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篠宮小夜の受難(六)
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悩んだ。私にしては、悩んだ。
赤か、白か。選択肢は二つしかない。
悩んだ結果、赤を手に取り、耳につけた。
一瞬、里見くんの嬉しそうな顔が脳裏をよぎる。白を選べば、きっと彼は悲しげな表情になるだろう。私の行動で誰かの表情が変わるなら、良いほうがいいはずだ。
赤いルビーのピアスは、私の気持ちも上げてくれる。赤い下着がテンションを上げてくれるのと同じ原理なのかもしれない。
自転車を漕ぎながら、鼻歌を口ずさむ。何年ぶりかにピアスを変えて、テンションが上がらないわけがなかった。
◆◇◆◇◆
朝、会議室へ昨日の実習日誌を返却しに行った際、私の耳元を見て薄らと笑みを浮かべただけで、里見くんがピアスについて何かを言うことはなかった。
教師と実習生。オンとオフを間違える里見くんではない。その点は安心できる。
「あ、しのちゃん!」
「稲垣くん、おはよう」
大学時代のバイト先の生徒が教育実習に来ているなんて、私も歳を取ったものだ。「久しぶりだね、元気だった?」とお決まりの挨拶をして、三週間の実習を激励する。
稲垣くんも、里見くんと同じくらい、背が伸びた。男の子は大学生になっても成長するんだなぁとしみじみとした気分になるのだった。
職員室から国語準備室へ向かうときに、スマートフォンが震えた。準備室の壁に掛けてある「在室・不在・学内・授業中・来客中」の卒業生の手作りサインプレートの「在室」を引っくり返して、コーヒーの香りが薄く漂う私の城へと入室する。
荷物を机に置いてスマートフォンを確認すると、里見くんからのメッセージを受信していた。
『ピアス、思った通りよくお似合いです。日誌のコメントありがとうございました。またよろしくお願いいたします』
どういたしまして、と呟いて返信はせずに、昨日準備していた書類に目を通す。誤字脱字がないかを確認し終えたら、ファイルに入れておく。授業前に生徒分印刷して配るのだ。
情報リテラシーについての資料も作ったほうがいいかしら、と思いながら、ケトルにペットボトルの水を注いで、電源をオンにする。お気に入りのマグカップを水切りカゴから取り出して、里見くんからもらったドリップコーヒーをコップにセットする。
あぁ、いつもの朝だ。
昨日は邪魔されたいつもの平穏な朝が、今日も始まる。
◆◇◆◇◆
「篠宮先生、ちょっと」
職員室へ向かう途中で、誰かに呼び止められる。緊張しながら振り向いたのに、その顔を視界に入れた瞬間にほっとする。
「玉置学園長代理」
「今日一時間目は空き時間でしょ? 学園長室で待っています」
「はい」
何かやらかしたかなーと、軽やかな足取りの親友の後ろ姿を見送る。彼女が嬉しそうに歩いているときは、何かしら悪いことがあるときだ。もちろん、我々教師にとって悪いこと、の意味だ。
玉置梓とは、私がこの学園に入ったときからの腐れ縁。私は高等部からの編入生だったので、もう十年以上の付き合いになる。
大学付属の中高一貫校への編入は大変だったが、入ったらもっと大変だった。今までの常識は通じないし、「学園内の常識」がないせいで、多少の嫌がらせもあった。同級生に変わり者の学園長の孫がいなければ、私の学校生活は破綻していたと思う。
梓がいろいろ手を回してくれたおかげで、私の高校生活は平穏だった。彼女にはとても感謝している。
梓は誠南大学経営学部へ進学し、卒業後はアメリカでMBA――経営学修士を取得した。そして、帰国後、学園長代理の地位におさまった。それが昨年度の話。
若い学園長代理だけど、彼女の品行方正かつ勤勉な高校生時代を教師たちのほとんどが知っているので、疎ましく思われることなく、むしろ先生方は梓をよくサポートしているのではないかと思う。学園長の子、つまりは梓の両親が学園の経営に関わらずに喫茶店をやっている以上、梓は未来の学園長だ。無下には扱えない。
「で、ようやくあの男と別れたの?」
「んぐ」
梓、私たちは仕事中だよ。そんな、居酒屋でするような会話は、この革張りの応接椅子に座ってやることじゃない。
クッキーを紅茶で流し込み、ふぅと一息つく。
「別れたけど、仕事の話じゃないの?」
「よかった。仕事の話もするわよ」
梓は大学時代に紹介したときから、礼二のことを嫌っていた。何がそこまで梓を駆り立てたのかはわからなかったけれど、早く別れろと会うたびに言われていたものだ。
「あいつの浮気相手が本気になってきたから、身を引いたの?」
「ま、まぁ、そんなとこ」
図星すぎて肯定するしかない。梓、怖い。彼女の目は千里眼か?
