PMに恋したら

秋葉なな

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泣いてばかりいる猫ちゃん

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「遅すぎるから何度も電話したのよ! 仕事もどうするのかと思って」

「ごめん、スマホの電池切れちゃって」

母からの連絡にも気がつかなかった。だって家族から離れたくてシバケンの家に行ったのだから。

「本当によかった……」

安堵する母の様子に申し訳なさが増す。せめて母には連絡するべきだった。

「ごめんなさい。もう大丈夫だから。会社に行く準備するね」

母が私から離れると玄関にはまだ坂崎さんの靴がある。

「本当に泊まったんだね」

「そうよ。今はまだ客間で寝てるの。今日はお父さんと車で出勤するそうだから」

「そう……」

それならば早く支度して会わずに家を出たい。

「お母さんは少し寝なよ」

「朝ごはんは?」

「いらないから寝て。私は大丈夫だから」

2階に上がって着替えを持つと再び下りてバスルームに入った。
鏡で見た自分の顔はそれは酷い顔だった。シバケンの家にはメイク落としがないからまだマスカラが少しついているし、私の肌に合う化粧水もないから頬が乾燥している。遅い時間に返ってきたシバケンとのセックスに時間を割いたから十分には寝れていない。母以上に疲れた目をしていた。パックをしないと化粧ノリも悪そうだ。
髪や体を入念に洗い、髪を乾かすと顔にヒアルロン酸配合のマスクを貼りつけた。肌に液が染み込むようにギュッギュッと押しつける。

化粧ポーチを2階の部屋に忘れたことに気づいて廊下に出た。するとキッチンから坂崎さんの声が聞こえた。
もう起きてきたの? 早すぎじゃない?
母と話す声は寝起きとは思えないはっきりした爽やかな声だ。食器のカチャカチャとした音が聞こえるから朝食の支度を手伝っているのかもしれない。その外面の良さは見習いたいほどだ。
静かに2階に上がると化粧ポーチを持って再び下りた。

「実弥さん、お帰りなさい」

坂崎さんは私が階段を下りたちょうどのタイミングでキッチンから出てきた。まるで私が帰ってきたことに気付いていたようだ。この人と挨拶なんてしたくない。言葉を交わすことも、顔だって見たくはない。けれど無視をするなんてことはできそうにない。

「……おはようございます」

それだけ返すのが精一杯だ。

「ふっ、ははは」

私の顔を見て笑い出す坂崎さんに首をかしげた。

「すっぴんどころかマスクをした実弥さんを見られるなんて得したなあ」

慌てて手で顔を覆った。パックをしたまま移動したから恥ずかしい顔を坂崎さんに見られてしまった。焦る私を坂崎さんはニコニコと見つめる。けれど口は笑っていても目が笑っていない。

「その可愛さ、増々結婚したくなりました」

白々しい言葉に寒気がする。この人は私を好きなわけではない。自分の思い通りになる女を結婚相手にしたいだけなのだ。心にもない言葉を吐いて私の機嫌を取ろうとしている。

「………」

我ながら驚くほど冷めた視線を向ける。シバケンに抱かれて嫌な気持ちを忘れられても、こうして目の前に立たれると昨夜のことが腹立たしくなってきた。
坂崎さんはキッチンへの扉を閉めた。母に会話が聞こえないようにするためだと悟って警戒する。

「実弥さん、今夜お食事に行きませんか?」

「お断りします」

即答したけれど坂崎さんは全く動じない。

「では明日はいかがですか?」

「明日も明後日も、坂崎さんとお会いしたくはないです」

この人のペースに呑まれないよう強気な口調になる。隙を見せたら気持ちが捕まってしまいそうだ。

「僕の記憶の中の実弥さんと今の実弥さんは別人のようですね」

坂崎さんはスッと私の耳元に顔を寄せた。

「こんなふうに変えたのはどこの男でしょうね」

囁かれた言葉に鳥肌が立つ。この人は私を通してシバケンに悪意を向けている。

「これが本当の私です。坂崎さんの好みの女じゃないですよ」

一歩坂崎さんから離れて睨みつけた。保湿マスクのせいでどこまで威嚇できているかはわからないけれど。

「これはこれでやる気が出るってもんですよ。強気なほど服従させ甲斐があります」

びくりと肩が震えた。坂崎さんの目力に圧倒される。父も私もとんでもない人に関わってしまったのではないだろうか。
この人に捕まったら私は一生奴隷になる。表面上恋人や夫婦になったとしても何をやるにも従わせられるのだろう。そんな関係はごめんだ。対等な立場でいるから愛せるのではないのか。自然とシバケンの顔が浮かんだ。

「明日にしましょう」

坂崎さんは怖いほどの笑顔になる。

「会社の近くにはまだ通り魔が出るかもしれません。仕事が終わったら迎えに行きますのでそのまま食事に行きましょう」

「結構です。一緒に帰る同僚がいますので」

ほとんど毎日駅まで丹羽さんの車に乗せてもらっている。それに私にとって通り魔と今の坂崎さんは同じくらい怖い存在だ。
坂崎さんが口を開きかけたのを合図に足を動かして洗面所に逃げた。鍵を閉めるとマスクを乱暴に剥がしてゴミ箱に投げ捨てた。まだ数分しかたっていないので肌にマスクの効果は感じない。こんなに早く剥がすのはもったいないけれど、できるだけ早く支度して家を出たい。坂崎さんと同じ空間にいる方が精神衛生上よろしくなさそうだ。

メイクをし、出勤する準備ができた頃にはリビングに朝ごはんが並んでいた。坂崎さんにお茶を淹れる母は楽しそうではあったけれど、私を心配して一睡もできなかったのは申し訳ない。今坂崎さんがこの家にいなければ母はこの瞬間も寝ていられたのに。
いや、そもそも父が坂崎さんを泊めるのがいけないのだ。だからこの家に私の居場所がなくなって出ていったのだから。

「ねえ実弥、本当にご飯いいの?」

キッチンから玄関に来た母は全身鏡で服をチェックする私に再び聞いてきた。

「うん、大丈夫。それよりも早くお父さんを起こして出社させた方がいいよ。お母さんも寝たいでしょ?」

「そうね。でもお母さんはもうちょっと坂崎さんとお話してみたいわ」

「え?」

「息子ができたみたいで楽しいしね」

そういえば母はできることなら男の子も産みたかったと以前言っていたことを思い出した。息子ができることを喜んでいるのかもしれないけれど寂しさを感じた。

「坂崎さんね、子供の頃にご両親が離婚されてお父さんに引き取られたから、お母さんの料理が思い出せないんですって」

「へー……」

鏡を見て髪を手で撫でつけながら興味がないことがバレバレの相槌を打った。

「だから自分が結婚したら温かい家庭を作りたいんだって」

その坂崎さんの理想の家庭のイメージには私も含まれているのだろう。言うことに従う人形の私が。それは昨夜語った、私の意思なんて反映されない坂崎さんの理想だけの家庭。

父が寝室から出てきた気配を感じると「いってきます」と慌てて家を出た。
早くこの家から出て自分の力で生活をしなければ、私は坂崎さんに捕まってしまう。



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