自殺スイッチ

三島 至

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自殺スイッチ

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 口癖になるほど常日頃から死にたいと思っていた弊害なのか、ふとある時から、妙なものが見えるようになった。
 背中、腕、足……場所は様々だが、「ON/OFF」と書かれたボタンが、他人の体に付いているのである。
 部屋の電気を付けたり消したりする時に押す、カチカチと鳴る、アレだ。
 自分の体には見当たらない。そして、常に見えている訳でも無い。
 見えるのは決まって、俺が「死にたい」と思った時だ。

 俺はそれを、“自殺スイッチ”と呼んでいる。

 初めて見た時は、流行のアクセサリーか何かだろうかと、無理やり納得していた。
 ふとした時に度々見掛けるそれらを、「体にスイッチを付けるなんて、変わったファッションだなあ」と思って眺めていた。
 だがそれはアクセサリーでも何でもなく、俺にしか見えない特別なスイッチだった。

 気付いたのは、ちょうど、「死にたい」と思いながら、迫りくる電車の前に、飛び込む妄想をしていた時だ。
 駅のホームで立って電車を待っていると、前に並んでいる人の背中に、突如スイッチが出現したのである。
 ぎょっとした俺は思わず、まじまじと他人の背中を見詰めてしまった。

 スイッチを付けて歩いている人をたまに見るけど、これは初めてのパターンだ。
 見間違いだろうか。いや、確かに突然これは現れた。幻覚にしては、嫌にリアルだ。
 疲れているのかもしれない。俺の脳か、もしくは目が、異常をきたしている可能性がある。
 周りを見渡してみると、大小、場所の違いはあれど、皆、体のどこかにスイッチを付けていた。
 慌てて、自分の体を見下ろす。しかし、俺の体は至って普通で、どこにもスイッチは見当たらない。

 再び視線を前の背中に戻す。
 どこからどう見ても、「ON/OFF」のスイッチだ。
 目の前の背中に付いているスイッチは、「OFF」の方へ押されている。
 これ、何のスイッチなんだ?

 次に、この謎のスイッチは、盛大なドッキリなのではないかと思った。
 テレビはあまり見ないが、一般人にくだらない悪戯を仕掛ける動画が、ネットに流れているのを見た事がある。
 ではこれは、「突然周りがスイッチだらけになったら、どんな反応をするのか」、隠れて様子を窺っているという事か。
 スイッチを「ON」にしたら、仕掛け人が何かを始めるドッキリに違いない。
 そう考えると、段々そんな気がしてきた。恐らく、凡人の俺では思いつかないような、視覚トリックを使って、何も無い所からスイッチが出てきたように見せかけたのだろう。

 押したら、何が起きるのだろうか。
 ご期待に応えて、押してみようか。

 “かちり”。
 少し迷った末、くたびれた背中のサラリーマンに付いている、スイッチを押した。

 追い立てるように、轟音と風が迫りくる。
 この駅では停車しない電車が、減速せずに通過する。
 直前。俺の前に並んでいた男性が、電車の前に身を投げた。

 ひゅっ、と音がする。
 それは紛れも無く、俺の口から洩れている、息を飲んだ音だった。
 毛穴が一気に開くような感覚がして、どっと汗が噴き出す。
 あまりの息苦しさに、一瞬意識が遠のいた。だがすぐに、ああそうだ、これはドッキリだったんだ、と思い出して、気を持ち直す。
 俺は深呼吸をして息を整えながら、電車が通り過ぎるのを待った。
 きっと、このあとホームの向かい側にでも、大きく「ドッキリ大成功」と書かれた看板を持ったスタッフが現れるはずだ。
 そうしたら、文句を言ってやらねばならない。さすがにこれは悪趣味が過ぎる。
 ドキドキしながら、カメラの前で話す事を考えていた。しかし、喧噪は収まるどころか、段々周囲が騒がしくなってくる。
 なんだ、なんだ。種明かしはまだなのか。

