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あの日々のすべてを
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タキの、新しい毎日が、そこから始まった。弁護士には、十月中旬に初めて新宿で会い、今後もさゆの両親が連絡を取って来た場合の対応などを話し合った。病院から警察へは、おそらく何の届出もされていない。とても悔しいけれど、さゆの記憶が戻らない以上、今の所、警察へ相談はしない事にした。さゆがAVの出演を既に強要されたかも、藪の中だ。
弁護士には、女性支援など複数の信頼出来るNGOを紹介して貰ったり、各種委任状作成の為に、どうしてもさゆの判子が必要なので、さゆに何とか電話してもらい、不動産屋に同行して鍵を開けるのを手伝ってくれたり、本当に多くのアシストをしてくれた。その助けもあって、連日市役所やスマホショップ、銀行、画廊まで様々な場所に足を運び、難解な書類を山の様に書き、なんとか、さゆの入院生活が整えられていった。
(けど俺、無理をしなくなったな)
確かに忙しい毎日で、休日らしい休日はないけれど。一日二食と睡眠は意識してとるようにしていた。さゆとの面会も平日は行かず、格安スマホを契約して、LINEなどで話した。何より、家にあまり居られなくなったので、ルークが寂しがる事が多く、アパートに帰ればタキと一緒に眠りたがった。以前の自分なら、こんな環境の変化が起きたら、ストレスでもっと不摂生になっていた。まだまだ手探りの部分も大きい中で、タキはそんな自身の変化も感じていた。
「タキ」
感染対策の為に、病状の落ち着いたさゆと面会出来るのは、月二日だけだ。面会は全面禁止の病院も多い中、タキも事前検査が必要になるとはいえ、大分融通してくれていると思う。その日にさゆに会いに行くのがタキの楽しみであり、少し怖くもあった。その十一月の夕方、タキの姿を認めたさゆは、ニッコリと微笑んだ。直接会うのは久しぶりだ。
「さゆ、ごめんね、遅くなっちゃって」
「ううん」
さゆの入院は、病院と話し合った結果、今年中位までお世話になる事にした。本当はもう少し早く退院出来るのだけれど、さゆの安全を考えると、タキが引っ越し先をなんとか決め、そこでしばらく一緒に暮した方が良いと思っていた。
首を横に振ったさゆは、スケッチブックに色鉛筆で描いていた絵を、そっと閉まった。チラリと見えたのは羊の様な、動物の絵。造形もぼんやりしていて陰影も無く、以前のさゆの絵とは少し、いやかなり違う。
さゆはもう大分、顔の腫れが引いた。少し鼻の形が違ってしまっているけれど、見た目は前のさゆ、そのままのようだ。
けれど。
(やっぱりもう、違うんだな)
さゆといると、中学生というか、もう少し幼い、小学校高学年ぐらいの女の子と話している気分になる。それが何だか愛おしくもあり、とてつもなく、寂しくもあった。
さゆの表情は大分戻って来たけれど、記憶は全く、戻らない。時々、ふとした事で急にパニックになる事もあるらしい。
「さゆ、調子はどう?」
ベッドの横に腰掛けながらタキは聞く。腕の擦過傷も大分良くなっている。
「鼻の治療がすごく痛かったけど、頑張ったんだよ」
「そっか、偉いね」
看護師から、排泄の際に激痛が走ってつらそうだという話を以前聞いていたけれど、そちらも良くなっているんだろうか。タキがゆっくり手を伸ばしてさゆの髪を撫でると、さゆは少し照れたような微笑を浮かべた。タキが買ったピンクのパジャマを着ている。
「髪が伸びたね」
「あのね、ネットで見た、可愛い結び方、したいの。リボンを付けるの」
「いいね、今度来る時、リボンも買って来ようかな」
ほんの数ヶ月前、さゆに髪を伸ばすよう勧めたのは、自分だった。
あの頃の自分達の姿が、今は、あまりに遠い。
「・・・さゆ、今日は、これを持って来たんだ」
タキはバッグから小さな箱を取り出した。
「なあに?」
さゆが小首を傾げる。タキが微笑を浮かべながら、ピンクの紙の箱をパカッと開く。
「あ、すごい!指輪だ!」
中には銀色のペアリングが、輝いていた。
