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93話、姉。
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朝、ショウは早めに家を出る。試験のときはいつもそうだ。大学で勉強するらしい。
「来週末、姉ちゃん、予定空けといて」
「え、何かあった?」
「試験が終わるから、デートしよう。いいよね?」
玄関で好きな人を見送る際にそんなこと言われて断る理由はない。二つ返事で了承して、いってきますのキスをする。軽く触れるだけのキス。なんて幸せな朝なんだろう。
ショウが出て行ったあと、課長から「今日も大事をとって休むように」との連絡があった。吐き気はだいぶおさまったけれど、有休も残っているのでありがたく休ませてもらうことにする。
今回の事件は労災には当たらないらしく、課長は何度も「申し訳ない。私があのときお使いを頼まなければ良かったのに」と、嘆いていた。なにぶん、そのお使いの内容が記憶にないので、当たり障りなく、返事をしておくしかできなかったのだけれど。
ちなみに、ジュラルミンケースは課長の私物で、中身はカタログだという。重要性は高くないと聞いてホッとした。課長はジュラルミンケースの弁償は必要ないと言っていたけれど、そうはいかないので、弁償はしてもらおうと思う。
そして、ホテルをチェックアウトしてきた母さんがマンションにやってきたあと、美郷さんの代理人を名乗る方から、連絡があった。
昨夜、水谷警部補から「代理人との連絡手段は何がよいか。また、代理人から高梨さんと連絡したいと申し出があった場合、その手段を使ってもよいか」と打診があったのだ。携帯番号を教えてもいい、と水谷警部補に伝えたので、今朝連絡してきたということだろう。
案の定、「示談に応じていただけませんか?」という内容の電話だったので、こちらの条件を伝えると、「高梨様の希望通りにいたします」とあっさり承諾してくれた。ごねられると思っていたので、拍子抜けだ。
書類をすぐに用意します、とのことで、昼過ぎには、こうして代理人の方と喫茶店で対面する形となっていた。
「ご足労いただきまして、申し訳ありません」
「うちの娘がお嬢さんに大変なことをしてしまい、本当に申し訳ありませんでした!」
集まったのは、代理人、美郷さんのご両親、私と母さんだ。美郷さんのご両親がいきなり土下座をしたので、目立って仕方がない。
母さんが憔悴しきった二人を連れて少し離れた別の席へ移ったので、私は書類を広げた代理人さんと話をする。
代理人さんは、宮野と名乗る女性の弁護士さんだ。
「示談に応じていただき、ありがとうございます。美郷は高梨様にひどいことをしてしまったと嘆き反省しております」
「いえ……約束が守られればそれで良いので」
宮野さんは、書類を一部ずつ、私のほうへ向けて見せてくれる。
ショウと私へのつきまといは一切しないと書かれた誓約書。美郷さんのサインと捺印がされてある。治療費、ジュラルミンケースの弁償費、慰謝料のおおよその概算が記入され、それらを一括で支払うことにより、被害届や告訴状を取り下げ、示談が成立すると書かれた示談書。そして、減刑嘆願書。
これらは書き直しが必要なら、後日また訂正した書類を持ってきます、とのことだ。
「誓約書と示談書はこのままで結構です。ただ、減刑嘆願書は……必要ですか?」
「こちらはなくても結構です。高梨様の気持ち次第のものになりますので」
宮野さんはもう一枚書類を差し出してきた。永田コウイチ、とサインのある誓約書だ。美郷さんによる私とショウへのつきまといが行われないよう監督する、と書かれている。
ニャロメさんが被害届を出さないということは聞いていたけど、ここまで美郷さんの人生に責任を持つ必要性が感じられない。
「これは……?」
「もう一人の被害者、永田さんのものです。美郷の行動を監督するので、安心していただければ、と」
「それは、ニャ、永田さんにメリットはあるのですか?」
ニャロメと言いそうになったけど、宮野さんには噛んだと思われただろう。
「メリット、というよりも――今後の美郷の人生を引き受けるという覚悟の証明かと」
「えっ?」
あら、まぁ。いつの間に、そんな話になっていたのやら。
あとでショウに確認しなきゃ。
「それは、おめでとうございます、とお伝えください」
「はい、伝えておきます。なので、それで納得していただけるのであれば、できれば減刑嘆願書にサインをいただきたいです」
ニャロメさんは案外強かで、策士だなぁ。
まぁ、一番の被害者が被害届を出さず、私も示談に応じるのだから、書類送検後に不起訴になる可能性が高い。私の減刑嘆願書があろうがなかろうが、そんなに結果に変わりはないと思う。
あなたを許す、という証明が欲しいのかもしれない。それは、誓約書と示談書には書かれていない情報だから。
「それで、美郷さんが生きていけるのであれば、書きますよ」
「ありがとうございます」
私はそれぞれの書類にサインと捺印をして、すっかりぬるくなったコーヒーを飲む。
宮野さんはすべてを確認したあと、近くのコンビニでコピーを取って戻ってきた。母さんとご両親の話も終わったようだ。
「それでは、慰謝料をご確認ください」
宮野さんが茶色い封筒を差し出してきたので、示談書と同じ金額が入っているか確認する。
「はい、確かにあります」
「娘がご迷惑をおかけいたしました」
ご両親がまた土下座をしそうなくらいに頭を下げてきたので、私もつられてペコリと頭を下げる。
喫茶店の外に出ると、むわっとした熱気と強い日差しが襲ってくる。だいぶ時間がたっていたようで、お腹がくるくると鳴った。
