朝凪の海、雲居の空

朝霧沙雪

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彼女

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九月のタキの誕生日に、二人は神田の古書店巡りに出掛けた。靖国通りを中心に、二百店以上が軒を連ねる圧倒的な大古書店街を、マップとHPを頼りに巡った。さゆは美術書と絵本の店を訪れて数冊づつ本を買い、途中顔なじみの店員に挨拶をする。タキに行きたい店を訪ねると、哲学書の店を数軒リストアップした。てっきり小説やエッセイが好きなのだと思い込んでいたさゆは、意外に思う。
(私に合わせてくれてたのかな)
 カントや、ヘーゲル、キルケゴールの絶版本を安く見つけたタキは嬉しそうに微笑む。二人とも午前中だけで両手一杯に本を買いすぎて、持って来たエコバッグも腕もはち切れそうだ。慌てて郵便局に駆け込んで、それぞれの家に本を送った。
 ランチは有名なカレー屋に行った。向かい合ってここにも行きたい、あそこにも行きたい、と話が弾む。
(良かった。普通に話せる)
 タキのピンクの唇に眼がいったり、まだいつもより更にドキドキする事もあるけれど、キスの一件を機にややギクシャクしていた空気が、なんだか今日は元に戻った気がする。
 午後は大通りより少し離れた店に立ち寄って、文豪の初版本を眺めたり、巨大な新刊書店でまた本を買っている内に、夕方になっていた。もう一度郵便局で本を送り、夕日に照らされた古書店街を名残惜しく眺めた。
「まださゆと一緒にいたいな………夜ご飯、どこかで食べていかない?」
 サラリとタキが言う。その一言が嬉しくて、「うん、どうしようか?」と答えながらさゆは微笑んだ。
 と。
「タキ?久しぶり!」
 さゆの反対側から、タキの腕に自分の腕を絡ませた女がいた。思い切り引っ張られて、タキがよろけた。
「………ああ、どうも」
 タキが、今までに無い程眉間に皺を寄せている。好意的な女の態度とは裏腹に、女も見ずに低い声で答えた。さゆを背中に隠そうとする。
(すごい綺麗なひと)
 タキ越しに見た女は、手入れの行き届いた明るい茶髪に白い肌、くっきりした目鼻立ちでモデルの様な垢抜けた美人だった。二十代後半ぐらいで、大きなシャネルのショルダーバッグを下げている。
「こんなトコで何してんの?あたしはねー、今から同伴」
「………アサミ、俺、急いでるから」
「えー、つれなーい、ちょっとぐらいいいじゃん………えっ、そのダサいおばさん何?そんな女と一緒に歩いてて恥ずかしくないの?」
「恥ずかしくないよ。そんな事をいうアサミの方が恥ずかしいだろ」
 タキの言葉には明らかな怒気があった。雰囲気にいたたまれなくなって、さゆは後ずさりする。その手をタキが握った。
「ごめんね、行こう」
「ええ、私まだ時間あるのにー……ね、おばさん知ってる?タキの秘密」
「え?」
 思わずさゆはアサミと呼ばれた女を見返した。タキが止める間もなく、アサミはタキの長袖Tシャツの腕を勢い良く肩近くまでめくった。
 そこに付けられた幾つかの傷跡があらわになって、さゆは息を呑んだ。
「いい加減にしろよ、今は彼女がいるから、アサミとは付き合えない」
 タキはシャツを直すとさゆの腕を掴んで小走りにその場から立ち去る。
「えー、タキってばあんなにセックスするのが好きだったのに、今は彼女としまくってるからあたしとはしなくていいんだ?」
 後ろで間の抜けたアサミの大声がした。

「ごめん、ほんとごめんね!」
 しばらく二人で走り、すっかり日の落ちた小さな夜の公園に駆け込んだ。アサミが追ってくる気配は無かった。空いていたベンチに並んで座り、息を整えるとタキはさゆに頭を下げた。
「ううん、タキのせいじゃないから……」
 別にさゆはほとんど腹は立たなかった。とてもびっくりしたけれど。あれぐらいの悪口ならもう、言われ慣れている。
(それより)
 ミナトに言われてからずっと気になっていた「タキの秘密」が傷跡の事なら、さゆは心の重荷が解けた気分だ。
(タキも何か抱えているのかも知れないけど)
 あんな綺麗なアサミが元カノなのかと思うと、嫉妬で薄暗い気持ちにはなる。
「………さっきの、前付き合ってたひと?」
「う、うーん、個人的な付き合いはないんだけど………なんていうか、前の仕事でどうしても関わりあいにならなくちゃいけなくて、何度か会った事がある………っていう感じかな。その頃からあんな風に、誰にでも失礼でコミュニケーションがズレていたから、俺とはあんまり合わなかったんだけどね…………」
「………そ、そっか……」
 アサミはタキの事が好きそうだったし、どこまで本当か分からないなと、思った。
「さゆ」
 不意にタキがさゆを抱きすくめた。あたたかさの中でさゆは眼を閉じる。
「ごめんね、傷跡のこと、ずっと言えないで」
 耳元でタキの声がした。吐息が近い。公園には他に誰もいなかった。
「ううん」
「子供の頃つけられたんだ。全身に、結構たくさん、あって。いつか言おうと思ってたんだけど」
「そっか……大変だったね」
 タキはさゆを抱き締める腕の力を強めて、何度も「ありがとう」と言った。腕の力が強まって、少し痛むほどだった。
「さゆ………他にも、俺の過去の事で、これから何か嫌な思いをさせることがあったら、本当にごめんね。謝ることしか出来ないや」
「ううん」
 今まで自分に「陽」のひたすらな優しさとか、献身さをみせてくれていたタキが、初めて「陰」を見せてくれたのが、さゆは嬉しかった。
(もっと、タキの『本当の姿』を見たい)
「…………私は、きっとそういうのも含めて、タキのこと……好きでいられると思う」
 そのまま二人でしばらく、人気のない公園で抱き締めあった。街頭に、古びたブランコや小さな動物の形をした遊具が、ぼんやりと照らされていた。
「さゆ」
「ん?」
 タキに触れていても、もうさゆは恐怖を感じなかった。
「キスしよっか?」
「………うん」
 頷いて伏せた眼を閉じると、マシュマロの様なタキの唇が、触れた。何度か角度を変えて、唇が触れるだけの浅いキスを繰り返した。さゆは、自分の心臓の音が聴こえる様な気がしていた。
(幸せ過ぎておかしくなりそう)
 しばらくして唇を離すと、お互い息が上がっていて、もう一度抱き締めあって息を整えた。タキはさゆの頭を撫でて「今度仕切りなおしに本郷の古書店街にも行こう?」と囁いた。
 やがて二人は身体を離すと、自然に手を繋いだ。
「……帰ろっか?」
 少し苦味のある顔で、タキは微笑んだ。
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