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まぼろしの海
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「お待たせ」
もう少しで年末という凍える早朝に、タキは黒い軽自動車に乗ってやって来た。さゆは白いコートに紺色のロングスカート、虹色のストールを巻いて、家の前でタキを待っていた。タキには「着いたら電話するから、家の中で待っていて」と言われたけれど、なんだか落ち着かなくて、出てきてしまった。
「大丈夫?寒くない」
「ううん」
助手席に乗り込むと、タキはさゆのストールに眼を止めて微笑んだ。
「よく似合ってる」
「あ、ありがと」
タキは「これ」と、あったかいペットボトルのミルクティーを差し出す。「あ」と呟いてさゆは苦笑して、バッグからタキ用のコーヒーのボトルを出してみせた。お互い相手の分も買ってしまった。
「飲み物、一人二本づつになっちゃったね」
二人して笑いながら、初めての車での旅が始まった。
好きなミステリー作家についてや、ネットで注目されている若手画家について話していると、あっという間にカフェに着いた。タキは社用車やリフトをこの頃たまに運転しているというだけあって、安全運転で安定したハンドルさばきだった。
「まずは、来年から契約社員になるんだ」
「ええ、すごいね!」
運よく空いていたテラス席に通されると、遠くに富士山が見えた。快晴の十二月。空気が澄んでいる。野菜たっぷりのサンドイッチを頬張る。本当は名物のカレーを注文しようかと思ったけれど、タキと同じものが食べたかった。小食のタキも、今日は三切れも平らげた。世界の全てがキラキラと光っているような、そんな特別で大切で、全てがうつくしい日だった。
ずっと、忘れずにいたいような。
壁も天井も紫に光るエスカレーターを通って、開館してすぐの時間に美術館に着くと、平日という事もあってそれほど混んでおらず、手を繋いでじっくりと作品を鑑賞出来た。本館前のムアスクエアで、ふたり、眼下に広がる海を眺める。
しずかだった。日常のくるしみと、その時だけは、切り離された場所にいた。
冬の日本庭園を散策する。落ち葉が舞い上がる風を感じながら、他愛ない話ばかりをした。帰り際、そう言えば百貨店で自分の絵が売れた事をタキに報告しようとした時、一人の若い女性が、こちらを凝視しているのに気付いた。
なんだろう、と思っていると、彼女は遠慮がちにこちらに寄って来た。
「あ、あ、あの」
「は、はい」
髪は黒く短く刈っていて、茶色のパンツに白い長袖のブラウスと紺色のカーディガンで、従業員かとさゆは身構えた。
「あの、朝霧さん……朝霧紗雪さんじゃないですか?」
「え、あ、はい、そうです………」
彼女の顔がパッと輝いた。
「あ、あの、お会い出来て嬉しいです。私、東京から来ていて、『記憶』の絵が好きで………ポストカード買いました」
「え、あ、ありがとうございます」
お互いにどぎまぎしながら挨拶を交わすのを、タキは微笑んで少し後ろから見ていた。何となく握手をして、彼女は何度も頭を下げて帰って行った。
「さゆ、良かったね」
車に乗り込みながらタキも嬉しそうにそう言い、さゆは頷いた。
(車運転してるタキ、格好いいなあ)
途中地元のスーパーで昼食の弁当を買い、そんな事を思っていると、遂に旅館に到着した。
(わわわ着いちゃった)
改めてドキドキして来た。さゆの化粧品などが入った大きめのバッグを、タキが持ってくれる。
「あ、ありがと」
フロントで受付を済ますと、「旦那様、奥様こちらへ」と言われて一瞬固まった。年齢からして夫婦に見えてもおかしくはない。しばらく歩くと、奥まった和室に通される。
「では、ごゆっくり」
仲居が去ると、二人で部屋を見回した。
「意外と広いね」
畳の部屋が二部屋あり、やや年季が入っているものの、綺麗に清掃されている。窓際のスペースには木製のチェアが二脚あって、柔らかい午後の日差しが降り注いでいた。