「おやつでも食べようか。疲れたときには、甘いものが一番よ」
母さんの誘いに、乗らない理由はない。
近くにいい店あったかなぁと考えながら、私たちは歩き出した。
「来週末、姉ちゃん、予定空けといて」
「え、何かあった?」
「試験が終わるから、デートしよう。いいよね?」
玄関で好きな人を見送る際にそんなこと言われて断る理由はない。二つ返事で了承して、いってきますのキスをする。軽く触れるだけのキス。なんて幸せな朝なんだろう。
ショウが出て行ったあと、課長から「今日も大事をとって休むように」との連絡があった。吐き気はだいぶおさまったけれど、有休も残っているのでありがたく休ませてもらうことにする。
今回の事件は労災には当たらないらしく、課長は何度も「申し訳ない。私があのときお使いを頼まなければ良かったのに」と、嘆いていた。なにぶん、そのお使いの内容が記憶にないので、当たり障りなく、返事をしておくしかできなかったのだけれど。
ちなみに、ジュラルミンケースは課長の私物で、中身はカタログだという。重要性は高くないと聞いてホッとした。課長はジュラルミンケースの弁償は必要ないと言っていたけれど、そうはいかないので、弁償はしてもらおうと思う。
そして、ホテルをチェックアウトしてきた母さんがマンションにやってきたあと、美郷さんの代理人を名乗る方から、連絡があった。
昨夜、水谷警部補から「代理人との連絡手段は何がよいか。また、代理人から高梨さんと連絡したいと申し出があった場合、その手段を使ってもよいか」と打診があったのだ。携帯番号を教えてもいい、と水谷警部補に伝えたので、今朝連絡してきたということだろう。
案の定、「示談に応じていただけませんか?」という内容の電話だったので、こちらの条件を伝えると、「高梨様の希望通りにいたします」とあっさり承諾してくれた。ごねられると思っていたので、拍子抜けだ。
書類をすぐに用意します、とのことで、昼過ぎには、こうして代理人の方と喫茶店で対面する形となっていた。
「ご足労いただきまして、申し訳ありません」
「うちの娘がお嬢さんに大変なことをしてしまい、本当に申し訳ありませんでした!」
集まったのは、代理人、美郷さんのご両親、私と母さんだ。美郷さんのご両親がいきなり土下座をしたので、目立って仕方がない。
母さんが憔悴しきった二人を連れて少し離れた別の席へ移ったので、私は書類を広げた代理人さんと話をする。
代理人さんは、宮野と名乗る女性の弁護士さんだ。
「示談に応じていただき、ありがとうございます。美郷は高梨様にひどいことをしてしまったと嘆き反省しております」
「いえ……約束が守られればそれで良いので」
宮野さんは、書類を一部ずつ、私のほうへ向けて見せてくれる。
ショウと私へのつきまといは一切しないと書かれた誓約書。美郷さんのサインと捺印がされてある。治療費、ジュラルミンケースの弁償費、慰謝料のおおよその概算が記入され、それらを一括で支払うことにより、被害届や告訴状を取り下げ、示談が成立すると書かれた示談書。そして、減刑嘆願書。
これらは書き直しが必要なら、後日また訂正した書類を持ってきます、とのことだ。
「誓約書と示談書はこのままで結構です。ただ、減刑嘆願書は……必要ですか?」
「こちらはなくても結構です。高梨様の気持ち次第のものになりますので」
宮野さんはもう一枚書類を差し出してきた。永田コウイチ、とサインのある誓約書だ。美郷さんによる私とショウへのつきまといが行われないよう監督する、と書かれている。
ニャロメさんが被害届を出さないということは聞いていたけど、ここまで美郷さんの人生に責任を持つ必要性が感じられない。
「これは……?」
「もう一人の被害者、永田さんのものです。美郷の行動を監督するので、安心していただければ、と」
「それは、ニャ、永田さんにメリットはあるのですか?」
ニャロメと言いそうになったけど、宮野さんには噛んだと思われただろう。
「メリット、というよりも――今後の美郷の人生を引き受けるという覚悟の証明かと」
「えっ?」
あら、まぁ。いつの間に、そんな話になっていたのやら。
あとでショウに確認しなきゃ。
「それは、おめでとうございます、とお伝えください」
「はい、伝えておきます。なので、それで納得していただけるのであれば、できれば減刑嘆願書にサインをいただきたいです」
ニャロメさんは案外強かで、策士だなぁ。
まぁ、一番の被害者が被害届を出さず、私も示談に応じるのだから、書類送検後に不起訴になる可能性が高い。私の減刑嘆願書があろうがなかろうが、そんなに結果に変わりはないと思う。
あなたを許す、という証明が欲しいのかもしれない。それは、誓約書と示談書には書かれていない情報だから。
「それで、美郷さんが生きていけるのであれば、書きますよ」
「ありがとうございます」
私はそれぞれの書類にサインと捺印をして、すっかりぬるくなったコーヒーを飲む。
宮野さんはすべてを確認したあと、近くのコンビニでコピーを取って戻ってきた。母さんとご両親の話も終わったようだ。
「それでは、慰謝料をご確認ください」
宮野さんが茶色い封筒を差し出してきたので、示談書と同じ金額が入っているか確認する。
「はい、確かにあります」
「娘がご迷惑をおかけいたしました」
ご両親がまた土下座をしそうなくらいに頭を下げてきたので、私もつられてペコリと頭を下げる。
喫茶店の外に出ると、むわっとした熱気と強い日差しが襲ってくる。だいぶ時間がたっていたようで、お腹がくるくると鳴った。
「おやつでも食べようか。疲れたときには、甘いものが一番よ」
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