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王家との婚約が決まってから、コレモンテ伯爵家は一層忙しくなった――わけではない。国内外から婚約祝いの手紙は多く届いたが、返信できる程度のものだ。ルーチェの相手が病弱なフィオリーノ王子ということで、結婚式は身内だけで行なわれ、公爵家との結婚披露宴と比べると規模はかなり縮小されることが決定した。姉のアリーチェよりも目立つ式はしたくないというルーチェの願いと、病弱な自分を人目に晒したくないというフィオの思惑が合致したのだ。
婚姻に関わる費用はすべて王家が負担することも正式に決まった。星の別邸の改装も必要なため潤沢とは言い難いものの、公爵家との結婚で費用を捻出したばかりの伯爵家にとってはありがたい申し出であった。
「コレモンテ伯爵夫人、明日までルーチェをお借りしますわね!」
「ええ、どうぞ。行ってらっしゃいませ、王女殿下。ルーチェもしっかりご挨拶してくるのよ。今夜は国王陛下にお会いする日でしょう」
「はい、行ってまいります。リーナ王女、お待ちください、靴紐が解けて」
伯爵家には毎日のようにリーナがやってきて、星の別邸で針子たちに採寸をさせたり、馬車に乗せて連れ回したり、非公式の茶会を催したりして、ルーチェを振り回す慌ただしい日々が一月ほど続いていた。
フィオには三日に一度程度の頻度で会っているものの、今のところ、リーナやアディと過ごす時間のほうが圧倒的に多い。
もちろん、リーナが未来の義妹だから渋々付き合っているのではない。リーナとの外出は楽しく、ルーチェも気負わずに会うことができる。もう長年の友人のような気さえし始めている。
今日も二人はいつも通り馬車に乗り込む。靴紐は結わえた。アディは今日は乗っていない。あの東屋で寝ているのだろう。
今夜は国王陛下と王妃殿下に婚約の報告をする日だ。夜、フィオが起きてからの予定となっている。
「んもう、ルーチェったら、リーナで構わないって何度も言わせないで。次『王女』とか『様』をつけたら『お義姉様』って呼ぶわよ」
それは嫌だ、とルーチェは首を左右に振る。そうして、仕方なく義妹の名を呼ぶ。
「わかりました、リーナ」
「そんな気負った口調もナシよ、お義姉様」
「……わかったよ、リーナ」
兄と婚約をしたのだから、とリーナは容赦がない。馬車に乗り込むたびに、今日はどこへ連れて行かれるのかヒヤヒヤドキドキしているルーチェだ。
今日の馬車は王家のものではなくコレモンテ伯爵家のものを使うようだ。王家の馬車だと目立つため、貴族街から外へ出ていくときはよく貴族の馬車を使うのだ。つまり、行き先は貴族街の外。
「今日はどこへ向かうのかな?」
「花鳥歌劇団よ」
「かっ、花鳥歌劇団っ? 今はなかなか予約が取れないのに?」
「……そうね。もちろん、嫌なら無理して行かなくてもいいわよ」
「リーナ、ありがとう! 楽しみだなぁ! 演目は何だろう?」
観劇できると知って浮かれているルーチェは、リーナが乗り気でない様子であることに気づかない。リーナは窓の外を見ながら、何度も溜め息をつく。
王宮の周囲と、貴族街の周囲、そして平民区全体を囲む三つの壁で王都は構成されている。花鳥歌劇団は平民東区にあるため、一度貴族街の壁を越えなければならない。貴族街から平民区へ出る際は関所も簡単に通してくれる。しかし、逆は――平民区から貴族街へ入るには通行証が必要となる。安全のためだ。
馬車が関所を抜け、平民区へと入った途端にあたりが騒がしくなり、いい匂いが漂い始める。大通りには屋台が立ち並び、売り子も多い。貴族の馬車だと知るやいなや、「買ってくれ」とわらわらと物売りがやってくるものだ。
大通りの一角に花鳥歌劇団の劇場がある。劇場の正面出入口前では忙しなく馬車が行き交い、お洒落をした婦人たちが劇団に吸い込まれていく。しかし、馬車はエントランスではなく裏口へ回ったため、ルーチェは目を丸くする。
