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篠宮小夜の受難(十六)
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「……馬鹿じゃないの? 私が貸すと思う?」
「そこを何とか! 小夜はまだ俺のことを好きだろ?」
「情けない。フラれた女にお金の無心をするなんて、本当に情けない」
「どうしても必要なんだ! 十万が無理なら八万でも……!」
「絶っっ対にイヤ。無理」
頭が痛い。
正社員になってから、貯金していなかったの?
そのお金は何に使うの?
なんで、私なの?
口まで出かかった質問を飲み込む。聞いてしまったら、駄目だ。責任が生じてしまう。
里見くんも苛立っている様子で、礼二を睨んでいる。
「小夜先生、帰りましょう。無駄な時間を過ごす必要はありません」
「な、なんだよ、お前! お前が口出しする権利はないだろ!」
「小夜先生があなたのためにお金を準備する義務もありません」
「そりゃそうだけど! 惚れた男が困っているんだから、手を差しのべてくれたっていいだろ! 頼む、小夜!」
ああ、もう無理だ。気持ち悪い。
私が好きだった礼二は、もういない。それがわかっただけで、十分だ。
「礼二、帰って。近所迷惑でしょ。これ以上騒ぐなら、警察呼ぶよ」
「ちょっ、小夜!」
「里見くん、ありがとう。もう、いいです。帰ります。おやすみなさい」
警察、という言葉に、礼二はさらにうろたえる。警察が民事不介入なのは知っているけど、冷静な判断ができない礼二には効果があったようだ。
本当に、馬鹿。
私に縋りついても無駄だとわかったのか、礼二は私と里見くんとを交互に見たあと、肩を落としながら、暗闇の中へと消えていった。
「念のため、メッセージは残しておいたほうがいいですよ。何かあったときのために」
「……はい。すみませんでした。見苦しいところを」
「別にいいですよ。これから高村礼二から連絡があっても、受け答えはしないほうがいいですね」
「……わかりました」
情けなくて本当に泣きそうだ。
里見くんは礼二が去っていったほうをじっと見て、小さくため息を吐き出した。
「中絶費用を元カノに無心に来るなんて、本当に最低ですね」
……里見くんもそう思うということは、やっぱり、そうなのだろう。十万円前後の金額、というのが生々しい。
大塚塾に、塾生とその親御さんが現れて、礼二が逃げたとするなら、稲垣くんが呼ばれたのもわかる気がする。かつてのバイト先で、大変な修羅場が発生しているようだ。
「送ってもらってありがとうございました。おやすみなさい」
「どういたしまして。おやすみなさい」
エントランスへ向かおうとした私に、里見くんが声をかけてくる。
「小夜先生。彼があんなふうになったのは、先生のせいではありませんよ。最初から、そういう人だったんです」
「……そう、だといいんですけど」
「あんまりご自分を責めないようにしてくださいね」
優しいね、里見くんは。
その優しさに甘えてしまえば、きっと楽になれるのに。
エントランスからエレベーターで三階まで行き、真っ暗な部屋に入る。礼二に合鍵を渡していなくて良かった。心の底からそう思う。
鍵をかけた玄関の扉に背中をあずけると、足の力が抜けて、背中がずるりと扉を滑る。冷たい玄関にへたり込んだまま、私はため息を吐き出す。
礼二も、私の優しさを――優柔不断さを、利用したのかもしれない。
怖い。
怖かった。
里見くんがいなければ、言われるままに十万円を手渡していたかもしれない、自分が怖い。
終わった恋なのに。終わらせた関係なのに。どうしようもない男なのに。
どうして、こんなに、悲しいんだろう――。
「音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ」
噂に名高い高師浜のあだ波には、かからないように気をつけておかないと、袖が濡れてしまう。