不意に、入口から振り返った左奥の部屋に布団が敷いてあるのが見えて、さゆは顔から火が出そうだった。
「温泉入ってゆっくりしよう」
タキが何気なく荷物を置きながら言った。
大浴場は露天風呂と内湯があって、どちらも広かった。露天風呂からは、清流と緑が見える。
(あわわわわ)
さゆは中々上がるふんぎりが付かないまま、のぼせそうになりながら長湯した。タキになら身体を預けても良い、と思ったのに、いざとなると動悸が止まらない。気持ち悪くなりそうな位お湯に浸かって、いい加減タキが心配すると思い至って部屋に戻った。
「おかえり」
先に上がっていたタキが、笑顔で出迎えた。
(あ、私タキに『おかえり』って言われたの初めてだ)
ガチガチに緊張していたけれど、それに気付いてなんだかさゆは嬉しくなる。
「タキもゆっくり入れた?」
傷跡のせいでタキがいらぬ注目を浴びないか少し心配だった。
「うん。フロントの人に一応聞いたら、今日は人も少ないし、事故の傷跡って言ったら問題ないって。長袖の服で行き来して、ここで浴衣に着替えたんだ」
「そっか。良かった」
「四時間位ゆっくり出来るよ。チェックアウト、丁度六時じゃなくても構わないって」
「あ、うん」
二人で買って来た弁当を広げる。タキは海藻サラダにかぼちゃの煮物、さゆはオムライスにした。お互いに少し料理を交換する。
「お茶、サービスみたい。熱いのも冷たいのもあるね。どっちが良い?」
「あ、あ、つめたいの、で……」
俯いて赤くなったままのさゆの様子に苦笑して、タキは手をとって擦った。
「大丈夫だよ、俺はさゆに無理なことしないから、ね?」
「う、うん………」
「さゆは今日、俺とそういう事するつもりだった?」
急に聞かれて、さゆはお茶を吹き出しそうになった。
「あ、あ、し、しても……良いかも思うけど……こ、こころの準備が……あ、あの…」
「じゃあさ、まだそこまでは止めておこう?」
あっさりタキがそう言い切ったので、さゆは心底安心したような、少しガッカリしたような気持ちになった。
「いつか、本当に、さゆがそういう事したいなと思ってくれたら、いつでもそう言って。俺はいつでも良いから。そういうのって、本当に特別な事だと思うしさ。後悔しないって思ったタイミングで言って、ね?」
「うん、ありがと」
タキが本当に自分を大事に思ってくれているのが分かって、さゆは眼を潤ませた。
「あ、で、でも……」
「?」
さゆは言いにくそうに真っ赤になって俯いた。
「………イチャイチャ、したい………」
誰かに触れたいと思うのは、生まれて初めてだった。うふふ、とタキは微笑み「俺も」と頷いた。
昼食を食べ終わり、ゴミも片付けると、二人は隣り合って座った。美術館の展示の感想を語っている内に、自然に抱き合う。「さゆ、浴衣似合うね」とタキが耳元で囁いた。薄い浴衣を通して、タキの身体を今までで一番近く感じる。細い身体のラインがくっきり分かるタキの身体を、さゆは抱き締めた。
(あったかい)
ひとの身体がこんなにあったかいだなんて、知らなかった。温泉の匂いに混じって、タキの身体の匂いが微かにして、それも不快には感じなかった。触れ合うだけのキスを何度も重ねる。髪を、背中を、タキの手が撫でてゆく。背中がざわざわするような、かんじた事のない感触が湧き上がって来る。
(こんなこと、したことない)
思わずタキにもたれかかると、「おっと」と言いつつタキは年季の入った柱に寄り掛かった。さゆの髪を掻きあげ、首筋を何度も優しく撫でる。気持ちよさにさゆは眼を閉じた。
ちゅっ、と耳元で小さな音がした。
「わっ」
タキが片手でさゆの頭を支え、もう片手で腰を支えて、首筋にキスをする。
「大丈夫?」
恥ずかしさと嬉しさでさゆは爆発しそうになりながら頷く。タキは跡にならないように気をつけながら、さゆの白い首筋に柔らかいキスを何度も重ねた。さゆは頭がボウッとしてきて、息をするのも絶え絶えになってくる。
「大丈夫だよ、力抜いて」
さゆが少し震えているのに気付いて、タキが背中をさすった。さゆはもう赤面して声も出ない。