「ちょうど良かった。いい見合い話があるんだけど、会ってみる?」
「いや、いいよ。それより、仕事の話って?」
「そう? じゃあ仕事の話ね。実習生の里見宗介がクマ先生の後任に立候補してきたんだけど、どういう生徒だったか知っている?」
梓は昨年度より前の学園のことを知らない。里見くんのことを知らないのも当然だ。
なるほど、そういえば里見くんは「学園側にも手回しをしている」ようなことを言っていた。実権を握っている梓にアプローチしていたとは、なかなか就活頑張っているじゃないか。
「直接担当を持ったことはないけど、受験生のときによく準備室に勉強しに来ていた生徒だよ。勉強熱心で、真面目で、人のことをよく見ている子かな」
「それは、小夜を見ていたんじゃないの?」
「……里見くん、なんて?」
梓は笑う。にこやかに。
「高校時代から、クマ先生の後任になれるよう手を尽くしてきて、実際、クマ先生からの推薦も得ていること。教育実習以降も、クマ先生の手伝いをすることを約束していること。あとは、バイト先の塾で、難関大学に送り出した生徒の人数。その確率を我が学園に当てはめたときのシミュレーション結果。――まぁ、上手なプレゼンだったわよ。私が心動かされたんだもの」
梓は学園の経営者だ。数字として出される資料には、確かに心が動かされるだろう。私も就職活動のときに使った手段だ。自分を数値化してアピールすることは、とても大事なのだ。
「でも、一番興味を引かれたのは、そんな彼の、教師になろうとした動機」
「へえ」
「篠宮小夜を手に入れたい」
梓の笑顔が怖い。
里見くんの動機が、怖い。
頭の中が真っ白になる。
え、どういうこと?
「……なに、それ」
「初耳だった? まぁいいけど。少なくとも、あの男よりはずっといい男だと思うわよ」
梓は何かの資料に目を落としたあと、硬直したままの私に、仕事を言いつけた。
「だから、小夜が見極めて欲しいの。里見宗介が学園に必要かどうか。副担なら、接触もしやすいだろうし、うってつけだと思う。拒否したら、木下先生に頼むだけだから構わないけど」
梓の言葉を理解する。教育実習がそのまま里見くんの採用試験になるということだ。
「……学園に必要かどうか?」
「リストを作ったから、この通りにチェックしてちょうだい。ちなみに、里見宗介だけじゃなくて、化学の大石先生の後任として実習生の稲垣亮一も視野に入れているの。そちらも、もう他の先生にお願いしてあるわ」
「へぇ……行動が早いね」
「採用試験を大々的に行うと、お金も時間もかかるからね。優秀な学生を実習期間中に確保できるなら、その必要がないから合理的だと思うわよ」
確かに、採用試験に殺到する免許保持者の数は多い。私たちのときはそうだった。二百人近く応募してきた中、採用枠はただ一つだというのだから、狭き門だ。
教師の立場から見ると、二百人に試験を実施して、さらに面接をして、模擬授業をしてもらって……となるわけだ。何日もかかる地獄だ。
それが短縮できるなら、ありがたい話だ。乗らない手はない。
「やってもらえる?」
「はい、やります」
拒否したら、その採用試験の担当にされそうな気がしている。親友にも容赦のない仕事を任せてくるのが、玉置梓学園長代理。たぶん、承諾するのが正解だ。
「じゃあ、採用か不採用が決定するまでは、口説き落とされないように注意しておいてね」
梓から資料を受け取りながら、冷や汗をかく。
あの里見くんの挨拶の話は、どこまで駆けめぐっているの!?
「教師同士の恋愛は禁止しないけど、実習生の間はまだ駄目よ。大学からお預かりしている子たちだから、手を出すのは終わってからにしてちょうだいね」
梓の笑いを含んだ声色に、私は憤慨する。
本当に、もう!
