ヒステリックラバー

秋葉なな

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拒絶する女、愛情を注ぐ男

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「戸田さんは犬が好きなんですね……」

「大好きです。実家でもポメラニアンを飼っていたんですよ」

私たちに近寄ってきたコーギーにしゃがんでフェンス越しに手を振る私とは反対に、武藤さんはコーギーから離れた。

「フェンスがあるんだから大丈夫ですよ。そんなに離れなくても」

「近づくのも無理なんです」

「こんなに小さくて可愛いのに」

武藤さんは本当に犬が嫌いなのだろう。コーギーを化け物でも見るかのような目で見た。目の前からコーギーが離れていくと私は立ち上がった。

「子供の頃は平気だったんです。僕の家でも柴犬を飼っていました。でも僕にはなつかなくて……」

武藤さんは嫌なことを思い出しているのか眉間にシワが寄る。

「仲良くなろうと近づいたら噛まれて以来犬が苦手になりました」

「そうなんですか……」

それは仕方がない。理由があって動物が苦手な人もたくさんいるのだ。

「私いつかまた犬を飼いたいんですよ」

「そうですか……じゃあ僕は犬嫌いを克服しないと」

その言葉に私は武藤さんを見た。

「あの……どういう意味ですか?」

「まだ見ますか? それとも移動しますか?」

私の質問を無視する武藤さんに「移動します……」と小さく答えた。
車に向かって歩く武藤さんに先程の言葉の意味を聞こうとした。

「あの……」

武藤さんは軽く振り返ると私の手をとった。

「え……」

武藤さんの右手が私の左手を握るとそのまま歩き出した。

「あの、武藤さん!」

名を呼んでも武藤さんは私を無視して歩き続ける。左手を振り払おうとしても武藤さんの右手には力がこもって私の手を解放しようとはしなかった。
今私たちは人からどう見えるのだろう。手を繋いでいると恋人同士に見えるかもしれない。そう思うと堪らなくなり「放して!」と大きな声を出して武藤さんの手を思いっきり振り払った。

「本当に! こんなことはやめてください!」

大声で怒鳴っても武藤さんは私を振り返っただけで、その表情は悲しんでも怒ってもいない。

「私はただの同僚でいたいんです……」

武藤さんとは距離を縮めたくない。これ以上触れてほしくない。心に踏み込んで乱してほしくない。

「僕は同僚じゃ嫌です」

武藤さんは私の目を見てはっきり言った。

「僕と付き合ってください」

真っ直ぐな想いは今の私には重かった。

「まだ……整理がつきません。私の心には今でも彼がいます」

正広とちゃんと話せないままでいるのに。別れたいと言われたけれどそれを受け入れられない。私は同意していないから、まだ正広とは付き合っているのだ。

「ならその彼氏のことは忘れさせます」

「………」

武藤さんの言葉に呆気に取られてしまった。

「あなたの心を僕で満たしてさしあげます」

「あはは……」

自信満々な顔で言う武藤さんに思わず笑いが漏れた。何をバカなことを言っているのだと怒りさえ湧く。

「何年も付き合ってきて結婚も考えた人のことを簡単に忘れられるわけないじゃないですか! 私は今めちゃくちゃ苦しくて辛いんです!」

休日は正広とデートがしたかった。正広と食事をしたかった。正広と手を繋ぎたかった。
武藤さんは複雑な顔をした。「わかります」と言うから私はさらに怒りが増す。

「わかるわけないです!」

怒鳴ると目の前の武藤さんがぼやける。涙で視界が霞む。

「僕には戸田さんの気持ちがわかります。だからこそそばにいたい」

恋人に振られた私の気持ちがわかるわけがない。完璧な武藤さんは女性に振られたことなんてないのだろうから。けれど反論する気力が私にはない。

「辛いことを忘れるために僕を利用してください」

驚いて瞬きをすると涙が頬を伝って落ち、視界がはっきりした。

「そんなことできません……正広と武藤さんは全然違う……」

「そうですね。全然違います。僕は戸田さんを傷つけて泣かせたりはしませんから」

はっきりと力強い言葉を放つと武藤さんは1歩近づき私の頭を優しく撫でた。

「僕と2人のときは恋人だと思って甘えてください」

そんなことはできないと言いかけた。それでも武藤さんは私に言い返す隙を与えない。

「恋人だって思えなくても寂しさを埋める道具になります」

信じられない言葉の数々に圧倒される。

「僕がこうして触れるのも嫌だというのなら控えます。でも戸田さんがそばにいてほしいときはいつだって駆けつけます。どうぞ僕を彼氏の代わりに利用してください」

こうまで言ってくれる武藤さんの存在は重たい。重たいけれど今の私には遠ざけることはできそうにない。頭を撫でる大きな手が温かくて、私の怒りや悲しみを理不尽にぶつけても離れない人は初めてだ。

「どうして……そこまで私に構うんですか?」

私じゃなくたって武藤さんならもっと相応しい女性がたくさんいるのに。

「好きになってしまったので、構いたくなってしまうんです」

「こんな私なんかを?」

「自分を卑下しないでって言ったでしょう?」

武藤さんは優しく微笑み「あなたは素敵な人です」と言葉をかけた。私を見つめるその瞳に吸い込まれそうだ。

「戸田さんの性格や仕事ぶりは穏やかで、周りを気にかけて、1度落ち込んだあとに驚くほどやる気を出す負けずぎらいなところ、大好きです」

武藤さんは淡々と答えた。

「気がつけば僕は自然と戸田さんを目で追っていました」

きっと今の私は口をポカンと開けて間抜けな顔をしているに違いない。だってこんな熱烈な告白をされたのは武藤さんからが初めてなのだ。正広にだって深く気持ちがこもった言葉を向けられたことはない。

「笑ったときの戸田さんの可愛い笑顔に目を奪われています」

思わず下を向いた。武藤さんから顔を隠すように。特別優れた容姿でもないのに可愛いと言われたら恥ずかしくなってしまった。

「顔を上げて」

武藤さんは顔を傾け私の耳元で囁いた。

「僕にもっと笑顔を見せてください」

「む、無理です……」

火照って赤くなっているであろう顔を見せられるわけがない。

「今泣きそうなんです……武藤さんの気持ちに応えられる顔じゃない……」

男に振られても未練がましく想い続けてるバカな顔なんて武藤さんには見せられない。

「泣き顔も好きですよ。守ってあげたくなる」

私の体が武藤さんの腕に包まれた。

「もう他の男のために泣かないでください。僕はあなたを全力で笑顔にしてみせますから」

こんなにも強く想われてしまったら、もう私は前に進まなくてはいけないじゃないか。私を大事にしてくれる武藤さんから逃げ続けてはいけないじゃないか。

「ゆっくりでもいい。僕のものになってください」

息が詰まるほどの深い愛の言葉だった。私の肩が震えたのを武藤さんは気づいただろうか。穏やかな口調で言った言葉は私の準備が整うまで待ってくれる優しさを感じるけれど、私を放したくない独占欲さえも感じた。
時間がかかってもできるだろうか。正広を忘れて、またこうして武藤さんの優しい腕に素直に包まれたいと思うことは。

「努力します……」

この人に応えられるよう、正広を忘れる努力をする。
ふふっと耳元で武藤さんが笑った。吐息が耳にかかりくすぐったい。武藤さんの腕が私をやっと解放する。

「僕を利用してもいいですから。心の準備ができたら存分に甘えてまた抱き締めさせてくださいね」

「はい……」

今度は照れながらそう答えた。久しぶりに心から笑えた気がした。



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