 煩くなっていく周りに、「人が線路に落ちたぞ!」「え、嘘、ひかれたの!?」という悲鳴が加わった。スマートフォンを持って、動画か、写真を撮っている人もいる。
 おいおい、皆迫真の演技だな。それとも、仕掛け人以外の一般人も混じっているのか。
 俺が無様に慌てる様を撮れるまで、看板は出さないつもりなのだろうか。
 ざわざわと人が流れる。面倒事はごめんだと遠ざかる人々と、物珍しさに集まる足音。
 俺はカメラスタッフが現れるのを、今か今かと待った。微動だにせず、線路の向こうを眺める俺を、周りの人間は怪訝そうな顔で見てくる。
 やがて、騒動は収まる気配を見せないまま、誰かが俺を指差した。「あの人です、飛び降りた人の後ろにいたのは――」
 本能的に、良くない事が起こると思った。俺に注目が集まった瞬間、俺はドッキリ大成功の文字を見る前に、その場から駆けだした。
 何故勝手に足が動いたのだろう。「あ、待て!」と後ろから怒号が聞こえてきた。俺は人にぶつかりながら、全力で走って逃げた。
 耳がじんじんする。多分心臓の音なのだろうが、ばくん、ばくん、という音がどんどん大きくなって、逆に他の雑音は小さくなっていった。

 薄々気付いていた。これはただの現実なんじゃないか。
 だって、駅から遠ざかったのに、もう街の中なのに、まだスイッチが、あちこちに散らばっている。
 みんな、体のどこかに、「ON/OFF」のスイッチを付けている。

 大量の人が行きかう交差点の真ん中で、俺はもう一度、自分の体をパタパタ触って確認した。やはり、俺にだけ、スイッチが無い。
「何でだよ……」
 今、俺の体にスイッチがあったら、迷わず「ON」にするのに。
 立ち止まってしまった俺に、車のクラクションが鳴らされた。いつの間にか、信号が赤に変わっている。横断歩道の端を慌てて渡りきる中高生と、とっくに青は終わったのに余裕そうに歩いている若い男性は居たが、ど真ん中で突っ立っているのは俺だけだ。
「すいません、すいません」
 真っ赤な車に乗った気の強そうなオッサンに、ペコペコと頭を下げながら、俺は慌てて歩道まで走りきった。

 追手はいないけど、駅から遠ざかるように歩き続ける。
 頭の中を占めるのは、未だ視界から消えないスイッチの事だ。
「いいなあ……」他人のスイッチを横目で見ながら、無意識に呟く。きっと、あれを押したら、死ねるんだ。
 俺がスイッチを押した、名前も知らないサラリーマン。あんな簡単に死ねて、いいなあ。
「いいなあ」
 親指と、人差し指を擦り合わせる。“かちり”、“かちり”……指が憶えている感触を反芻する。
 もっと、押してみたいな…………


 ※


 仕事の朝が来た。
 死にたいと思った。

 安物の薄いカーテンから容赦無く差し込む太陽光に、また今日も地獄が繰り返されるのだと知る。
 代わり映えしない鬱屈とした思考と付き合いだしてもう何年か。
 そういえば、消えない目の下の隈とも長い付き合いだな。
「死にたい……」爽やかな朝の挨拶が口からもれて、そうだ、と布団から起き上がる。
 これまた安物の、薄くて固い、寝心地最悪の代物だ。しかも足がはみ出る。
 馬鹿みたいに背だけ伸びたから、シングルの寝具では少々足りなかったが、買い替える気力も金も無かった。
 普段は、髭を剃る時くらいしか鏡なんて見ないが、死にたい朝は必ず鏡を確認する。
 いや、よく考えれば、最近毎朝鏡を見ているな。
 俺は毎日死にたいと思っているらしい。
 鏡には、濃い隈とだらしなく伸びた髭面の、冴えない男がいた。
 老けて見えるが、世間的には一応、まだ若者と言われる年齢だったはずだ。どうみても人生に疲れ切った顔をしている。
 ため息が漏れる。今日も、俺の体にスイッチは無い。

 最近、こんな底辺のクソみたいな俺にも、趣味が出来た。それは、陰鬱そうな顔をした赤の他人のスイッチを、こっそりと押してやることだ。
 体の正面にスイッチがある奴は駄目だ。不審に思われる。背中にスイッチがある奴を見かけたら、さっと近づいて、“かちり”と押すのだ。人込みに紛れた方が、かえって見咎められない。
 街を歩けば、死にたそうな顔をした奴らばかりだ。
 いいなあ、お前ら、こんなに簡単に死ねて。俺もスイッチ一つで死ねたら楽なのに。
 スイッチを押された人間が死ぬのは、俺の勘違いでは無かった。確率百パーセント、必ず死ぬ。
 スイッチを押す瞬間は、人助けをしているような心地だった。死の導きをしてやった後に、色んな死に方をする人間を見るのは爽快だった。
 “かちり”。あの音が心地良い。俺は良い事をしている。心の底からそう思う。ゴミみたいな社会から、一人でも多く救ってやるのが、俺の使命だと思えてきた。

