あの人が戻ってきた

三島 至

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【後編】帰らぬ人

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 ずっと好きだった“あの人”との、見合いの話がきた。

 その話を持って来た人は、軽い気持ちで「どうだ?」と言ったのかもしれない。
 本気では無かったかもしれない。
 けれど僕にとっては、またとないチャンスだった。
 そろそろ結婚を……とあの人が考えているなら、相手は絶対僕がいい。
 今から適当な相手を探すくらいなら、僕にして。
 そう言った訳ではないけれど、そんな気持ちで、話を進めてもらった。
 僕の事を以前から知っていた彼女は、断らなかった。

 籍を入れるまでの僅かな間、僕と彼女は恋人では無かった。
 恋人と言えるような雰囲気では無かった。
 僕は本当に口下手で、驚くほど会話の引き出しが少なくて、せっかく二人でいても、無言でいる事が殆どだった。

 まだ結婚していない時でも、彼女は夫を立てる妻といった風で、決してでしゃばらないし、主に会話の主導権は僕だった。
 そうなると僕は張り切ってしまって、何か言わなくてはと思うのだけど、上手くいった例が無い。
 僕が何を言っても、彼女は否定するような事を言わないものだから、僕は見栄を張って、無駄に偉そうにしてしまう。
 話題が無いからと、僕が搾り出した内容は最悪だった。

「両親には申し訳ないが、僕は自分の名前があまり好きではなくてね」

 僕はプライドばかり高いくせに、ろくな事を言わない。
 もっと他に無かったのかと思う。

「女の人みたいだろう? 子供の頃、よくからかわれたんだ。いい思い出が無い」

 咄嗟に言い直す事も出来ず、余計な事まで付け足して、そのまま彼女の様子を窺った。
 彼女は「そうなんですね」と微笑むだけで、それが良いとも悪いとも言わなかった。

 両親には感謝しているし、名前だって言うほど嫌いじゃない。
 だけどこれでは、僕があまりにも恩知らずで身勝手な奴みたいじゃないか。
 親が付けてくれた名前を「嫌い」だとのたまった僕に対して、彼女がどういう感情を抱いたのかは、その静かな態度からは全く分からなかった。
 僕の心には不安が残った。

 こんな僕は周りにも相手にされなくて、友人は一人二人しか居なくて、交流も少ない。
 彼女は良く出来た人だ。
 好きになった僕は単純だった。

 ちょっと優しくされたぐらいで。
 偏屈そうな僕と、普通に話してくれたぐらいで。
 彼女にとってはただの社交辞令なのに。

 誰にも渡したくないと思うほど、のめり込んでしまったのだ。














 夕方、仕事から戻ると、家に妻は居なかった。

 リビングにあるテーブルの上に、置手紙が置いてある。
 これまた、僕が携帯電話やスマートフォンの普及について、何か良くない事を言ってしまったのだったか。彼女はめったに、メールを寄越してはくれない。
『買い忘れがあったので、出かけてきます』
 短い文章で、留守にする旨が書いてあった。
 手紙の横には、既に二組の箸と茶碗が並べられている。
 食事の用意は殆ど整っているようだった。
 家に誰もいない事に、寂しさを覚えながら、テレビの電源を入れる。一人眺めて、妻を待つことにした。
 だが、内容が頭に入ってこない。
 家庭的な音――家事をするときの雑音――が無いと、部屋はしんと静まり返っている。
 妻が台所に立つ気配が感じられないと、テレビの音も虚しく響くだけだった。

 ニュースキャスターの声が耳を素通りしていく。
 チャンネルを変えようかと、リモコンを手に取った時、家の固定電話が鳴った。
 テレビの音より大きい電子音に、少し驚く。電話はやけに不気味な音を立てていた。
 妻は出かけている。電話に出られるのは僕しかいない。
 誰からだとは、特に深く考えずに、電話を取った。

「はい」

 耳にあてた瞬間、なんとなく、嫌な予感がした。
 受話器から聞こえる声以外、周りには全ての音が無かった。
 事務的な女性の声が、耳から脳へ入ってくる。

「はい。はい……ええ、そうです、夫です」

 足元がふらつく。

「病院……搬送された…………は、い。向かいます……分かりました」

 分かりましたと、僕の口は勝手に動いていたようだが、実は何も分かっていなかった。頭が理解する事を拒んでいた。
 電話の相手から教えられた事を、繰り返し呟く。奥さん、事故、病院、搬送……。
 一刻を争うのだと、告げる体が、手と一体化してしまったようだった受話器を機械的に置いた。

 ――妻が交通事故に遭った。
 ――かなり危険な状態だ。

 やっと追いついた思考が、恐ろしいほどの震えとなって、僕を叱責する。
 僕は妻が搬送されたという病院名を何度も声に出しながら、すぐに家を飛び出した。
 都会なのに路上で中々捕まらないタクシーに苛々として、焦り、じっとしていられなくて走った。
 携帯電話でタクシーを呼びながら病院に向かう。
 程なく、呼んだ場所に停まっていたタクシーを見つけて、急いで乗り込んだ。座席に浅く腰掛けると、上体を深く折る。
 両手を額にあてるように握って、祈った。
 指先が冷たく、震えている。
 ああ、神様、どうか。



