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記憶の価値
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いつもより少ないとは言え、観光客や海水浴客の姿が目立つ鎌倉で、この頃さゆは、空いている場所を探して、スケッチをしていた。個展に飾る絵はもう大体が完成していたけれど、さゆが「最後に何か、もう少し欲しい」と言い、鎌倉の寺社や風景のスケッチを何点か飾る事にした。
「いや、いいね。鎌倉の空気感が凝縮された様な絵」
さゆはスケッチブックに下絵を三十分程度で完成させる。だがその絵は既に、正確な描写力や観察眼がありながらも、さゆ独特の、言葉にし難い、空気がヒリついた感じというか、奥底に希望の見える重苦しさとでも言う様な「雰囲気」が溢れていて、「ああ、朝霧冴雪の絵だな」と思う。何点もの作品の中から、鎌倉だと分かりづらい絵を、個展には出品しようとしていた。
「鎌倉、本当に良い所だね。住めて良かった」
帰り道、スーパーのビニール袋を持ちながら、さゆはゆっくり歩く。夕方の路地裏はシンと静かで、人通りもない。涼やかな風が吹き抜ける。
「あ、トンボ!」
さゆが赤い尻尾のトンボを指差す。ふと眼が合って、タキが微笑んだ。そのままタキが自分のマスクを顎にズラしたので、さゆもマスクを下げる。
眼を閉じて、そっとふたり、鎌倉の路地裏でキスをした。
静かに、九月が来ていた。
(な、ななんか・・・・)
ルークがカリカリを食べる音が響いている。夕食は野菜カレースープだ。タキは、今日会社の近くで見た猫の話をしている。
(新婚さんみたいだな)
自分で思っておいて、さゆは顔から火が出そうになって、下を向いた。自分達は実際にある意味「新婚」で、何を今更、と思うけれど。
この頃「タキと同棲している」という事実を、やっとリアルに感じるようになった。タキを好きな自分を自覚して、肌感覚が戻って来たというか、日常生活に実感が伴うようになって来た。
「さゆ」
「ん?」
「二週間後の個展の初日、小さく打ち上げしよう、ここで。俺達の小さな古本屋の開店祝いも兼ねて」
両方とも、いよいよ作業が大詰めになっている。大変なのは確かだが、タキは高揚感に包まれていた。そんなワクワクしたタキの様子と対照的に、さゆは俯いて、小さく頷いただけだった。
さゆは一人、風呂上りに、所在なさげな様子でソファに座って個展の絵の配置を考えている。ルークが少し心配げにやって来て、だっこをせがむので、抱き上げた。
「おまたせ」
ドライヤーの音が響いている。タキはいつも通り風呂から上がると、そのままさゆの隣に座り、両腕でゆっくりさゆを包み込む。
石鹸の良い香りがした。さゆはタキの胸に、頭を押し付けた。ルークも真似をする。
「はあ、幸せ。こんなに幸せな時間が、またあるって思わなかった」
もう半年も一緒に暮らしているのに、こんなに明るいタキの声を、自分は知らなかったなと思う。きっとタキはずっと、夫婦らしく振舞いたい気持ちを、我慢していたのだろうな、と。
(きっとまだ、私の知らないタキの顔がある)
タキと身体を重ねる想像をしただけで、身体が震えるほどの恐怖がある。
それでも。それでも、と思う。
「タキ」
「うん?」
「私、タキのこと、好き」
「ほんとに!?嬉しい」
タキは、さゆを抱き寄せる力を僅かに強めると、「俺も愛してるよ」と小さく囁いた。
そのまま二人と一匹、狭いソファの上でしばらく身体を寄せ合っていた。
「ねえ、タキ」
「ん?」
「私、思い出した方が良いよね。色々。タキの為に思い出したい」
病院で目覚める前の自分は、どんな恋人同士だったのか。
そもそも、どうして自分はあんな怪我をしたのか。
「思い出さなくて良い!思い出さなくて良いよ!!」
その時のタキの勢いがあまりに強くて、さゆは少し驚いて、身を竦めた。
「あ、あ、ごめんねさゆ。俺の為を考えるなら、もう、何も思い出さなくても良いんだよ。今の暮らしは嫌い?贅沢出来なくてごめんね。ここはもうあと一年半しかいられないけれど、俺はさゆさえ良ければ、その後も近くにアパートを借りて、ルークとさゆと一緒に、ずっと暮らしたいと思ってる」
タキはさゆを抱き締めながら、「ずっと一緒にいよう」と呟く。
「・・・・・・私も、ずっと一緒にいたい・・・・・でも」
さゆはソファの隅にあったスマフォを取り上げる。
