歌声は恋を隠せない

三島 至

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過去・グラジオラス⑤

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 別れの日。
 もう昼を過ぎて、身支度を整えた二人は、宿を出て乗合馬車の所へ向かっていた。
 アザレアをそこまで送り終えれば、グラジオラスに干渉できる事はもう無い。
 目的の場所に着いた後も、馬車が来るのを待つ間、アザレアに必要事項を説明した。
 ただの確認で、少しでも会話をしていたいという悪あがきだ。

 夜を共にしたが、アザレアが身ごもっているかどうかは、分からなかった。
 だが万が一ということは想定して、グラジオラスは金銭面での援助を申し出た。しかし、理由は彼女を買ったことに対する報酬だと、冷たく突き放した言い方をしてしまう。
 アザレアはそれを受け入れた。
 グラジオラスの未練がましい施しではなく、正当な報酬だと認識したから、アザレアは素直に金銭を受け取ったのだろう。
 しつこいと思われないように、なるべく遠まわしに、子供が出来ていたらグラジオラスの事を頼るようにと、仄めかしておく。
 アザレアは暗く笑った。

「それはありえません。子供は出来ないと思いますから、二度とご迷惑はお掛けしません。私、こんな体なので」

 これまでになく、きっぱりとした物言いだった。
 その言葉もやはりグラジオラスの胸を突き刺したが、せめてと思い、アザレアの住居の手配をすると言うと、それも断られる。

「お金も頂きましたし、もう、あてはあるんです。何も心配してもらうことはありませんから、どうか、私の事は気に留めないで下さい。私の居所も調べないで。会いに来ないで下さい」

 アザレアは疲れてぐったりとはしていたが、かつてないほど、生き生きとしていた。
 人生の目標を見つけたような顔だ。
 そこにグラジオラスが介入する隙間は無い。

「私を買って下さって、ありがとうございます」

 アザレアは頭を下げて、グラジオラスに礼を述べる。
 彼女は後腐れなく、と思っているのだろうが、グラジオラスはぐだぐだと暗い気持ちから抜け出せないでいた。

 段々と、馬車が近づいてくる音が聞こえる。
 グラジオラスにとっては、終わりが近づく絶望の音だ。
 最後にアザレアは、曇りのない笑顔で別れを告げた。

「さようなら、ジオ」

 今まで見た中で、一番魅力的な表情だった。
 グラジオラスはアザレアの笑顔に見蕩れた。喉を焼く感情を飲み込みながら、忘れまいと、馬車に乗り込む彼女を目に焼き付ける。
 アザレアは、馬車の窓から振り向くことも、手を振ることも無かった。
 馬車が走り出す様を、最後まで見届ける。
 世界から音が消えたようだった。
 ただ遠くなっていく愛しい人を、ずっと見つめる。
 やがて何も見えなくなって、時間が過ぎ去っても、グラジオラスは同じ方向を見つめ続けた。
 ふと、不快な感触が頬に当たり、手で拭う。
 そこで、自分が泣いている事に気が付いた。

(情けない……)

 グラジオラスは溜息を吐くと、涙で濡れる目元を乱暴に擦り、歩き出した。



 レユシット邸に戻ったグラジオラスを、弟のオーキッドが問い詰めてきたが、詳細は語らなかった。
 グラジオラスは普段通り振舞おうとしたのだが、どうすれば普段通りなのかも、頭が働かない。
 様子のおかしい兄を、弟が酷く心配するので、グラジオラスは一言だけ、本当の事をこぼした。

「失恋した」

 オーキッドは尚も聞きたそうにしていたが、グラジオラスはやんわり遮ると、自室に籠った。
 自分の事は、もういい。
 アザレアを好きになってしまって、他の女性と結婚したいとも思わない。
 オーキッドも、ビオラもいる。グラジオラスに子供がいなくても、何とかなるだろう。
 もし二人とも、グラジオラスのようになってしまったら、養子を取ればいい。
 親族であれば問題無いだろう。
 グラジオラスは寝台に体を横たえ、目を閉じた。




