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010.「うん、よく言われる。でも、魔女様が笑うんだったら、俺は別に馬鹿でもいいんだよ」

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「絶望の魔王様はいつ消滅したの? 時間の流れは同じになった? 魔女様、ちゃんと妊娠していたんだ? でもダメになっちゃったんだね。かわいそうに。魔女様、ちゃんと食べてるかな? 心配だなぁ」

 憂鬱の魔王は勇者の質問に答えない。それどころか乱暴に翼を揺すって振り落とそうとするので、勇者はしがみついたまましばらくは黙っておくことにする。
 紫の国から隣国へ渡るのに空を使うのは初めてだ。眼下に広がる景色が、見慣れたものから懐かしいものへと変わっていく。

 緋の国の先代聖女のことは、それとなく神官たちから聞き出してみた。突然の引退と新たに降りた神託から、何かしらの騒動があったことを周辺国の神官ですら感知していた様子だった。しかし、総主教が孫娘のために一計を案じたことには、誰も気づいていなかった。緋の国で上手に隠されていたようだ。
 勇者は宣言した通り、あれから緋の国へ一度も行っていない。七年の間に緋の総主教が交代しても、緋の聖女から何度も要望されても、決して緋の国に立ち入ることはなかった。魔王と魔女以外のことで緋の国に関わる必要性を感じなかったのだ。

「憂鬱の魔王様はいつもはどこに棲んでいるの? 魔女様みたいに、守ってくれる人のところ?」
『オレは人間が嫌いだ』
「嫌いな生き物からしか食事を摂ることができないのって、嫌だよねぇ」
『だからお前が嫌いなんだ。能天気で考えなしで、憂鬱さのかけらもない。あの女のほうがよほどマシだ』

 勇者は納得する。憂鬱さとは縁遠いことを自覚している。憂鬱の魔王がイヤイヤ自分を緋の国へ連れて行ってくれていることには気づいている。それだけ魔女の体調が切羽詰まっているのであろうことにも。

 緋の国の果ての森には、相変わらず『瘴気の澱』が蔓延している。淀んだ空気が森を支配しており、人間の立ち入りを拒んでいる。帳が降りると、なおそれを感じる。勇者はそれを憂鬱の魔王と飛び越え、森の奥の、空気が澄んだ泉のほとりへと降り立つ。七年前と変わらない、魔王と魔女が棲んでいた奥地だ。
 月の光に照らされ、泉は澄んでおり、水底まで見通せる。しかし、水面に触れてもその中に魔王を見ることができない。絶望の魔王は消滅してしまったのだ。
 憂鬱の魔王は勇者を下ろすとさっさとどこかへ行ってしまう。魔女の憂鬱を食べることなく飛び立ったので、空腹ではないのだろう。
 勇者は小屋のほうへと向かう。何の匂いもない。何の音もしない。明かりもない。木々のざわめきだけが落ちてくる。途中の村でもらってきたカンテラに火を灯して、勇者は小屋の扉を開けた。

「魔女様、こんばんはー」

 明るく扉を開けて室内に入る。整理整頓されていた薬草の棚は見る影もなく、荒れ果てている。自暴自棄になった魔女が壊してしまったのだろう。掃除するのが大変だなぁ、と思いながら奥の部屋へと向かう。魔女の小屋は薬草などが置いてある倉庫と、もう一つの部屋しかない。寝台も机も台所もすべてその部屋にあるのだ。

「魔女さまー」

 魔女が机に突っ伏しているのが見えた。赤褐色の長い髪はボサボサで手入れもされていない。虚ろな目で勇者を見上げた魔女の頬はこけ、げっそりとしている。くまも酷い。手足も随分と細くなってしまっている。

「うわぁ、酷い。今から何か食べられるものを作るから、待っていてね。食材は、紫の国からもらってきたんだ。俺、農村では大人気なんだよ。ほら、よく畑を手伝うからさー」

 勇者は枯れ葉のような魔女の体を抱き上げ、寝台へと横たえる。触れるか触れないかという葛藤はもうない。魔女の額にキスをしたあと、部屋のカンテラに火を灯して、勇者は鍋を洗い、水瓶に水を汲み、野菜や干し肉を手早く切って料理を始める。
 魔女は何も言わない。言う気力さえないように見える。死ぬつもりだったのだろう。愛した魔王が死に、子どもも腹からいなくなった。どれほどの絶望と憂鬱が魔女を襲ったのか、勇者には想像すらできない。だから、勇者は野菜も肉もみじん切りにして、スープを作っていく。

