朝凪の海、雲居の空

朝霧沙雪

文字の大きさ
上 下
55 / 68

記憶の価値

しおりを挟む
 いつもより少ないとは言え、観光客や海水浴客の姿が目立つ鎌倉で、この頃さゆは、空いている場所を探して、スケッチをしていた。個展に飾る絵はもう大体が完成していたけれど、さゆが「最後に何か、もう少し欲しい」と言い、鎌倉の寺社や風景のスケッチを何点か飾る事にした。
「いや、いいね。鎌倉の空気感が凝縮された様な絵」
 さゆはスケッチブックに下絵を三十分程度で完成させる。だがその絵は既に、正確な描写力や観察眼がありながらも、さゆ独特の、言葉にし難い、空気がヒリついた感じというか、奥底に希望の見える重苦しさとでも言う様な「雰囲気」が溢れていて、「ああ、朝霧冴雪の絵だな」と思う。何点もの作品の中から、鎌倉だと分かりづらい絵を、個展には出品しようとしていた。
「鎌倉、本当に良い所だね。住めて良かった」
 帰り道、スーパーのビニール袋を持ちながら、さゆはゆっくり歩く。夕方の路地裏はシンと静かで、人通りもない。涼やかな風が吹き抜ける。
「あ、トンボ!」
 さゆが赤い尻尾のトンボを指差す。ふと眼が合って、タキが微笑んだ。そのままタキが自分のマスクを顎にズラしたので、さゆもマスクを下げる。
 眼を閉じて、そっとふたり、鎌倉の路地裏でキスをした。
 静かに、九月が来ていた。

(な、ななんか・・・・)
 ルークがカリカリを食べる音が響いている。夕食は野菜カレースープだ。タキは、今日会社の近くで見た猫の話をしている。
(新婚さんみたいだな)
 自分で思っておいて、さゆは顔から火が出そうになって、下を向いた。自分達は実際にある意味「新婚」で、何を今更、と思うけれど。
 この頃「タキと同棲している」という事実を、やっとリアルに感じるようになった。タキを好きな自分を自覚して、肌感覚が戻って来たというか、日常生活に実感が伴うようになって来た。
「さゆ」
「ん?」
「二週間後の個展の初日、小さく打ち上げしよう、ここで。俺達の小さな古本屋の開店祝いも兼ねて」
 両方とも、いよいよ作業が大詰めになっている。大変なのは確かだが、タキは高揚感に包まれていた。そんなワクワクしたタキの様子と対照的に、さゆは俯いて、小さく頷いただけだった。

 さゆは一人、風呂上りに、所在なさげな様子でソファに座って個展の絵の配置を考えている。ルークが少し心配げにやって来て、だっこをせがむので、抱き上げた。
「おまたせ」
 ドライヤーの音が響いている。タキはいつも通り風呂から上がると、そのままさゆの隣に座り、両腕でゆっくりさゆを包み込む。
 石鹸の良い香りがした。さゆはタキの胸に、頭を押し付けた。ルークも真似をする。
「はあ、幸せ。こんなに幸せな時間が、またあるって思わなかった」
 もう半年も一緒に暮らしているのに、こんなに明るいタキの声を、自分は知らなかったなと思う。きっとタキはずっと、夫婦らしく振舞いたい気持ちを、我慢していたのだろうな、と。
(きっとまだ、私の知らないタキの顔がある)
 タキと身体を重ねる想像をしただけで、身体が震えるほどの恐怖がある。
 それでも。それでも、と思う。
「タキ」
「うん?」
「私、タキのこと、好き」
「ほんとに!?嬉しい」
 タキは、さゆを抱き寄せる力を僅かに強めると、「俺も愛してるよ」と小さく囁いた。
そのまま二人と一匹、狭いソファの上でしばらく身体を寄せ合っていた。
「ねえ、タキ」
「ん?」
「私、思い出した方が良いよね。色々。タキの為に思い出したい」
 病院で目覚める前の自分は、どんな恋人同士だったのか。
 そもそも、どうして自分はあんな怪我をしたのか。
「思い出さなくて良い!思い出さなくて良いよ!!」
 その時のタキの勢いがあまりに強くて、さゆは少し驚いて、身を竦めた。
「あ、あ、ごめんねさゆ。俺の為を考えるなら、もう、何も思い出さなくても良いんだよ。今の暮らしは嫌い?贅沢出来なくてごめんね。ここはもうあと一年半しかいられないけれど、俺はさゆさえ良ければ、その後も近くにアパートを借りて、ルークとさゆと一緒に、ずっと暮らしたいと思ってる」
 タキはさゆを抱き締めながら、「ずっと一緒にいよう」と呟く。
「・・・・・・私も、ずっと一緒にいたい・・・・・でも」
 さゆはソファの隅にあったスマフォを取り上げる。
「バイト先の人に、これを見せられたの」
 さゆは、何度か迷った末に、遠慮がちにタキへある写真を見せた。
 その写真を見た、タキの表情がみるみる凍り付く。
 そこには。
 女優と抱き合う、かつての、裸の自分が、いた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