「まさか」
「そのまさかよ」
正面から入場すると、一階の長椅子席と、三階から七階にある個室席へ向かうことができるのだが、裏口から入場すると二階の特別席へ直通する通路があるのだ。
舞台の正面に位置する二階特別席は、王族とその招待客しか入室することができない特別な個室となっている。もちろん、ルーチェにとっては初めての経験である。
裏口を守る屈強な兵の横を通り扉をくぐると、既に案内役の女性がいる。「お待ちしておりました、ご案内いたします」と促され、二人は一本道の廊下を行く。
初めて通る場所にルーチェは興味津々だ。特別席以外にもいくつか部屋があるようで、ルーチェはこっそりリーナに耳打ちする。
「特別席以外にも、個室があるんだね」
「ええ。二階は王侯貴族が密会をするための場所でもあるの。もちろん、王族に招かれた客しか入れないのだけれど」
なるほど、とルーチェは唸る。屈強な兵が雇われているのはそういう理由があるのだ。
そうして、たどり着いた特別席は、ルーチェが利用したことがある階上個室席よりも広く、目の前に舞台が見えるほど開放感溢れる場所だ。もちろん、調度品も一級品ばかり。テーブルやソファもいくつかある。
「リーナ、遅かったじゃないの!」
「ほらほら、こっちへいらっしゃい、リーナちゃん」
正面テーブルを囲む大きなソファで既にお酒の瓶をあけている二人の婦人。ルーチェの背筋が伸びる。王族と招待客しか入ることができない部屋にいる女性たちが、普通の貴族のはずがないのだから。
「お待たせいたしました、クリスティーナ妃、マリアンナ妃。こちらがフィオの婚約者、ルーチェ嬢です」
「初めまして、ルーチェ・ブランディです」
クリスティーナ第二妃とマリアンナ第三妃は、グラスを片手に「フィオリーノの母ですー」「きゃー格好いいー」などと興奮した様子でルーチェを見つめる。隣で「酔っ払っているわね」とリーナの呆れたような声がした。酔っ払っているらしい。
「こちらがクリスティーナ妃。わたくしとフィオの母親ね」
「あなたがルーチェちゃんね? 会いたかったのよぉ、すごく。でも、リーナがなかなか会わせてくれなくて」
「仕方ないでしょう。わたくしもルーチェも忙しかったのだから」
どことなくフィオとリーナに似ている金髪の美人妃は、リーナから邪険にされて「あらあら」と困ったように微笑んでいる。
「こちらがマリアンナ妃。三番目のお妃様」
「ルーチェちゃん、いらっしゃい。今日は楽しみましょうね。何と言っても、コルヴォ様とオルテンシア様の組み合わせなんですもの!」
「と、見ての通り、二人とも花鳥歌劇団に夢中なのよ」
少女のようにきゃあきゃあと楽しそうに笑っている二人の妃を、ルーチェは微笑ましく眺める。同時に、自分の役割も理解する。男装をしている自分が妃たちをもてなすということなのだろう。
ルーチェが妃たちのテーブルへ向かおうとすると、リーナがその腕を掴む。そうして、別のテーブルの大きなソファに座らせる。驚いてリーナを見上げると、彼女は「顔見せ終了」と笑う。
「義理は果たしたのだから、酔っ払いは放っておけばいいのよ。どうせ開演したら舞台に釘付けになるんだもの」
「でも、せっかくだから……」
「ダーメ。ルーチェはわたくしと一緒に観劇するのよ。最初から最後までここにいるの。ね?」
隣に座り、むぎゅとルーチェと腕を組むリーナだ。妃たちは二人を気にしていない様子で、演目についてきゃあきゃあと話している。大変楽しそうだ。
ルーチェは困惑しつつも、リーナに従う。女性をもてなさないということに、若干の罪悪感すら感じてしまう性分なのだ。
「今日の演目は何かな?」
「『王と精霊の恋物語』よ! 毎年の春の定番演目ですのよ」
「コルヴォ様が王様役で、オルテンシア様が精霊役! 二人とも美しいんですよ」
どうやら離れていても会話はできるみたいだ。ルーチェとリーナは苦笑して、用意された果実水と菓子を口に運び始める。
