
「食事の用意ができました」というディーノの言葉で、三人のお腹はぐぅと鳴る。それは長い夜の、始まりの合図のようだった。
眠っているはずのフィオリーノがいない。部屋のどこにもその姿がない。リーナから床に降ろされ、ルーチェは困惑したまま彼女を見上げる。
「どういう、こと?」
「ここにフィオリーノはいないの」
「フィオ王子は、どこ? どこにいる?」
リーナは窓に近づき、カーテンを開ける。明るいような暗いような茜色が窓の外に見える。ちょうど日が落ちていく頃合いなのだが、その美しい夕焼けを見ることなく、ルーチェはリーナを見つめる。
「まさか病気が悪化して朱の宮殿に移ったとでも?」
「いいえ、フィオはずっとここにいるわ」
「……何を、言って……」
ルーチェの思考が止まる。何しろ、この部屋にはルーチェとリーナしかいないのだ。アディは隣の支度室。この部屋のどこかにフィオが隠れているとでも言うのだろうか。
「そろそろ、かしら」
何が、と問おうとした瞬間に、窓から橙色が消えた。
「ルーチェ、僕の可愛い葡萄の妖精さん。絶対に、僕から目を逸らさないで」
同じ言葉を、夢の中で聞いた。この台詞のような言葉は、二回目だ。ルーチェは目を丸くする。夢で見た光景が、もう一度繰り返されていたからだ。
リーナの胸が平らになり、腕や腹がきしむような音を立てる。丸みを帯びた女性の体が、喉仏のある角ばった男性の体へと転じていく。
そうして一瞬のうちに現れたのは、リーナではない。この部屋の主であるフィオリーノだ。どこからどう見ても、夢で見たものと同じ姿だ。
「二回目なんだから、もうそろそろ慣れてくれると嬉しいんだけどな」
「……え? えっ? これも夢?」
「今日、熱はある? じゃあ、夢じゃないんじゃないかな?」
ルーチェはフィオの姿を見つめながら、頬をつねる。痛い。両手でパンと頬を叩く。どうしても、痛い。熱もない。
「覚えてる? 前は服が破れたけど、今回は破れていないでしょう? 星の別邸で着るものは、こうでなくちゃいけないんだ。僕たちは昼と夜で体型が変わるからね」
若草色のワンピースの下にある厚い胸板と筋肉質な腕に、ルーチェはようやく「病弱な王子様」が偽りであることを知る。
「まさか、これが、呪い?」
「そう。僕たちの秘密だよ。さて、お腹が空いたね。夕食でも食べながら話そうか?」
ルーチェが無言のまま頷くと、フィオはするりと手を取る。その滑らかさと、右手の手のひらの硬い部分は二人とも同じだ。兄妹だから似たのではない。同一人物だったから、同じで当たり前だったのだ。
リーナと出会ってから今までのことを思い返し、ルーチェはあまりの恥ずかしさに泣きそうになる。フィオのことが好きだと言ったり、キスをしたり、ハグをしたり――リーナにしたことはすべて、フィオにしたことだったのだ。
若草色の可愛いワンピースを着たフィオに支えられて支度室へ向かいながら、ルーチェはただ羞恥に打ち震える。
「あぁ、もう、意気地なしのお兄様。わたくしが言う通り、さっさと伝えてしまったほうが良かったでしょう?」
隣の支度室にいたのは、金色の猫ではない。部屋着を来て、腕と足を組んで、ソファに座った――。
「えっ!? リーナ!?」
「この姿では初めまして、ルーチェ。わたくしがアデリーナ王女です。昼間は猫の姿だと言ったほうが話が早いかしら?」
「ええっ!?」
目の前にいるリーナは、昼のリーナとは違う。リーナに似ているが、リーナではない。
――待って。混乱してきた。
「つまり、僕は昼間は女、夜は男。アデリーナは、昼間は猫、夜は女の姿になるんだ。呪いのせいでね。こんな僕たちは気持ち悪い?」
「え……ええと」
「気味が悪い?」
「大丈夫。ちょっと驚いているだけ。気持ち悪くも、気味が悪くも、ない、かな」
「……良かった。嫌われてはいないと思っていいんだね?」