 病院に着いたとき、妻は辛うじて、薄く意識があるようだった。
 妻は、妙な事を言った。

 ――あなた、大丈夫よ。ここにいるわ、体は大丈夫。貴方は助かるわ……。

 何を言っているのだろう。
 妻は、意識が混濁しているようだった。
 言葉の節々に、僕を気遣う様子が見える。
 事故に遭ったのは、君の方なのに。

 ――大丈夫よ……。

 僕は、全然大丈夫ではなかった。妻は助からない。見て分かった。詳しくない僕でも分かる。もう無理なのだ。
 今意識があるのが不思議なくらいだ。
 妻の手を握る。
 見るに耐えない無残な体の方では無く、最愛の妻の顔を、最期の一瞬まで見詰めようとする。

 後悔した。
 僕は妻に、一度も気持ちを伝えていなかった。
 こんなことになるなんて、思ってもいなかった。
 ずっと一緒にいられると思っていた。
 僕が一方的に惚れこんで、結婚まで漕ぎ着けて、素直に言えなかったけれど、でも、幸せだったのに。

 一秒でも長く、妻の顔が見たいのに、視界が歪む。
 妻の死に目に、ぼろぼろと泣いた。
 両手は、妻の手を握っているから、涙を拭う事が出来ない。
 妻の青白い顔から、さらに色が抜けていく。
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、彼女が死ぬなんて、この人がいない世界で生きていくなんて、嫌だ。
 嫌だ。

 受入れられなかった。
 だけど、もう助からない妻に、最期にせめて、伝えたかった。
 君が好きだ、好きで、好きで、仕方が無いんだ、だから逝かないで。寂しい、君が居ないと無理だ。
 ちゃんと声に出来たかも分からない。どこまで伝わったかも分からない。
 妻の顔は、色を失って、もう表情も殆ど変わらない。しかし僕の目には、彼女が不思議に思っているように見えた。
 ――どうして? 
 僕の気持ちが信じられないようでも、もしくは、何故今言うのか分からない、というようにも感じた。

 最期に、ずっと言いたかった、妻の名前を呼んだ。
 その時にはもう、妻の瞳は濁って、何も映してはいなかった。
 恐らく最後の僕の声は、届いていないのだろうと、思った。














 僕は小さい頃、女性みたいな自分の名前が気に入らなかった。
 女の子みたい、とからかわれた事があって、それから、下の名前で呼ぶな、と自分から言うのが、癖になっていた。
 妻と結婚する前にも、うっかり同じ事を言ってしまった。
 結果、彼女は結婚してから一度も、僕の名前を呼ぶ事はなかった。
 あなた、と言われる度に、僕の失言のせいで、名前を呼んでくれないのだと思って、悲しくなった。
 そんなの、いつでも撤回すればいい。
 君にだけは、名前で呼ばれたいんだ。
 そう言えばいい。
 でも出来なかった。僕は絶望的なまでに、素直ではなかった。
 妻の今際の際にならないと、愛していると言えないほどに。
 僕は追い詰められないと何も出来ない男だった。

 僕は、追い詰められていた。
 妻の死後、何処に行っても妻の姿が無いことが信じられなかった。
 この先もずっと一緒だと、呑気に構えているうちに、妻は帰らぬ人となってしまった。
 おかしくなっていたのだと思う。
 僕は狂っていた。
 前世占いがあるのだから、来世占いもあるはずだ、妻の生まれ変わりを捜そう、と、躍起になった。
 別の日には、怪しい宗教団体に縋って、死者との会話を試みた。
 妻が生前、幽霊になりたいと言っていた事を思い出し、誰もいない部屋で、妻に話しかけた。
 見えなくても、側にいるかもしれない。
 返事は聞こえないけれど。


 何でも試した。
 でも駄目だった。
 僕には幽霊が見えないし、何処にも妻は居なかった。
 殆ど食事をとらなくなったせいで、不健康に痩せ、目は落ち窪み、近所の住人からは奇異の目で見られた。
 憐憫の目を向けられる事もあった。
 ――かわいそうに、奥さんが亡くなって……。
 そんな声が聞こえた時、妻は死んでない、と、思わず口を出そうになった。
 そんな訳がないのに。
 あの人は死んだのに。
 僕は何を考えているのだと、頭を抱えて、すぐ我に返ったけど、いよいよもう、限界だと思った。
 妻の死を乗り越えるなんて事は、到底出来なかった。
 あの人のいない世界で生きられないなら、残る手段は、一つだけだ。



















 気が付くと僕は、屋上にいた。
 一瞬自分が何故この場にいるのか分からなかったが、すぐ直前の記憶を思い出して、納得する。
 ああ、そうか。僕は……。
 周りを見渡すが、僕が知っている世界と、さほど変わりは無いように見える。
 ビルの屋上から見える景色は、知っているようで、知らない景色だ。
 見慣れた道とは言えないけれど、見たことが無いとも言い切れない。