(わたしたち、なんて事してるんだろう)
「しばらくこのままでいよう」
さゆの様子を見かねたタキが、膝の上にさゆを座らせて、両腕で抱き締めた。タキの浴衣の胸元に顔を埋めて深呼吸し、さゆは心を落ち着かせる。
外から、清流と葉擦れ、小鳥の鳴き声が聴こえる。二人だけの、しずかで穏やかな世界。ゆったりと時間が流れてゆく。
どの位そうしていただろう。
「さゆ?」
あたたかさと気持ちよさに、さゆがうつらうつらし始める。
「眠い?横になったら?膝枕してあげる」
さゆは半分夢の中で頷いて、タキの膝に頭を預け、仰向けに寝転がった。広がる髪をタキが手櫛で梳いてくれる。
上着をかけて眼を閉じると、タキの「可愛いなあ」という声が、遠くで聴こえた。
夢の中でさゆは、熱海の海の底を泳いでいた。海の底でパールが、星座の形を作って輝き、無数に光っていた。何も苦しくないひかりの海を漂い、いつか見た天使の羽衣のようなクラゲの大群を、海底のぼやけた太陽に透かして眺めた。
ずっと、こころの底から消えなかった澱みが、解き放たれてゆくような。
長い長い漂流の果てに見つけた、まぼろしの海の底にいた。
さゆが眼を開けると、タキの微笑みが頭の上にあった。消音したテレビが点いている。
「うふふ。まだ一時間くらいあるよ」
タキの顔を見てまた恥ずかしくなったさゆは、眼を伏せて頷き、ゆっくりと起き上がった。タキがテレビのボリュームを上げる。
「俺、こうやってさゆと普通にテレビ観るの、夢だったんだよね」
ニュースを見ながらタキが噛み締める様に言う。
「そ、そうなの?」
「うん。そういう、なんでもない様な日常を、さゆとずっと過ごすのが夢だな」
さゆも頷く。もう、特別な日じゃなくて、ふつうの日常の中にふたりでいられたら幸せだなと、さゆも思う。
ニュースでは、遠い中国の武漢という所で、新型のウイルス患者が出た、と報じていた。
「怖いね。何年か前の豚インフルエンザの時みたいにならないといいね」
さゆが呟く。その頃さゆは古本屋に勤務していて、自身は感染しなかったけれど、同じ店の女性の感染が判明し、恐怖を感じたのを、思い出していた。
それでも、まだ、恐怖は遠いテレビの向こう側だった。
この時は、まだ。
「さゆ」
タキがさゆを抱き寄せる。背中や脇腹をタキの手がすべってゆく。抱き締められたまま、さゆはまた眼を閉じる。
不意に。
「あっ、わわわ、わっ、いやっ!」
さゆは思いっきり身を縮こませた。タキの手が、さゆの胸に伸びていた。強くではないけれど浴衣の上から胸を触られて、さゆは自分でもびっくりするような拒絶を示した。
「あ、ごめん!ごめんね、俺、また調子に乗って……」
タキは驚いてさゆから身体を離した。
(わたし………)
大丈夫、と言おうとしたけれど、恐怖で声が出なかった。下を向いて思い切り首を振るのが精一杯だった。そのまま膝を抱えて、震えながら永遠に思えるような時を、恐怖が過ぎ去るのを待った。
タキの沈黙が痛い。どうするか決めかねているんだろう。
(わたし、結局、ずっと、このままなんだ………)
本当の意味で救われる事なんてない。
ずっと、その「救われなさ」を描いてゆくしかない。
「ごめん。ごめんね、タキ」
ううん、と心なしか低いタキの声が、場違いなテレビの音と共に、夕暮れの客室に響いた。
帰りの車の中は、言葉少なに気まずく過ぎた。
(ああ、もう)
今度こそ。
(終わりかもしれないな)
横目で見たタキの表情も、明らかに固くて、怒っているように見えた。今まで二人の間に感じた事のないような距離感が広がってゆくのがはっきり分かる。
(当たり前だよね)
あれだけはっきり拒絶してしまったら、仕方ない。
「さゆ、着いたよ」
タキといる時間が初めて苦痛に感じたドライブは、そのタキの一言で幕を閉じた。
「あ、あ、ありがと。じゃあ」
タキと眼を合わせられず、さゆは頭を下げて助手席を飛び出した。逃げるように部屋に入ると、ベッドに転がっておんおん泣いた。
(もう)
タキと、会えなくなるかも知れない。
全部がまぼろしの様な甘い日々を思い返し、また、眠れない夜が始まった。
