【R18】勇者の姉君は塔の上

千咲

文字の大きさ
9 / 26
第一章

09.オルガに罵倒される王子

しおりを挟む
 セドリックが瓶からグラスに液体を注ぐ。カンテラの明かりに照らされた金色の液体が揺れている。セドリックから手渡されたグラスを取り、匂いを嗅ぐ。ふわり漂う甘く芳醇な匂いは、よく知っている。懐かしくて泣きそうになる。

「……林檎酒」
「お前の故郷のものだろう? たまたま手に入ったんだ」

 確かに、私と弟の故郷の林檎を使った酒だ。セドリックが私たちの故郷を覚えていたことも、林檎酒を持ってきたことも、大変意外なことだ。
 私を傷つけて喜ぶような男が、なぜ、こんなことを。私は未だに混乱している。

「飲まないのか? 毒も薬も入っていないぞ」

 そう笑って、ベッドに座ったセドリックはグラスの林檎酒を口に含む。少し彼の様子を見たけれど、毒は入っていないようだ。
 一口飲むと、甘酸っぱい林檎が口いっぱいに広がる。あっさりとした酒。喉越しもすっきりとしていて飲みやすい。
 林檎畑が延々と続く故郷の風景を思い出す。隣家の林檎畑の手伝いをして生計を立てていた。毎日もらっていた林檎。毎日作っていた林檎のお菓子。隣家の老夫婦はまだ元気にしているだろうか。林檎はまだ赤い実をつけているのだろうか。
 もう二度と、あそこには戻れないのだ。もう二度と。
 懐かしくて苦しい。帰りたくて仕方がない。シュワシュワと弾ける気泡のように、私の願いは簡単に消えてしまう。

「……泣くな」

 左斜め上からひどく優しい声色が降ってくる。暖かい指先が私の頬に触れる。乱暴されるかと思って肩をこわばらせて右に逃げると、小さく「すまない」と声がした。
 泣くなと言われたって勝手に涙は流れるし、今優しくされたって昨日までの憎しみが消えることはない。今のセドリックの意外性に困惑していても、今までの横暴さを心も体も忘れていない。

「私が憎いか?」
「憎いわ。殺したいほどに」
「今グラスを割ってその破片で私の首をかき切るか? それもいいだろう。お前には、その権利がある」

 その言葉に驚いて顔を上げると、目の前に深い緑色の瞳があった。私をまっすぐに見つめるセドリックは、薄っすら笑みを浮かべている。

「お前になら殺されてもいい。殺した相手のことなら、忘れないだろう?」
「何を」
「女は皆、愛してもいない男のことなどすぐに忘れるものだろう。忘れられるくらいなら、一生強い憎しみを向けられたままのほうが幸せじゃないか」

 セドリックの言っていることが理解できない。私が馬鹿だから? 意味がわかんない。何を言っているの? 普通じゃないとは思っていたけど、彼がここまで歪んでいるとは想像していなかった。ろくでなしの変態じゃないの。

「今まで忘れられるような付き合いしかできなかったなんて、憐れなものね。一国の王子様だというのに、情けない」

 嫌味を言ってなじった程度で彼への憎しみがなくなるわけじゃない。私と同じようにふくらはぎに剣を突き立て怪我を負わせ、塔の中に監禁したところで、気が晴れるわけじゃない。
 けれど、「忘れる」ことが彼への復讐となるなんて、いいことを聞いた。……まぁ、今はまだ難しいけれど。
 私の嫌味に、セドリックは力なく笑う。咎められたり殴られたりしないなんて、本当に不思議。

「私はいずれ爵位を賜って臣下になるだろう。兄の補佐をする弟と言えば聞こえはいいが、王になれなかった王子の末路とも呼べる。王とは違い、私の名は忘れられるものなのだ。愛した女一人にすら、覚えてもらえぬ男に、何の価値がある」

 えーっと……セドリックは悪酔いをしているの? 林檎酒ごときで? 私の前で泣き言を言うなんて、めちゃくちゃ気持ち悪いんだけど。いや、前から気持ち悪かったけど。今夜はさらに気持ちが悪い。鳥肌立っちゃう。

「勇者はいいな。《瘴気の霧》を晴らした土地では、末代まで語り継がれることだろう。勇者の名前は忘れられることがない。心底、羨ましいことだ」

 この男、自分の名前を残したいの? それにしては、女がどうとか、規模の小さいことをぶつぶつ呟いているけれど。
 結局、何が言いたいの? 独り言? 私になんて言ってもらいたいの?

