17 / 55
篠宮小夜の受難(十五)
しおりを挟む
「誰からですか? 稲垣じゃないでしょう。高村礼二ですか?」
自転車から降りて歩き始めてすぐ、里見くんが尋ねてきた。机の上に振動していたスマートフォンを放ったらかしで仕事をしていたのだから、気になるのは仕方がないけど。
なぜ、礼二の名前を、里見くんが?
驚き、見上げると、里見くんは優しげな笑みを私に向ける。先ほどまでの意地悪な笑顔ではない。
「小夜先生のことなら、何でも知っていますよ。元カレの高村礼二のことも」
「な、んで?」
「邪魔だから」
端的な答えだ。
邪魔、だから、知っている。
その意味がいまいち理解できないのは、びっくりしすぎているからだろうか。
「小夜先生を手に入れるために邪魔だったんですよね。今は稲垣が邪魔ですけど」
「……」
「でも、まだ俺の邪魔をするみたいですね、彼。高村礼二に連絡し直しました?」
「い、いえ」
「それが正解です。大塚塾で何かあったみたいですよ。稲垣が慌てて出て行ったみたいなので」
私は混乱している。
教育実習期間中はバイトをしてはいけない。そもそもバイトをする暇がない。けれど、実習中の稲垣くんがバイト先へ行かなければならないほどの何かがあった、ということだろう。
大塚塾にいる元カレから私に連絡があったのは、その関係かもしれないと、里見くんは考えたのだろう。
「……礼二が何を?」
「さあ。詳しくは知りませんが、今は塾生と付き合っているみたいなので、想像はしやすいですね」
想像してみる。
親御さんから多少のクレームがあったくらいでは、実習中のバイトの子が呼ばれることはない。成績が上がらない、カリキュラムが合わない、くらいなら職員が対応するはずだ。
しかし、なるほど、恋愛がらみなら、大変なことになるはずだ。
「親御さんにバレたとか、職員にバレたとか?」
「妊娠させたとか」
里見くんの言葉に、心の奥が冷える。
礼二は確かに、きちんと避妊をするタイプではない。快楽を優先させる人だ。
さらに、やはり塾生に手を出していたとは、大馬鹿だ。高校生と避妊もせずに……とは思いたくないけど、彼ならやりかねない。私は彼を信用していない。
けれど、「大丈夫だから」と大人の男に甘い言葉で囁かれて、拒みきれずに受け入れてしまう子がいたら、大変だ。大変なことになる。
「……まさか」
「幸い、付き合っている子は誠南の生徒ではありませんけど」
「なんで、知っているんですか?」
「相手のことは徹底的に調べ上げたいので。だから、昔、言ったじゃないですか。『先生は男を見る目がない』と。相手のことを知らないと、そんなこと言えませんよ」
私、今、ちょっとだけ、里見くんを怖いと思ってしまった。
彼はいつから、徹底的にいろいろ調べていたのだろう。礼二のことも調べるくらいだから、私のこともきっと……いや、考えないほうがいいのかもしれない。
「まぁ、直接本人に聞けばよいのではありませんか? たぶん、楽しい話は聞けないと思いますが」
「……」
「ほら、ちょうど、いるみたいですし」
「え?」
里見くんが独身寮の前を見つめている。駐車駐輪スペースの前あたりに人影が見える。植え込みの前に座り込んでいるようだ。
「礼二……?」
こちらに気づいて顔を上げたその顔は、私の元カレその人だ。
なんで?
礼二、仕事は?
なんで、ここにいるの?
私を見つけた礼二は、立ち上がって駆け寄ってくる。いつものスーツ姿ではなく、普段着で。
「小夜っ!」
す、と私の前に立つ里見くん。礼二との間に割り込む形で、自然に立ちふさがる。私は里見くんの半分の背中越しに礼二と何日かぶりに再会する。
礼二は頭を掻きむしったのか、髪型がだいぶ崩れている。ねじったり逆立てたりしてワックスが手放せなかった男が、髪型に無頓着になっている姿を見て、私は嫌な予感しかしない。
「小夜! 誰、この男? 稲垣の次はこの男か? いや、まぁ、この際誰でもいいや」
教育実習生の里見くん、と紹介する暇もなく、礼二は私のほうへ寄ってくる。手にはスマートフォンしか握られていない。刃物や武器になるようなものはない。
けれど、目だけがギラギラと輝いていて、何だか異様だ。気持ちが悪い。
これは、誰? 本当に礼二なの?
