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012.「それは無理。約束できない」

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 少しだけ肉を多めに使って夕食を作り、勇者が村からもらってきたという葡萄酒を飲む。魔女は久々にチーズを食べて嬉しくなる。少しずつ、元気が戻ってきていることを実感している。それもこれも勇者のおかげだとは感じているものの、口に出しては感謝していない。するべきだろうとは思っているのだが、なかなか難しい。
 勇者は幸せそうに笑っている。机の上の魔女の手を握っても振り払われることがないものだから、とても幸せそうに笑っている。
 幸せそうな表情というものを、魔女は勇者以外に知らない。聖女だったときの周囲の人間の表情は乏しく、笑顔を向けてくれる人などほとんどいなかった。また、魔王には人間のような顔はなく、機微がわかりづらいことがあった。だから、勇者のわかりやすい態度は、魔女にとっての救いでもある。

「全然脈がなかったら、俺、故郷に帰る予定だったんだよ」
「あら。あれは本気だったの?」
「もちろん。あぁ、良かった。献身的に魔女様の世話をした甲斐があった! 料理の腕を上げておいて良かった!」
「……そうね」

 絶望の魔王の死後、魔女は勇者を意識し始めたものではない。先日、勇者と再会してからでもない。勇者は勘違いしているが、魔女は訂正しない。
 絶望の魔王が棲む果ての森には、憂鬱の魔王だけでなく、他の魔王がやって来ることがある。古代の魔王という存在は、新たに生まれた魔王から見ると知恵の宝庫だったのだろう。
 憤怒の魔王から、絶望の魔王とともに魔女はそれを聞いた。

『紫の勇者、あなたを陥れた男を殴りつけたわよ』

 その男の怒りはとても美味しかったと、憤怒の魔王は笑っていた。魔女は総主教から勇者に対する制裁を恐れて青ざめたが、勇者は強制的に送還されるだけに留まったと聞いた。緋の国の中にも善良な人間がいたことを知り、魔女は安堵した。

『なかなか面白い男ね、彼。あなたがいらないのなら、アタシがもらっちゃおうかしら?』

 憤怒の魔王の口車に乗るほど愚かではない魔女だったが、胸にもやもやとしたものは残った。それの正体を、魔女は知らなかった。
 腹に子が宿ったと知ると、生まれる姿を想像するときには必ず勇者の顔が思い浮かぶ。愛しい魔王と同じ触手も、甲羅もない赤ん坊だ。髪や目の色はどちらに似るのか考える日もあった。
 父親はどちらになるのか。愛した者か、それとも種を授けてくれた者か。
 魔女の悩みを知ってか知らずか、魔王は決して『我らの子ども』だとは口にしなかった。『汝の子』と呼び続けた。あの冷たくて柔らかな触手で腹に触れながら、どこか他人事のように呼びかける魔王に、多少の不満を抱いたことは間違いない。

 魔王は、幸せだったのだろう。感情がわからないためにあまりそうは見えなかったが、幸せを感じていたことが魔王の死期を早めたものと魔女は思っている。
 絶望の魔王は、絶望を食らわなければ死んでしまう。それをわかっていても、魔女は魔王に絶望を与えられなかった。腹に初めてこぽこぽという小さな違和感を感じた日から、魔女はずっと、ずっと、幸せだったからだ。

『我が死んだのち、汝は迎えに来た勇者と一緒になれ』

 魔王はそう言って、少し出てきた腹を黄緑色の触手で撫でた。優しく、愛おしそうに。胎内で育つ子を慈しむように。
 以前の魔女なら、その一言で嘆き悲しみ、絶望しただろう。「私も一緒に死ぬ」と泣いただろう。しかし、魔女は冷たい触手ごと腹を撫でながら、「はい」と頷いた。魔王は静かに微笑んでいた、と魔女は記憶している。
 その翌日、魔王は泉から消えた。

 古代から生きていた絶望の魔王は、死んだ。
 愛する者を失った悲哀を、魔女は初めて知った。それは聖女職を失った悲しみよりもずっとずっと深く、苦しいものだった。
 何日も、水しか口にしない日が続いた。それでも生きられると思っていた。気がついたら、腹に感じていた動きが途絶え、血が流れていた。
 そのときに魔女が感じた絶望でも、魔王が生き返ることはなかった。