 この間も良い事をした。
 店の中でギャンギャン泣いている子供を前に、叱り疲れたのか、母親が子供そっちのけで蹲って、鼻をすすっていた。「もういい加減にしてよぉ」「お願いだからママの言う事聞いて……」小さい声に、同情の視線が集まった。
 俺は育児を頑張る母親を心底哀れに思った。何とかしてやりたかった。その母親のスイッチは、震える肩に小さく存在していた。
 今楽にしてやる……俺は母親に近付いて、ぽん、と肩を叩いた。掌の下で、“かちり”とスイッチが鳴った。
 顔を上げた母親は、俺に負けず劣らず酷い表情だった。
「え……?」
 俺の顔と自分の肩を交互に見て、何が起こったのか分からないような、呆けた顔をしている。
 俺の人選は間違っていない。彼女はきっと、安寧を求めているはずだ。
 手を離して、母親に背中を向けると、俺は店から出た。店内からは、けたたましい悲鳴が聞こえてくる。
 気になって振り返ると、母親が凄い形相で、肩から大量の血を流して泣き叫んでいた。
 血だまりの中で、半狂乱といった様子で、「痛い! 痛い!」とのたうち回っている。
 店の中から、数人が俺を見ていた。俺はスイッチを押してやっただけなのに、変な難癖を付けられたら大変だ。
 俺はいつもそうするように、スイッチを押した後は見付からない所まで走って逃げた。

「あはははははっ」

 俺にしか見えない、特別なスイッチだ。
 スイッチを押された人間は、勝手に死ぬ。だから「自殺スイッチ」。
 死にたい時は自殺スイッチを押した。そうしたら、間接的に死んだような気になった。
 スイッチを「ON」にし続けたら、いつか俺にも、自殺スイッチが現れるのだろうか。
 俺のスイッチは、誰かが押してくれるのかな。


 ※


 玄関のベルが鳴った。来客なんてめったに無い。新聞の勧誘も最近では全く無いのに、一体誰だろう。
 覗き窓から外を見ると、見知った会社の同僚が立っていた。
「チッ」
 舌打ちする。何をしに来たのかは大体予想が付いた。スマートフォンの電源も切っていたから、連絡が付かない俺を心配して来たのだろう。
 全くおせっかいな野郎だ。会社の同僚が家まで押し掛けるなんて、迷惑でしか無い。
「おーい、そこに居るんだろ。ずっと無断欠勤しているけど、大丈夫か? 悩みがあるなら聞くから……」
 無言で布団に引き返そうとしたが、在宅に気付かれたらしい。古いアパートだ。壁も薄けりゃドアも薄い。玄関まで歩いていく音が、外まで聞こえていたのだろう。
 無性に腹が立った。その能天気な声を聞くと、脛を思い切り蹴り上げたくなる。悩み事なんてありませんみたいな、人生とっても楽しいですといった、無神経な干渉が堪らなく気持ち悪い。
 こいつには俺みたいなクズの気持ちなんて分からないんだろうな。
 死にでもしない限り。

「……」

 ‘かちゃり’。ドアの鍵を開けた。スイッチを押すときの音と、少しだけ似ていた。
 ドアの向こうには、憎たらしい同僚の顔。目が合うと、「やっと出てきたか」と歯を見せて笑った。
 何で笑えるのか分からない。何が楽しいんだ。
 俺は同僚の体を観察した。顔から、胸、腹、太もも、足首……見付からない。「なあ、ちょっと後ろ向いてくれ」俺がぼそりと言うと、同僚は素直に従った。
「ん? おお、いいけど……どうした」
 その場で回った同僚の肩甲骨あたりに、例のものを見付けた。
 そっと手を伸ばす。
「何か付いているか? おい……」
 だが俺が自殺スイッチを切り替える前に、同僚は振り返ってしまった。
 すると彼はぎょっとして、「なっ……! おい! なに人に包丁なんて向けてんだ! 何する気だった!?」
 俺の手を叩き落とした。

「包丁? 俺はただ、自殺スイッチを……」

 カランカラン、と、何かが床に転がる音が、狭い部屋に響く。俺の足元で止まった音の主は、きらりと銀色に光っていた。

「それが包丁じゃなくて何なんだ!」
「俺のじゃない」
「今お前が手に持っていただろう!?」
 俺が一歩後ずさると、同僚は土足で部屋に上がりこみ、床に落ちている見知らぬ包丁を観察しだした。「おいこれ……血じゃないのか」

「おまえ、どっかおかしいぞ。まさか今、俺の事刺そうとした訳じゃないだろうな」

 疑問の形をしているが、はっきりと確信を持った声音で、同僚が俺を睨み付けてくる。
 それだけでは無く、注意深く俺の背後に目をやって、部屋の中を窺っていた。
 警戒されているのは目に明らかだった。

