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文月

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16.無限の変化(side 梛木)

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 陰陽とは‥奥が深い。
 あの後、俺は久し振りに図書館に行った。勿論、仕事の時間外に、だ。
 夕方の街は酷く騒がしかった。
 家路を急ぐサラリーマンや、スマホで連絡を取り合う学生たち。耳を覆って(勿論ホントに耳を覆ったわけでは無い)、下を向いて目的地に向かった。
 図書館に着いて、自動ドアが閉まると‥やっと息が出来た気がした。
 自分が着たことを誰も気にかけない。それどころか、寧ろ邪魔くさい‥自分の時間に他人なんて関係がないといった無関心な態度。‥その雰囲気に安心感を感じた。
 それでも、一般図書コーナーには、持ち出し禁止図書コーナー程の静寂感はない。閉塞感もない。
 心地よい開放感がある。
 新聞を広げる老人。誰かが本をめくる音、本を選ぶために歩く足音。子供が母親に「これ読んで」って強請る声。
 懐かしいって‥暫く入り口で立ち尽くした。
 通い慣れた‥生家近くの図書館じゃない。配置や規模の違いに若干の戸惑いを感じたものの、直ぐに慣れて、誰に案内されることなく目的の場所にたどり着いた。
 子供の図書に力を入れているとか、図書館員のおすすめコーナーがある‥とか若干の違い(個性)はあれど、図書館の本には総て分類番号が振ってあって、それ(分類番号)は全国で共通しているから(全国だよな? ‥世界規格じゃないよな?? )本の配置はそう変わりはない。大概入ったところに地図が貼られているしね。
 俺はまず入ったところに設置されたパソコンで検索する。目的の本の名前が分からないときは、単語を入力して、それがどの分類番号に区分されているのかを調べて、その棚を調べればいい。今までずっとそうしてきた。もっといい方法もあるだろうし、それ以前に図書館司書に聞けばいいんだろうけど、‥俺はそう社交的な人間じゃない。
「易経‥と。
 ああ‥『東洋思想』ってジャンルなんだ‥」
 俺はパソコンを初期画面に戻し、その足で地図に書かれた場所に向かう。そして、その棚で関係ありそうな本を二三冊手に取ってカウンターで借りた。
 昔だったら、面白そうな本を物色したりもした。‥時間が有り余っていたから。だけど、今はそうじゃない。
「貸出カードを新規で作ってください」
 さっさと借りて帰らないと、楠に心配されるしな。
 会社では「西遠寺 梛木」って名乗ってるけど、身分証明書はまだ「大月 りん太」のままだ。成人したら自分の意志で変えてもいいって伊吹さんに言われた。因みに柊の兄ちゃんと違って養子縁組もしてない。‥そういうことであの両親と関わるのは面倒だなって思ったから‥それは仕方がない。(柊は両親公認。そもそも、柊は成人してるから親の許可は要らない。だけど、親戚だから後々揉めたり‥とかややこしいことが起こらないように、きちんと話し合ったって感じ。だけどそんなこと、梛木は知らない)

 ただただ‥面倒だなって思う。

「忘れよ‥」
 家路を急ぎながら、梛木はため息をついた。
 自室で早速本を開く。
 岩波文庫の「易経 上」「易経 下」。
 読み始めると‥読みやすいとは言えない内容で、なかなか進まない。返済期間迄に読み切る自信はなく、文庫版だから買ってもいいかなって思ったり。
 以下、梛木的要約。
 易とは ①易簡いかん ②変易へんえき ③不易 である。
 ①易簡とは、簡単は複雑のはじめ。だから、天地間無限の事物を説明するところの根本は、簡単な陰陽の二こうにある。
 ②変易とは、森羅万象は何一つ変化しない物はない。川は流れるが同じ水ではない。
 ③不易とは、(②をうけて)同じ水ではないけれど、川は相変わらず同じ様に流れている。
「ってことかな? 」
 易とは簡単であり同時に優しく、変化していて同時に変化していない。それらは矛盾しているようで矛盾していない。
 陽は動であり剛健的なもので、陰は静であり柔順的なもの。陰陽は相対立しているようにみえるが、陰はいつまでも陰であり、陽はいつまでも陽であるというふうに固定していない。
 曰く「陰陽は無限の変化」であるらしい。
 同じ空でも晴は陽で、曇れば陰で、同じ人でも活発に動いてれば陽で、静かにしてれば陰である。
 女は陰で、男は陽だけど、子供から見たら女も親であり、陽となる。同じ様に、親の立場からみたら、男も子であるから陰となる。
「陰陽は無限の変化‥かあ‥」
 まあ‥
 
 変わらないものは、ない。

「母さんだって‥」
 元々は俺の事愛してた‥のかはわかんないけど、「俺の教育に」興味があった。
 だけど‥失敗したって気付いた時‥「俺が母さんの予定と違ってた」って思った時‥母さんの気持ちは変わった。
 母さんは‥親ではなく、他人になっていった。
「ま、陰陽とは関係のない話‥だけどね」
 だけど‥まあ、同じ人間でも立場が変われば役割が変わるってのは確かにそう。
 俺が元所属していた「あの家族」ってコミュニティにおいては、父親があの人で母親があの人、妹がいて、俺は妹にとっては兄。両親にとっては子供。
 だけど、俺はあのコミュニティを離れた。だから、彼らはもう俺の家族ではない。
 例えば結婚して新しい家族を作っても、両親は両親のままなんだろうけど、‥俺にとっては、もうあの人たちは俺の家族ではない。

