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014.

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「おい、ルッカ。どうした、そのへっぴり腰! そんなんじゃあ麗しの婚約者様を守ることなんてできないんじゃないかぁ?」

 汗だくで鉄製の盾を引きずりながら、ルーチェは大声で自分を煽る筋肉質な男を見上げた。同じ盾を二つも担ぎ、褐色の肌を惜しげもなく晒す上半身裸の男を、ルーチェは忌々しい目で睨む。

「ここ、一ヶ月、鍛錬、してなかっ」
「鍛えていなかったことを言い訳にするなぁ!」
「はい、はい……」
「はいは一回だ!」

 男は広大な庭を走っていく。彼が鍛錬を行なうために手入れした庭は、あちこちに障害物や木製の何かが置かれている。騎士団の稽古場のような貴族の邸らしからぬ庭を走らされ、ルーチェはハァハァと荒い呼吸のまま、木陰に避難する。

 ――王宮を臨むことができる広大な庭を息子のために鍛錬場にするなんて、侯爵は何を考えているのやら。

 ラルゴーゾラ侯爵家の街邸は王宮の近くにあるため、木陰からでも朱の宮殿の屋根が見える。ミレフォリア公爵家はもっと近かったため壁の色まで見えていたが、コレモンテ伯爵家からは王宮は全く見ることができない。
 それが権力というものだ。侯爵家の嫡男が、伯爵家の令嬢に盾を渡して「走るぞ」と誘うのも、権力の大小が影響しているのだ。そんなふうに嘆きながら、ルーチェは汗を拭う。

「ルーチェ様、風呂と着替えの用意ができました。ヴァレリオ様に気づかれないように、どうぞ」
「ありがとう、アルロット。恩に着るよ」

 遠くまで走っていったヴァレリオに見つからないよう、この邸の執事アルロットに促されてルーチェは邸の中へとこっそり戻っていく。そうして、汗でびっしょりと濡れた服を脱ぎ、来客用の風呂を使わせてもらうことにするのだ。

 ラルゴーゾラ侯爵は『魔境』に隣接する大半の土地を治めている。コレモンテ伯爵とは協力関係にある貴族であり、その長男があの暑苦しいヴァレリオなのだ。

「何だ、お前。一ヶ月も鍛錬していないのか。噂ではアデリーナ様と出かけてばかりだと聞いているぞ。まったく、羨ましいことだな!」

 同じように風呂で汗を流したヴァレリオが、やはり上半身裸のまま応接室に現れる。彼の半裸も見慣れたもので、ルーチェは気にせず果実水を飲んでいる。

「羨ましい? ヴァレリオ、もしかして」
「それにしても、ルッカが王子妃とはなぁ! このまま男として生きていくよりも良かったじゃないか!」
「別に男として生きていきたいわけじゃないんだけど」

 ヴァレリオはどっかりと大きめの椅子に座り、水を飲む。零れた水が肌を伝っても気にしない性格だ。
 ルーチェとヴァレリオは幼馴染だ。『魔境』と国境を治める父親同士の関係から、何度か婚約の話が出たこともある。しかし、ヴァレリオは「俺には心に決めた人がいる!」と譲らず、ルーチェも「彼と結婚するくらいなら家を出る」と公言して憚らなかった。二人はただの幼馴染で、身分を超えた友達なのだ。そこに恋愛感情は一切ない。

「羨ましいなんて言うってことは、ヴァレリオの言う『心に決めた人』って」
「あぁ、そうだとも。アデリーナ様だ。しかし、アリーチェの結婚式でもお会いしたが、アデリーナ様は俺の顔を忘れてしまったらしい。金色の猫を抱えてどこかへ行ってしまわれた」
「その濃い顔、一度見たら忘れないと思うけど」

 ヴァレリオから心に決めた人がいるということは再三聞いていたが、その相手がリーナであることはルーチェも知らなかった。その絶世の美女とダンスをしたことも、仲良くしていることも、彼には黙っていたほうが得策のようだ。

「で、どうした? とうとうアデリーナ様が俺のことを思い出してくれたか?」
「いや、全然。一度『魔境』の話になったときにも特に何も言われなかったな」
「なんと!」

 ヴァレリオは露骨に肩を落として残念がる。長年片想いをしている相手に、自分の存在すら忘れられているというのだから気落ちするのも仕方がない。
 だが、ヴァレリオはそういう男ではない。立ち直りだけは大変早いことを、ルーチェはよく知っている。

「あの夜、一緒に将来の愛を誓い合った仲だというのに! まぁ、俺があまりに格好いいから、アデリーナ様も照れておられるのであろう。どれだけ無視されようとも、功績を上げ、いつかアデリーナ様を口説き落としてみせよう!」
「私、あなたのそういう前向きな性格だけは尊敬するよ。真似できないや。それはともかく、『魔境』の話なんだけれど」

