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秘密
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その日から二人は、逆に会う頻度が増えていった。タキは土日に「ラインリーダー」をしているらしく、平日休みが多い。週に二日は休みだ。一方さゆは不定休で、一週間に完全にオフの日が一日も無い週も多い。それでも、何とか都合を合わせて週に一度は数時間だけでも時間を見つけて会った。
タキはあまり観光地に行った事が無いというさゆを、色々な場所に連れて行った。池袋サンシャインシティ、国立西洋美術館、浜離宮恩賜庭園、国立新美術館………。二月のさゆの誕生日は、多摩市のテーマパークへ行って、キャラクターと写真を撮った。それは、もう長年東京に住んでいながらも、さゆがあまり触れた事の無かった、華やかで煌びやかな「東京」だった。お互いの写真を良く撮り合うようになった。さゆは最初、醜い自分の写真を撮られるのが嫌だったけれど、タキが余りに嬉しそうにさゆを撮るので、ツーショットでも良く撮るようになった。ダイソーで自撮り棒を買ってしまった。
(どうしよう。完全にデートだ)
新宿のスターバックスでコーヒーを啜りながら展覧会の感想を楽しげに話す、焦茶のジャケット姿のタキの向かいで、さゆは一人顔を赤らめた。フラッペに盛られたホイップクリームみたいに甘い日々だ。お互い非正規の中では比較的生活が安定している方だけれど、そこまで稼ぎが多くないので遠出はできない。それでもさゆは幸せだった。いつも薄桃色のカーディガンを着た。
(でも…………)
タキはさゆに、無理に触れてこようとはしなかった。タキがあまりに近いと、さゆの身体が強張るからだ。その代わり、きちんとした告白も未だにない。あやふやな、名前の無い関係だった。
(別に結婚したいわけじゃないけどさ)
さゆは結婚に夢も希望も無い。何より、タキに性的な事をされるのが怖かった。
(でもタキは、本当はそういう事したいんだろうな………)
もやもやしたまま冬が過ぎ、年度末が近づき―――――――。
そして、春の始まりに、事件は起こった。
その日は午後七時過ぎに最後の客を見送り、店のシャッターを一人下ろした。来客は数人だったが、購買率の高い良い日だった。自宅に戻って風呂に入ってカップラーメンを啜り、Coccoを聴きながら、店で下書きしたエッセイを推敲した。午後十一時。パソコンの前で眼を擦ってウンウン呻っていると、スマフォが鳴った。少し驚きながら画面を確認して、二度驚いた。
タキだ。しかも電話だった。
(一昨日会ったばかりなのに……)
赤信号が点滅していた。何かあったに違いない。
「もしもし、タキ?」
『………』
電話の向こうがザアザア言っている。
(どどどどうしよう)
「タキ、大丈夫?」
『………ご、ごめんさゆ……』
「え、え?」
『俺……酔っ払っちゃって……うごけなくて』
「え、今どこ?」
『……かめいど、えき……』
苦しげな息の狭間で、タキは何とか声を絞り出したようだった。さゆは動転しながら、眼で着替えを探す。クタクタになった紺のワイドパンツと白いニットを電話しながら着込む。
『あのー、すみません、駅の者なんですけれどもー』
電話が誰かに代わる気配がして、駅員らしき男性の声になった。
『お客さんホームで戻しちゃって、そのまま倒れこんじゃったんですよね』
「す、すみません!」
『それで、誰かご家族の方に迎えに来て貰うようにお願いしたんですけれど、だれもおられないそうで。お知り合いの方という事で今お電話して貰ったんですが、JRの亀戸駅まで今から来られそうですか?』
「え、えっと」
今自宅を出ると、亀戸まで行ってしまったらもう終電で自宅に戻れないかも知れない。
『もし来られないようでしたら、病院か場合によっては警察に保護してもらうかも知れないんですが………』
「い、行きます!」
反射的にさゆは答え、事務所の場所を聞いた。なんとかリップだけ塗り、バッグを引っつかんでアパートを飛び出す。途中のコンビニで思いついて水とビニール袋を買い、電車に駆け込んだ。スマフォで検索すると、中野駅で総武線に乗り換えるとギリギリ終電で亀戸駅に着くようだった。
