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篠宮小夜の受難(一)
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潮時だな、と思った。
洗面台の棚に置いてある私の基礎化粧品が奥に追いやられ、その手前に、若い子が使う安い基礎化粧品が並んでいる。トラベル用の化粧品が奥に置いてあったときは、まだ許せると思ったけれど、これはない。
普通サイズの基礎化粧品の減り具合は、頻繁にこの部屋に出入りしていることを意味し、私の化粧品を奥に追いやることで、私に挑戦状を叩きつけている。
煽っているのだ。彼はもうあなたとは頻繁に会わないんでしょう? だったら、私にその座を明け渡してちょうだい、と。
潮時だ。
「礼二」
化粧品を回収して、まだ風呂の中で鼻歌を歌っている彼に声をかける。
確かに、ここに来るのは二ヶ月ぶりだ。仕事の関係上、年度末と年度始めはいつも忙しい。だから、頻繁に会うことはできない。今日はたまたま早く模試が終わったから、久しぶりに礼二の部屋に来て夕飯を作って、先にお風呂を借りたのに。
「なに、小夜(さよ)」
彼はまだバレていないと思っているのだろう。ずっとちょろい女だと思われていたんだろう。
ずっと前から、浮気を許していたけれど、それが発覚したときに礼二を咎めなかったのだから、そのときからもう愛と呼べるものも、なくなってしまったのだろう。
「別れようか」
浴室の扉越しに声をかけると、一瞬の間のあと、礼二が扉を押し開けて出てきた。もちろん全裸だ。
「え、なんで? 他に好きな人でもできた?」
「それは礼二のほうでしょう?」
大学時代のバイト先で出会い、付き合って、もう六年。長かった、と思う。
結婚の話も出ていたけれど、礼二が正社員になれなかったから、ずっと待っていた。その間に、浮気を何度か確認し、黙認してきた。私の仕事が忙しくて礼二の相手をしてあげられないから、と彼の浮気を許したのだ。
その礼二も、半年前にようやく塾のバイトから正社員に登用され、経済的にも安定してきたのに。そのお金は、結婚資金になることなく、浮気相手へ消えていたのだろうか。
六年は、長かった。
長かったから、愛は消え、情だけ残ってしまった。その情も、たった今、消えてしまった。
「……本気なのは小夜だけだよ」
「でも、浮気相手を本気にさせちゃったら駄目だよ」
「わかった。あっちとは別れるから」
「そういう問題じゃない」
浮気相手に執心しているわけではないみたいだ。寂しかったから、体の関係だけを求めたのだろうか。
ただ、それが塾生なら――救いようがないくらいの馬鹿だけど。
「小夜、別れるなんて言わないで。俺は別れたくない」
びっしょりと濡れた手で私に触れようとしてくる礼二。体を捻って、とらわれないように距離を置く。
「やっとバイトから正社員になれて、ようやく安定した生活が始まったばかりなのに」
「仕方ないよ。もう無理なの」
「浮気したから? 一度だけの過ちで?」
「嘘つかないで。一度だけじゃないでしょう? 信用できないのよ、もう」
礼二の目が泳ぐ。なんでバレたのか、わかっていないような顔。
なんでバレないと思っていたのか、私のほうが知りたいよ、まったく。
「六年間、お世話になりました。すぐ荷物まとめて出ていくから。あ、全裸で寒くない? 風邪引かないでね」
「えっ? もう行くの?」
「ここにいる意味がないから」
礼二は心底落胆したような表情を浮かべて私を見つめる。顔ではなくて、体を見つめている。下着をつけてバスタオルを巻いたままの女の姿を見つめ、男が想像することは多くない。
「……最後に、やっていかない?」
「やりません」
「えー、やろうよ。小夜のこと、最後に抱きたい」
「……さようなら」
本当に、もう、最低。
いつだったか、誰かが言っていた。