「はーい、勇者特製ミルクスープだよー。この森に牛はいないから、牛乳は久しぶりなんじゃない? 美味しいよ。南のほうの村で作り方を教えてもらったんだ。食欲がないときでも食べられるよ」

 木の器にスープの上澄みをよそい、寝台のそばの椅子に腰掛ける。水や木綿布を準備し、勇者はふうふうと熱を冷ます。冷ましたスープを口に含み、魔女のかさついた唇に押し当て、そっと流し込む。魔女はぼんやりと空を見つめる。今、自分が何をされているのかさえ、わかっていない様子だ。
 勇者は構わず、「美味しいでしょ」と笑いながら、魔女に口移しをしてゆっくりと飲ませていく。途中で、どうでもいいような世間話をしながら。

 小屋の掃除をしたり、大きな独り言を言ったり、屋根を修復したり、聖職者の悪口を言ったり、調味料の加減を間違えて塩辛い肉を作ってしまったり、勇者は甲斐甲斐しく魔女の面倒をみる。魔女は少しずつ血色が良くなってきて、三日目にはボロボロと涙を流すようになった。勇者は魔女に水を飲ませながら「もっと泣くといいよ」と微笑む。魔女の体を湯で清め、浴布で拭くことにも慣れた。魔女は苦味のある野菜が苦手であることも知った。勇者は、魔女に寄り添うだけだ。過剰に話しかけてはいたが。
 そうして、五日目。魔女はようやくその樺茶色の瞳を、真っ直ぐに勇者に向けた。

「……魔王様が、いなくなったの」
「うん、役目を終えたんだね」
「私を置いて、消えてしまっ……」
「幸せだっただろうね、魔王様。こんなに愛されていたんだから、絶望なんてしていられないよね。羨ましいよ」

 泣きじゃくる魔女の背を撫でながら、勇者は微笑む。
 聖女でもない、ただの女一人の絶望では、魔王は生きられない。魔女の幸せを願いながら、魔王は消えていったのだろう。少なくとも、魔王の周りに絶望と呼べるものはなかったのだ。それは、とても幸いなことに違いない。

「……子どもも、死んでしまった」
「うん、悲しかったね」
「ごめんなさ……」
「謝ることはないよ。よくあることだから、魔女様のせいじゃない。仕方がないことなんだよ」

 貴族の女性でも、農村の女性でも、子どもが無事に生まれるかどうかなどわからない。そういうものだ。慈しんだ命が消えてしまう悲しみも等しい。そういうものだ。

「魔王様と赤ちゃんのお墓は作った?」
「……まだ」
「じゃあ、元気になったらちゃんと弔ってあげよう。元聖女と勇者が弔うんだから、豪華なお葬式になるね」

 勇者は明るく笑って魔女を見つめる。魔女は涙に濡れた目で、勇者を見上げる。

「どう、して」
「どうしてそこまでしてくれるのか、って? 俺がやりたいからだよ。魔王様にはお世話になったし、俺は赤ちゃんの父親だった。それから――」

 元に戻り始めた魔女の頬を撫で、勇者は微笑む。

「――あなたのことが好きだから」

 七年間、一度も忘れたことがない。あれだけモテたくて結婚したくて必死だったのに、魔女に出会ってからその熱は急に冷めた。隣にいてもらいたいのが誰でもいいわけではないのだと、勇者は知った。絶望から救い出したいのは、幸せを願っているのは、ただ一人だ。
 魔女は勇者の言葉に一瞬面食らったような表情をしたあと、柔らかな笑みを浮かべる。

「……馬鹿」
「うん、よく言われる。でも、魔女様が笑うんだったら、俺は別に馬鹿でもいいんだよ」

 勇者は魔女の手を取り、その甲に口づける。魔女が拒絶することはない。顔を真っ赤にして勇者を見下ろしている。脈があるのか、聞き慣れていないだけなのか勇者には判断できなかったが、照れて恥ずかしがっている魔女を見るのは新鮮だ。

「好きだよ、魔女様。すごく可愛い。抱きしめて食べちゃいたいくらい可愛い」
「……調子に乗るな」
「はーい」

 勇者はケラケラと笑い、また他愛のない話を始める。少しずつ、魔女の心が開いていることを感じながら、しかし、その心は完全には自分には向かないだろうという覚悟をして。


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