「書類、無事に市役所に出せたからね。貰ってもらえる?」
ひとりで赴いて、無味乾燥な紙切れを役場に受理されても、タキにもどうにも、事実婚したという実感が無かったけれども。こうして安物とは言え指輪を買ってみると、段々、内縁とは言え、さゆと「家族」になったんだなあと、嬉しさがこみ上げた。
さゆの左手を、タキはそっと持ち上げる。さゆは上気した顔で、それを見ている。タキは、さゆの薬指に、慎重に銀色の指輪を嵌める。シンプルな指輪は、白いさゆの指で、病室の無機質な照明を受けて、キラリと光った。
「私も、私も嵌めてみたい!」
さゆもタキの手をサッと取って、指輪を嵌めてくれる。
「さゆ・・・そっち、右手だよ」
タキは苦笑した。
「あ、あ、あ・・・間違えちゃった」
タキは自分で右手から左手に、指輪を付け替える。そのまま、さゆの手に、自分の手を重ねた。
「さゆ、あんまり贅沢な暮らしはさせてあげられないかも知れないけど・・・俺はずっと、さゆと一緒にいたい。ここを年末に退院したら、さゆの今のアパートも引き払って、俺と暮そう」
「うん」
さゆは迷いなく頷いた。
「・・・さゆ、俺みたいな得体の知れない男と一緒にいるの、怖くない?」
「ううん」
即座にさゆは首を振った。
「だって、タキ、とっても優しいもの。タキがいてくれて良かった。じゃなかったら私・・・」
そこで言い澱んださゆの表情が、みるみる曇った。さゆがパニックを起こす前に、タキはゆるくさゆを抱き寄せ「大丈夫、俺がなんとかするから。ゆっくり、静かに、ルークと一緒に暮していこう」と囁いた。さゆは頷く。さゆは、きっとこれからも、自分の中に広がる、圧倒的な虚無の恐怖と、向き合い続けなければならない。そしてタキは、幸せと苦悩とがない交ぜになったあの、二人の日々の全てを覚えているのが、もう自分ひとりだとしても。今のさゆと、ルークと、なんとか綱渡りのように暮していくしか、道は無かった。
(にしても、アパートが、見つからないんだよな・・・)
十二月に入って、街は少しづつ、クリスマスの雰囲気に染まってゆく。ふと、ショーウインドウに飾ってあるルビーのネックレスに、タキは足を止めた。さゆに何かプレゼントを、と思ったけれど、財布の中身を思い出し、小さく溜息を吐いた。
あと約二週間で、さゆも退院だ。落ち着いてからにして貰った入院費と弁護士費用、そして当面の生活費のメドも全く立っていないけれど、ここ一番の問題は、新居だった。十一月辺りから、時間を見つけては関東一円の不動産屋を巡っていたが、ルークもいて、さゆも働ける状態には無い上で、非正規の自分に部屋を貸してくれる不動産屋は、なかなかいなかった。職場のみんなにもどこか無いか聞いて回っているけれど、厳しい。
「どんなに築年数が古くても、駅から遠くても良いんです。事故物件でも構いません。どこか、貸して頂けるアパートはありませんか?」
その日タキは、神奈川県大船市にいた。さゆが昔、「鎌倉に住みたい」と言っていたのを思い出し、神奈川の不動産屋も幾つか回っていた。事前に予約して来店したものの、事情を詳しく説明すると、窓口の女性は渋い表情をして、「少しお探ししてみますのでお待ち下さい」と言われる。
(厳しいかな)
タキはソファに沈み込む様に座ると、スマフォを取り出して、ネットでも物件を探す。午後三時。頑張ればもう一軒、不動産屋へ行けるかも知れない。途中でさゆからLINEが来て、開くと「お部屋探しありがとう。ルークが上手く描けたよ」と写真が添付してあった。その絵を見てタキは、「何だか大人びた絵を描くようになって来たな」と正直驚いた。光の加減によって銀色に光るルークの白い毛並みが、ソファを背景に細かく描きこまれている。ほんの一ヶ月前のさゆの絵とは、別人のようだ。「上手だね。ルークに似てるよ」と返信して、タキは改めて、待ち受けにしている、さゆの絵に見入った。
タイトルは「記憶」。この絵には、もしかしたら、さゆの思い出したくない記憶が、篭められているのかも知れなかった。さゆは「早く働きたい」とリハビリも毎日頑張っているし、内側からも回復してきているのかも知れないけれど、この百億の鴉の絵の頃の鬼気迫るような筆力には、それでもまだ遠い気がしていた。
