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008.「俺は寂しいよ。すごく。あなたをここからさらっていきたいくらい、寂しい」
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聖母神の加護のおかげで治りは早い。果ての森から出られるくらいまで回復した勇者は、聖服と聖剣を身につけ、荷物をまとめて泉へやってきた。どういう原理かはわからないが、水面に触れると魔王がその姿を現す。眠っているのか起きているのかわからないが、勇者は魔王に声をかける。
「魔王様、俺帰るね」
『……そうか』
「魔女様、子どもできているといいね」
魔王は黄緑色の触手を勇者に伸ばす。つるりとした冷たい触手を握り、勇者は魔王に別れを告げる。
「元気でね、魔王様。また会いに来るよ」
『ああ』
「魔女様と仲良くね」
会いに来る、と言いながら、魔王に会える機会はないことを勇者は感じている。戦争が起こらない限り、絶望の魔王はいずれ消滅する。それは数ヶ月後かもしれないし、数年後かもしれないし、明日かもしれない。それはわからない。だが、その日は近い。それだけはわかる。
『勇者よ』
「嫌だよ、魔王様が死んだあとのことなんて聞きたくないよ」
『……すまぬ』
どうやら図星だったようだ。勇者は苦笑する。
「大丈夫だよ。魔女様のことは何とかするから」
『そうか……頼む』
頼まれなくてもそうするつもりだった。勇者は何年後かに再度ここを訪れて、魔女とその子どもを連れ出すつもりだったのだ。
黄緑色の触手がゆっくりと離れていく。魔王は目を閉じ、眠りにつく。次はいつ目覚めるかわからない。
勇者はいい匂いがしている小屋に向かう。
野菜のスープを煮る魔女は、丁寧に灰汁を取っている。昼か夜の食事になるのだろう。「食べたかったなぁ」と勇者は笑い、魔女に別れの挨拶をする。
「魔女様、色々ありがとう。行くね」
「……うるさいのがいなくなってせいせいするわ」
「そうだね」と勇者は笑う。魔女様ならそう言うと思ってた、と。
魔王は勇者の心に気づいている。魔女は気づいていないのか、気づいていて気づかないふりをしているのか、わからない。勇者にとってはどちらでもいい。どうせ叶わぬ想いなのだから。
「俺は寂しいよ。すごく。あなたをここからさらっていきたいくらい、寂しい」
それは勇者の本心だ。叶わぬ恋をした、それだけだ。
魔女は何も言わず、野菜スープの上澄みを眺めている。何を考えているのかわからない横顔だ。それでいいと勇者は思う。理解できないくらいの距離感が良かった。部外者としての思い出が残るだけでいいのだ。
「魔王様の子ども、見に来るね」
「来なくてもいいわ」
「言うと思った。絶対、来るよ」
勇者は明るく笑い、魔女に右手を差し出す。魔女はそれをちらと見たあと、大げさに溜め息をついて同じように右手を差し出した。
――その右手を引き寄せて抱きしめられたらどれほど幸せなことだろう。
勇者は握手をしただけだ。魔女を抱きしめることも、手の甲にキスをすることもない。欲にかられて嫌われるようなことはしたくないのだ。相手は、自分の子を生んでくれるかもしれないのだから。
「じゃあ行くね」
「……気をつけて」
「ありがとう、魔女様。お元気で」
結局、魔女に名前を聞くことはなかったし、自分も名乗ることはなかった。勇者は聖剣を握りしめ、『瘴気の澱』を祓いながら最短距離で森を抜け出した。果ての森の『瘴気の澱』すべてを祓わないままにしたのは、魔王と魔女の住処が人目につかないようにするためだ。『瘴気の澱』こそが二人の愛を守るものだと、勇者は知っているのだ。
勇者が森を出ると、不思議なことが起こっていた。五日ほど果ての森に滞在していたはずだったが、森に入る前に立ち寄った村を尋ねるともう二ヶ月以上たっていたのだ。
果ての森の内部は時間の流れが違うことに、勇者はようやく気づく。だから古代の魔王がまだ生き長らえていたのだ。
勇者が連絡を寄越さなくても、緋の国の聖職者も神官も気にしてはいなかったようだ。大神殿に戻っても二ヶ月以上も不在だったことは誰からも咎められない。緋の国の聖教会はそういう組織なのだろう。故郷とは全然違う対応だ。