(あ、危ない)
でもその後どうしようと不安に襲われたまま、家から一時間半近くかけて駅に着いた。
「あ……さゆ……ごめんね」
事務所では白い顔をしたタキが長椅子に横たわっていた。駅員に平謝りしながらタキの肩になんとか手を回す。
「タキ、歩けそう?」
「う……うん……」
おぼつかない足取りで、二人ともよろけながら駅前のタクシーの列に並んだ。見かねた列の人々が、何人か二人に順番を譲ってくれる。さゆはお礼を言いながら、タキをタクシーに押し込んだ。運転手は酔っ払っているタキを見て、チラリと嫌な顔をした。
「タキ、家の住所、言える?」
「バッグ……手帳に……」
「見るね」
タキにビニール袋を渡しながらさゆは茶色の手帳の最後のページを開いて住所を運転手に伝えた。あまり遠くない。タキはタクシーの中で「歓送迎会で、のみすぎて……ごめんね…」と言い、眠ってしまった。しばらくするとタクシーは亀戸天神に程近い一軒のアパートの前に停まる。PAYPAYで代金を支払い、吐かれないかハラハラしただろう運転手に現金で「これ……良かったら……」ともう千円だけ渡した。
「タキ、何階?」
「……にかい……」
一階ならここに置いて行こうかなと一瞬思ったけれど、今のタキが二階まで上がるのは無理そうだ。
よいしょよいしょと掛け声を上げながら、なんとかタキを二階にひっぱり上げる。二人とも息を切らしながようやく二階の入口のドアを開け、廊下に辿り着いた。
ありがとう、とタキが唇を動かした。その顔を未だかつてないほど間近に見て、肌が白くて綺麗だなと思った後、不意にさゆは恐怖が湧き起こって来た。タキの酒臭い息と、包まれるように支える肩から伝わる体温と、男の部屋の前にいるという事実が怖くて、全身が急にガタガタと激しく震えるのを感じた。呼吸が上手く出来ない。
「あ、さゆ…ここで……大丈夫……」
タキはゆっくりさゆから身体を離すと、床に座り込んでバッグから鍵を探し出した。
「あ、うん、じゃね。き、きをつけて」
なんとかさゆはそう言うと、タキの前に水を置き、一目散に踵を返した。カリカリとドアを内側からひっかく音がした。
(あ、ルークだ)
恐怖に塗りつぶされた頭の片隅で、そんな事に気付いた。
さゆは亀戸天神の傍で、地面に座り込んで息を整えた。真夜中。過呼吸になりそうなのを、なんとか落ち着かせる。結局その夜はそのまま大通りを歩いて亀戸駅前に戻って、ネットカフェで昼前まで寝た。店は元々休みだった。
今日は、銀座の画廊で三時から打ち合わせだ。ネットカフェを出た所で、ほぼノーメイク、くったくたの服を着た自分に気付いて、銀座の大きなGUへ立ち寄り、奮発して濃緑のフレアパンツと白いスリーブブラウスを買った。試着の際に鏡の自分を見るのが前は嫌だったけれど、今はそこまででもないのを意外に思う。ドラッグストアでメイク用品も買って、なんとか時間に間に合わせた。
「では、そういう事で」
百貨店の担当者との打ち合わせは、思った以上に和やかに進んだ。もう始めから置いてくれる事が前提で話が進み、売値などの条件も悪くなかった。オールバックにした、さゆの父親と同年代の担当者は、細身のスーツも上品でポケットにはハンカチが差さっていて、別の世界の人のようだった。
「いやあ、良かったね朝霧さん。本当に良かった」
一時間程の打ち合わせの場所を貸してくれた画廊のオーナーは、自分事のように喜んでくれた。
「オーナー、本当にありがとうございます」
担当者を見送った後、さゆはオーナーにも頭を下げた。
「いや、いいんだよいいんだよ。僕も朝霧さんの絵には、惹かれるものがあるからね。基本写実主義なんだけど、草間弥生に通じるような『迫真の魂』を感じる事があってさ。…………ところで、今日、もう一人紹介したい人がいるんだけど………」
「あ…はい」
オーナーが画廊を振り向くと、さゆの絵を熱心に見ていた三十代位の男性がこちらに歩み寄って来た。
「こんにちは、朝霧さん。初めまして」
「こ、こんにちは」