『先生は男を見る目がないよね』
まったく、その通りだったわ。
洗面台の棚に置いてある私の基礎化粧品が奥に追いやられ、その手前に、若い子が使う安い基礎化粧品が並んでいる。トラベル用の化粧品が奥に置いてあったときは、まだ許せると思ったけれど、これはない。
普通サイズの基礎化粧品の減り具合は、頻繁にこの部屋に出入りしていることを意味し、私の化粧品を奥に追いやることで、私に挑戦状を叩きつけている。
煽っているのだ。彼はもうあなたとは頻繁に会わないんでしょう? だったら、私にその座を明け渡してちょうだい、と。
潮時だ。
「礼二」
化粧品を回収して、まだ風呂の中で鼻歌を歌っている彼に声をかける。
確かに、ここに来るのは二ヶ月ぶりだ。仕事の関係上、年度末と年度始めはいつも忙しい。だから、頻繁に会うことはできない。今日はたまたま早く模試が終わったから、久しぶりに礼二の部屋に来て夕飯を作って、先にお風呂を借りたのに。
「なに、小夜(さよ)」
彼はまだバレていないと思っているのだろう。ずっとちょろい女だと思われていたんだろう。
ずっと前から、浮気を許していたけれど、それが発覚したときに礼二を咎めなかったのだから、そのときからもう愛と呼べるものも、なくなってしまったのだろう。
「別れようか」
浴室の扉越しに声をかけると、一瞬の間のあと、礼二が扉を押し開けて出てきた。もちろん全裸だ。
「え、なんで? 他に好きな人でもできた?」
「それは礼二のほうでしょう?」
大学時代のバイト先で出会い、付き合って、もう六年。長かった、と思う。
結婚の話も出ていたけれど、礼二が正社員になれなかったから、ずっと待っていた。その間に、浮気を何度か確認し、黙認してきた。私の仕事が忙しくて礼二の相手をしてあげられないから、と彼の浮気を許したのだ。
その礼二も、半年前にようやく塾のバイトから正社員に登用され、経済的にも安定してきたのに。そのお金は、結婚資金になることなく、浮気相手へ消えていたのだろうか。
六年は、長かった。
長かったから、愛は消え、情だけ残ってしまった。その情も、たった今、消えてしまった。
「……本気なのは小夜だけだよ」
「でも、浮気相手を本気にさせちゃったら駄目だよ」
「わかった。あっちとは別れるから」
「そういう問題じゃない」
浮気相手に執心しているわけではないみたいだ。寂しかったから、体の関係だけを求めたのだろうか。
ただ、それが塾生なら――救いようがないくらいの馬鹿だけど。
「小夜、別れるなんて言わないで。俺は別れたくない」
びっしょりと濡れた手で私に触れようとしてくる礼二。体を捻って、とらわれないように距離を置く。
「やっとバイトから正社員になれて、ようやく安定した生活が始まったばかりなのに」
「仕方ないよ。もう無理なの」
「浮気したから? 一度だけの過ちで?」
「嘘つかないで。一度だけじゃないでしょう? 信用できないのよ、もう」
礼二の目が泳ぐ。なんでバレたのか、わかっていないような顔。
なんでバレないと思っていたのか、私のほうが知りたいよ、まったく。
「六年間、お世話になりました。すぐ荷物まとめて出ていくから。あ、全裸で寒くない? 風邪引かないでね」
「えっ? もう行くの?」
「ここにいる意味がないから」
礼二は心底落胆したような表情を浮かべて私を見つめる。顔ではなくて、体を見つめている。下着をつけてバスタオルを巻いたままの女の姿を見つめ、男が想像することは多くない。
「……最後に、やっていかない?」
「やりません」
「えー、やろうよ。小夜のこと、最後に抱きたい」
「……さようなら」
本当に、もう、最低。
いつだったか、誰かが言っていた。
『先生は男を見る目がないよね』
まったく、その通りだったわ。
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