 俺にとっては、楠や柊の兄ちゃんの方がよっぽど家族って呼べる。
 ‥それでいいって思う。

「家族に憧れを持つ‥とか、子供っぽいよなあ」
 だけど、人間だから自然に発生した‥木の股から生まれて来た訳ではない。
 俺は‥不本意だろうが、あの人たちの息子として生まれて来た。寝る場所‥家にいることを許可され、服は‥制服と同じサイズの服を父親が二三枚買ってきた。それからも一年に一度位父親が買って来て部屋に置かれていたが、俺が成長するって考えなかったのか(多分、ずっと会ってなかったからわからなかったんだろう)、サイズがずっと同じで‥丈の短い服が恥ずかしかった。死なないだけの食料を与えられ、学校に行くのも邪魔されなかった。‥ただそれだけだったけど、それでさえ‥多分「誰か」より幸福だった。
 でも、そんな不幸な「誰か」を身近に知らない俺にとって、俺の状況は「誰よりも」不幸だった。
 こんな親ならいらないって思ったし、俺の親はこれじゃないって思った。

 産みの親と育ての親が違う人は‥別に珍しいことでもない。

 育ての親って一方的に思っても‥別にイイって俺は思う。
 本に育てられたって人もいるだろうし、「あの人の言葉」で道を誤ることなく生きてこれたって人もいるだろう。

 だけど‥俺はね‥それでも「親の温かみ」「家族の幸せ」に対する憧れが捨てられなかった。
 だから‥その憧れを楠に求めたりした。
 あの時‥俺の為にお握りを作ってくれた楠は‥俺の望む母親像そのものだったんだ‥。

 あの時‥俺が初めて楠たちの部屋に住み始めた時だ‥
「ほら」
 翌朝、目が覚めた俺は、柊の兄ちゃんが寝床に使っている部屋に置かれたテーブル(折り畳み式)に置かれたおにぎりのいい匂いに、きょとんとなった。炊いた米に匂いがあるなんて‥そのときまで知らなかったんだ。(今は楠と俺の部屋が「リビング」で、そこでご飯を食べるんだけど、あの時だけは柊の兄ちゃんの部屋でご飯を食べた。多分俺に気を遣ったんだろう)
「朝はしっかり食べないとね」
 ふふ、と楠が笑った。
 柊の兄ちゃんは黙ってもうお握りを食べ始めていた。
 その様子から、それ(おにぎり)が特別なことではなくて、彼らにとっての日常だったことがわかった。
 俺に「変に同情して」作ったわけでは無く、今までも楠が続けて来たことだったってわかった。楠は‥今までは柊の兄ちゃんの為に‥そして今日は俺の為に‥お握りを握ってくれたんだ。
 おせっかい‥ってか‥オカンじゃね? 
 あったかいお握りなんて初めて食べたから‥思わず泣きだしたことを覚えてる。泣いちゃうとか恥ずかしいことなんだけど‥その時の楠の困った様な‥優しい笑顔がなんて言うか‥ホントに綺麗で‥今ではいい思い出だって思ってる。

 思えばあの時から‥俺は楠をオカンだって思うようになったんだ。

 玄関の扉が開く音がして、廊下を歩くトントンって軽い音と共に
「ただいま~。あ、梛木帰ってたんだね? え? 夕食食べた? 食堂であわなかったね? 」
 楠が顔を出した。
 俺は楠を見て「お帰り」て笑う。
「図書館行ってたら遅くなって食堂の‥夕飯の時間に間に合わなかった」
 へへって笑ったら楠は「そ? 」って首を傾げて、棚から出したパックご飯を手に
「お握り‥パックご飯のでよかったら作るよ? 卵焼きと‥味噌汁ぐらいならパパっと作れるし」
 って言ったんだ。
 作れるよって言いながら‥もう鍋に水いれてる。楠の中ではもうそれは決定事項なんだろう。
 あんまりにも安定のオカンっぷりに笑っちゃった。
「食べる! みそ汁の具お麩がいい。冷凍庫のほうれん草もいれてね♪ 」
 俺が言ったら、楠は苦笑いして「分かった」っていうんだ。
「‥俺も食べる。みそ汁と卵焼き」
 ぬぼ~と楠の後ろに立った柊の兄ちゃんがぼそっと言う。(わざわざ楠の耳の横で! 低い「いい」声で! )楠が(今日も)ぶるって身体をこわばらせて‥すっと、それとな~く柊から離れて「分かった」って言った。

 ‥柊の兄ちゃん、楠が嫌がんの分かっててアレやるんだもんなあ‥。

 俺は苦笑いして手に持った本を閉じて机の準備を始めるのだった。
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