「スイッチを押そうとしただけだ」
「スイッチ?」
「自殺スイッチを押したら、勝手に死ぬんだ。だから、俺のじゃない」

 同僚はおぞましい物を見るような顔をして、俺から目を逸らさずに後退する。
 そのまま何も言わずに部屋の外に出ると、勢い良くドアを閉めた。外から、バタバタと走りさる音がして、鉄の階段を下りていく音が小さくなっていった。

 なんだ、あいつ。
 同僚を包丁で刺そうとしたなんて、濡れ衣を着せられそうになったから、思わず本当の事を言ってしまったが、あの様子だと信じていないな。
 まあいいや……もう少し寝よう……


 一時間もしない内に、ドアを乱暴に叩く音でうたた寝から覚めた。また同僚だろうか。ぼんやりとして働かない頭で、のそのそと玄関に向かう。今度は、覗き窓を確認しなかった。
「警察ですが」
 手帳を見せるという、昔ドラマで見たシーンを目の前にして、内心ちょっと感動してしまった。
 近隣で何か事件でもあったのだろうか。
「最近の通り魔事件ご存じですね。連日テレビで報道されているでしょう」
 自称警察は、何人も同じ手口で殺されているという話を、何故か俺に説明した。
「通報があったんですよ。目撃情報の男が、ここに住んでいるって」
「何を言っているんですか。俺は人なんて刺していません」
「そこに落ちている包丁は」
「俺のじゃありません。本当です。俺は自殺スイッチを押しただけです」
「自殺スイッチ?」
「はい。あなたにもあるじゃないですか……」
 目の前の男は、体の正面にスイッチがあった。証拠を見せてやろうと、そのスイッチを押そうとしたのだが、もう一人男が出てきて、俺は床に押さえつけられてしまった。
「現行犯だ」「床の包丁も回収しろ」意味不明の声が頭上を通り過ぎる。
「痛っ」
 手首を捻られた。その拍子に、固い物が床にぶつかる音がする。掌から、何かがすり抜けていったような感覚もあった。
 指先に目をやると、食事に使う、小ぶりのナイフが落ちていた。
「どこから……」

「自殺スイッチなんて無いんだよ」
 ぶつぶつと呟く俺に、スイッチを付けた自称警察の男が、言い聞かせるように囁いた。
「お前はただの人殺しだ」




『複数の男女を刃物で刺して殺害したとして、連日の通り魔事件の容疑者が逮捕されました。容疑者はアパートの自室に被害者の血がついたままの刃物を所持しており、調べに対して、「自殺スイッチを押しただけ」「包丁は自分のものではない」などと供述しており――――』

 つまらないテレビを消す。やっと通り魔事件の犯人が捕まったらしい。
 まあ、最初から犯人知っていたんだけど。
 死にそうな顔した同僚はもう会社には来ない。
 警察に捕まるまで、随分殺してくれた。仕事は出来ないくせに、なかなか面白い奴だったな。

「あ、おはようございます~」
 会社に付くと、女子社員が猫撫で声で挨拶してきた。俺も「おはよう」と笑顔で返す。彼女はご機嫌になって、「そういえば、例の人逮捕されたじゃないですか~、あの日お家に行くって言っていましたよね、大丈夫だったんですか?」と心配していた事をアピールしてくる。
「ああ、俺刺されそうになったよ。ちょっと目がヤバかったな。精神に異常をきたしていたんじゃないか」
「ええ~こわ~い。でも、そういう精神異常って認められちゃうと、裁判とか、刑が軽くなったりするんじゃないですか? 何人も殺しているのに……でもほんと無事で良かったです~」
「うん、心配してくれてありがとう」
 お礼を言うと、彼女はさらに上機嫌になって、「私、お茶入れてきます~」と鼻歌でも歌いそうな様子で去って行った。
 俺は彼女の背中をじっと見つめる。

 そこには、「ON/OFF」と書かれた、スイッチが付いていた。
 俺にしか見えない、特別なスイッチ。

 死にそうな顔をした元同僚も、二の腕あたりにスイッチがあった。
 うっかり彼の袖にコーヒーをかけてしまって、謝ったら、思い切り舌打ちされたんだったか。
 その顔があんまりムカついたものだから、つい、彼のスイッチを押した。

 傑作だったなあ。
 スイッチを「ON」にしたら、勝手に人を殺し始めるのだ。

 俺はこれを、「他殺スイッチ」と呼んでいる――――







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