 四角形の屋上の角を、順に見ていると、落下防止のためにつけられた柵を掴んで、乗り越えようとしている存在に気が付いた。
 女性だ。その人は柵の向こう側に立つと、掴んでいた手を離して、だらんとおろした。
 スカートが風に揺れたかと思うと、女性の体が傾き、地面の無い場所へ踊りだす。
 ぼんやりと、下に落ちたのだろうな、と思った。

 思考回路が、朦朧だ。
 人の自殺現場を見てしまったというのに、事実を思っただけで、特に感想が浮かばない。
 でも待てよ、と思う。
 ここで、自殺をする事に、何の意味があるのだろう。
 少し気になって、僕はビルの階段を下りて、女性が倒れているであろう、地上に向かった。




 妻が死んでいた。
 屋上から落ちて、血まみれになって倒れているのは、僕の妻だった。

 やっと、辿り着いた、という気持ちと。
 また、失ってしまった、という気持ちが、僕の足を速めた。
 物言わぬ妻の側に寄り、血で濡れた手に触れる。
 僕は間に合わなかったのだろうか。
 この世界にも、死は存在するのだろうか。
 彼女は、もう二度と、動かないのか?
 暫く呆然と、妻を見詰めていたけれど、ふと瞬きした時に、死体は消えた。
 血の一滴も残さずに。
 慌てて立ち上がり、妻の名を叫ぶ。存在が完全に消えてしまったと思って、ここでも一人になるのかと恐怖した。

 恐慌していると、目の前を通り過ぎた影が、一瞬視界を遮った。
 次いで、どさりと何かが落ちたような音がする。
 目の前には、壊れた妻の姿。
 僕は先ほどとは違い、瞬きせずに妻の様子を見ていた。
 何が起こったのか――考えて、もう一度屋上から落下したのだと、理解した。

 死んだ妻はむくりと起き上がる。すると、姿がふっと消えた。
 そしてまた、落下する。
 その死は僕が屋上に戻るまで、何度か繰り返された。





 この世界では、きっと、死ねない。
 一度死んでしまっているのだから、もう、死は存在しないのだ。
 痛みはあるのだろうか?
 記憶は?
 何度も身を投げる彼女に、意思はあるのだろうか。
 僕が見ている、死後の夢だったらどうしよう。
 でも僕が夢を見ているとしたら、彼女も夢を見ているのかな。
 同じ夢を見ているといいな。
 出来る事なら、僕の事は、覚えていて欲しい。
 いや……覚えていない方が、いいのかもしれない。
 僕は今度こそ、君を大切に出来るから。
 ちゃんと、気持ちを伝えられるから……。




 屋上に上ると、今にも自殺しそうな彼女を視界に捉えた。
 僕は叫んで駆け出す。

「危ない!!」

 彼女が体を傾けたと同時に、胴体に腕を回し、落ちないように支えた。
 温もりある彼女に、もう一度触れる事が出来た奇跡に、僕は感謝した。
 ただ温度のある人形かもしれない。彼女にはもう心が残っていないかもしれない。それでも……。
 動けないほどしっかりと抱きしめていると、彼女が振り返った。
 生前には見た事の無い、迷惑だという気持ちを隠しもしない、恨めしげな表情で。
 彼女の顔に、意思が宿っている事に、これ以上ない歓喜が湧く。

「間に合って良かった」

 僕はここから、やり直す。

「そこから飛び降りても、ただ痛いだけだよ」

 きっと、時間は、気が遠くなるくらいあるはずだから。






 彼女は、自分が死んだ事に気が付いていないようだった。
 彼女が死の間際に言った事を思い出す。
 ――あなた、大丈夫よ。ここにいるわ、体は大丈夫。貴方は助かるわ……。
 彼女にとっては、僕の方こそ死者なのだ。
 こんな所まで追いかけて来たなんて知られたら、しつこい奴だと思われるかな……。
 咄嗟に、知らない人の振りをしてしまったけれど、他人だと思ったからか、彼女が泣きながら心の内を明かしてくれた。
 本当の事は言い出せなかった。
 そのまま他人の振りを続ける事にする。
 僕が素直になるには、ちょうど良かった。

 それに、怖かったのだ。
 僕も死者だと気付いたら、彼女は今度こそ消えてしまうような気がした。
 成仏、とは、違うかもしれないけれど。
 彼女からすれば現実の、この世界が、崩れてしまうのではないかと思ったのだ。










 事故で妻を亡くし、彼女に会いたくて狂った僕は、現実に見切りをつけた。
 幽霊でも、来世でも、何でもいい。
 彼女との再会を願って、僕はビルの屋上で、現世と別れを告げた。

 自殺した僕が行き着いたのは、天国でも地獄でも無い。
 ある意味、僕にとっては、天国よりも素晴らしい所だった。

「ここが、夢のように幸せな場所だから、いいんだよ」

 僕がここに居る事を、不安げに確かめてくる彼女に、愛しさを噛み締めながら、答える。

「常世でもどこでも、君といられるなら」

 僕の言葉に、彼女は安心したようだった。

 辿り着いた死後の世界は、君がいるから、幸せなんだ。
 君も、そう思ってくれるなら、こんなに嬉しい事は無い。









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