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あなたの気持ちはどこですか
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◇◇◇◇◇
「夏帆ちゃん、お疲れ様!」
定時間近の総務部のフロアで大勢の拍手に包まれて、北川さんは総務課の先輩である丹羽さんから花束を渡された。
「ありがとうございます」
今日で退職する北川さんは笑顔だった。
私と同い年だけれど入社時期が数年早く、私より先輩になる北川さんは第一印象と比べて明るくなった。気が弱そうな上にモラハラともとられるんじゃないかという社内の『雑用係』を約4年間も勤め、最後はどの社員にも負けない気の強さと意地を見せた。いろんな意味で彼女の後任は私には荷が重い。
プルルルルルルル
北川さんの、いや今は私のものとなったデスクに置かれた電話が鳴った。
「はい、経理……じゃない、総務の黒井です」
「レストラン事業部の今江です」
「お疲れ様です……」
「レストラン事業部でハサミを大量に使うことになったんですけど、オンラインで発注お願いします。30本ほど」
「え!?」
「新店準備で使うんです。金曜までに届けば間に合いますのでよろしくお願いします」
「あの、ちょっと待って……」
何も言えないままプツリと内線が切れてしまった。ハサミ30本発注なんてバカバカしいことを部長が許可するわけがない。一体何をどれだけ切るというのだ。それにハサミなんて自分たちで買いに行けばいいのに……。こんなんじゃ雑用係なんて面倒なだけじゃない!
「黒井さん」
後ろから声をかけられ振り向くと花束を持った北川さんが立っていた。
「強気でいいんですからね」
「え?」
「面倒な仕事や雑用を押し付けられても、それを受け入れるか拒否するかは黒井さんが決めていいんですよ」
「………」
「理不尽なことやおかしいと思ったことは即部長にチクッちゃってください」
「はい……そうですね……」
北川さんは私に向かって微笑んだ。
「頑張ってくださいね」
そう言って北川さんは同僚に見送られて退社していった。
私は総務部長にハサミの件を話すと予想通り「自分で買いに行けと言え」と言われた。受話器を取りレストラン事業部の今江さんに内線してやんわりと部長からの言葉を伝え、思わず「すみません」と謝ってしまった。私は何も悪くないのに自然と謝罪の言葉が出てしまう。やはり私はこの仕事には向いていない。
「丹羽、切手がなくなったのか?」
「あ、すみません、買い忘れてました」
部長が壁際の棚に置かれたレターケースを漁りながら丹羽さんに話す言葉を聞いた私は素早く「買いに行ってきます」と立ち上がった。
「え、黒井さんが行ってくれるの?」
「はい。少し外の空気を吸いたかったので行きたいです」
慣れない業務に頭が混乱してきていた。それに最近妊娠していることがわかった丹羽さんを無理に外出させたくなかった。
「じゃあお願いね」
「はい。いってきます」
郵便局は早峰フーズの前の道路沿いを歩いて数分のところにある。今はもう少しでお昼になるから人通りも多かった。
信号を渡った先にパトカーが停まっているのが見えてきた。もしかしたらシバケンが乗っているパトカーではないかと期待して自然と足が速くなる。
1台のパトカーの前には2台の乗用車が停まっていた。後ろの白い車のヘッドライトが割れており、前の黒い軽自動車の後部ははっきり分かるほどにへこんでいた。追突事故でも起こったのだろうか。
パトカーの横を通ると中には一人の警察官が無線で何かを喋っていた。パトカーの前にはもう一人の警察官がドライバー二人から事情を聞いているようだ。その警察官を見て胸が高鳴った。バインダーを持ちながら立つ警察官は間違いなくシバケンだったのだ。
仕事中だからと声をかけたい気持ちを抑えて横を通ると、シバケンは私に気がついたのか話ながら軽く微笑んで会釈してくれた。それだけで舞い上がった私もシバケンに頭を下げると、スキップしそうなほど軽快な足取りで郵便局に向かった。
切手を買った帰りも同じく事故現場の前を通ると、シバケンは今度は赤灯を振りながら交通整理をしていた。今度は私に気づくことなく、記憶にあるまま変わらず真剣な顔で仕事をしていた。
仕事中のシバケンが見れて私は上機嫌だった。私より頭一つ分背が高い彼は、装備を外しても筋肉のついた体形であることが制服の上からでもわかる。警察官だからきっと柔道か剣道で鍛えているのだろう。
