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篠宮小夜の受難(十七)

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「南総里見八犬伝の作者は?」

 生徒たちが国語便覧や辞書などを手に、思い思いに資料のページをめくる音を聞くのが好きだ。ピラピラガサガサザッザッ、そんな音が落ち着いた頃、一人必死でまだ探しているのは、持参したパイプ椅子に座った教育実習生、里見宗介だ。私が貸した国語便覧を必死でめくっている。

「……里見先生はまだ見つけられないみたいなのですが待っていられないので――近藤さん、作者は?」
「滝沢馬琴です」

 指名された女子が資料の中にあった名前を読み上げる。中高生の大抵の資料にはそう書いてある。

「半分正解で、半分間違いなんですね、それ。馬琴は自ら滝沢馬琴だと名乗ったことはありません。滝沢馬琴以外に、書いてある名前はありますか?」

 挙手をする生徒が何人かいる。里見くんもようやく見つけたようで、挙手をする。当ててほしそうにこちらを見てくるので、苦笑する。

「では、里見先生」
「はい。曲亭馬琴、です」

 曲亭馬琴、と板書する。
 古典の時間。わずかな時間を取って、古典の知識を生徒たちに教えるのが好きだ。少しでも、昔の物語に興味を持ってもらいたい。少しでも、受験のための知識としてもらいたい。センター試験向けというよりは、二次試験向けだけれど。

「曲亭馬琴は、もちろんペンネームです。曲を『くるわ』、亭を『で』、馬琴を『まこと』と読めることから、くるわでまこと……『廓で誠』と解釈する説もあります。さて、廓(くるわ)、とは何でしょう?」

 廓、と板書しながら、便覧には載っていないかもしれないなぁとふと思う。漢和辞典のほうになら載っているかもしれないけど、今日は漢文ではなく古文なので、辞典は誰も持ってきていないかもしれない。

「廓で誠……この字を見て、何に使われる字かわかったら、上等です」
「しのちゃん、ないよー!」
「じゃあ、これならわかりますか?」

 廓の上にマルを書く。〇廓。勘のいい子はいるかしら。高校生にはまだ早いかな。
 す、と里見くんの手が伸びる。教室内で一人だけだ。いや、たぶん、内藤さんはわかっていると思うけど、女の子には言いづらいだけなんだろう。
 里見くんだけが挙手していることに気づいた生徒たちはざわつき始める。まぁ、いいか。

「里見先生」
「遊廓ですね」
「正解です」

 マルを消して、遊、を板書する。意味がわかった男子はニヤニヤしている。

「遊廓で誠。遊廓で真面目に遊女に尽くしてしまうことを指しています。遊廓において、真面目になる男は、駄目な男――野暮、と言います。そういう、野暮な男なんです、と馬琴は言っているのではないかと一部では言われています」
「しのちゃん、遊廓って?」

 質問してきたのは男子。たぶん、遊廓が何なのかは知っているのだろう。
 さて、ソープと言っていいものかどうか一瞬悩む。ソープで通じるかどうかもわからない。高校生らしく、もうちょっとソフトなほうで説明するか。

「キャバクラみたいなものですよ。キャバ嬢に真面目に愛を語っても、キャバ嬢が落ちることはないので、野暮なことはしないようにね、下山くん」
「へーい」
「ちなみに、野暮の反対語は『いき』になります。たまに試験に出てくるので、覚えておきましょう。江戸時代の文化ですね」

 廓で誠を通すような野暮な男なんです――馬琴はそう言うけれど、そんな客に心乱された遊女もいるかもしれない。
 愛を語ることを愚かと言われる場所で、本気で恋をした人がいたっていいじゃないの。
 七分間の小話は終わり。授業に入ろう。

「今日は源氏物語、若紫から……大好きな藤壺とそっくりな女の子を見つけて、自分のものにしてしまう話です。では、一文ずつ音読を」

 私は、馬琴より光源氏のほうが余程変態だと思っているので、そう感じるのかもしれない。
 里見くんは私の国語便覧を楽しそうに読んでいる。次回の小テスト、彼にも解いてもらおうと思いながら、生徒の音読に耳を傾ける。

 いつの時代になっても、恋の形に、決まりなんてないのに。
 私の恋は、どうしてうまくいかないのかしらね。


◆◇◆◇◆


「小夜先生は明日と明後日は何か予定がありますか?」
「明日は休みですが、明後日の日曜は三年生の模試監督がありますね。どうかしました?」

 国語準備室。里見くんが「小夜先生」と言うのは二人きりのときだけだ。普段は「篠宮先生」なので、私も二人きりのときだけ「里見くん」で、普段は「里見先生」だ。

「じゃあ、明日、一緒にデートしませんか?」
「しません」
「……即答ですね」
「今夜は飲むので、明日は二日酔いの予定なんです」

 さっき店を予約してきた。智子先生が気に入ってくれるといいんだけど。楽しみだ。

「誰と行くんですか? 稲垣ですか?」
「木下智子先生とですよ」
「俺も一緒に行きたいです」
「お断りします」

 里見くんには悪いけど、せっかく智子先生と二人きりなのだから邪魔されたくはない。里見くんはめげない。スマートフォン片手に、予定を聞いてくる。

「じゃあ、来週の土日は?」
「来週は研修で静岡です」
「……再来週は?」
「……私のスケジュール、見ますか?」

 卓上カレンダーを渡すと、里見くんの表情が曇る。夏休みまで休みはほとんどない。多忙なのだ。
 先日礼二に別れ話をした日も、たまたま早くに帰ることができただけなので、デートらしいデートなんて、何年もしていないように思う。

「じゃあ、夏休みに入ったらデートしてくれますか?」
「夏休みも補習や合宿があるので、完全に休みとは言えませんよ」
「いいです。夏休みはクマ先生の手伝いで学園に来る予定なので、小夜先生にも会えますから。いつデートしますか? 八月でいいですか?」

 カレンダーを撮影したあと、里見くんは顔を上げる。満面の笑みだ。
 デート、かぁ。デート、ねぇ。

「平日より土日がいいですか? このスケジュールだとお盆前がいいですね。じゃあ、こことここで」
「え、二日?」

 ぎょっとしながらカレンダーを受け取ると、八月上旬に、蛍光ペンのピンクのマルが二つ並んでいる。水曜日と木曜日。え、泊まり?

「飲んだら二日酔いになるんでしょう? それなら、翌日もスケジュール空けといたほうがいいですよ。日本酒と焼酎はどちらが好きですか?」

 泊まりではなく、翌日の私の体調を心配してのアポ取りなのかと納得する。いや、油断は禁物だけど。

「日本酒! 辛いやつがいいです!」
「じゃあ、日本酒が美味しいところに連れていってあげますね」

 里見くんが目を細めて笑った。
 なんだかんだで、彼の手のひらの上で転がされているような気もするのだけれど、不思議と不快感はない。嫌悪感もない。
 スマートフォンのカレンダーアプリに予定を入れていると、ケトルで湯を沸かしている里見くんが、微笑みながら私を見つめていることに気づく。その表情はとても穏やかだ。優しい目だ。

「……?」
「小夜先生は、たぶん、俺のこと好きですよ」
「え?」
「自覚して早く堕ちてきてくださいね」

 そんなわけないでしょ、そう思いながら私はスマートフォンを定位置に置く。
 里見くんを好きになるわけ、ないでしょ。

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