少しシワになったYシャツとスーツ。黒縁の眼鏡を掛けている。
「朝霧さん、こちら、董同社(とうどうしゃ)の楠木さん」
「あ、あ、どうも」
オーナーに自己紹介されても、さゆは事態が上手く飲み込めず、またペコリとお辞儀をした。董同社は、出版社の中では大手の方で、自社のHPから作家を何人も続けてデビューさせる企画や、漫画塾など多彩な試みをしている会社だった。その出版社の人間が、自分に何の用だろう。
「僕は、董同社で文芸誌の編集者をしておりまして。朝霧さんに小説を書いて貰えないかと思っています」
再び隅のテーブルに腰掛けたさゆに、開口一番、楠木はそんな事を言った。さゆは余りに予想外の展開にびっくりして、「えっ」と声に出してしまった。
「文学フリマには何回か参加されてますよね?」
「あ………はい」
実はさゆは店が比較的ヒマな時期だけ、エッセイや書評だけではなく小説も書いていた。
「僕、前購入した事がありまして」
「え、え、ありがとうございます」
まさか出版社の人が、自分の話を読んでくれているなんて思わなかった。
「『その深い森の、その小さな歌の』も読みました。なんて鮮烈な地獄を書く人なんだろうと」
その作品は、さゆがまだ高校生の時に、学費や生活費に困って懸賞小説に応募し、優秀賞を獲った時のものだ。フィクションと銘打っているけれど、実際はさゆ自身の壊れた家族をモチーフにしている。
「いつでも良いので、書けたらご連絡頂けませんか?」
「は、はい」
楠木は丁寧にさゆに名刺を渡すと、猫背でノロノロと歩いて去って行った。
「朝霧さん、東由多加が十代の柳美里に小説を書く様に勧めたエピソードは知ってる?」
楠木の背中を二人で見送りながら、オーナーはさゆに尋ねた。
「いいえ」
「柳さんの人生にはマイナスの事が多かったけれど、それは『書く事でプラスになる』って後押ししたそうだよ。僕は朝霧さんにとっても、絵や小説がそんな役割になっているんじゃないかと、思うよ」
春の夕暮れの銀座の晴海通りを、築地に向かってプラプラと歩いた。昨日の夜から余りに色んな事が起き過ぎて、消化し切れない。
歌舞伎座の演目をボウッと眺めていると、LINEが鳴った。
『さゆ、本当にごめん』
タキだ。
『ううん、全然。今日、お店休みだから大丈夫』
タキにはもう何度も店を手伝って貰っているので、これ位の事、ほとんど腹は立たなかった。
『体調どう?』
『頭と胃が痛いけど何とか。明日の仕事は平気』
『良かった。お大事にね』
それでやりとりが終わると思ったら、勝鬨橋に着いた辺りで、またスマフォが鳴った。
『さゆ』
『ん?』
『俺』
暫くの沈黙の後、ためらいがちなLINEが来た。
『俺、変な事しなかった?』
『大丈夫だよ。酔って寝てただけ』
『良かった。ごめんね』
『ううん』
勝鬨橋の袂の風は、少し夜と潮の匂いを含んでいた。
『さゆ、来週会える?水曜日。埋め合わせしたい』
『うん。午後からなら空いてるよ』
『これからの事、話したい。立川に行くから』
そのLINEにさゆは、眩暈がした。
その次の週の水曜日、二人は猫カフェに出掛けた。タキはこの前のお詫びにと、星座の柄の折り畳み傘をプレゼントしてくれた。猫にたっぷり癒された所で、夕方からお洒落な洋風の個室のバーに入った。さゆはタキと人目の無い所で二人きりになった事が無いので動悸が止まらない。
「ごめんね。本当は喫茶店にしようと思ったんだけど、カフェで個室って上手く探せなくって」
「ううん」
タキはウーロン茶、さゆはオレンジジュースを頼んだ。一緒にサラダや肉料理も頼んだけれど、緊張し過ぎて味がよく分からなかった。
「………俺、ずっと、さゆとちゃんと話さなきゃって思ってたんだ」
向かいに座ったタキがやがてそんな風に切り出して、さゆは口から心臓が出そうだった。
「う、うん」
「でも、俺が、さゆが俺から離れてゆくのが怖くて、ずっと先延ばしにしてた……こんな事聞いてごめん。もし、答えたくなかったら、答えなくていいよ」
さゆはなんとか頷いて、箸を置いた。
「さゆ、男に乱暴な事をされたこと、ある?」
「………………」