 母体を大事にするということを、魔女は怠った。それゆえに、宿った命は土に還ってしまった。魔女の嘆きは、悲しみは、罪の意識は、憂鬱の魔王の腹を満たしたが、魔女の孤独を埋めるものではない。
 魔王がいなくなり、子どもも死んでしまった。自分の責任だ。自分が悪かったのだ。魔女は罪悪感に苛まれ、何もかもがどうでもよくなり、とうとう倒れてしまった。
 死んでもいい。死んでしまいたい。大切なものがなくなってしまったのだから、生きていても仕方がない。毎日毎晩、そんなふうに思っていた。生きる理由がなかったのだ。

 そんなときにやってきたのが勇者だ。
 勇者は他愛もない話をしながら、甲斐甲斐しく魔女の世話を焼く。「生きろ」などと軽々しく言わない。ただ、食事を与え、体を綺麗に清め、幸せそうに笑い、寄り添い、大きな独り言を言う。非常に面倒くさい存在だ。
 だからこそ、魔女は生きられたのだろうと思う。気持ちが動いたのだと思う。死ぬことは許されないのだと、魔女は知ったのだ。

「勇者くんは少し大きくなった?」
「そりゃ田舎で美味しいものをたくさん食べたからね。一回りくらいは大きくなるよね。それとも、人間的な話? 性格の話? あ、年齢?」

 そこで初めて、魔女は森の内外で時間の流れが違うことを知る。年下だった勇者は、いつの間にか年上になっていたことを、知る。

「向こうでは三ヶ月くらいたっていると思うけど、あともう少しゆっくりしていても、紫の国に支障はないと思うんだよね。聖女様も神官も優秀だから、多少はね。めちゃくちゃ怒られるし、責められると思うんだけどね。でも、やっぱり申し訳ないから、俺としてはなるべく早めに捧げておきたいというか、もらっておいてもらいたいというか」
「……何を?」
「俺の純潔」

 魔女は葡萄酒を噴き出し、むせる。勇者は笑いながら木綿布でそれを拭き取る。

「童貞って言ったほうが良かった?」
「それは、げほ、どちらでも」
「早めがいいかなぁ。そうしたら、新たな神託が降りたあとに、『そういうことなんで』って引退しやすいかな? どうせ、準備を始めているところだしなぁ」
「準備?」
「うん。俺、結婚させられるところだったんだよ」

 勇者はヘラヘラと笑っているが、魔女は少し嫌な気分になる。不愉快ではあるものの、自分の中にそんな感情があることが新鮮な気もしている。

「そう……良かったじゃない」
「いやぁ、良くないよ。全然良くない。俺、年上が好きなんだ」
「私も年下なんだけれど?」
「えっ? 嘘だ。嘘でしょ? え、ほんとに? 逆転しちゃった? 嘘だぁ……!」

 勇者の狼狽具合から、彼が年上好きであることは間違いない。魔女は苦笑しながら、うなだれる勇者の髪を撫でてやる。

「ねぇ、魔女様」
「うん?」

 手の甲に、手のひらに、勇者がキスをする。紫紺の瞳が魔女を見上げる。情欲に濡れた、男の目だ。いつかの聖騎士のそれとは違い、彼の目は怖くはない。好ましいとすら思える。

「今夜、一緒の寝台で眠ってもいい?」

 嫌だと言ったら、何だかんだ言いながらも勇者はそれを守るだろう。そういう男だと魔女は知っている。

「何もしない?」
「それは無理。約束できない」
「じゃあ……」
「ダメ? わかった、耐えるよ。俺頑張る」

 勇者は勝手に結論を出す性格のようだ。先程、勝手に「愛さなくてもいい」だなんて決めつけられたことを思い出し、魔女はムッとする。
 もうとっくに好意があるのに、必要ないだなんてどういうことだ、と。勝手に決めつけるな、と。

「じゃあ、耐えて」

 魔王が生きていたら間違いなく美味しいと言うだろう絶望の声を上げて、勇者は「無理ぃぃぃ」と嘆いた。それを見下ろし、魔女は微笑む。彼がどれだけ我慢ができるものか、試してみたくなったのだ。


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