タキからの連絡は、年末になっても、ずっと、無かった。
もう少しで年末という凍える早朝に、タキは黒い軽自動車に乗ってやって来た。さゆは白いコートに紺色のロングスカート、虹色のストールを巻いて、家の前でタキを待っていた。タキには「着いたら電話するから、家の中で待っていて」と言われたけれど、なんだか落ち着かなくて、出てきてしまった。
「大丈夫?寒くない」
「ううん」
助手席に乗り込むと、タキはさゆのストールに眼を止めて微笑んだ。
「よく似合ってる」
「あ、ありがと」
タキは「これ」と、あったかいペットボトルのミルクティーを差し出す。「あ」と呟いてさゆは苦笑して、バッグからタキ用のコーヒーのボトルを出してみせた。お互い相手の分も買ってしまった。
「飲み物、一人二本づつになっちゃったね」
二人して笑いながら、初めての車での旅が始まった。
好きなミステリー作家についてや、ネットで注目されている若手画家について話していると、あっという間にカフェに着いた。タキは社用車やリフトをこの頃たまに運転しているというだけあって、安全運転で安定したハンドルさばきだった。
「まずは、来年から契約社員になるんだ」
「ええ、すごいね!」
運よく空いていたテラス席に通されると、遠くに富士山が見えた。快晴の十二月。空気が澄んでいる。野菜たっぷりのサンドイッチを頬張る。本当は名物のカレーを注文しようかと思ったけれど、タキと同じものが食べたかった。小食のタキも、今日は三切れも平らげた。世界の全てがキラキラと光っているような、そんな特別で大切で、全てがうつくしい日だった。
ずっと、忘れずにいたいような。
壁も天井も紫に光るエスカレーターを通って、開館してすぐの時間に美術館に着くと、平日という事もあってそれほど混んでおらず、手を繋いでじっくりと作品を鑑賞出来た。本館前のムアスクエアで、ふたり、眼下に広がる海を眺める。
しずかだった。日常のくるしみと、その時だけは、切り離された場所にいた。
冬の日本庭園を散策する。落ち葉が舞い上がる風を感じながら、他愛ない話ばかりをした。帰り際、そう言えば百貨店で自分の絵が売れた事をタキに報告しようとした時、一人の若い女性が、こちらを凝視しているのに気付いた。
なんだろう、と思っていると、彼女は遠慮がちにこちらに寄って来た。
「あ、あ、あの」
「は、はい」
髪は黒く短く刈っていて、茶色のパンツに白い長袖のブラウスと紺色のカーディガンで、従業員かとさゆは身構えた。
「あの、朝霧さん……朝霧紗雪さんじゃないですか?」
「え、あ、はい、そうです………」
彼女の顔がパッと輝いた。
「あ、あの、お会い出来て嬉しいです。私、東京から来ていて、『記憶』の絵が好きで………ポストカード買いました」
「え、あ、ありがとうございます」
お互いにどぎまぎしながら挨拶を交わすのを、タキは微笑んで少し後ろから見ていた。何となく握手をして、彼女は何度も頭を下げて帰って行った。
「さゆ、良かったね」
車に乗り込みながらタキも嬉しそうにそう言い、さゆは頷いた。
(車運転してるタキ、格好いいなあ)
途中地元のスーパーで昼食の弁当を買い、そんな事を思っていると、遂に旅館に到着した。
(わわわ着いちゃった)
改めてドキドキして来た。さゆの化粧品などが入った大きめのバッグを、タキが持ってくれる。
「あ、ありがと」
フロントで受付を済ますと、「旦那様、奥様こちらへ」と言われて一瞬固まった。年齢からして夫婦に見えてもおかしくはない。しばらく歩くと、奥まった和室に通される。
「では、ごゆっくり」
仲居が去ると、二人で部屋を見回した。
「意外と広いね」
畳の部屋が二部屋あり、やや年季が入っているものの、綺麗に清掃されている。窓際のスペースには木製のチェアが二脚あって、柔らかい午後の日差しが降り注いでいた。
不意に、入口から振り返った左奥の部屋に布団が敷いてあるのが見えて、さゆは顔から火が出そうだった。
「温泉入ってゆっくりしよう」
タキが何気なく荷物を置きながら言った。