さゆはしばらく俯いていた。タキに汚い自分を知られるのが嫌だった。長い長い沈黙の後、ようやく首を少し縦に振った。
きっと、いつまでもずっと、黙ったまま、この淡い関係を続けてはいけない。
もうこれでタキとは終わりかも知れないと思ったら、涙が自然と溢れて来て、止まらなくなった。
「あ、あ、ごめん。ごめんねさゆ」
タキは少し慌てて備え付けの紙ナプキンを何枚かさゆに差し出した。それで涙を拭いてジュースを一口飲むと、少し落ち着いた。
「わ、私が、悪いから……」
不用意に男と出掛けたりしたから。腕を無理に振りほどけなかったから。女の身体に生まれたりしたから。あの男や父親に、付け入る隙を与えてしまった。
「違う、それは違うよ」
タキはいつになくきっぱりした口調で言った。
「状況は分からないけど、さゆのせいじゃないよ。同意なく性的な行為をするのは、加害者が絶対に悪いと、俺は思う」
「あ、ありがと………」
あの夜の事を誰かに話したのも、自分を「被害者」だと言ってくれた人も、初めてだった。
「ね、さゆはさ、もう誰とも付き合ったり、そういう事二度としたくない?俺が付きまとってるのも迷惑かな?」
「め、迷惑なんかじゃないよ!」
さゆは思わず大きな声を出した。慌てて声を潜める。
「私、この半年くらい、タキと色んな場所に行って、すごく楽しかった」
「でも、ずっと友達でいたい?俺はそれでも良いよ」
それは嘘だ、とさゆは思う。タキは唇を噛んでテーブルを見ている。
「………そういう事、全然したくないわけじゃないよ」
時々そのタキの唇が薄ピンクで綺麗だなと、思っていた。少女マンガみたいに抱き締められてみたいと、思った日もあった。
「でも、ただ、怖くて。私、父親もロクな人じゃないから。タキは乱暴な事しないって頭では分かってるけど、でも、すごく怖いの」
今の父親とは二十年近く会っていないけれど、またいつ生活を脅かされるか分からない恐怖の中にもいる。何もかも、まだ、生生しくて、過去にはなってくれない。
「タキさえ許してくれるなら、ゆっくり、本当にゆっくり付き合っていきたい。ずっと一緒にいられるか分からないけど、でも、タキと出来るだけ一緒にいたい」
「………分かった。俺は無理な事しないから。俺もさゆといられるだけで、本当にしあわせだから」
「わ、私」
泣き笑いの様な表情になって、さゆは言った。
「私、タキの事、好き」
タキも少し顔を赤くして、微笑みながら返した。
「俺も。好きだよ、さゆ」
タキはあまり観光地に行った事が無いというさゆを、色々な場所に連れて行った。池袋サンシャインシティ、国立西洋美術館、浜離宮恩賜庭園、国立新美術館………。二月のさゆの誕生日は、多摩市のテーマパークへ行って、キャラクターと写真を撮った。それは、もう長年東京に住んでいながらも、さゆがあまり触れた事の無かった、華やかで煌びやかな「東京」だった。お互いの写真を良く撮り合うようになった。さゆは最初、醜い自分の写真を撮られるのが嫌だったけれど、タキが余りに嬉しそうにさゆを撮るので、ツーショットでも良く撮るようになった。ダイソーで自撮り棒を買ってしまった。
(どうしよう。完全にデートだ)
新宿のスターバックスでコーヒーを啜りながら展覧会の感想を楽しげに話す、焦茶のジャケット姿のタキの向かいで、さゆは一人顔を赤らめた。フラッペに盛られたホイップクリームみたいに甘い日々だ。お互い非正規の中では比較的生活が安定している方だけれど、そこまで稼ぎが多くないので遠出はできない。それでもさゆは幸せだった。いつも薄桃色のカーディガンを着た。
(でも…………)
タキはさゆに、無理に触れてこようとはしなかった。タキがあまりに近いと、さゆの身体が強張るからだ。その代わり、きちんとした告白も未だにない。あやふやな、名前の無い関係だった。
(別に結婚したいわけじゃないけどさ)
さゆは結婚に夢も希望も無い。何より、タキに性的な事をされるのが怖かった。
(でもタキは、本当はそういう事したいんだろうな………)
もやもやしたまま冬が過ぎ、年度末が近づき―――――――。
そして、春の始まりに、事件は起こった。