みんな、他人事だと思って!
当事者の私にとっては、面白くも何もない状況なのに!!
赤か、白か。選択肢は二つしかない。
悩んだ結果、赤を手に取り、耳につけた。
一瞬、里見くんの嬉しそうな顔が脳裏をよぎる。白を選べば、きっと彼は悲しげな表情になるだろう。私の行動で誰かの表情が変わるなら、良いほうがいいはずだ。
赤いルビーのピアスは、私の気持ちも上げてくれる。赤い下着がテンションを上げてくれるのと同じ原理なのかもしれない。
自転車を漕ぎながら、鼻歌を口ずさむ。何年ぶりかにピアスを変えて、テンションが上がらないわけがなかった。
◆◇◆◇◆
朝、会議室へ昨日の実習日誌を返却しに行った際、私の耳元を見て薄らと笑みを浮かべただけで、里見くんがピアスについて何かを言うことはなかった。
教師と実習生。オンとオフを間違える里見くんではない。その点は安心できる。
「あ、しのちゃん!」
「稲垣くん、おはよう」
大学時代のバイト先の生徒が教育実習に来ているなんて、私も歳を取ったものだ。「久しぶりだね、元気だった?」とお決まりの挨拶をして、三週間の実習を激励する。
稲垣くんも、里見くんと同じくらい、背が伸びた。男の子は大学生になっても成長するんだなぁとしみじみとした気分になるのだった。
職員室から国語準備室へ向かうときに、スマートフォンが震えた。準備室の壁に掛けてある「在室・不在・学内・授業中・来客中」の卒業生の手作りサインプレートの「在室」を引っくり返して、コーヒーの香りが薄く漂う私の城へと入室する。
荷物を机に置いてスマートフォンを確認すると、里見くんからのメッセージを受信していた。
『ピアス、思った通りよくお似合いです。日誌のコメントありがとうございました。またよろしくお願いいたします』
どういたしまして、と呟いて返信はせずに、昨日準備していた書類に目を通す。誤字脱字がないかを確認し終えたら、ファイルに入れておく。授業前に生徒分印刷して配るのだ。
情報リテラシーについての資料も作ったほうがいいかしら、と思いながら、ケトルにペットボトルの水を注いで、電源をオンにする。お気に入りのマグカップを水切りカゴから取り出して、里見くんからもらったドリップコーヒーをコップにセットする。
あぁ、いつもの朝だ。
昨日は邪魔されたいつもの平穏な朝が、今日も始まる。
◆◇◆◇◆
「篠宮先生、ちょっと」
職員室へ向かう途中で、誰かに呼び止められる。緊張しながら振り向いたのに、その顔を視界に入れた瞬間にほっとする。
「玉置学園長代理」
「今日一時間目は空き時間でしょ? 学園長室で待っています」
「はい」
何かやらかしたかなーと、軽やかな足取りの親友の後ろ姿を見送る。彼女が嬉しそうに歩いているときは、何かしら悪いことがあるときだ。もちろん、我々教師にとって悪いこと、の意味だ。
玉置梓とは、私がこの学園に入ったときからの腐れ縁。私は高等部からの編入生だったので、もう十年以上の付き合いになる。
大学付属の中高一貫校への編入は大変だったが、入ったらもっと大変だった。今までの常識は通じないし、「学園内の常識」がないせいで、多少の嫌がらせもあった。同級生に変わり者の学園長の孫がいなければ、私の学校生活は破綻していたと思う。
梓がいろいろ手を回してくれたおかげで、私の高校生活は平穏だった。彼女にはとても感謝している。
梓は誠南大学経営学部へ進学し、卒業後はアメリカでMBA――経営学修士を取得した。そして、帰国後、学園長代理の地位におさまった。それが昨年度の話。
若い学園長代理だけど、彼女の品行方正かつ勤勉な高校生時代を教師たちのほとんどが知っているので、疎ましく思われることなく、むしろ先生方は梓をよくサポートしているのではないかと思う。学園長の子、つまりは梓の両親が学園の経営に関わらずに喫茶店をやっている以上、梓は未来の学園長だ。無下には扱えない。
「で、ようやくあの男と別れたの?」
「んぐ」
梓、私たちは仕事中だよ。そんな、居酒屋でするような会話は、この革張りの応接椅子に座ってやることじゃない。
クッキーを紅茶で流し込み、ふぅと一息つく。
「別れたけど、仕事の話じゃないの?」
「よかった。仕事の話もするわよ」
梓は大学時代に紹介したときから、礼二のことを嫌っていた。何がそこまで梓を駆り立てたのかはわからなかったけれど、早く別れろと会うたびに言われていたものだ。
「あいつの浮気相手が本気になってきたから、身を引いたの?」
「ま、まぁ、そんなとこ」
図星すぎて肯定するしかない。梓、怖い。彼女の目は千里眼か?