「勇者の姉よ」
「はあ」
「私はそんなに狭量な男か?」
「え?」
「そんなに狭量な男に見えるか? 甲斐性のない男に?」

 セドリックの目は据わっている。完全なる酔っ払いだ。この人、明後日には自分の息子の成人の儀が控えているのに、なんでこんなに酔ってんの? 王子という自覚があるの?

「なぜ、相談すら、してくれなかっ」
「やだ、ちょっと、泣かないで、泣かないでよ」
「なぜ、私に内緒で、子を」

 ハンカチか何かを探そうとした手が止まる。肩を震わせながら泣いている男を見下ろして、その情けない姿に驚く。
 これが、あの、セドリック?
 私をここに捕らえ、閉じ込めた男?
 私に娼婦の真似事を強要していた、王子?
 信じられない。あの獰猛な男とこの憐れな男が同一の人間だと、誰が信じる?

「愛した女から忘れられたって? その女が妊娠していたって? 別れでも告げられた? 愛人の子すら守ることができないだろうって、縁を切られたの? 情けない。馬鹿な男ね」

 弱っているセドリックに暴言を吐く。言葉の剣を突き立てる。これが、何とも言えない気分だ。気持ちいい。一国の王子を罵倒する機会なんて、もう二度と巡ってこないだろう。だから遠慮はしない。殴られてもいい、罵ってやる。

「性格は悪くても一国の王子だし、妻も子どももいる。立場上、自分の子だと認めてもくれないし、追っても来てくれない。いくら愛していても自分と子どもの幸せが一切期待できない男なんだから、別れを選んで当然でしょ」

 林檎酒を飲む。喉が渇く。まだ言い足りない。

「身を引くなんて結局、あなたのことを諦めたってことなんだもの。余程愛していないとできない、苦渋の決断だわ。逃げ切ってもらいたいものね、その人には」
「……愛?」
「だって、お金ももらわず、子どもだと認めさせることもなかったのよね? あなたとの醜聞を大っぴらにすることだって、できたんじゃない? それを隠してただ逃げるなんて、余程あなたを愛していないと」

 ……あれ、私、セドリックを励ましてる? 彼の愛人をかばっているうちに? やだ、何で。
 セドリックは「愛……」と何度も呟いている。気持ち悪い。

「彼女は……私を愛していた?」

 それはわからない。私、その愛人じゃないもの。可能性の問題よ。

「愛していたから、子どもができた?」

 いやいや、避妊しなければ妊娠するんじゃない? 愛なんて関係ないよね、それこそ。子どもが愛の結晶だと認めないわけじゃないけど、愛があれば子どもができるわけじゃないのだし。

「私は彼女を愛していた……?」
「それこそ私にわかるわけないじゃない。自分の胸に手を当てて考えてみれば?」

 面倒くさい酔っ払いだ。
 セドリックが右手につけた大きな赤い宝石の指輪。この部屋の鍵。これを今奪うことができないかと思ってしばらく様子を見たけれど、もっと飲ませないと難しそうだ。私はセドリックのグラスに林檎酒をたっぷり注いでやる。

「愛……していたのか? ならば、これも、愛、か?」

 知らないわ。興味もないわよ。そう、セドリックのすべてに興味がない。……鍵は、欲しいけど。

「愛……お前はあの少年を愛しているのか? 既に抱かれたのか?」

 なぜ、そうなる?
 私はむせながら、グラスをテーブルに置く。床に落ちた林檎酒がもったいない。岩に染み込んでしまった。
 あーあ、と肩と視線を落としながら、ふと気づく。セドリックの赤い衣服の裾にあしらわれた小さな花の刺繍。私がリュカの服に刺繍してあげている花と同じ、のように見える。