大浴場は露天風呂と内湯があって、どちらも広かった。露天風呂からは、清流と緑が見える。
(あわわわわ)
さゆは中々上がるふんぎりが付かないまま、のぼせそうになりながら長湯した。タキになら身体を預けても良い、と思ったのに、いざとなると動悸が止まらない。気持ち悪くなりそうな位お湯に浸かって、いい加減タキが心配すると思い至って部屋に戻った。
「おかえり」
先に上がっていたタキが、笑顔で出迎えた。
(あ、私タキに『おかえり』って言われたの初めてだ)
ガチガチに緊張していたけれど、それに気付いてなんだかさゆは嬉しくなる。
「タキもゆっくり入れた?」
傷跡のせいでタキがいらぬ注目を浴びないか少し心配だった。
「うん。フロントの人に一応聞いたら、今日は人も少ないし、事故の傷跡って言ったら問題ないって。長袖の服で行き来して、ここで浴衣に着替えたんだ」
「そっか。良かった」
「四時間位ゆっくり出来るよ。チェックアウト、丁度六時じゃなくても構わないって」
「あ、うん」
二人で買って来た弁当を広げる。タキは海藻サラダにかぼちゃの煮物、さゆはオムライスにした。お互いに少し料理を交換する。
「お茶、サービスみたい。熱いのも冷たいのもあるね。どっちが良い?」
「あ、あ、つめたいの、で……」
俯いて赤くなったままのさゆの様子に苦笑して、タキは手をとって擦った。
「大丈夫だよ、俺はさゆに無理なことしないから、ね?」
「う、うん………」
「さゆは今日、俺とそういう事するつもりだった?」
急に聞かれて、さゆはお茶を吹き出しそうになった。
「あ、あ、し、しても……良いかも思うけど……こ、こころの準備が……あ、あの…」
「じゃあさ、まだそこまでは止めておこう?」
あっさりタキがそう言い切ったので、さゆは心底安心したような、少しガッカリしたような気持ちになった。
「いつか、本当に、さゆがそういう事したいなと思ってくれたら、いつでもそう言って。俺はいつでも良いから。そういうのって、本当に特別な事だと思うしさ。後悔しないって思ったタイミングで言って、ね?」
「うん、ありがと」
タキが本当に自分を大事に思ってくれているのが分かって、さゆは眼を潤ませた。
「あ、で、でも……」
「?」
さゆは言いにくそうに真っ赤になって俯いた。
「………イチャイチャ、したい………」
誰かに触れたいと思うのは、生まれて初めてだった。うふふ、とタキは微笑み「俺も」と頷いた。
昼食を食べ終わり、ゴミも片付けると、二人は隣り合って座った。美術館の展示の感想を語っている内に、自然に抱き合う。「さゆ、浴衣似合うね」とタキが耳元で囁いた。薄い浴衣を通して、タキの身体を今までで一番近く感じる。細い身体のラインがくっきり分かるタキの身体を、さゆは抱き締めた。
(あったかい)
ひとの身体がこんなにあったかいだなんて、知らなかった。温泉の匂いに混じって、タキの身体の匂いが微かにして、それも不快には感じなかった。触れ合うだけのキスを何度も重ねる。髪を、背中を、タキの手が撫でてゆく。背中がざわざわするような、かんじた事のない感触が湧き上がって来る。
(こんなこと、したことない)
思わずタキにもたれかかると、「おっと」と言いつつタキは年季の入った柱に寄り掛かった。さゆの髪を掻きあげ、首筋を何度も優しく撫でる。気持ちよさにさゆは眼を閉じた。
ちゅっ、と耳元で小さな音がした。
「わっ」
タキが片手でさゆの頭を支え、もう片手で腰を支えて、首筋にキスをする。
「大丈夫?」
恥ずかしさと嬉しさでさゆは爆発しそうになりながら頷く。タキは跡にならないように気をつけながら、さゆの白い首筋に柔らかいキスを何度も重ねた。さゆは頭がボウッとしてきて、息をするのも絶え絶えになってくる。
「大丈夫だよ、力抜いて」
さゆが少し震えているのに気付いて、タキが背中をさすった。さゆはもう赤面して声も出ない。
(わたしたち、なんて事してるんだろう)
「しばらくこのままでいよう」
さゆの様子を見かねたタキが、膝の上にさゆを座らせて、両腕で抱き締めた。タキの浴衣の胸元に顔を埋めて深呼吸し、さゆは心を落ち着かせる。