同じように、浮気者だということで高名なあなたの言葉も、心にかからないようにしておかないと、涙で袖を濡らすことになってしまう。
プレイボーイにご用心。あとで泣きたくなければ、ね。
それでも、涙は出ない。
礼二のために泣く涙は、ないのだ。
◆◇◆◇◆
スマートフォンを確認すると、礼二からのメッセージは百三十件もあった。
『会いたい』
『お金を貸してくれ』
『二十万円でいいから』
『まだ俺のことを愛しているなら』
すべては読まずに、アプリを終了させた。
寮の前で礼二に会ってからは、メッセージは受信していない。元カノが頼れないとわかったからなのか、塾生と向き合うことを決めたのか、私にはわからなかったけれど。
『稲垣からの情報によると、高村礼二は高校二年生を妊娠させたのに逃げたので、親御さんが大塚塾に乗り込んできたそうです』
予想通りすぎて、本当に情けない。朝から憂鬱な気分だ。スマートフォンをパソコンの隣の定位置に置いて、椅子をギシリと言わせる。
礼二の行動は、稲垣くんだけでなく、大塚塾の職員全員と、担当の生徒全員に迷惑をかけたということだろう。当事者の女の子とその親御さんには一番やってはいけないこともやらかした。
大塚塾の塾長がどういう判断を下すかはわからないが、職員からの信頼はもうゼロであるだろうし、最低でも減給、最悪の場合はクビだろう。
自業自得だ。同情の余地はない。
スマートフォンを掴み、私はメッセージを作る。
『急で申し訳ないのですが、今夜飲みに行きませんか? 篠宮』
送ったあと、すぐに返事が来る。
『いいわよ! 行きましょ! 飲みましょ! 八時に職員室で待っているわね! 木下』
朝から結構テンションが高いんだなぁと、智子先生の顔を思い出して、笑ってしまう。かわいいなぁ。
それに、里見くんの指導もあるので、二十時に職員室とはありがたい。私の帰宅時間まで把握してくれているとは、本当に驚いた。
『ありがとうございます。ではまた今夜』と返信すると、少し気分が楽になった気がした。
さて、あのかわいい智子先生をどこに連れていこうかなと、私は近くの居酒屋に思いを馳せるのだった。
「そこを何とか! 小夜はまだ俺のことを好きだろ?」
「情けない。フラれた女にお金の無心をするなんて、本当に情けない」
「どうしても必要なんだ! 十万が無理なら八万でも……!」
「絶っっ対にイヤ。無理」
頭が痛い。
正社員になってから、貯金していなかったの?
そのお金は何に使うの?
なんで、私なの?
口まで出かかった質問を飲み込む。聞いてしまったら、駄目だ。責任が生じてしまう。
里見くんも苛立っている様子で、礼二を睨んでいる。
「小夜先生、帰りましょう。無駄な時間を過ごす必要はありません」
「な、なんだよ、お前! お前が口出しする権利はないだろ!」
「小夜先生があなたのためにお金を準備する義務もありません」
「そりゃそうだけど! 惚れた男が困っているんだから、手を差しのべてくれたっていいだろ! 頼む、小夜!」
ああ、もう無理だ。気持ち悪い。
私が好きだった礼二は、もういない。それがわかっただけで、十分だ。
「礼二、帰って。近所迷惑でしょ。これ以上騒ぐなら、警察呼ぶよ」
「ちょっ、小夜!」
「里見くん、ありがとう。もう、いいです。帰ります。おやすみなさい」
警察、という言葉に、礼二はさらにうろたえる。警察が民事不介入なのは知っているけど、冷静な判断ができない礼二には効果があったようだ。
本当に、馬鹿。
私に縋りついても無駄だとわかったのか、礼二は私と里見くんとを交互に見たあと、肩を落としながら、暗闇の中へと消えていった。
「念のため、メッセージは残しておいたほうがいいですよ。何かあったときのために」
「……はい。すみませんでした。見苦しいところを」
「別にいいですよ。これから高村礼二から連絡があっても、受け答えはしないほうがいいですね」
「……わかりました」
情けなくて本当に泣きそうだ。
里見くんは礼二が去っていったほうをじっと見て、小さくため息を吐き出した。