(怨念というか、気迫が違うんだよな)
さゆは記憶を喪った事で、画家として大切な「何か」を喪ってしまったのかも知れない。それでも、何も思い出せず、もう昔の様な絵を描く事が出来なくても、それで平穏に暮せるのなら、どちらが幸せかなんて、誰にも分からない。
「あのう、もし・・・」
タキがそんな事を思っていると。いつの間にか横に座っていた人物に、恐る恐る声を掛けられた。驚いて見遣ると、見知らぬ老人だった。腰が曲がって、杖をついているけれど、身に付けた革のアンサンブルは、見るからに高級品だった。
「その作品、朝霧紗雪さんの『記憶』じゃなかろうか。何年か前に銀座で見た事がある」
「ええ、そうです・・・朝霧は、僕の妻なので」
タキはその時初めて、さゆの事を他人に「妻」と言った。こそばゆい様な、嬉しい様な、不思議な感じがした。
「なんと!ワシは昔から、あの銀座の画廊が好きでな。たまに行っていたんじゃけど、このご時勢で行けなくなってしまってな。朝霧さんの絵もどれも本当に素晴らしかったから、またここで見られて嬉しいわい」
タキはさゆの絵が褒められたのが嬉しくて、「記憶」も、他のスマフォで撮影したさゆの数々の絵も、老人に見せてやった。老人は眼鏡を取り出して、どの絵も興味深そうに眺めた。しばらくスマフォの小さな画面を眺めた後、
「・・・そう言えば、お前さん、家を探しているのかい?」
「ええ、そうです。・・・でもペットもいて、朝霧も今はちょっと病気で。なかなか見付からなくて」
「それなら、お前さん、ウチのボロ家を借りてくれないか!」
急に老人が膝を打ちながらそう言ったので、タキは驚いた。話を聞くと、老人は自宅とは別に、一応鎌倉の、駅から大分離れた場所に築約五十年の一軒屋を所有していて、前の貸主が海外へ転居してしまったので、新しい貸主を探しに来たらしい。ただ、老人はその一軒家の土地を高齢の為、あと三年で手放す事に決めており、それまでしか借りられない物件だった。家賃も破格の二万五千円で良いという。
「それでも良かったら、ワシのボロ家に住まんか?あの家で、朝霧さんに作品を生み出して貰えたら、ワシは本望じゃ」
「本当ですか!?是非、お願いします!」
タキは勢い良く頭を下げた。周りじゅう絶望だらけの気がしていたけれど、そこになんとか、一筋の光が、差そうとしていた。
弁護士には、女性支援など複数の信頼出来るNGOを紹介して貰ったり、各種委任状作成の為に、どうしてもさゆの判子が必要なので、さゆに何とか電話してもらい、不動産屋に同行して鍵を開けるのを手伝ってくれたり、本当に多くのアシストをしてくれた。その助けもあって、連日市役所やスマホショップ、銀行、画廊まで様々な場所に足を運び、難解な書類を山の様に書き、なんとか、さゆの入院生活が整えられていった。
(けど俺、無理をしなくなったな)
確かに忙しい毎日で、休日らしい休日はないけれど。一日二食と睡眠は意識してとるようにしていた。さゆとの面会も平日は行かず、格安スマホを契約して、LINEなどで話した。何より、家にあまり居られなくなったので、ルークが寂しがる事が多く、アパートに帰ればタキと一緒に眠りたがった。以前の自分なら、こんな環境の変化が起きたら、ストレスでもっと不摂生になっていた。まだまだ手探りの部分も大きい中で、タキはそんな自身の変化も感じていた。
「タキ」
感染対策の為に、病状の落ち着いたさゆと面会出来るのは、月二日だけだ。面会は全面禁止の病院も多い中、タキも事前検査が必要になるとはいえ、大分融通してくれていると思う。その日にさゆに会いに行くのがタキの楽しみであり、少し怖くもあった。その十一月の夕方、タキの姿を認めたさゆは、ニッコリと微笑んだ。直接会うのは久しぶりだ。
「さゆ、ごめんね、遅くなっちゃって」
「ううん」
さゆの入院は、病院と話し合った結果、今年中位までお世話になる事にした。本当はもう少し早く退院出来るのだけれど、さゆの安全を考えると、タキが引っ越し先をなんとか決め、そこでしばらく一緒に暮した方が良いと思っていた。
