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88話、弟。

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 病室に戻ると、姉ちゃんはまだ眠っていた。
 両親は無事にホテルでの宿泊が認められた。一華堂のプリンなどを食べ、少し休憩してから姉ちゃんの職場に事情を説明しに行き、そのあと病室に来るようだ。姉ちゃんはまだ職場に連絡していないようだし、事情が事情なので、と父さんが判断した。
 点滴があと少しでなくなりそうだったので、ナースステーションへ出向く。ナースコールをすると、姉ちゃんが起きてしまうと思ったのだ。
 看護師さんが点滴を替えたあと、姉ちゃんの主治医がやってきた。姉ちゃんが寝ていたので、様子だけ見に来たという感じだ。

「明日の朝、様子を見て、大丈夫だったら昼前に退院だよ」
「わかりました。両親に伝えておきます……あの、先生、姉の記憶は戻ると思いますか?」
「んー、こういう場合はたいてい戻らないかな。うん、奇跡でも起こらない限り、戻らないと思うよ。ショックなことがあったら戻るとか、漫画みたいなこと、期待しないほうがいいよ」

 先生が去っていったあとは、明日の試験の勉強だ。ちょうど応接セットみたいな場所があるので、テーブルにテキストやノートを広げる。
 明日から、前期試験が始まる。本当は姉ちゃんについていてあげたいけど、勉強も大事。学生の本分を忘れてはいけない。
 まぁ、両親から「マドカより試験だろ」と怒られたため、渋々大学へ行くという側面もあるけれど。
 俺が普通に大学を卒業し、普通に就職できたら、姉ちゃんも安心だろう。二人で生きていくための、準備でもある。だから、単位は落とせないのだ。

「……」

 姉ちゃんの記憶がないのなら、姉ちゃんを焦らすのもいいかもしれない。
 意地悪をして、あたふたしている姉ちゃんを見るのもいいかもしれない。
 実際、さっきの困っている姉ちゃんはかわいかった。
 でも、姉ちゃんをいっぱいドキドキさせて、楽しませて、幸せな気分にさせてあげるのも、いいかもしれない。
 姉ちゃんは笑った顔が一番かわいいから。
 ……いや、でも、俺の下半身が我慢してくれたら、の話だけれど。
 姉ちゃんのことを考えるだけで勃つのだから、どこまで我慢できるかわからない。
 俺、我慢できるの?
 寝ている姉ちゃんに、いつも通りキスした俺が?
 舌を挿れるキスを我慢できるの?
 髪を乾かしたあとのうなじにキスするの、我慢できるの?
 とろんとした表情で俺を誘ってくる姉ちゃんを、しばらく見ないままでいいの?

「あー……難しいかも」

 文字通り、頭を抱える。こんなことで悩む羽目になるとは、思わなかった。記憶さえあれば――家についた瞬間に、お互いを求め合うような激しいキスを始められるのに。
 美郷店長め、なんてことをしてくれたんだ、本当に。俺にダメージを与えたかったという動機なら、達成していますよ、あなた。
 ……と、スマートフォンが揺れる。

『ランチ代、高くついたな』

 永田ニャロメ板長からのメッセージだ。
 確かに、ランチ代分の仕事をすると言っていたが、それが姉ちゃんを守り、自らが負傷する事態となったのなら、確かに高くついたと考えられる。

『板長の怪我は大丈夫ですか? 姉を助けてもらってありがとうございます』

 脇腹の縫合手術なら部分麻酔だろうから、術後でも病室で自由に動けるということなのだろう。

『あれ、お前の姉ちゃんか? カノジョかと思ったぜ。美人じゃないか。金子よりはおっぱい小さかったけど、いいケツしてたな』
『姉に伝えておきます。軽蔑の目を向けられても俺は知りません』
『いやいや、すまんかった。美人の盾になれて光栄だわ。姉ちゃん無事か?』

 板長に姉の状態を告げると、『盾になりきれなかったな、すまん』としょんぼりしたメッセージが返ってくる。でも、まぁ、姉ちゃんが刺されなかっただけ、ありがたいことだ。
 時刻は既に十六時。店長も板長もいない本店は、今日の営業は大丈夫だろうか。いや、そもそも営業するのか?

『今日の営業は無理だろ。マスコミ対策で大忙しだろ、本社』
『美郷店長、どうなりますか?』
『送検しないか、送検されても不起訴だな。俺、被害届出さねえし』

 えっ?
 もう一度メッセージを読む。どう見ても、刺されたのに被害届を出さないと書いてある。
 姉ちゃん以上の自己犠牲の精神の持ち主に遭遇してしまった。俺の「常識」が音を立てて崩れていく。

『美郷店長の代理人がそっちに示談交渉に行くんじゃないか? 俺は美郷店長が逮捕される前に話をつけてあるから』

 いやいやいや、板長、行動力ありすぎでしょ。
 美郷店長と姉ちゃんの間に割り込み、刺されながらも美郷店長を拘束。で、自分と姉ちゃんが救急車で運ばれる前に、美郷店長に交渉、和解成立。
 どう考えても、「グレーの立場がいい」と言っていた人と同一人物とは思えない。刺されて別人になってしまったか?

『どんな手を使ったら、そんなキレイに話がまとまるんですか?』
『そりゃ、高梨、愛に飢えた女に、愛を与えてやっただけだよ』

 さらりと、簡潔に。
 お義兄さん、と呼んでもいいと思っていた人は、やっぱり格好いい男、いや、漢であった。
 あの状況で、よくプロポーズなんかできるな。いや、あの状況だから、なのか?
 オトコマエな永田板長と、店の売上を伸ばす美郷店長……繁盛することは間違いないだろう。

『店、オープンしたら教えてください。食べに行きますよ』
『おう、待ってる』

 そして、その返答からすると、どうやらプロポーズは成功をしたらしい。
 ありがとうございます、なのか、おめでとうございます、なのか、俺には判断がつかない。あれだけ、永田板長と美郷店長がくっつけば一番いいと思っていたのに。いざそうなると、本当に幸せになってほしいと思う。
 それにしても、残念だったな、金子。一応、一押ししておいてあげよう。

『金子が板長のこと気になっているみたいですよ』
『残念。俺はおっぱいよりケツが好きなんだよ。姉ちゃん、いいケツしてたぞ』

 二度も言わなくても、わかっていますよ、板長。姉ちゃんの体が最高なことは、よく知っていますから。
 誰か巨乳好きの男がいたら、金子を紹介してやることにして。
 美郷店長と永田板長が上手にまとまったこと、あとで姉ちゃんに伝えないとなぁ。

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