 静まり返った部屋に、歌声が聞こえる。
 はっとして、体を起こすと、声は聞こえなくなった。
 幻聴だ。

(どうかしている……)

 アザレアの歌だった。
 グラジオラスはまだ覚えているが、もう二度と、聞く事は出来ない。
 同じ時代、同じ国に住んでいるのに、彼女に会う事は出来ない。
 口ずさもうとして、やめた。
 アザレアの声を、自分の声で上書きしたくないと思ったから。

 ――会いに来ないで下さい。

 アザレアの望みは、叶えなければならない。
 グラジオラスは律儀に、彼女との約束を守り続けた。



 時は流れて、グラジオラスは自分に娘がいることを知る。
 愛する人の面影はないが、自分の子供であることは疑いようが無かった。
 娘との邂逅は喜ばしいものだったが、明かされた事実に、グラジオラスは深い絶望を味った。
 アザレアは亡くなっていたのだ。
 そのときの気持ちを、言い表すことなど出来ない。
 こんなに早く死んでしまうなら、囲っていれば良かった。
 憎まれても、蔑まれても、無関心だとしても、体の弱い彼女の一生に寄り添えば良かった。
 後悔してもしきれないグラジオラスは、残されたものが無ければ、失意の内に命を絶っていたかもしれない。
 だが、娘がいる。
 グラジオラスの知らない、アザレアを知る少女が。
 グラジオラスとよく似た容姿の娘と、アザレアが、どのように過ごしていたのか、知りたかった。
 アザレアの娘リナリアは、母に大切に育てられたようだ。
 リナリアの態度や、聞いた情報から、グラジオラスが知るアザレアとは思えないほど、彼女は娘に愛情深く接していたらしい。
 アザレアに対して、グラジオラスが持つ印象と、リナリアが持つ印象は異なる。

 リナリアはアザレアのように、体が弱いわけではないようで、少し安堵した。
 しかし、リナリアは声が出なかった。
 それが呪いによるものだと知り、何とか解いてやりたいと思う。
 グラジオラスには、生きる活力が芽生え始めた。
 愛しい人が産んだ娘のために何かしたい、力になりたい。
 一度深い絶望を味わった事で、振り切れたように、娘には優しい言葉をかけることが出来た。
 リナリアと、家族になりたい。
 父と娘として、一緒に暮らしたい。
 だが、リナリアはグラジオラスに好意を持ってはいないようだと、態度で分かった。
 グラジオラスは落ち込んだが、めげなかった。

 そして、掛け替えの無い宝を手に入れる。
 リナリアの歌は、グラジオラスが二度と聞けないと思っていたものだ。
 グラジオラスのための歌を、娘に歌わせたアザレア。
 彼女の本当の気持ちは分からないけれど、それだけで、グラジオラスは報われたような気持ちになった。
 目の前の娘が、たまらなく愛しく感じた。




 現在、グラジオラスは娘に宛てた手紙を書こうとしている。
 初めて会った時の別れ際、文通しようと約束したのだ。
 今度は、次に繋がる約束。
 今は手紙のやり取りでも、いずれは一緒に暮らして、直接話せるようになりたい。
 勿論リナリアは、筆談ではなく、本当の声で話すのだ。
 グラジオラスは未来に向けて着々と、呪いに関する情報を集めている。
 絶対に解けるという確信がある。それは決して遠くはないはずだ。
 その時が来たら、リナリアを迎え入れよう。

(さて、何から書いたものか……)

 手を止めて暫し悩むが、書きたいことはすぐに決まった。
 グラジオラスの好きな人達のことを書こう。
 グラジオラスが何を考えて生きてきたのか、分かるはずだから。
 オーキッドやビオラ、家族のこと。
 アザレアを愛したこと。

 そして、リナリアがいてくれて、どれだけ幸せなのかということを。


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