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篠宮小夜の受難(二十六)

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「男の人って、怖いわね」

 月曜日、登校してくるなり、智子先生はげっそりとした顔で微笑んだ。
 その顔も気になるが、それより、智子先生の格好だ。いつもと、だいぶ雰囲気が違う。
 黒地にドットのワンピースは、タイトすぎないが智子先生にピッタリ。赤いベルトがいい差し色になっている。そのベルトがあることにより、大きな胸よりもウエストの細さが気になる。
 髪も、いつものゆるふわではなく、ストレート。ツヤツヤで、スッキリしていて、すごくいい。
 メイクもナチュラルな感じ。
 一言で言うと、今の格好、ものすごくお似合いです。

「素敵です、智子先生! それ、水谷さんからのプレゼントですか?」
「……え、もしかして、私、しの先生を置いて帰った!?」

 私と解散したあと、水谷さんと意気投合してお持ち帰りされたと思い込んでいたらしい智子先生は、顔を青ざめさせて土下座せんばかりの勢いで謝ってきた。

「ごめんなさい! 私、てっきり、店で解散したものだと思い込んでいたわ。しの先生と同じ場所に住んでいるのに、よく考えると解散なんてしないわよね、本当にごめんなさい!」
「あ、いえ、大丈夫ですよ。それより、その服」
「え、ああ、これは、徹さんが選んでくれた服なの。もちろん、自腹よ。私、ワンピースなんて初めて着たけど、案外悪くないわね」

 智子先生はずっと巨乳がコンプレックスだったそうだ。地味な格好だと痴漢の標的になりやすいので、派手な格好をして痴漢を威嚇してきたという。教師としては絶対に逆効果だというのに。
 いろいろ間違っていた知識を、水谷さんが破壊、正しくコーディネートしてくれたようだ。学園としてもありがたい。クレームが減ること間違いなしだ。
 ベルトの役割について熱く語る智子先生を見て、何だか嬉しくなってしまう。

 いい人に巡り会えて良かったですね、智子先生。開口一番「男の人怖い」はちょっとビックリしましたけど、きっといい意味ですよね?
 どうやら、着回しができるくらいに服を買って、今までの服はクローゼットの奥にしまい込んだみたい。「歩くエロ」先生が生徒や保護者からどう見られるのか、今後が楽しみだ。

「水谷さんとうまくいきそうで良かったです」
「ああ、うん、ありがとう……うまくいくかはわからないけど……私の体がもつかわからないけど……頑張るわ」

 職員室に入ってくる先生方に挨拶をすると、例外なく「その格好はいいですね!」と褒められ、智子先生は嬉しそうだ。先週までの格好はたしなめられることのほうが多かったから、褒められ慣れていなくて、智子先生は真っ赤になっている。それもまた、かわいい。

「それにしても、男と女って、奥が深いのね……大変だわ」

 アンニュイな表情でため息をつく仕草も、いいと思う。それはそれでエロい。
 彼女の身に何があったのかはまた次回飲みに行ったときに聞き出そう。とりあえず、朝っぱらから話すことではなさそうだから。

 職員室をあとにして、三階の国語準備室に向かう。今朝のコーヒーは何にしようかな、と考えながらプレートを「在室」にひっくり返し、鍵を開けて部屋に入った瞬間に。

「小夜先生」
「っひゃあ!」

 背後からいきなりとか、本当に心臓に悪いからやめてほしい。ガチャリと音がして、内側から鍵がかけられたと思ったときには既に、里見くんが正面からぎゅうぎゅうと私を抱きしめていた。

「人目がないところで、とは言いましたけど……ビックリさせないでください」
「すみません。ちょっと、事情が変わったもので」
「え?」

 上を向いた瞬間に落ちてくる唇。何度か唇が触れる。下唇を食まれたあと、舌が歯の隙間から侵入りこんでくる。
 舌を絡ませると、甘い味。ジュースか何かの味。美味しい、と舌にちょっと吸いつくと、「もっと」と里見くんが笑う。

