朝凪の海、雲居の空

朝霧沙雪

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新しい人生

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ドロリとした悪夢の底から目覚めると、柔らかい日差しがカーテン越しに降り注いでいた。
(?)
 なんだか妙に温かいなと思った、ら。顔のすぐ前に見慣れたパジャマの柄があった。
(うわわわわわ)
「あ、おはよう」
 さゆが目覚めたのに気付いたタキが、そう掠れた小さな声で呟く。
「お、お、おはよう・・・・」
 なんとか返したけれど、もの凄く恥ずかしくて、さゆは下を向いた。自分が時々、コントロール出来ない負の感情に苛まれているのは分かっているけれど、それがどんな理由でなのかは、すぐに思い出せなくなってしまう。そして時々、タキの腕の中で目覚める事になる。
「タキ、ご、ごめんね。また迷惑かけて、る・・・・」
「ううん。今日、休みだし」
 そういうタキの声は、明らかに疲れている。そのまま二人、ベッドの上で沈黙した。しばらくしてさゆがタキを見上げると、珍しく眠っているようだった。その時、ルークがリビングからやって来て、さゆの前に転がり、顔を舐め始めた。
「ふふ、おはよう、ルーク」
 ゴロゴロと喉を鳴らし、小さく鳴くルークを撫でて、しばらく時を過ごす。こうしていると、ここだけはなんて平和なんだろうと思う。
「あ、ルークの朝ごはん」
 数十分経っただろうか。タキが二度寝から目覚めてそう言うので、二人はベッドを抜け出した。さゆが、リビングのカーテンを開け放つ。四月の金色の日差しが、室内に降り注ぐ。
 春が、来ていた。

 朝ごはんは、グラノーラにした。腎臓に良いとネットで眼にして、値段も安いので、この頃凝っている。ルークが満足そうにカリカリを食べる横で、ヨーグルトと一緒にゆっくり噛んで食べた。なんとかまた、1日三食、質素だけれど、気分が悪い時以外は食べられるようになって来た。生活のサイクルが少しづつ、出来てきている。
 朝食の後は、洗濯をし、さゆはリビングで水彩画を描いた。タキはソファでそれを見ながら、ルークとうたた寝をしている。ルークの顔の横にカリカリが付いているのを見つけて、服の袖で拭いてやった。
 四月の、色とりどりの花が咲き始め、桜の花びらがどこからかヒラヒラと舞う箱庭の前で、さゆは床に座り込んで、夢中で絵を描いている。緑や青や紅が、絶妙に入り混じった空に、七色の虹がかかっていた。その虹の袂からこちら側へ、黒いシルエットだけの動物達が、次々と渡って来ている絵だ。
 その光景を見ながら、タキは思う。まだ借金もあるし、生活は苦しいけれど。三月は、すんでの所で、なんとか黒字だ。
 自分達は、春を、迎えられたのだ。

 昼下がりに部屋の掃除を終えるのを見計らったように、ルークがおもちゃをくわえてくる。さゆはそれでルークと遊び出した。おもちゃに夢中なルークがあまりに可愛くて、タキは何枚も写真を撮る。ふと、さゆが、
「バイト先のひとに、タキとの出会いとか、色々聞かれるんだけど、あんまり上手く答えられないんだ・・・」
 と漏らした。聞けば、昨年事実婚した事を明かすと、バイトの女性陣が、馴れ初めなどを聞きたがるのだという。タキも職場で一時期随分聞かれたなと苦笑した。タキは元々口数が多くないので、適当に濁しているけれど、さゆはそういう立ち振る舞いは得意ではないだろうなと、思う。
「さゆ、写真見る?」
 さゆはスマフォを無くしてしまったので、もう、昔の写真がない。タキはルークが遊び疲れたタイミングを見計らって、さゆの隣に座り、スマフォの写真を見せた。
 テーマパーク、美術館、熱海、立川と膨大な量の写真がそこにはあった。これは、「かつてのさゆ」が、そこに生きていた証だ。タキがずっと、忘れずにいたいと願い、あの頃のさゆもそう思ってくれていたなら、嬉しく切ない、ふたりだけの思い出だ。
 さゆは興味深そうに写真の場所や思い出を、心持ち上気した頬で聞き、タキは楽しかった事だけを話した。やがてあっという間に、さゆがこの頃ハマっているアニメの放送時間になった。
「ありがとう、タキ。すごく楽しかった」
「・・・・ねえ、さゆ」
 タキはふと、思い付いて、さゆに尋ねた。
「俺のフルネームとか、もう、みんなに話した?」
「ううん」
「じゃあ、ちょっと、名前を言うのは止めた方が良いかも知れない・・・・理由は、いつか、話すよ」
「うん?」
 少し不思議そうに、さゆは首を傾げた。

 日が暮れる前に二人は図書館とスーパーに出掛け、さゆは絵本を、タキはルソーとキルケゴールの本を借りた。さゆは児童向けの本やアニメなら、段々ストーリーを理解出来るようになっていた。
「あ、夕陽、きれい!」
 ふたり、夕方の鎌倉の海岸に並んで座り、春の夕陽を見送る。
「まだ、冷えるね、さゆ」
「うん」
 頷いたけれど、さゆは夕陽に夢中だ。きっとこの夕陽も、いづれ彼女の手で、美しい絵になるのだろう。
 やがて、そろそろ帰ろうか、とタキが口にしようとした時、さゆがタキにそっと寄り掛かった。迷った末にタキは、後ろからさゆを緩く抱き締めた。
「ふふ。タキの腕の中、あったかくて安心する」
 さゆは微笑んでいる。その時タキは、何年も前に、初めてさゆを抱き締めた時、腕の中で震えて泣いていた彼女を思い出した。そして、気付いてしまった。
 さゆの心の中には、もう永遠に、直らない部分があるのだ、きっと。
 自分は事あるごとに、昔のさゆと今のさゆを比較して来たけれど。それは心のどこかで、いつか、昔のさゆが、「戻って来る」と思っていたせいなのだろう。けれど今、ふと、分かってしまった。ここにいるのは、もう、「別のさゆ」なのだ。
 さゆの記憶は、一向に戻らない。もう、戻らないと割り切って、暮らす時が来ているんだろう。その方がさゆも、幸せなのかも知れない。
    それが、身が引き千切られるような、絶望でも。
「タキ?」
 黙り込んだタキを、少し不安そうにさゆが見上げた。
「・・・さゆ、これからも、ずっと、ルークと俺たちふたりで、暮らしていこうね」
「うん!」
 笑顔でさゆは頷いて、アニメのテーマソングを口ずさみ始めた。
 苦しみも、悲しみも尽きないけれど、人生は続く。希望の細い糸の上を、綱渡りする毎日が、なんとか過ぎてゆく。

 
 
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