一階長椅子席も、個室席も、ほとんどが埋まっており、身を乗り出しているのは皆女性客に見える。大盛況だ。
そうして、しばらくして、明かりが消え、舞台の幕が上がるのだった。
婚姻に関わる費用はすべて王家が負担することも正式に決まった。星の別邸の改装も必要なため潤沢とは言い難いものの、公爵家との結婚で費用を捻出したばかりの伯爵家にとってはありがたい申し出であった。
「コレモンテ伯爵夫人、明日までルーチェをお借りしますわね!」
「ええ、どうぞ。行ってらっしゃいませ、王女殿下。ルーチェもしっかりご挨拶してくるのよ。今夜は国王陛下にお会いする日でしょう」
「はい、行ってまいります。リーナ王女、お待ちください、靴紐が解けて」
伯爵家には毎日のようにリーナがやってきて、星の別邸で針子たちに採寸をさせたり、馬車に乗せて連れ回したり、非公式の茶会を催したりして、ルーチェを振り回す慌ただしい日々が一月ほど続いていた。
フィオには三日に一度程度の頻度で会っているものの、今のところ、リーナやアディと過ごす時間のほうが圧倒的に多い。
もちろん、リーナが未来の義妹だから渋々付き合っているのではない。リーナとの外出は楽しく、ルーチェも気負わずに会うことができる。もう長年の友人のような気さえし始めている。
今日も二人はいつも通り馬車に乗り込む。靴紐は結わえた。アディは今日は乗っていない。あの東屋で寝ているのだろう。
今夜は国王陛下と王妃殿下に婚約の報告をする日だ。夜、フィオが起きてからの予定となっている。
「んもう、ルーチェったら、リーナで構わないって何度も言わせないで。次『王女』とか『様』をつけたら『お義姉様』って呼ぶわよ」
それは嫌だ、とルーチェは首を左右に振る。そうして、仕方なく義妹の名を呼ぶ。
「わかりました、リーナ」
「そんな気負った口調もナシよ、お義姉様」
「……わかったよ、リーナ」
兄と婚約をしたのだから、とリーナは容赦がない。馬車に乗り込むたびに、今日はどこへ連れて行かれるのかヒヤヒヤドキドキしているルーチェだ。
今日の馬車は王家のものではなくコレモンテ伯爵家のものを使うようだ。王家の馬車だと目立つため、貴族街から外へ出ていくときはよく貴族の馬車を使うのだ。つまり、行き先は貴族街の外。
「今日はどこへ向かうのかな?」
「花鳥歌劇団よ」
「かっ、花鳥歌劇団っ? 今はなかなか予約が取れないのに?」
「……そうね。もちろん、嫌なら無理して行かなくてもいいわよ」
「リーナ、ありがとう! 楽しみだなぁ! 演目は何だろう?」
観劇できると知って浮かれているルーチェは、リーナが乗り気でない様子であることに気づかない。リーナは窓の外を見ながら、何度も溜め息をつく。
王宮の周囲と、貴族街の周囲、そして平民区全体を囲む三つの壁で王都は構成されている。花鳥歌劇団は平民東区にあるため、一度貴族街の壁を越えなければならない。貴族街から平民区へ出る際は関所も簡単に通してくれる。しかし、逆は――平民区から貴族街へ入るには通行証が必要となる。安全のためだ。
馬車が関所を抜け、平民区へと入った途端にあたりが騒がしくなり、いい匂いが漂い始める。大通りには屋台が立ち並び、売り子も多い。貴族の馬車だと知るやいなや、「買ってくれ」とわらわらと物売りがやってくるものだ。
大通りの一角に花鳥歌劇団の劇場がある。劇場の正面出入口前では忙しなく馬車が行き交い、お洒落をした婦人たちが劇団に吸い込まれていく。しかし、馬車はエントランスではなく裏口へ回ったため、ルーチェは目を丸くする。
「まさか」
「そのまさかよ」
正面から入場すると、一階の長椅子席と、三階から七階にある個室席へ向かうことができるのだが、裏口から入場すると二階の特別席へ直通する通路があるのだ。
舞台の正面に位置する二階特別席は、王族とその招待客しか入室することができない特別な個室となっている。もちろん、ルーチェにとっては初めての経験である。