外から、清流と葉擦れ、小鳥の鳴き声が聴こえる。二人だけの、しずかで穏やかな世界。ゆったりと時間が流れてゆく。
どの位そうしていただろう。
「さゆ?」
あたたかさと気持ちよさに、さゆがうつらうつらし始める。
「眠い?横になったら?膝枕してあげる」
さゆは半分夢の中で頷いて、タキの膝に頭を預け、仰向けに寝転がった。広がる髪をタキが手櫛で梳いてくれる。
上着をかけて眼を閉じると、タキの「可愛いなあ」という声が、遠くで聴こえた。
夢の中でさゆは、熱海の海の底を泳いでいた。海の底でパールが、星座の形を作って輝き、無数に光っていた。何も苦しくないひかりの海を漂い、いつか見た天使の羽衣のようなクラゲの大群を、海底のぼやけた太陽に透かして眺めた。
ずっと、こころの底から消えなかった澱みが、解き放たれてゆくような。
長い長い漂流の果てに見つけた、まぼろしの海の底にいた。
さゆが眼を開けると、タキの微笑みが頭の上にあった。消音したテレビが点いている。
「うふふ。まだ一時間くらいあるよ」
タキの顔を見てまた恥ずかしくなったさゆは、眼を伏せて頷き、ゆっくりと起き上がった。タキがテレビのボリュームを上げる。
「俺、こうやってさゆと普通にテレビ観るの、夢だったんだよね」
ニュースを見ながらタキが噛み締める様に言う。
「そ、そうなの?」
「うん。そういう、なんでもない様な日常を、さゆとずっと過ごすのが夢だな」
さゆも頷く。もう、特別な日じゃなくて、ふつうの日常の中にふたりでいられたら幸せだなと、さゆも思う。
ニュースでは、遠い中国の武漢という所で、新型のウイルス患者が出た、と報じていた。
「怖いね。何年か前の豚インフルエンザの時みたいにならないといいね」
さゆが呟く。その頃さゆは古本屋に勤務していて、自身は感染しなかったけれど、同じ店の女性の感染が判明し、恐怖を感じたのを、思い出していた。
それでも、まだ、恐怖は遠いテレビの向こう側だった。
この時は、まだ。
「さゆ」
タキがさゆを抱き寄せる。背中や脇腹をタキの手がすべってゆく。抱き締められたまま、さゆはまた眼を閉じる。
不意に。
「あっ、わわわ、わっ、いやっ!」
さゆは思いっきり身を縮こませた。タキの手が、さゆの胸に伸びていた。強くではないけれど浴衣の上から胸を触られて、さゆは自分でもびっくりするような拒絶を示した。
「あ、ごめん!ごめんね、俺、また調子に乗って……」
タキは驚いてさゆから身体を離した。
(わたし………)
大丈夫、と言おうとしたけれど、恐怖で声が出なかった。下を向いて思い切り首を振るのが精一杯だった。そのまま膝を抱えて、震えながら永遠に思えるような時を、恐怖が過ぎ去るのを待った。
タキの沈黙が痛い。どうするか決めかねているんだろう。
(わたし、結局、ずっと、このままなんだ………)
本当の意味で救われる事なんてない。
ずっと、その「救われなさ」を描いてゆくしかない。
「ごめん。ごめんね、タキ」
ううん、と心なしか低いタキの声が、場違いなテレビの音と共に、夕暮れの客室に響いた。
帰りの車の中は、言葉少なに気まずく過ぎた。
(ああ、もう)
今度こそ。
(終わりかもしれないな)
横目で見たタキの表情も、明らかに固くて、怒っているように見えた。今まで二人の間に感じた事のないような距離感が広がってゆくのがはっきり分かる。
(当たり前だよね)
あれだけはっきり拒絶してしまったら、仕方ない。
「さゆ、着いたよ」
タキといる時間が初めて苦痛に感じたドライブは、そのタキの一言で幕を閉じた。
「あ、あ、ありがと。じゃあ」
タキと眼を合わせられず、さゆは頭を下げて助手席を飛び出した。逃げるように部屋に入ると、ベッドに転がっておんおん泣いた。
(もう)
タキと、会えなくなるかも知れない。
全部がまぼろしの様な甘い日々を思い返し、また、眠れない夜が始まった。
タキからの連絡は、年末になっても、ずっと、無かった。
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