もっと彼のことが知りたい。どうやったら更に距離が縮まるのだろう。以前のように交番に通わなければいけないのだろうか。けれど彼は今交番勤務ではなくパトカーに乗っている。しかも女子高生のときならまだしも、いい年した大人が警察官に会いに行くだなんてストーカーだと思われても仕方がない。嫌われることはしたくない。いくら警察が好きでもシバケンに逮捕されるなんてお粗末な結末だけは避けたかった。
◇◇◇◇◇
同期であるレストラン事業部の優菜と久々に飲むことになった火曜日の夜。
古明橋駅前の居酒屋に二人で入った。各テーブルの間を簾で区切られた店内はほぼ満席に近かった。一際賑やかな男性数人の隣のテーブルに案内され、居心地の悪そうな席に運が悪いなと思いながらも向かい合って座った。
「優ちゃんから誘ってくれるなんて珍しいね」
おしぼりで手を拭きながら優菜に言った。
「ストレス溜まってるんだよ。ほんと転職したい……」
不機嫌に言った優菜は店員が生ビールを持って来た瞬間にグラスを持つと、一方的に「乾杯」と言ってぐびぐびと飲んだ。
「熊田がさぁ、ぜんっぜん頼りにならなくて書類仕事もアルバイトの教育も私に任せっきりなの!」
優菜は早峰フーズの持つイタリアンレストランの副店長をしている。店長である熊田先輩の方針にも納得できず、アルバイトの要望にも応えきれないことにプレッシャーを感じているようだ。熊田さんのことを陰で呼び捨てにするほどにはストレスを溜めている。優菜の店舗はレストラン事業部の中でも売り上げが低かった。
転職したいのは私も同じだ。今更警察官を目指そうとは思わない。けれど今とは違うやり甲斐のある仕事がしたかった。
「私も転職したいな……」
「実弥も?」
「うん……転職しないにしても部署を替えたいよ……」
その瞬間隣のテーブルから驚くほど大きな歓声が上がった。簾で隠れて様子は分からないが、盛り上がっていることは確かだ。優菜と目が合い「うるさいね」と声を出さずに会話をした。
「彼氏もほしいな……休日はデートしたい。はりと潤いのある生活がしたいよ」
そう呟く優菜に「私も」と答える。
「実弥は彼氏いたじゃん」
「別れた」
「え、そうなんだ?」
興味津々と言う顔で優菜が身を乗り出す。そういえば久々に太一のことを思い出したかも。それほどに新しい恋愛に意識を強く向けていた。太一は今元気にやっているかな。
「うわ!!」
突然隣から叫び声が聞こえた時、簾の下を抜けて隣から優菜の足元にグラスが転がってきた。中に入っていた少量のお酒を撒き散らしながら。
「すんませーん!」
簾が持ち上がって隣のテーブルの男性が顔を出した。
「大丈夫でしたか?」
そう言ってグラスを拾う男性の顔は既に赤く、相当酔っているようだ。
「大丈夫です……」
優菜の服は汚れなかったけれど、グラスをひっくり返すほど酔っている人たちの隣はもう嫌だと思った。テーブルを替えてもらおうと思ったとき、簾の奥の人物が目に留まった。
「あれ?」
「あ!」
お互いに目が合って驚いた。奥の席にはシバケンが座っていた。
「なんで……」
「こんばんは」
シバケンの顔はほんのり赤く、いつもより口が緩んでいる。
「夏帆ちゃん、お疲れ様!」
定時間近の総務部のフロアで大勢の拍手に包まれて、北川さんは総務課の先輩である丹羽さんから花束を渡された。
「ありがとうございます」
今日で退職する北川さんは笑顔だった。
私と同い年だけれど入社時期が数年早く、私より先輩になる北川さんは第一印象と比べて明るくなった。気が弱そうな上にモラハラともとられるんじゃないかという社内の『雑用係』を約4年間も勤め、最後はどの社員にも負けない気の強さと意地を見せた。いろんな意味で彼女の後任は私には荷が重い。
プルルルルルルル
北川さんの、いや今は私のものとなったデスクに置かれた電話が鳴った。
「はい、経理……じゃない、総務の黒井です」
「レストラン事業部の今江です」
「お疲れ様です……」
「レストラン事業部でハサミを大量に使うことになったんですけど、オンラインで発注お願いします。30本ほど」
「え!?」
「新店準備で使うんです。金曜までに届けば間に合いますのでよろしくお願いします」
「あの、ちょっと待って……」
何も言えないままプツリと内線が切れてしまった。ハサミ30本発注なんてバカバカしいことを部長が許可するわけがない。一体何をどれだけ切るというのだ。それにハサミなんて自分たちで買いに行けばいいのに……。こんなんじゃ雑用係なんて面倒なだけじゃない!