その日は午後七時過ぎに最後の客を見送り、店のシャッターを一人下ろした。来客は数人だったが、購買率の高い良い日だった。自宅に戻って風呂に入ってカップラーメンを啜り、Coccoを聴きながら、店で下書きしたエッセイを推敲した。午後十一時。パソコンの前で眼を擦ってウンウン呻っていると、スマフォが鳴った。少し驚きながら画面を確認して、二度驚いた。
タキだ。しかも電話だった。
(一昨日会ったばかりなのに……)
赤信号が点滅していた。何かあったに違いない。
「もしもし、タキ?」
『………』
電話の向こうがザアザア言っている。
(どどどどうしよう)
「タキ、大丈夫?」
『………ご、ごめんさゆ……』
「え、え?」
『俺……酔っ払っちゃって……うごけなくて』
「え、今どこ?」
『……かめいど、えき……』
苦しげな息の狭間で、タキは何とか声を絞り出したようだった。さゆは動転しながら、眼で着替えを探す。クタクタになった紺のワイドパンツと白いニットを電話しながら着込む。
『あのー、すみません、駅の者なんですけれどもー』
電話が誰かに代わる気配がして、駅員らしき男性の声になった。
『お客さんホームで戻しちゃって、そのまま倒れこんじゃったんですよね』
「す、すみません!」
『それで、誰かご家族の方に迎えに来て貰うようにお願いしたんですけれど、だれもおられないそうで。お知り合いの方という事で今お電話して貰ったんですが、JRの亀戸駅まで今から来られそうですか?』
「え、えっと」
今自宅を出ると、亀戸まで行ってしまったらもう終電で自宅に戻れないかも知れない。
『もし来られないようでしたら、病院か場合によっては警察に保護してもらうかも知れないんですが………』
「い、行きます!」
反射的にさゆは答え、事務所の場所を聞いた。なんとかリップだけ塗り、バッグを引っつかんでアパートを飛び出す。途中のコンビニで思いついて水とビニール袋を買い、電車に駆け込んだ。スマフォで検索すると、中野駅で総武線に乗り換えるとギリギリ終電で亀戸駅に着くようだった。
(あ、危ない)
でもその後どうしようと不安に襲われたまま、家から一時間半近くかけて駅に着いた。
「あ……さゆ……ごめんね」
事務所では白い顔をしたタキが長椅子に横たわっていた。駅員に平謝りしながらタキの肩になんとか手を回す。
「タキ、歩けそう?」
「う……うん……」
おぼつかない足取りで、二人ともよろけながら駅前のタクシーの列に並んだ。見かねた列の人々が、何人か二人に順番を譲ってくれる。さゆはお礼を言いながら、タキをタクシーに押し込んだ。運転手は酔っ払っているタキを見て、チラリと嫌な顔をした。
「タキ、家の住所、言える?」
「バッグ……手帳に……」
「見るね」
タキにビニール袋を渡しながらさゆは茶色の手帳の最後のページを開いて住所を運転手に伝えた。あまり遠くない。タキはタクシーの中で「歓送迎会で、のみすぎて……ごめんね…」と言い、眠ってしまった。しばらくするとタクシーは亀戸天神に程近い一軒のアパートの前に停まる。PAYPAYで代金を支払い、吐かれないかハラハラしただろう運転手に現金で「これ……良かったら……」ともう千円だけ渡した。
「タキ、何階?」
「……にかい……」
一階ならここに置いて行こうかなと一瞬思ったけれど、今のタキが二階まで上がるのは無理そうだ。
よいしょよいしょと掛け声を上げながら、なんとかタキを二階にひっぱり上げる。二人とも息を切らしながようやく二階の入口のドアを開け、廊下に辿り着いた。
ありがとう、とタキが唇を動かした。その顔を未だかつてないほど間近に見て、肌が白くて綺麗だなと思った後、不意にさゆは恐怖が湧き起こって来た。タキの酒臭い息と、包まれるように支える肩から伝わる体温と、男の部屋の前にいるという事実が怖くて、全身が急にガタガタと激しく震えるのを感じた。呼吸が上手く出来ない。
「あ、さゆ…ここで……大丈夫……」
タキはゆっくりさゆから身体を離すと、床に座り込んでバッグから鍵を探し出した。
「あ、うん、じゃね。き、きをつけて」
なんとかさゆはそう言うと、タキの前に水を置き、一目散に踵を返した。カリカリとドアを内側からひっかく音がした。
(あ、ルークだ)