勇者は果ての森のことを秘密にすることにした。出てくるときに確認したが、果ての森の『瘴気の澱』は広がることなくそこに留まっているため、放っておくことを提言しておいた。緋の国は新たな勇者の神託の準備で忙しそうだったため、後回しになることは間違いない。
「ねぇ、勇者様、わたしと結婚して!」
紫の国へ帰る直前、総主教に最後の挨拶をする際に、緋の国の聖女が求婚してきた。五つ年下の聖女に無邪気にそう言われ、勇者は「困ったなぁ」と苦笑する。
「勇者様はわたしを助けてくれたんですもの。ねぇ、おじい様、いいでしょう?」
「ハハハ。お前が聖女の役目を終えるにはまだ早いのではないか」
聖女の隣で総主教も勇者と同じように苦笑する。聖女の祖父は緋の国聖教会の最高権力者なのだ。
「だって、もう五年も聖女をやっているのよ? 前の聖女様は十年以上続けたけれど、最後は皆に迷惑をかけて辞めてしまったと聞いたの。わたしはそうはなりたくないの」
「まだ五年ではないか。聖女を引退するにも結婚するにも、早すぎるだろう」
微笑ましい祖父と孫の姿を見ながら、総主教の部屋に集まった聖職者や神官たちは目を細める。ただ、勇者だけは空気を読まない。
「えっ、緋の国の先代聖女様は迷惑をかけて辞めてしまわれたのですか?」
「あぁ、聖女のくせに、男を連れ込んだんだよ」
「当直の聖騎士に襲われたのではありませんでしたか?」
「聖騎士はその場で自害したとか。聖女宮には幽霊が出ると噂にもなっていますよ」
ひそひそと聞こえてくる声に、勇者はあちこちの町や村で聞いた話を思い出す。聖教会への不信感を抱く人々が、よく話してくれたものだ。
先代聖女に懸想した聖騎士が、当直の晩に聖女宮に侵入して先代を陵辱。本懐を遂げたあと、あろうことか先代の目の前で自害。男の精と血で穢された先代は、すぐに引退を余儀なくされたという。
十年以上、国と民のために働いてきたのに、たった一人の暴挙のせいですべて失うことになった。その引退の顛末を聖職者たちから面白おかしく吹聴され、肩身が狭くなった先代の家族は国を出ることとなった。何の落ち度もないのに一夜で様々なものを失ったのだ。「そりゃ絶望するよなぁ」と勇者は頷いたものだ。
そうして、今の聖女――総主教の孫娘に神託が降りた。
総主教が先代聖女を追いやり、自分の孫娘を新たな聖女に据え置いて、聖教会の実権を握っている――緋の国民たちの目にはそう映ったのだ。緋の国聖教会の最高権力者への不信が、聖教会への不信に転じたのは確かだ。
総主教の人望もあまりないようだ。大切な孫娘を魔王や『瘴気の澱』から遠ざけ、聖女宮に閉じ込めていたのだと揶揄する声もある。緋の国に『瘴気の澱』が蔓延した責任を総主教に問う声は多かった。
「嫌よ。わたし、勇者様と一緒に紫の国へ行くの!」
「お前は緋の国の聖女だ。先代のような勝手は許されんのだ」
「前の聖女様みたいに迷惑をかけて辞めたくないの! 結婚がダメなら、婚約は許してくれる?」
「どちらもダメだ」
皆に迷惑をかけて先代は辞めた、そんなふうに総主教は孫に説明したのだろう。勇者はぎゅうと拳を握る。全然、違う。
「おじい様のわからず屋」
「お前は長く清らかであってもらわなければならない。純粋さと美しさを失わず、国と民のために、無責任な行動を慎んでもらわねばならない。それが聖女の本来あるべき姿なのだ」
それはまるで、先代聖女は清らかではなく、純粋でも美しくもなく、無責任な行動をしてきたとでも言うような口ぶりだ。
「俺、あんなに純粋で美しい人を見たことないんだけどなー」と呟き、勇者はじっと総主教を睨む。彼はそれに気づいていない。
「お前は先代聖女のように道を誤ってはならん。清く正しく、聖女として生き続けるのだ。大丈夫、お前にならできる。なんと言っても、私がついているからなぁ!」
声高に笑う総主教の頬を、勇者は殴っていた。思いきり、殴りつけていた。
床に倒れて呆然とする総主教、目を丸くしたままの聖女、騒然となる室内を一瞥して、勇者はにっこりと笑った。
「総主教を殴ったので強制送還ですよね? どうぞ、送還してください。今後一切、紫の国の勇者が緋の国に関わることはありませんので。では、さようならー!」