首を横に振ったさゆは、スケッチブックに色鉛筆で描いていた絵を、そっと閉まった。チラリと見えたのは羊の様な、動物の絵。造形もぼんやりしていて陰影も無く、以前のさゆの絵とは少し、いやかなり違う。
さゆはもう大分、顔の腫れが引いた。少し鼻の形が違ってしまっているけれど、見た目は前のさゆ、そのままのようだ。
けれど。
(やっぱりもう、違うんだな)
さゆといると、中学生というか、もう少し幼い、小学校高学年ぐらいの女の子と話している気分になる。それが何だか愛おしくもあり、とてつもなく、寂しくもあった。
さゆの表情は大分戻って来たけれど、記憶は全く、戻らない。時々、ふとした事で急にパニックになる事もあるらしい。
「さゆ、調子はどう?」
ベッドの横に腰掛けながらタキは聞く。腕の擦過傷も大分良くなっている。
「鼻の治療がすごく痛かったけど、頑張ったんだよ」
「そっか、偉いね」
看護師から、排泄の際に激痛が走ってつらそうだという話を以前聞いていたけれど、そちらも良くなっているんだろうか。タキがゆっくり手を伸ばしてさゆの髪を撫でると、さゆは少し照れたような微笑を浮かべた。タキが買ったピンクのパジャマを着ている。
「髪が伸びたね」
「あのね、ネットで見た、可愛い結び方、したいの。リボンを付けるの」
「いいね、今度来る時、リボンも買って来ようかな」
ほんの数ヶ月前、さゆに髪を伸ばすよう勧めたのは、自分だった。
あの頃の自分達の姿が、今は、あまりに遠い。
「・・・さゆ、今日は、これを持って来たんだ」
タキはバッグから小さな箱を取り出した。
「なあに?」
さゆが小首を傾げる。タキが微笑を浮かべながら、ピンクの紙の箱をパカッと開く。
「あ、すごい!指輪だ!」
中には銀色のペアリングが、輝いていた。
「書類、無事に市役所に出せたからね。貰ってもらえる?」
ひとりで赴いて、無味乾燥な紙切れを役場に受理されても、タキにもどうにも、事実婚したという実感が無かったけれども。こうして安物とは言え指輪を買ってみると、段々、内縁とは言え、さゆと「家族」になったんだなあと、嬉しさがこみ上げた。
さゆの左手を、タキはそっと持ち上げる。さゆは上気した顔で、それを見ている。タキは、さゆの薬指に、慎重に銀色の指輪を嵌める。シンプルな指輪は、白いさゆの指で、病室の無機質な照明を受けて、キラリと光った。
「私も、私も嵌めてみたい!」
さゆもタキの手をサッと取って、指輪を嵌めてくれる。
「さゆ・・・そっち、右手だよ」
タキは苦笑した。
「あ、あ、あ・・・間違えちゃった」
タキは自分で右手から左手に、指輪を付け替える。そのまま、さゆの手に、自分の手を重ねた。
「さゆ、あんまり贅沢な暮らしはさせてあげられないかも知れないけど・・・俺はずっと、さゆと一緒にいたい。ここを年末に退院したら、さゆの今のアパートも引き払って、俺と暮そう」
「うん」
さゆは迷いなく頷いた。
「・・・さゆ、俺みたいな得体の知れない男と一緒にいるの、怖くない?」
「ううん」
即座にさゆは首を振った。
「だって、タキ、とっても優しいもの。タキがいてくれて良かった。じゃなかったら私・・・」
そこで言い澱んださゆの表情が、みるみる曇った。さゆがパニックを起こす前に、タキはゆるくさゆを抱き寄せ「大丈夫、俺がなんとかするから。ゆっくり、静かに、ルークと一緒に暮していこう」と囁いた。さゆは頷く。さゆは、きっとこれからも、自分の中に広がる、圧倒的な虚無の恐怖と、向き合い続けなければならない。そしてタキは、幸せと苦悩とがない交ぜになったあの、二人の日々の全てを覚えているのが、もう自分ひとりだとしても。今のさゆと、ルークと、なんとか綱渡りのように暮していくしか、道は無かった。
(にしても、アパートが、見つからないんだよな・・・)
十二月に入って、街は少しづつ、クリスマスの雰囲気に染まってゆく。ふと、ショーウインドウに飾ってあるルビーのネックレスに、タキは足を止めた。さゆに何かプレゼントを、と思ったけれど、財布の中身を思い出し、小さく溜息を吐いた。
あと約二週間で、さゆも退院だ。落ち着いてからにして貰った入院費と弁護士費用、そして当面の生活費のメドも全く立っていないけれど、ここ一番の問題は、新居だった。十一月辺りから、時間を見つけては関東一円の不動産屋を巡っていたが、ルークもいて、さゆも働ける状態には無い上で、非正規の自分に部屋を貸してくれる不動産屋は、なかなかいなかった。職場のみんなにもどこか無いか聞いて回っているけれど、厳しい。