恐怖に塗りつぶされた頭の片隅で、そんな事に気付いた。
さゆは亀戸天神の傍で、地面に座り込んで息を整えた。真夜中。過呼吸になりそうなのを、なんとか落ち着かせる。結局その夜はそのまま大通りを歩いて亀戸駅前に戻って、ネットカフェで昼前まで寝た。店は元々休みだった。
今日は、銀座の画廊で三時から打ち合わせだ。ネットカフェを出た所で、ほぼノーメイク、くったくたの服を着た自分に気付いて、銀座の大きなGUへ立ち寄り、奮発して濃緑のフレアパンツと白いスリーブブラウスを買った。試着の際に鏡の自分を見るのが前は嫌だったけれど、今はそこまででもないのを意外に思う。ドラッグストアでメイク用品も買って、なんとか時間に間に合わせた。
「では、そういう事で」
百貨店の担当者との打ち合わせは、思った以上に和やかに進んだ。もう始めから置いてくれる事が前提で話が進み、売値などの条件も悪くなかった。オールバックにした、さゆの父親と同年代の担当者は、細身のスーツも上品でポケットにはハンカチが差さっていて、別の世界の人のようだった。
「いやあ、良かったね朝霧さん。本当に良かった」
一時間程の打ち合わせの場所を貸してくれた画廊のオーナーは、自分事のように喜んでくれた。
「オーナー、本当にありがとうございます」
担当者を見送った後、さゆはオーナーにも頭を下げた。
「いや、いいんだよいいんだよ。僕も朝霧さんの絵には、惹かれるものがあるからね。基本写実主義なんだけど、草間弥生に通じるような『迫真の魂』を感じる事があってさ。…………ところで、今日、もう一人紹介したい人がいるんだけど………」
「あ…はい」
オーナーが画廊を振り向くと、さゆの絵を熱心に見ていた三十代位の男性がこちらに歩み寄って来た。
「こんにちは、朝霧さん。初めまして」
「こ、こんにちは」
少しシワになったYシャツとスーツ。黒縁の眼鏡を掛けている。
「朝霧さん、こちら、董同社(とうどうしゃ)の楠木さん」
「あ、あ、どうも」
オーナーに自己紹介されても、さゆは事態が上手く飲み込めず、またペコリとお辞儀をした。董同社は、出版社の中では大手の方で、自社のHPから作家を何人も続けてデビューさせる企画や、漫画塾など多彩な試みをしている会社だった。その出版社の人間が、自分に何の用だろう。
「僕は、董同社で文芸誌の編集者をしておりまして。朝霧さんに小説を書いて貰えないかと思っています」
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「文学フリマには何回か参加されてますよね?」
「あ………はい」
実はさゆは店が比較的ヒマな時期だけ、エッセイや書評だけではなく小説も書いていた。
「僕、前購入した事がありまして」
「え、え、ありがとうございます」
まさか出版社の人が、自分の話を読んでくれているなんて思わなかった。
「『その深い森の、その小さな歌の』も読みました。なんて鮮烈な地獄を書く人なんだろうと」
その作品は、さゆがまだ高校生の時に、学費や生活費に困って懸賞小説に応募し、優秀賞を獲った時のものだ。フィクションと銘打っているけれど、実際はさゆ自身の壊れた家族をモチーフにしている。
「いつでも良いので、書けたらご連絡頂けませんか?」
「は、はい」
楠木は丁寧にさゆに名刺を渡すと、猫背でノロノロと歩いて去って行った。
「朝霧さん、東由多加が十代の柳美里に小説を書く様に勧めたエピソードは知ってる?」
楠木の背中を二人で見送りながら、オーナーはさゆに尋ねた。
「いいえ」
「柳さんの人生にはマイナスの事が多かったけれど、それは『書く事でプラスになる』って後押ししたそうだよ。僕は朝霧さんにとっても、絵や小説がそんな役割になっているんじゃないかと、思うよ」
春の夕暮れの銀座の晴海通りを、築地に向かってプラプラと歩いた。昨日の夜から余りに色んな事が起き過ぎて、消化し切れない。
歌舞伎座の演目をボウッと眺めていると、LINEが鳴った。
『さゆ、本当にごめん』
タキだ。
『ううん、全然。今日、お店休みだから大丈夫』
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『体調どう?』