総主教の怒声や罵声を無視し、勇者は故郷へと戻って行った。緋の国の反総主教派の助力もあり、勇者職を剥奪されるようなことはなかったが、帰郷してすぐに紫の国の聖職者や神官からはかなり叱られることとなった。
もちろん、勇者は気にすることなどなかった。彼はただ「緋の国にはこっそり行かないといけなくなった」と頭を抱えるだけだった。
「魔王様、俺帰るね」
『……そうか』
「魔女様、子どもできているといいね」
魔王は黄緑色の触手を勇者に伸ばす。つるりとした冷たい触手を握り、勇者は魔王に別れを告げる。
「元気でね、魔王様。また会いに来るよ」
『ああ』
「魔女様と仲良くね」
会いに来る、と言いながら、魔王に会える機会はないことを勇者は感じている。戦争が起こらない限り、絶望の魔王はいずれ消滅する。それは数ヶ月後かもしれないし、数年後かもしれないし、明日かもしれない。それはわからない。だが、その日は近い。それだけはわかる。
『勇者よ』
「嫌だよ、魔王様が死んだあとのことなんて聞きたくないよ」
『……すまぬ』
どうやら図星だったようだ。勇者は苦笑する。
「大丈夫だよ。魔女様のことは何とかするから」
『そうか……頼む』
頼まれなくてもそうするつもりだった。勇者は何年後かに再度ここを訪れて、魔女とその子どもを連れ出すつもりだったのだ。
黄緑色の触手がゆっくりと離れていく。魔王は目を閉じ、眠りにつく。次はいつ目覚めるかわからない。
勇者はいい匂いがしている小屋に向かう。
野菜のスープを煮る魔女は、丁寧に灰汁を取っている。昼か夜の食事になるのだろう。「食べたかったなぁ」と勇者は笑い、魔女に別れの挨拶をする。
「魔女様、色々ありがとう。行くね」
「……うるさいのがいなくなってせいせいするわ」
「そうだね」と勇者は笑う。魔女様ならそう言うと思ってた、と。
魔王は勇者の心に気づいている。魔女は気づいていないのか、気づいていて気づかないふりをしているのか、わからない。勇者にとってはどちらでもいい。どうせ叶わぬ想いなのだから。
「俺は寂しいよ。すごく。あなたをここからさらっていきたいくらい、寂しい」
それは勇者の本心だ。叶わぬ恋をした、それだけだ。
魔女は何も言わず、野菜スープの上澄みを眺めている。何を考えているのかわからない横顔だ。それでいいと勇者は思う。理解できないくらいの距離感が良かった。部外者としての思い出が残るだけでいいのだ。
「魔王様の子ども、見に来るね」
「来なくてもいいわ」
「言うと思った。絶対、来るよ」
勇者は明るく笑い、魔女に右手を差し出す。魔女はそれをちらと見たあと、大げさに溜め息をついて同じように右手を差し出した。
――その右手を引き寄せて抱きしめられたらどれほど幸せなことだろう。
勇者は握手をしただけだ。魔女を抱きしめることも、手の甲にキスをすることもない。欲にかられて嫌われるようなことはしたくないのだ。相手は、自分の子を生んでくれるかもしれないのだから。
「じゃあ行くね」
「……気をつけて」
「ありがとう、魔女様。お元気で」
結局、魔女に名前を聞くことはなかったし、自分も名乗ることはなかった。勇者は聖剣を握りしめ、『瘴気の澱』を祓いながら最短距離で森を抜け出した。果ての森の『瘴気の澱』すべてを祓わないままにしたのは、魔王と魔女の住処が人目につかないようにするためだ。『瘴気の澱』こそが二人の愛を守るものだと、勇者は知っているのだ。
勇者が森を出ると、不思議なことが起こっていた。五日ほど果ての森に滞在していたはずだったが、森に入る前に立ち寄った村を尋ねるともう二ヶ月以上たっていたのだ。
果ての森の内部は時間の流れが違うことに、勇者はようやく気づく。だから古代の魔王がまだ生き長らえていたのだ。
勇者が連絡を寄越さなくても、緋の国の聖職者も神官も気にしてはいなかったようだ。大神殿に戻っても二ヶ月以上も不在だったことは誰からも咎められない。緋の国の聖教会はそういう組織なのだろう。故郷とは全然違う対応だ。
勇者は果ての森のことを秘密にすることにした。出てくるときに確認したが、果ての森の『瘴気の澱』は広がることなくそこに留まっているため、放っておくことを提言しておいた。緋の国は新たな勇者の神託の準備で忙しそうだったため、後回しになることは間違いない。
「ねぇ、勇者様、わたしと結婚して!」