先日までの彼と様子が全く違う。女にフラれたからといって、ここまで変わるものだろうか? そんなに、彼の中で私の価値が高かったとは思えないのだけど。
「小夜はまだ俺のことが好きだよな? 俺は小夜が好きだ。だから、小夜、お願いだ!」
礼二の困った顔より里見くんの背中が視界の大半を占める中、スマートフォンを両手で挟み込んで祈るようにして、礼二は懇願してきた。
復縁の申し込みなら絶対に断ろう、そう思っていたのに、礼二はやはり予想の斜め上をひた走る人だった。
「十二万、いや、十万貸してくれ!」
膝を地面につき、土下座を始める礼二を見下ろして、私は、心の底から、彼を軽蔑した。
同時に、涙が溢れそうになる。情けなくて。こんな男に恋をしていた私が、本当に情けなくて、涙が出る。
あなたと過ごした六年間は、本っっ当に無駄、でした。
時間を返してくれ、とは言わないからせめて、お願いだから、私に関わらないでください――。
自転車から降りて歩き始めてすぐ、里見くんが尋ねてきた。机の上に振動していたスマートフォンを放ったらかしで仕事をしていたのだから、気になるのは仕方がないけど。
なぜ、礼二の名前を、里見くんが?
驚き、見上げると、里見くんは優しげな笑みを私に向ける。先ほどまでの意地悪な笑顔ではない。
「小夜先生のことなら、何でも知っていますよ。元カレの高村礼二のことも」
「な、んで?」
「邪魔だから」
端的な答えだ。
邪魔、だから、知っている。
その意味がいまいち理解できないのは、びっくりしすぎているからだろうか。
「小夜先生を手に入れるために邪魔だったんですよね。今は稲垣が邪魔ですけど」
「……」
「でも、まだ俺の邪魔をするみたいですね、彼。高村礼二に連絡し直しました?」
「い、いえ」
「それが正解です。大塚塾で何かあったみたいですよ。稲垣が慌てて出て行ったみたいなので」
私は混乱している。
教育実習期間中はバイトをしてはいけない。そもそもバイトをする暇がない。けれど、実習中の稲垣くんがバイト先へ行かなければならないほどの何かがあった、ということだろう。
大塚塾にいる元カレから私に連絡があったのは、その関係かもしれないと、里見くんは考えたのだろう。
「……礼二が何を?」
「さあ。詳しくは知りませんが、今は塾生と付き合っているみたいなので、想像はしやすいですね」
想像してみる。
親御さんから多少のクレームがあったくらいでは、実習中のバイトの子が呼ばれることはない。成績が上がらない、カリキュラムが合わない、くらいなら職員が対応するはずだ。
しかし、なるほど、恋愛がらみなら、大変なことになるはずだ。
「親御さんにバレたとか、職員にバレたとか?」
「妊娠させたとか」
里見くんの言葉に、心の奥が冷える。
礼二は確かに、きちんと避妊をするタイプではない。快楽を優先させる人だ。
さらに、やはり塾生に手を出していたとは、大馬鹿だ。高校生と避妊もせずに……とは思いたくないけど、彼ならやりかねない。私は彼を信用していない。
けれど、「大丈夫だから」と大人の男に甘い言葉で囁かれて、拒みきれずに受け入れてしまう子がいたら、大変だ。大変なことになる。
「……まさか」
「幸い、付き合っている子は誠南の生徒ではありませんけど」
「なんで、知っているんですか?」
「相手のことは徹底的に調べ上げたいので。だから、昔、言ったじゃないですか。『先生は男を見る目がない』と。相手のことを知らないと、そんなこと言えませんよ」
私、今、ちょっとだけ、里見くんを怖いと思ってしまった。
彼はいつから、徹底的にいろいろ調べていたのだろう。礼二のことも調べるくらいだから、私のこともきっと……いや、考えないほうがいいのかもしれない。
「まぁ、直接本人に聞けばよいのではありませんか? たぶん、楽しい話は聞けないと思いますが」
「……」
「ほら、ちょうど、いるみたいですし」
「え?」
里見くんが独身寮の前を見つめている。駐車駐輪スペースの前あたりに人影が見える。植え込みの前に座り込んでいるようだ。
「礼二……?」
こちらに気づいて顔を上げたその顔は、私の元カレその人だ。
なんで?