「どんなに築年数が古くても、駅から遠くても良いんです。事故物件でも構いません。どこか、貸して頂けるアパートはありませんか?」
その日タキは、神奈川県大船市にいた。さゆが昔、「鎌倉に住みたい」と言っていたのを思い出し、神奈川の不動産屋も幾つか回っていた。事前に予約して来店したものの、事情を詳しく説明すると、窓口の女性は渋い表情をして、「少しお探ししてみますのでお待ち下さい」と言われる。
(厳しいかな)
タキはソファに沈み込む様に座ると、スマフォを取り出して、ネットでも物件を探す。午後三時。頑張ればもう一軒、不動産屋へ行けるかも知れない。途中でさゆからLINEが来て、開くと「お部屋探しありがとう。ルークが上手く描けたよ」と写真が添付してあった。その絵を見てタキは、「何だか大人びた絵を描くようになって来たな」と正直驚いた。光の加減によって銀色に光るルークの白い毛並みが、ソファを背景に細かく描きこまれている。ほんの一ヶ月前のさゆの絵とは、別人のようだ。「上手だね。ルークに似てるよ」と返信して、タキは改めて、待ち受けにしている、さゆの絵に見入った。
タイトルは「記憶」。この絵には、もしかしたら、さゆの思い出したくない記憶が、篭められているのかも知れなかった。さゆは「早く働きたい」とリハビリも毎日頑張っているし、内側からも回復してきているのかも知れないけれど、この百億の鴉の絵の頃の鬼気迫るような筆力には、それでもまだ遠い気がしていた。
(怨念というか、気迫が違うんだよな)
さゆは記憶を喪った事で、画家として大切な「何か」を喪ってしまったのかも知れない。それでも、何も思い出せず、もう昔の様な絵を描く事が出来なくても、それで平穏に暮せるのなら、どちらが幸せかなんて、誰にも分からない。
「あのう、もし・・・」
タキがそんな事を思っていると。いつの間にか横に座っていた人物に、恐る恐る声を掛けられた。驚いて見遣ると、見知らぬ老人だった。腰が曲がって、杖をついているけれど、身に付けた革のアンサンブルは、見るからに高級品だった。
「その作品、朝霧紗雪さんの『記憶』じゃなかろうか。何年か前に銀座で見た事がある」
「ええ、そうです・・・朝霧は、僕の妻なので」
タキはその時初めて、さゆの事を他人に「妻」と言った。こそばゆい様な、嬉しい様な、不思議な感じがした。
「なんと!ワシは昔から、あの銀座の画廊が好きでな。たまに行っていたんじゃけど、このご時勢で行けなくなってしまってな。朝霧さんの絵もどれも本当に素晴らしかったから、またここで見られて嬉しいわい」
タキはさゆの絵が褒められたのが嬉しくて、「記憶」も、他のスマフォで撮影したさゆの数々の絵も、老人に見せてやった。老人は眼鏡を取り出して、どの絵も興味深そうに眺めた。しばらくスマフォの小さな画面を眺めた後、
「・・・そう言えば、お前さん、家を探しているのかい?」
「ええ、そうです。・・・でもペットもいて、朝霧も今はちょっと病気で。なかなか見付からなくて」
「それなら、お前さん、ウチのボロ家を借りてくれないか!」
急に老人が膝を打ちながらそう言ったので、タキは驚いた。話を聞くと、老人は自宅とは別に、一応鎌倉の、駅から大分離れた場所に築約五十年の一軒屋を所有していて、前の貸主が海外へ転居してしまったので、新しい貸主を探しに来たらしい。ただ、老人はその一軒家の土地を高齢の為、あと三年で手放す事に決めており、それまでしか借りられない物件だった。家賃も破格の二万五千円で良いという。
「それでも良かったら、ワシのボロ家に住まんか?あの家で、朝霧さんに作品を生み出して貰えたら、ワシは本望じゃ」
「本当ですか!?是非、お願いします!」
タキは勢い良く頭を下げた。周りじゅう絶望だらけの気がしていたけれど、そこになんとか、一筋の光が、差そうとしていた。
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