「中絶費用を元カノに無心に来るなんて、本当に最低ですね」
……里見くんもそう思うということは、やっぱり、そうなのだろう。十万円前後の金額、というのが生々しい。
大塚塾に、塾生とその親御さんが現れて、礼二が逃げたとするなら、稲垣くんが呼ばれたのもわかる気がする。かつてのバイト先で、大変な修羅場が発生しているようだ。
「送ってもらってありがとうございました。おやすみなさい」
「どういたしまして。おやすみなさい」
エントランスへ向かおうとした私に、里見くんが声をかけてくる。
「小夜先生。彼があんなふうになったのは、先生のせいではありませんよ。最初から、そういう人だったんです」
「……そう、だといいんですけど」
「あんまりご自分を責めないようにしてくださいね」
優しいね、里見くんは。
その優しさに甘えてしまえば、きっと楽になれるのに。
エントランスからエレベーターで三階まで行き、真っ暗な部屋に入る。礼二に合鍵を渡していなくて良かった。心の底からそう思う。
鍵をかけた玄関の扉に背中をあずけると、足の力が抜けて、背中がずるりと扉を滑る。冷たい玄関にへたり込んだまま、私はため息を吐き出す。
礼二も、私の優しさを――優柔不断さを、利用したのかもしれない。
怖い。
怖かった。
里見くんがいなければ、言われるままに十万円を手渡していたかもしれない、自分が怖い。
終わった恋なのに。終わらせた関係なのに。どうしようもない男なのに。
どうして、こんなに、悲しいんだろう――。
「音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ」
噂に名高い高師浜のあだ波には、かからないように気をつけておかないと、袖が濡れてしまう。
同じように、浮気者だということで高名なあなたの言葉も、心にかからないようにしておかないと、涙で袖を濡らすことになってしまう。
プレイボーイにご用心。あとで泣きたくなければ、ね。
それでも、涙は出ない。
礼二のために泣く涙は、ないのだ。
◆◇◆◇◆
スマートフォンを確認すると、礼二からのメッセージは百三十件もあった。
『会いたい』
『お金を貸してくれ』
『二十万円でいいから』
『まだ俺のことを愛しているなら』
すべては読まずに、アプリを終了させた。
寮の前で礼二に会ってからは、メッセージは受信していない。元カノが頼れないとわかったからなのか、塾生と向き合うことを決めたのか、私にはわからなかったけれど。
『稲垣からの情報によると、高村礼二は高校二年生を妊娠させたのに逃げたので、親御さんが大塚塾に乗り込んできたそうです』
予想通りすぎて、本当に情けない。朝から憂鬱な気分だ。スマートフォンをパソコンの隣の定位置に置いて、椅子をギシリと言わせる。
礼二の行動は、稲垣くんだけでなく、大塚塾の職員全員と、担当の生徒全員に迷惑をかけたということだろう。当事者の女の子とその親御さんには一番やってはいけないこともやらかした。
大塚塾の塾長がどういう判断を下すかはわからないが、職員からの信頼はもうゼロであるだろうし、最低でも減給、最悪の場合はクビだろう。
自業自得だ。同情の余地はない。
スマートフォンを掴み、私はメッセージを作る。
『急で申し訳ないのですが、今夜飲みに行きませんか? 篠宮』
送ったあと、すぐに返事が来る。
『いいわよ! 行きましょ! 飲みましょ! 八時に職員室で待っているわね! 木下』
朝から結構テンションが高いんだなぁと、智子先生の顔を思い出して、笑ってしまう。かわいいなぁ。
それに、里見くんの指導もあるので、二十時に職員室とはありがたい。私の帰宅時間まで把握してくれているとは、本当に驚いた。
『ありがとうございます。ではまた今夜』と返信すると、少し気分が楽になった気がした。
さて、あのかわいい智子先生をどこに連れていこうかなと、私は近くの居酒屋に思いを馳せるのだった。
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