紫の国へ帰る直前、総主教に最後の挨拶をする際に、緋の国の聖女が求婚してきた。五つ年下の聖女に無邪気にそう言われ、勇者は「困ったなぁ」と苦笑する。
「勇者様はわたしを助けてくれたんですもの。ねぇ、おじい様、いいでしょう?」
「ハハハ。お前が聖女の役目を終えるにはまだ早いのではないか」
聖女の隣で総主教も勇者と同じように苦笑する。聖女の祖父は緋の国聖教会の最高権力者なのだ。
「だって、もう五年も聖女をやっているのよ? 前の聖女様は十年以上続けたけれど、最後は皆に迷惑をかけて辞めてしまったと聞いたの。わたしはそうはなりたくないの」
「まだ五年ではないか。聖女を引退するにも結婚するにも、早すぎるだろう」
微笑ましい祖父と孫の姿を見ながら、総主教の部屋に集まった聖職者や神官たちは目を細める。ただ、勇者だけは空気を読まない。
「えっ、緋の国の先代聖女様は迷惑をかけて辞めてしまわれたのですか?」
「あぁ、聖女のくせに、男を連れ込んだんだよ」
「当直の聖騎士に襲われたのではありませんでしたか?」
「聖騎士はその場で自害したとか。聖女宮には幽霊が出ると噂にもなっていますよ」
ひそひそと聞こえてくる声に、勇者はあちこちの町や村で聞いた話を思い出す。聖教会への不信感を抱く人々が、よく話してくれたものだ。
先代聖女に懸想した聖騎士が、当直の晩に聖女宮に侵入して先代を陵辱。本懐を遂げたあと、あろうことか先代の目の前で自害。男の精と血で穢された先代は、すぐに引退を余儀なくされたという。
十年以上、国と民のために働いてきたのに、たった一人の暴挙のせいですべて失うことになった。その引退の顛末を聖職者たちから面白おかしく吹聴され、肩身が狭くなった先代の家族は国を出ることとなった。何の落ち度もないのに一夜で様々なものを失ったのだ。「そりゃ絶望するよなぁ」と勇者は頷いたものだ。
そうして、今の聖女――総主教の孫娘に神託が降りた。
総主教が先代聖女を追いやり、自分の孫娘を新たな聖女に据え置いて、聖教会の実権を握っている――緋の国民たちの目にはそう映ったのだ。緋の国聖教会の最高権力者への不信が、聖教会への不信に転じたのは確かだ。
総主教の人望もあまりないようだ。大切な孫娘を魔王や『瘴気の澱』から遠ざけ、聖女宮に閉じ込めていたのだと揶揄する声もある。緋の国に『瘴気の澱』が蔓延した責任を総主教に問う声は多かった。
「嫌よ。わたし、勇者様と一緒に紫の国へ行くの!」
「お前は緋の国の聖女だ。先代のような勝手は許されんのだ」
「前の聖女様みたいに迷惑をかけて辞めたくないの! 結婚がダメなら、婚約は許してくれる?」
「どちらもダメだ」
皆に迷惑をかけて先代は辞めた、そんなふうに総主教は孫に説明したのだろう。勇者はぎゅうと拳を握る。全然、違う。
「おじい様のわからず屋」
「お前は長く清らかであってもらわなければならない。純粋さと美しさを失わず、国と民のために、無責任な行動を慎んでもらわねばならない。それが聖女の本来あるべき姿なのだ」
それはまるで、先代聖女は清らかではなく、純粋でも美しくもなく、無責任な行動をしてきたとでも言うような口ぶりだ。
「俺、あんなに純粋で美しい人を見たことないんだけどなー」と呟き、勇者はじっと総主教を睨む。彼はそれに気づいていない。
「お前は先代聖女のように道を誤ってはならん。清く正しく、聖女として生き続けるのだ。大丈夫、お前にならできる。なんと言っても、私がついているからなぁ!」
声高に笑う総主教の頬を、勇者は殴っていた。思いきり、殴りつけていた。
床に倒れて呆然とする総主教、目を丸くしたままの聖女、騒然となる室内を一瞥して、勇者はにっこりと笑った。
「総主教を殴ったので強制送還ですよね? どうぞ、送還してください。今後一切、紫の国の勇者が緋の国に関わることはありませんので。では、さようならー!」
総主教の怒声や罵声を無視し、勇者は故郷へと戻って行った。緋の国の反総主教派の助力もあり、勇者職を剥奪されるようなことはなかったが、帰郷してすぐに紫の国の聖職者や神官からはかなり叱られることとなった。
もちろん、勇者は気にすることなどなかった。彼はただ「緋の国にはこっそり行かないといけなくなった」と頭を抱えるだけだった。
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