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『良かった。お大事にね』
それでやりとりが終わると思ったら、勝鬨橋に着いた辺りで、またスマフォが鳴った。
『さゆ』
『ん?』
『俺』
暫くの沈黙の後、ためらいがちなLINEが来た。
『俺、変な事しなかった?』
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『良かった。ごめんね』
『ううん』
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『うん。午後からなら空いてるよ』
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「ううん」
タキはウーロン茶、さゆはオレンジジュースを頼んだ。一緒にサラダや肉料理も頼んだけれど、緊張し過ぎて味がよく分からなかった。
「………俺、ずっと、さゆとちゃんと話さなきゃって思ってたんだ」
向かいに座ったタキがやがてそんな風に切り出して、さゆは口から心臓が出そうだった。
「う、うん」
「でも、俺が、さゆが俺から離れてゆくのが怖くて、ずっと先延ばしにしてた……こんな事聞いてごめん。もし、答えたくなかったら、答えなくていいよ」
さゆはなんとか頷いて、箸を置いた。
「さゆ、男に乱暴な事をされたこと、ある?」
「………………」
さゆはしばらく俯いていた。タキに汚い自分を知られるのが嫌だった。長い長い沈黙の後、ようやく首を少し縦に振った。
きっと、いつまでもずっと、黙ったまま、この淡い関係を続けてはいけない。
もうこれでタキとは終わりかも知れないと思ったら、涙が自然と溢れて来て、止まらなくなった。
「あ、あ、ごめん。ごめんねさゆ」
タキは少し慌てて備え付けの紙ナプキンを何枚かさゆに差し出した。それで涙を拭いてジュースを一口飲むと、少し落ち着いた。
「わ、私が、悪いから……」
不用意に男と出掛けたりしたから。腕を無理に振りほどけなかったから。女の身体に生まれたりしたから。あの男や父親に、付け入る隙を与えてしまった。
「違う、それは違うよ」
タキはいつになくきっぱりした口調で言った。
「状況は分からないけど、さゆのせいじゃないよ。同意なく性的な行為をするのは、加害者が絶対に悪いと、俺は思う」
「あ、ありがと………」
あの夜の事を誰かに話したのも、自分を「被害者」だと言ってくれた人も、初めてだった。
「ね、さゆはさ、もう誰とも付き合ったり、そういう事二度としたくない?俺が付きまとってるのも迷惑かな?」
「め、迷惑なんかじゃないよ!」
さゆは思わず大きな声を出した。慌てて声を潜める。
「私、この半年くらい、タキと色んな場所に行って、すごく楽しかった」
「でも、ずっと友達でいたい?俺はそれでも良いよ」
それは嘘だ、とさゆは思う。タキは唇を噛んでテーブルを見ている。
「………そういう事、全然したくないわけじゃないよ」
時々そのタキの唇が薄ピンクで綺麗だなと、思っていた。少女マンガみたいに抱き締められてみたいと、思った日もあった。
「でも、ただ、怖くて。私、父親もロクな人じゃないから。タキは乱暴な事しないって頭では分かってるけど、でも、すごく怖いの」
今の父親とは二十年近く会っていないけれど、またいつ生活を脅かされるか分からない恐怖の中にもいる。何もかも、まだ、生生しくて、過去にはなってくれない。
「タキさえ許してくれるなら、ゆっくり、本当にゆっくり付き合っていきたい。ずっと一緒にいられるか分からないけど、でも、タキと出来るだけ一緒にいたい」
「………分かった。俺は無理な事しないから。俺もさゆといられるだけで、本当にしあわせだから」
「わ、私」
泣き笑いの様な表情になって、さゆは言った。
「私、タキの事、好き」
タキも少し顔を赤くして、微笑みながら返した。
「俺も。好きだよ、さゆ」
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