「ちょうど良かった。いい見合い話があるんだけど、会ってみる?」
「いや、いいよ。それより、仕事の話って?」
「そう? じゃあ仕事の話ね。実習生の里見宗介がクマ先生の後任に立候補してきたんだけど、どういう生徒だったか知っている?」
梓は昨年度より前の学園のことを知らない。里見くんのことを知らないのも当然だ。
なるほど、そういえば里見くんは「学園側にも手回しをしている」ようなことを言っていた。実権を握っている梓にアプローチしていたとは、なかなか就活頑張っているじゃないか。
「直接担当を持ったことはないけど、受験生のときによく準備室に勉強しに来ていた生徒だよ。勉強熱心で、真面目で、人のことをよく見ている子かな」
「それは、小夜を見ていたんじゃないの?」
「……里見くん、なんて?」
梓は笑う。にこやかに。
「高校時代から、クマ先生の後任になれるよう手を尽くしてきて、実際、クマ先生からの推薦も得ていること。教育実習以降も、クマ先生の手伝いをすることを約束していること。あとは、バイト先の塾で、難関大学に送り出した生徒の人数。その確率を我が学園に当てはめたときのシミュレーション結果。――まぁ、上手なプレゼンだったわよ。私が心動かされたんだもの」
梓は学園の経営者だ。数字として出される資料には、確かに心が動かされるだろう。私も就職活動のときに使った手段だ。自分を数値化してアピールすることは、とても大事なのだ。
「でも、一番興味を引かれたのは、そんな彼の、教師になろうとした動機」
「へえ」
「篠宮小夜を手に入れたい」
梓の笑顔が怖い。
里見くんの動機が、怖い。
頭の中が真っ白になる。
え、どういうこと?
「……なに、それ」
「初耳だった? まぁいいけど。少なくとも、あの男よりはずっといい男だと思うわよ」
梓は何かの資料に目を落としたあと、硬直したままの私に、仕事を言いつけた。
「だから、小夜が見極めて欲しいの。里見宗介が学園に必要かどうか。副担なら、接触もしやすいだろうし、うってつけだと思う。拒否したら、木下先生に頼むだけだから構わないけど」
梓の言葉を理解する。教育実習がそのまま里見くんの採用試験になるということだ。
「……学園に必要かどうか?」
「リストを作ったから、この通りにチェックしてちょうだい。ちなみに、里見宗介だけじゃなくて、化学の大石先生の後任として実習生の稲垣亮一も視野に入れているの。そちらも、もう他の先生にお願いしてあるわ」
「へぇ……行動が早いね」
「採用試験を大々的に行うと、お金も時間もかかるからね。優秀な学生を実習期間中に確保できるなら、その必要がないから合理的だと思うわよ」
確かに、採用試験に殺到する免許保持者の数は多い。私たちのときはそうだった。二百人近く応募してきた中、採用枠はただ一つだというのだから、狭き門だ。
教師の立場から見ると、二百人に試験を実施して、さらに面接をして、模擬授業をしてもらって……となるわけだ。何日もかかる地獄だ。
それが短縮できるなら、ありがたい話だ。乗らない手はない。
「やってもらえる?」
「はい、やります」
拒否したら、その採用試験の担当にされそうな気がしている。親友にも容赦のない仕事を任せてくるのが、玉置梓学園長代理。たぶん、承諾するのが正解だ。
「じゃあ、採用か不採用が決定するまでは、口説き落とされないように注意しておいてね」
梓から資料を受け取りながら、冷や汗をかく。
あの里見くんの挨拶の話は、どこまで駆けめぐっているの!?
「教師同士の恋愛は禁止しないけど、実習生の間はまだ駄目よ。大学からお預かりしている子たちだから、手を出すのは終わってからにしてちょうだいね」
梓の笑いを含んだ声色に、私は憤慨する。
本当に、もう!
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