「まだ抱かれてはいないようだな。やめておけ。あれの真意がわからぬ」
「私が誰を好きになろうが、あなたには関係ないでしょ」
「関係ない、か。確かにお前がどこの誰を愛そうとも関係ない。だが、あれだけは駄目だ」
「リュカをあれ呼ばわりしないでよ」

 リュカ、と呟いて、セドリックは笑った。寂しいような嬉しいような、形容する言葉が見当たらない笑みだ。そんな笑みを浮かべたまま、セドリックは林檎酒を飲み切った。

「あれが――リュカがお前に近づいたのは、私への復讐心からだろう。私の所有物を壊すような意図があったのだろうが」
「復讐……? 何を、言って」
「オルガ」

 どん、と背中に軽い衝撃があった。両手が痛い、動かない。目を開けると、カンテラに照らされて揺れるセドリックの顔がある。私の唇を塞いでいるのが彼のものだと気づいた瞬間に、血の気が引く音がした。

「やだ、やめて、やめっ、んん」
「オルガ」

 私をいつものようにベッドに押し倒したまま、セドリックは笑う。大嫌いな彼の顔も、行為も、薬があるから受け入れることができたのに。
 恐ろしくて、おぞましい。肌の上を這う唇を、舌を、拒もうと逃げるのに、逃れられない。

「あれが私より先にお前に種を植えつけるのだけは、許せない。ならば、先に種を授けるだけだ」
「いやだ、やめて! セドリック、やめっ」

 何か布のようなものを口の中に押し込まれ、言葉が封じられる。セドリックは器用に何か硬いもので私の両手を縛り上げ、太腿の上に乗って、笑った。

「オルガ、私の子を孕むがいい。お前の中にたっぷり注いでやる」

 グラスが割れる音が、始まりの合図となった。最悪の夜の、始まりだった。


しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

ヤンデレにデレてみた

果桃しろくろ
恋愛
母が、ヤンデレな義父と再婚した。 もれなく、ヤンデレな義弟がついてきた。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

【完結】異世界に転移しましたら、四人の夫に溺愛されることになりました(笑)

かのん
恋愛
 気が付けば、喧騒など全く聞こえない、鳥のさえずりが穏やかに聞こえる森にいました。  わぁ、こんな静かなところ初めて~なんて、のんびりしていたら、目の前に麗しの美形達が現れて・・・  これは、女性が少ない世界に転移した二十九歳独身女性が、あれよあれよという間に精霊の愛し子として囲われ、いつのまにか四人の男性と結婚し、あれよあれよという間に溺愛される物語。 あっさりめのお話です。それでもよろしければどうぞ! 本日だけ、二話更新。毎日朝10時に更新します。 完結しておりますので、安心してお読みください。

俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。

true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。 それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。 これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。 日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。 彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。 ※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。 ※内部進行完結済みです。毎日連載です。

人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている

井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。 それはもう深く愛していた。 変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。 これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。 全3章、1日1章更新、完結済 ※特に物語と言う物語はありません ※オチもありません ※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。 ※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。

クラスのマドンナがなぜか俺のメイドになっていた件について

沢田美
恋愛
名家の御曹司として何不自由ない生活を送りながらも、内気で陰気な性格のせいで孤独に生きてきた裕貴真一郎(ゆうき しんいちろう)。 かつてのいじめが原因で、彼は1年間も学校から遠ざかっていた。 しかし、久しぶりに登校したその日――彼は運命の出会いを果たす。 現れたのは、まるで絵から飛び出してきたかのような美少女。 その瞳にはどこかミステリアスな輝きが宿り、真一郎の心をかき乱していく。 「今日から私、あなたのメイドになります!」 なんと彼女は、突然メイドとして彼の家で働くことに!? 謎めいた美少女と陰キャ御曹司の、予測不能な主従ラブコメが幕を開ける! カクヨム、小説家になろうの方でも連載しています!

処理中です...