「もっと求めて」
「っは、ん」

 朝からこんなディープなキスをするのもどうかと思う。本当に、どうかしてる。

「んん、っ」

 胸をトントンと押して、やめて、と合図を送る。里見くんが名残惜しそうに唇を離し、舌を抜き去る。
 お互い、はぁと大きく息を吸い込んで。息が吸えないくらいキスに没頭するのは、やっぱり、駄目。学校でするのは禁止にしよう。

「事情が変わったってどういうことですか?」
「今週から、佐久間先生と指導案を作るようになりました。ので、ここにはあまり来られなくなります」
「へぇ。良かったですね」

 佐久間先生が指導案を見ることができるように、先週いっぱい使って、部活動の練習メニューを作ったらしい。テニス部は外部コーチもいるし、この雨でコートは使えないし、心配はないと判断してそちらに任せたということのようだ。
 佐久間先生、昨日はそんなこと一言も言っていなかったけど、里見くんをちゃんと指導してもらえるなら、私としても肩の荷が降りるものだ。佐久間先生から直接指導してもらえるのだから、里見くんにとっては本当にいいことだと思う。
 が、里見くんは少しだけ不服そうだ。

「放課後会えない代わりに、朝元気をもらっていいですか?」
「ハグならいいですが、キスはやっぱり駄目です」
「えっ!? なんでですか!?」

 いろいろ支障が出るでしょ。自覚がないとは言わせない。腰に押しつけられているものは、だいぶ硬い。

「スーツの下をそんなにして職員室や会議室に行くつもりですか?」
「……ノートで隠れますよ」
「そういう問題ではなく」

 里見くんは渋々といった表情で私から離れ、ため息をつく。

「わかりました。ハグだけにします」
「お願いします」
「でも、俺、小夜先生を見るだけで勃つのであまり意味ないんですけど」
「……そんな情報はいりません」

 荷物を机に置いて、ケトルで湯を沸かす。

「コーヒー飲みますか?」
「是非。あ、俺作るんで、小夜先生は仕事してください」

 お言葉に甘えるとしよう。
 パソコンを起動して、メールをチェックする。土日で緊急のメールや研修用のメールは来ていないみたいだ。
 朝の職員会議が始まるまで、あと四十分。今日は一時間目に五組で小テスト。早めに輪転機を使いに行こう。

「高村礼二は塾をクビになったみたいですよ」
「へえ」

 驚くほど興味がない。六年も付き合ったのに、すっかり熱は冷めてしまっている。

「責任を取って、結婚するみたいです」
「塾をクビになったのに、生活大丈夫ですかね」
「結婚相手の親御さんの会社に勤めるみたいですよ。稲垣から聞きました」
「大変そうですね」

 婿入りでもするのだろうか。幼い娘に手を出した男を、親が簡単に許すはずがないだろう。しばらくは飼い殺しにでもされるのではないだろうか。
 いい気味だ。自業自得だ。

「……大丈夫ですか?」
「礼二のことなら大丈夫ですよ」

 湯が沸いて、里見くんがドリップコーヒーを作ってくれる。いい匂いが部屋に充満してきた。

「それなら、良かったです。もう二人きりで高村礼二と会わないでくださいね」
「もう会うこともありませんよ」
「わかりました。信じます」

 里見くんからマグカップを受け取って、口をつける。まろやかな酸味が鼻を抜けていく。至福のひとときだ。
 あぁ、今日も頑張れそう。

「小夜先生」
「はい」
「愛していますよ」

 真っ直ぐな視線に、苦笑する。毎日愛の言葉を伝えてくれるのはありがたいけど、照れるなぁ。慣れる日はいつか来るだろうか。
 コーヒーを嚥下して、私はただ一言だけ返す。

「ありがとうございます」

 まだ、彼と同じ言葉は、使えそうになかった。
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