フィオは嬉しそうに微笑む。ようやく零れた笑顔からは安堵の色が見える。
「もちろん、王家の秘密を知ったからには、僕との婚約を解消することはできない。つまり、僕と絶対に結婚しなければならないのだけれど……それでもいい?」
「……はい」
うっかり口を滑らせた「はい」ではない。兄妹で愛し合っていることを知らされるより、呪いのせいで昼夜で性別が逆転するほうがずっとマシだとルーチェは思う。多少の不自由は、最初から覚悟の上だ。「リーナ」のことも嫌いではない。
つまり、ルーチェには婚約を解消する理由がないのだ。
「じゃあ、着替えるから二人は先に執務室に行ってくれると嬉しいな」
「あっ、ごめんなさい」
フィオの言葉で、ルーチェとアデリーナは執務室へと向かう。初めて見る居室よりも、いつもの部屋で夕食を食べるほうがいいと判断されたのだろう。アデリーナはそのまま廊下にいるディーノに事情を説明しに行った。
道理で、支度室には男物と女物の服がごちゃごちゃと置いてあったのだとルーチェは思い至る。猫になるアディと違い、フィオにはどちらも必要なのだ。
――なるほど。
不思議と気持ちが落ち着いているルーチェである。
フィオとリーナが同一人物であるとすると、合点がいくことが多々ある。アリーチェの結婚披露宴で踊ったのはリーナの姿をしたフィオで、その際に求婚をしてきたのはフィオの意志。コルヴォに対して妙に対抗心を燃やしていたのは嫉妬していたからで、「フィオのことが好きか」と執拗に聞いてきたのは不安だったから。
「お兄様のことを許してあげてちょうだい、とはわたくしの口からは言えないわね。あなたを騙していたことに変わりはないんだもの」
アデリーナとリーナ――フィオはよく似ているが、髪の色も瞳の色も若干異なる。アデリーナの瞳は少し吊り目がちで、冷たい印象を受ける。リーナのほうからは人懐こさを感じるのだ。
近くに座るアデリーナからは、柑橘の匂いはしない。ルーチェには猫の嗅覚がどれほどのものかはわからないが、アデリーナは香水を好まないのかもしれないと考える。今までアディからは何の匂いもしなかったからだ。
「私も、自分を偽っているところがありましたので」
「可愛いものが好きだってこと? そんなの、ルーチェのことをしっかりと見ていたらすぐにわかることでしょう。気づかなかったお兄様が悪いの。わたくしたちの嘘と、あなたの嘘は別物よ」
アデリーナはふんぞり返っている。まるでアディがそこに座っているかのように錯覚し、ルーチェは微笑む。
「王女殿下は、本当にアディなのですね」
「そうよ。可愛らしさは変わらないでしょう」
「ええ。油断すると撫でてしまいたくなります」
「わたくし、ルーチェの手のひらが好きなの。この姿のときも特別に撫でても構わなくてよ?」
アディがそうするように、アデリーナもルーチェの手のひらを自分の頭に載せようとする。戸惑うルーチェに、アデリーナは構うことなくむぎゅと抱きつく。
「アデリーナ!!」
扉のほうからずんずんと歩いてくるのは、着替え終わったフィオだ。
「ルーチェは僕の婚約者だと、何度言ったら……!」
「あら。わたくしは未来のお義姉様と仲良くしたいだけなのに、お兄様ったら酷いわね」
「邪魔をするなら、ジラルドと同じように花と蔦の宮殿に引っ越してもらっても構わないんだよ!?」
「これだから余裕のない男って嫌よね。ルーチェもそう思わない? 独占欲が過ぎると嫌われるわよ」
「んなっ……それは、困る」
急にしおらしくなったフィオを見て、アデリーナは「ふふん」と勝ち誇ったかのような表情を浮かべる。このやり取りだけで、ルーチェは兄妹の上下関係を把握するに至る。
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