礼二、仕事は?
なんで、ここにいるの?
私を見つけた礼二は、立ち上がって駆け寄ってくる。いつものスーツ姿ではなく、普段着で。
「小夜っ!」
す、と私の前に立つ里見くん。礼二との間に割り込む形で、自然に立ちふさがる。私は里見くんの半分の背中越しに礼二と何日かぶりに再会する。
礼二は頭を掻きむしったのか、髪型がだいぶ崩れている。ねじったり逆立てたりしてワックスが手放せなかった男が、髪型に無頓着になっている姿を見て、私は嫌な予感しかしない。
「小夜! 誰、この男? 稲垣の次はこの男か? いや、まぁ、この際誰でもいいや」
教育実習生の里見くん、と紹介する暇もなく、礼二は私のほうへ寄ってくる。手にはスマートフォンしか握られていない。刃物や武器になるようなものはない。
けれど、目だけがギラギラと輝いていて、何だか異様だ。気持ちが悪い。
これは、誰? 本当に礼二なの?
先日までの彼と様子が全く違う。女にフラれたからといって、ここまで変わるものだろうか? そんなに、彼の中で私の価値が高かったとは思えないのだけど。
「小夜はまだ俺のことが好きだよな? 俺は小夜が好きだ。だから、小夜、お願いだ!」
礼二の困った顔より里見くんの背中が視界の大半を占める中、スマートフォンを両手で挟み込んで祈るようにして、礼二は懇願してきた。
復縁の申し込みなら絶対に断ろう、そう思っていたのに、礼二はやはり予想の斜め上をひた走る人だった。
「十二万、いや、十万貸してくれ!」
膝を地面につき、土下座を始める礼二を見下ろして、私は、心の底から、彼を軽蔑した。
同時に、涙が溢れそうになる。情けなくて。こんな男に恋をしていた私が、本当に情けなくて、涙が出る。
あなたと過ごした六年間は、本っっ当に無駄、でした。
時間を返してくれ、とは言わないからせめて、お願いだから、私に関わらないでください――。
0
お気に入りに追加
361
あなたにおすすめの小説
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。


溺婚
明日葉
恋愛
香月絢佳、37歳、独身。晩婚化が進んでいるとはいえ、さすがにもう、無理かなぁ、と残念には思うが焦る気にもならず。まあ、恋愛体質じゃないし、と。
以前階段落ちから助けてくれたイケメンに、馴染みの店で再会するものの、この状況では向こうの印象がよろしいはずもないしと期待もしなかったのだが。
イケメン、天羽疾矢はどうやら絢佳に惹かれてしまったようで。
「歳も歳だし、とりあえず試してみたら?こわいの?」と、挑発されればつい、売り言葉に買い言葉。
何がどうしてこうなった?
平凡に生きたい、でもま、老後に1人は嫌だなぁ、くらいに構えた恋愛偏差値最底辺の絢佳と、こう見えて仕事人間のイケメン疾矢。振り回しているのは果たしてどっちで、振り回されてるのは、果たしてどっち?

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】
身代わり婚~暴君と呼ばれる辺境伯に拒絶された仮初の花嫁
結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【決してご迷惑はお掛けしません。どうか私をここに置いて頂けませんか?】
妾腹の娘として厄介者扱いを受けていたアリアドネは姉の身代わりとして暴君として名高い辺境伯に嫁がされる。結婚すれば幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱いていたのも束の間。望まぬ花嫁を押し付けられたとして夫となるべく辺境伯に初対面で冷たい言葉を投げつけらた。さらに城から追い出されそうになるものの、ある人物に救われて下働きとして置いてもらえる事になるのだった―。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

【R18】幼馴染がイケメン過ぎる
ケセラセラ
恋愛
双子の兄弟、陽介と宗介は一卵性の双子でイケメンのお隣さん一つ上。真斗もお隣さんの同級生でイケメン。
幼稚園の頃からずっと仲良しで4人で遊んでいたけど、大学生にもなり他にもお友達や彼氏が欲しいと思うようになった主人公の吉本 華。
幼馴染の関係は壊したくないのに、3人はそうは思ってないようで。
関係が変わる時、歯車が大きく動き出す。

社長室の蜜月
ゆる
恋愛
内容紹介:
若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。
一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。
仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる