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地獄の釜の、入口で
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大きなキャンバスに、さゆは幾重にも幾重にも、炎の色を塗り重ねる。薄い紅から濃い紅へ。そして紫、茶色へと。巨大な炎の流星群が、灰色の惑星に降り注いでゆく。
まるで、火の雨の様に全てを破壊してゆく。そんな絵をここ数日、さゆは描き続けていた。いつもと違うのは、ここが自宅ではなく、立川の店舗だという事だ。
二千二十年二月中旬。お客様が来ない。ほとんど来ない。街も、見た事のないほど、人の数が少ない。SNSで商品の入荷などを告知すると、常連客からリプは付くけれど、申し訳なさそうに「落ち着いたら欲しい」と言われるばかりだ。タキと以前UPしたネット通販の売上げと、エッセイなどの原稿料があるので、収入はゼロとは言えないけれど、このままでは赤字だ。古本市は軒並み中止になり始めていた。
さゆはネットで見つけた日雇い派遣の仕事も始めた。工場やスーパーなどのイベントの手伝いの仕事だ。それでも、厳しい。銀座の画廊のオーナーからも、「都心もガラガラだよ。毎日正月みたいだ」と連絡が来ていた。
さゆは手が空けば無心で絵を描く。やり場のない怒りと、哀しみと、不安を乗せて。両手を広げるよりも大きいキャンバスに、幾千の火の球を描く。喚起の為に開け放った扉の向こうから、時々通行人がそれを見学していた。
「あ、コーヒー、無料です。召し上がっていきませんか?」
とさゆが呼びかけると、
「いや、このご時勢だから大丈夫」
と、見学していた人々は散っていった。さゆは小さく、溜息を吐いた。
本当は今月がちょうど店の賃貸の更新日だけれど、不動産屋は特例として、来月まで更新するか良く考えて欲しいと言われた。一度契約したら、数年は店を続けないと、確実に多額の借金になる。
もし緊急事態宣言が出たら、商店街のほとんどの店は、一旦閉める事が決まった。百貨店も画廊も、臨時休業する可能性が、出て来た。公的な保証は不透明だ。
長い長い苦闘の果てに、あっけない終わりが、見えそうな気が、していた。
(きっとこの店は、五月までは持たない)
誰もいない店内で、さゆはもくもくと筆を動かし続ける。自分が古本屋でいられる残り日数のカウントダウンが、始まる。
不気味に静かな日々は、そうしてゆっくりと、真綿で首を絞めるように過ぎて行った。タキには今月になってから、ずっと会えていない。時々LINEをしていた。タキは今月になってから、仕事がとても忙しくなり、夜勤も増えたようだ。休みは週に一日程度、それも家で色々勉強しなくてはいけないと、LINEには書かれていた。
二月二十一日、金曜日。さゆは昼間、店を臨時休業にして、昭和記念公園へ出掛けた。タキとここへ来たのは、もう随分昔の事のように思える。何枚も何枚も、美しい花の写真を撮った。セツブンソウ、ウメ、大輪緋梅、フクジュソウ。ポカポカした、春の様な陽気の中で、可憐な花が咲いていた。おしるこの缶を飲みつつ、さゆは写真をたっぷりと撮り、持って来た数本の色鉛筆で、園内の様子をスケッチした。途中声を掛けられた親子連れに、似顔絵を描いて渡す。
独りそっと、曇りの無い青空を見上げた。LINEが鳴ったので開く。
湊からだ。
(そんな)
湊は失業した事と、国境が閉ざされる前に、なんとしても中国に渡る旨が書かれていた。迷った末にさゆは、「頑張ってね。無事でいてね」とだけ送る。戦時中みたいなメッセージだ。世の中が段々、そんな風になって来ているのを、感じる。
来年の今頃、自分は。
どこで、何をしているんだろう。
夕方、帰って来て店を開く。タキに撮り溜めた花の写真を何枚か送ったが、きっと既読が付くのは真夜中だ。さゆは苦笑した。
(何してるんだろうな、私。本当はもっと、するべき事があるんだろうに)
今日は、自分の、誕生日だ。去年はタキとテーマパークへ行った。
さゆはもうどうしようもなくさみしくなって、堪えきれないほどのさみしさが溢れて、店のカウンターの中で、俯いた。背後にはほぼ完成した炎の絵がある。
その時。
「朝霧さん、こんばんは。お邪魔するよ」
商店街の理事長と、何人かの店主が店に入って来た。さゆは何事だろうとカウンターから出ようとする。
「ああ、朝霧さん。いいんだよ。忙しいだろうから、事務とかしてて。大丈夫だから」
理事長はさゆにそう言うと、他の好々爺達と「いや、これが面白いんだよ」「これ孫に良いね」「これ前から気になってたんだよね」と口々に話して、カゴ三つを商品で一杯にしてゆく。
「朝霧さん、これ、みんな買うから計算お願いするね。また後で取りにくるから」
「え、あ、あ、そんな悪いですよ」
「いいんだ、いいんだ。本はね、心の財産になるからね」
「あ、ありがとうございます」
さゆは何度もお礼を言い、頭を下げた。
「朝霧さん、古本屋、ネットだけになってでも続けてよ。この騒ぎも、きっとずっとは続かないよ。いつかまた、立川にも賑わいの戻る日が来る。その街に、朝霧さんの絵を、飾ってよ」
さゆは頷いた。立川に来て良かったと、思っていた。
まるで、火の雨の様に全てを破壊してゆく。そんな絵をここ数日、さゆは描き続けていた。いつもと違うのは、ここが自宅ではなく、立川の店舗だという事だ。
二千二十年二月中旬。お客様が来ない。ほとんど来ない。街も、見た事のないほど、人の数が少ない。SNSで商品の入荷などを告知すると、常連客からリプは付くけれど、申し訳なさそうに「落ち着いたら欲しい」と言われるばかりだ。タキと以前UPしたネット通販の売上げと、エッセイなどの原稿料があるので、収入はゼロとは言えないけれど、このままでは赤字だ。古本市は軒並み中止になり始めていた。
さゆはネットで見つけた日雇い派遣の仕事も始めた。工場やスーパーなどのイベントの手伝いの仕事だ。それでも、厳しい。銀座の画廊のオーナーからも、「都心もガラガラだよ。毎日正月みたいだ」と連絡が来ていた。
さゆは手が空けば無心で絵を描く。やり場のない怒りと、哀しみと、不安を乗せて。両手を広げるよりも大きいキャンバスに、幾千の火の球を描く。喚起の為に開け放った扉の向こうから、時々通行人がそれを見学していた。
「あ、コーヒー、無料です。召し上がっていきませんか?」
とさゆが呼びかけると、
「いや、このご時勢だから大丈夫」
と、見学していた人々は散っていった。さゆは小さく、溜息を吐いた。
本当は今月がちょうど店の賃貸の更新日だけれど、不動産屋は特例として、来月まで更新するか良く考えて欲しいと言われた。一度契約したら、数年は店を続けないと、確実に多額の借金になる。
もし緊急事態宣言が出たら、商店街のほとんどの店は、一旦閉める事が決まった。百貨店も画廊も、臨時休業する可能性が、出て来た。公的な保証は不透明だ。
長い長い苦闘の果てに、あっけない終わりが、見えそうな気が、していた。
(きっとこの店は、五月までは持たない)
誰もいない店内で、さゆはもくもくと筆を動かし続ける。自分が古本屋でいられる残り日数のカウントダウンが、始まる。
不気味に静かな日々は、そうしてゆっくりと、真綿で首を絞めるように過ぎて行った。タキには今月になってから、ずっと会えていない。時々LINEをしていた。タキは今月になってから、仕事がとても忙しくなり、夜勤も増えたようだ。休みは週に一日程度、それも家で色々勉強しなくてはいけないと、LINEには書かれていた。
二月二十一日、金曜日。さゆは昼間、店を臨時休業にして、昭和記念公園へ出掛けた。タキとここへ来たのは、もう随分昔の事のように思える。何枚も何枚も、美しい花の写真を撮った。セツブンソウ、ウメ、大輪緋梅、フクジュソウ。ポカポカした、春の様な陽気の中で、可憐な花が咲いていた。おしるこの缶を飲みつつ、さゆは写真をたっぷりと撮り、持って来た数本の色鉛筆で、園内の様子をスケッチした。途中声を掛けられた親子連れに、似顔絵を描いて渡す。
独りそっと、曇りの無い青空を見上げた。LINEが鳴ったので開く。
湊からだ。
(そんな)
湊は失業した事と、国境が閉ざされる前に、なんとしても中国に渡る旨が書かれていた。迷った末にさゆは、「頑張ってね。無事でいてね」とだけ送る。戦時中みたいなメッセージだ。世の中が段々、そんな風になって来ているのを、感じる。
来年の今頃、自分は。
どこで、何をしているんだろう。
夕方、帰って来て店を開く。タキに撮り溜めた花の写真を何枚か送ったが、きっと既読が付くのは真夜中だ。さゆは苦笑した。
(何してるんだろうな、私。本当はもっと、するべき事があるんだろうに)
今日は、自分の、誕生日だ。去年はタキとテーマパークへ行った。
さゆはもうどうしようもなくさみしくなって、堪えきれないほどのさみしさが溢れて、店のカウンターの中で、俯いた。背後にはほぼ完成した炎の絵がある。
その時。
「朝霧さん、こんばんは。お邪魔するよ」
商店街の理事長と、何人かの店主が店に入って来た。さゆは何事だろうとカウンターから出ようとする。
「ああ、朝霧さん。いいんだよ。忙しいだろうから、事務とかしてて。大丈夫だから」
理事長はさゆにそう言うと、他の好々爺達と「いや、これが面白いんだよ」「これ孫に良いね」「これ前から気になってたんだよね」と口々に話して、カゴ三つを商品で一杯にしてゆく。
「朝霧さん、これ、みんな買うから計算お願いするね。また後で取りにくるから」
「え、あ、あ、そんな悪いですよ」
「いいんだ、いいんだ。本はね、心の財産になるからね」
「あ、ありがとうございます」
さゆは何度もお礼を言い、頭を下げた。
「朝霧さん、古本屋、ネットだけになってでも続けてよ。この騒ぎも、きっとずっとは続かないよ。いつかまた、立川にも賑わいの戻る日が来る。その街に、朝霧さんの絵を、飾ってよ」
さゆは頷いた。立川に来て良かったと、思っていた。
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