 ヴァレリオの太い眉がピクリと動く。いずれラルゴーゾラ侯爵となる彼が、『魔境』の話を避けることはない。それだけ、侯爵領は『魔境』と切っても切り離せない場所である。

「『魔境』から現れた魔の者は、戯れに人間に魔法をかけることがあるの?」
「戯れに人間を害する魔法をかけるようなことはない。そんなことをすれば、人間たちが『魔境』に攻め入ってくることを理解しているからな、彼らは。だが、理由があれば、違うのだろう」
「理由?」

 ヴァレリオは腕を組み、眉間に皺を寄せる。

「彼らは人間とは異なる理の中に生きている。矜持もある。それを踏みにじられたり、奪われたりしたら、それなりの報復がある」
「例えば?」
「そうだな。最近で言うと、山菜取りで緑青の樹獣の縄張りに入り込んでしまった老人が、王都まで移動させられたことがあった。馬車で戻ってくることができて良かったよ。魔獣同士の縄張り争いに巻き込まれた村もあったな。あれは結局村人たちが魔獣を排除しようとしたために起こった悲劇だった。獣人を奴隷にしようとした商人が殺されたこともあったが、それはまぁ、当然の結果だろうな」

 人間と共生している魔の者もいる、とヴァレリオは言う。『魔境』に近い町や村では、獣人や魔人が労働力の一つとなっていることが多いらしい。人間との混血である獣人や魔人は、『魔境』にあるものも、人間の里にあるものも食べられるのだという。つまり、餌に苦労しないのだ。
 コレモンテ伯爵領は『魔境』との接地面積が小さいため、ラルゴーゾラ侯爵領ほど魔の者たちが馴染んでいる土地ではない。だから、ルーチェには新鮮な話となっている。

「魔の者と、交わる人間もいるんだろう?」
「稀にな。しかし、異種族ゆえに子どもができるとは限らない。獣人も魔人も数が少ないからな。精神的な、心の拠り所となるような関係性のほうが多いのだろう」
「なるほど……黒髪の魔女と緋色の魔獣は、最近も散歩しているのか?」
「ああ。頻繁ではないが」

 なるほど、とルーチェは唸る。魔女と魔獣はまだ健在らしい。

「魔の者にかけられた魔法は、どうやったら解けるんだ?」
「そりゃ、かけられた魔法の種類にもよるだろう。樹獣の場合は老人に縄張りから出ていってもらいたかっただけだろうし、奴隷にされそうになった獣人には、商人を殺すほどの怨嗟があったのだろう。まぁ、目的を達成すれば、魔の者の魔法は消えるのが一般的だな」

 緋色の魔獣にはどんな目的があったのか、こればかりは魔獣に聞いてみないとわからない。

 ――やはり、緋色の魔獣を探さないといけないのか。

 年に数回しか現れない緋色の魔獣と遭遇するのは至難の業だ。「魔獣が現れた」という情報を得て侯爵領や伯爵領に向かっても、移動に時間がかかりすぎる。結婚式までに緋色の魔獣と話ができる可能性は低い。

「何だ、ルッカ。お前、『魔境』や魔の者について調べているのか?」
「え、ああ、ちょっと興味が出てきてね」
「ならば、俺の姉上に聞けばいいじゃないか」

 ヴァレリオは、応接室の隅で控えているアルロットに目配せをする。
 ヴァレリオの姉はルーチェもよく知っている。侯爵家の嫡女であるにも関わらず、家督を弟に譲り、結婚もせずに研究をしている変わり者だ。

「ロゼッタ姉様に? 姉様は今ラルゴーゾラにいるんじゃないか?」
「いや、姉上は国立調査団に入団して『魔境』について調べているんだよ。だから、今は俺が領地に残っているんだ。今日はたまたま王都に用があったから応対できたが、いつもいるとは限らないからな」

 アルロットがヴァレリオに紙とペンを渡すと、すぐに国立調査団のロゼッタ宛ての手紙――紹介状を書き始める。国立の施設に入るには、親族の一筆が一番効果的なのだ。

「これを持っていくといい。ただし、タダでとは言わん」
「……わかったよ。リーナにそれとなくヴァレリオのことを聞いてみるよ」
「ぬるい! 茶会か夜会に招待してくれ! 頼む!」
「えぇー面倒くさいなぁ」

 しかし、結局はルーチェが折れる形でヴァレリオの願いを了承することになる。「アデリーナ様をリーナと呼んでいるのか! けしからん!」と鬱陶しく絡まれてしまったためだ。

 ――ごめん、リーナ!

 心の中でリーナに謝りながら、ルーチェはヴァレリオの姉ロゼッタへの手紙を抱きしめるのだった。


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