裏口を守る屈強な兵の横を通り扉をくぐると、既に案内役の女性がいる。「お待ちしておりました、ご案内いたします」と促され、二人は一本道の廊下を行く。
初めて通る場所にルーチェは興味津々だ。特別席以外にもいくつか部屋があるようで、ルーチェはこっそりリーナに耳打ちする。
「特別席以外にも、個室があるんだね」
「ええ。二階は王侯貴族が密会をするための場所でもあるの。もちろん、王族に招かれた客しか入れないのだけれど」
なるほど、とルーチェは唸る。屈強な兵が雇われているのはそういう理由があるのだ。
そうして、たどり着いた特別席は、ルーチェが利用したことがある階上個室席よりも広く、目の前に舞台が見えるほど開放感溢れる場所だ。もちろん、調度品も一級品ばかり。テーブルやソファもいくつかある。
「リーナ、遅かったじゃないの!」
「ほらほら、こっちへいらっしゃい、リーナちゃん」
正面テーブルを囲む大きなソファで既にお酒の瓶をあけている二人の婦人。ルーチェの背筋が伸びる。王族と招待客しか入ることができない部屋にいる女性たちが、普通の貴族のはずがないのだから。
「お待たせいたしました、クリスティーナ妃、マリアンナ妃。こちらがフィオの婚約者、ルーチェ嬢です」
「初めまして、ルーチェ・ブランディです」
クリスティーナ第二妃とマリアンナ第三妃は、グラスを片手に「フィオリーノの母ですー」「きゃー格好いいー」などと興奮した様子でルーチェを見つめる。隣で「酔っ払っているわね」とリーナの呆れたような声がした。酔っ払っているらしい。
「こちらがクリスティーナ妃。わたくしとフィオの母親ね」
「あなたがルーチェちゃんね? 会いたかったのよぉ、すごく。でも、リーナがなかなか会わせてくれなくて」
「仕方ないでしょう。わたくしもルーチェも忙しかったのだから」
どことなくフィオとリーナに似ている金髪の美人妃は、リーナから邪険にされて「あらあら」と困ったように微笑んでいる。
「こちらがマリアンナ妃。三番目のお妃様」
「ルーチェちゃん、いらっしゃい。今日は楽しみましょうね。何と言っても、コルヴォ様とオルテンシア様の組み合わせなんですもの!」
「と、見ての通り、二人とも花鳥歌劇団に夢中なのよ」
少女のようにきゃあきゃあと楽しそうに笑っている二人の妃を、ルーチェは微笑ましく眺める。同時に、自分の役割も理解する。男装をしている自分が妃たちをもてなすということなのだろう。
ルーチェが妃たちのテーブルへ向かおうとすると、リーナがその腕を掴む。そうして、別のテーブルの大きなソファに座らせる。驚いてリーナを見上げると、彼女は「顔見せ終了」と笑う。
「義理は果たしたのだから、酔っ払いは放っておけばいいのよ。どうせ開演したら舞台に釘付けになるんだもの」
「でも、せっかくだから……」
「ダーメ。ルーチェはわたくしと一緒に観劇するのよ。最初から最後までここにいるの。ね?」
隣に座り、むぎゅとルーチェと腕を組むリーナだ。妃たちは二人を気にしていない様子で、演目についてきゃあきゃあと話している。大変楽しそうだ。
ルーチェは困惑しつつも、リーナに従う。女性をもてなさないということに、若干の罪悪感すら感じてしまう性分なのだ。
「今日の演目は何かな?」
「『王と精霊の恋物語』よ! 毎年の春の定番演目ですのよ」
「コルヴォ様が王様役で、オルテンシア様が精霊役! 二人とも美しいんですよ」
どうやら離れていても会話はできるみたいだ。ルーチェとリーナは苦笑して、用意された果実水と菓子を口に運び始める。
一階長椅子席も、個室席も、ほとんどが埋まっており、身を乗り出しているのは皆女性客に見える。大盛況だ。
そうして、しばらくして、明かりが消え、舞台の幕が上がるのだった。
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