王女の朝の身支度

sleepingangel02
恋愛
政略結婚で愛のない夫婦。夫の国王は,何人もの側室がいて,王女はないがしろ。それどころか,王女担当まで用意する始末。さて,その行方は?

【R18】散らされて

月島れいわ
恋愛
風邪を引いて寝ていた夜。 いきなり黒い袋を頭に被せられ四肢を拘束された。 抵抗する間もなく躰を開かされた鞠花。 絶望の果てに待っていたのは更なる絶望だった……

マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子

ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。 Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。

王女、騎士と結婚させられイかされまくる

ぺこ
恋愛
髪の色と出自から差別されてきた騎士さまにベタ惚れされて愛されまくる王女のお話。 性描写激しめですが、甘々の溺愛です。 ※原文(♡乱舞淫語まみれバージョン)はpixivの方で見られます。

愛娘(JS5)とのエッチな習慣に俺の我慢は限界

レディX
恋愛
娘の美奈は(JS5)本当に可愛い。そしてファザコンだと思う。 毎朝毎晩のトイレに一緒に入り、 お風呂の後には乾燥肌の娘の体に保湿クリームを塗ってあげる。特にお尻とお股には念入りに。ここ最近はバックからお尻の肉を鷲掴みにしてお尻の穴もオマンコの穴もオシッコ穴も丸見えにして閉じたり開いたり。 そうしてたらお股からクチュクチュ水音がするようになってきた。 お風呂上がりのいい匂いと共にさっきしたばかりのオシッコの匂い、そこに別の濃厚な匂いが漂うようになってきている。 でも俺は娘にイタズラしまくってるくせに最後の一線だけは超えない事を自分に誓っていた。 でも大丈夫かなぁ。頑張れ、俺の理性。

【完結】Mにされた女はドS上司セックスに翻弄される

Lynx🐈‍⬛
恋愛
OLの小山内羽美は26歳の平凡な女だった。恋愛も多くはないが人並に経験を重ね、そろそろ落ち着きたいと思い始めた頃、支社から異動して来た森本律也と出会った。 律也は、支社での営業成績が良く、本社勤務に抜擢され係長として赴任して来た期待された逸材だった。そんな将来性のある律也を狙うOLは後を絶たない。羽美もその律也へ思いを寄せていたのだが………。 ✱♡はHシーンです。 ✱続編とは違いますが(主人公変わるので)、次回作にこの話のキャラ達を出す予定です。 ✱これはシリーズ化してますが、他を読んでなくても分かる様には書いてあると思います。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

下品な男に下品に調教される清楚だった図書委員の話

神谷 愛
恋愛
クラスで目立つこともない彼女。半ば押し付けれられる形でなった図書委員の仕事のなかで出会った体育教師に堕とされる話。 つまらない学校、つまらない日常の中の唯一のスパイスである体育教師に身も心も墜ちていくハートフルストーリー。ある時は図書室で、ある時は職員室で、様々な場所で繰り広げられる終わりのない蜜月の軌跡。 歪んだ愛と実らぬ恋の衝突 ノクターンノベルズにもある ☆とブックマークをしてくれると喜ぶ。 感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。 してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

処理中です...