「バイト先の人に、これを見せられたの」
さゆは、何度か迷った末に、遠慮がちにタキへある写真を見せた。
その写真を見た、タキの表情がみるみる凍り付く。
そこには。
女優と抱き合う、かつての、裸の自分が、いた。
「いや、いいね。鎌倉の空気感が凝縮された様な絵」
さゆはスケッチブックに下絵を三十分程度で完成させる。だがその絵は既に、正確な描写力や観察眼がありながらも、さゆ独特の、言葉にし難い、空気がヒリついた感じというか、奥底に希望の見える重苦しさとでも言う様な「雰囲気」が溢れていて、「ああ、朝霧冴雪の絵だな」と思う。何点もの作品の中から、鎌倉だと分かりづらい絵を、個展には出品しようとしていた。
「鎌倉、本当に良い所だね。住めて良かった」
帰り道、スーパーのビニール袋を持ちながら、さゆはゆっくり歩く。夕方の路地裏はシンと静かで、人通りもない。涼やかな風が吹き抜ける。
「あ、トンボ!」
さゆが赤い尻尾のトンボを指差す。ふと眼が合って、タキが微笑んだ。そのままタキが自分のマスクを顎にズラしたので、さゆもマスクを下げる。
眼を閉じて、そっとふたり、鎌倉の路地裏でキスをした。
静かに、九月が来ていた。
(な、ななんか・・・・)
ルークがカリカリを食べる音が響いている。夕食は野菜カレースープだ。タキは、今日会社の近くで見た猫の話をしている。
(新婚さんみたいだな)
自分で思っておいて、さゆは顔から火が出そうになって、下を向いた。自分達は実際にある意味「新婚」で、何を今更、と思うけれど。
この頃「タキと同棲している」という事実を、やっとリアルに感じるようになった。タキを好きな自分を自覚して、肌感覚が戻って来たというか、日常生活に実感が伴うようになって来た。
「さゆ」
「ん?」
「二週間後の個展の初日、小さく打ち上げしよう、ここで。俺達の小さな古本屋の開店祝いも兼ねて」
両方とも、いよいよ作業が大詰めになっている。大変なのは確かだが、タキは高揚感に包まれていた。そんなワクワクしたタキの様子と対照的に、さゆは俯いて、小さく頷いただけだった。
さゆは一人、風呂上りに、所在なさげな様子でソファに座って個展の絵の配置を考えている。ルークが少し心配げにやって来て、だっこをせがむので、抱き上げた。
「おまたせ」
ドライヤーの音が響いている。タキはいつも通り風呂から上がると、そのままさゆの隣に座り、両腕でゆっくりさゆを包み込む。
石鹸の良い香りがした。さゆはタキの胸に、頭を押し付けた。ルークも真似をする。
「はあ、幸せ。こんなに幸せな時間が、またあるって思わなかった」
もう半年も一緒に暮らしているのに、こんなに明るいタキの声を、自分は知らなかったなと思う。きっとタキはずっと、夫婦らしく振舞いたい気持ちを、我慢していたのだろうな、と。
(きっとまだ、私の知らないタキの顔がある)
タキと身体を重ねる想像をしただけで、身体が震えるほどの恐怖がある。
それでも。それでも、と思う。
「タキ」
「うん?」
「私、タキのこと、好き」
「ほんとに!?嬉しい」
タキは、さゆを抱き寄せる力を僅かに強めると、「俺も愛してるよ」と小さく囁いた。
そのまま二人と一匹、狭いソファの上でしばらく身体を寄せ合っていた。
「ねえ、タキ」
「ん?」
「私、思い出した方が良いよね。色々。タキの為に思い出したい」
病院で目覚める前の自分は、どんな恋人同士だったのか。
そもそも、どうして自分はあんな怪我をしたのか。
「思い出さなくて良い!思い出さなくて良いよ!!」
その時のタキの勢いがあまりに強くて、さゆは少し驚いて、身を竦めた。
「あ、あ、ごめんねさゆ。俺の為を考えるなら、もう、何も思い出さなくても良いんだよ。今の暮らしは嫌い?贅沢出来なくてごめんね。ここはもうあと一年半しかいられないけれど、俺はさゆさえ良ければ、その後も近くにアパートを借りて、ルークとさゆと一緒に、ずっと暮らしたいと思ってる」
タキはさゆを抱き締めながら、「ずっと一緒にいよう」と呟く。
「・・・・・・私も、ずっと一緒にいたい・・・・・でも」
さゆはソファの隅にあったスマフォを取り上げる。
「バイト先の人に、これを見せられたの」
さゆは、何度か迷った末に、遠慮がちにタキへある写真を見せた。
その写真を見た、タキの表情がみるみる凍り付く。
そこには。
女優と抱き合う、かつての、裸の自分が、いた。
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