「黒井さん」
後ろから声をかけられ振り向くと花束を持った北川さんが立っていた。
「強気でいいんですからね」
「え?」
「面倒な仕事や雑用を押し付けられても、それを受け入れるか拒否するかは黒井さんが決めていいんですよ」
「………」
「理不尽なことやおかしいと思ったことは即部長にチクッちゃってください」
「はい……そうですね……」
北川さんは私に向かって微笑んだ。
「頑張ってくださいね」
そう言って北川さんは同僚に見送られて退社していった。
私は総務部長にハサミの件を話すと予想通り「自分で買いに行けと言え」と言われた。受話器を取りレストラン事業部の今江さんに内線してやんわりと部長からの言葉を伝え、思わず「すみません」と謝ってしまった。私は何も悪くないのに自然と謝罪の言葉が出てしまう。やはり私はこの仕事には向いていない。
「丹羽、切手がなくなったのか?」
「あ、すみません、買い忘れてました」
部長が壁際の棚に置かれたレターケースを漁りながら丹羽さんに話す言葉を聞いた私は素早く「買いに行ってきます」と立ち上がった。
「え、黒井さんが行ってくれるの?」
「はい。少し外の空気を吸いたかったので行きたいです」
慣れない業務に頭が混乱してきていた。それに最近妊娠していることがわかった丹羽さんを無理に外出させたくなかった。
「じゃあお願いね」
「はい。いってきます」
郵便局は早峰フーズの前の道路沿いを歩いて数分のところにある。今はもう少しでお昼になるから人通りも多かった。
信号を渡った先にパトカーが停まっているのが見えてきた。もしかしたらシバケンが乗っているパトカーではないかと期待して自然と足が速くなる。
1台のパトカーの前には2台の乗用車が停まっていた。後ろの白い車のヘッドライトが割れており、前の黒い軽自動車の後部ははっきり分かるほどにへこんでいた。追突事故でも起こったのだろうか。
パトカーの横を通ると中には一人の警察官が無線で何かを喋っていた。パトカーの前にはもう一人の警察官がドライバー二人から事情を聞いているようだ。その警察官を見て胸が高鳴った。バインダーを持ちながら立つ警察官は間違いなくシバケンだったのだ。
仕事中だからと声をかけたい気持ちを抑えて横を通ると、シバケンは私に気がついたのか話ながら軽く微笑んで会釈してくれた。それだけで舞い上がった私もシバケンに頭を下げると、スキップしそうなほど軽快な足取りで郵便局に向かった。
切手を買った帰りも同じく事故現場の前を通ると、シバケンは今度は赤灯を振りながら交通整理をしていた。今度は私に気づくことなく、記憶にあるまま変わらず真剣な顔で仕事をしていた。
仕事中のシバケンが見れて私は上機嫌だった。私より頭一つ分背が高い彼は、装備を外しても筋肉のついた体形であることが制服の上からでもわかる。警察官だからきっと柔道か剣道で鍛えているのだろう。
もっと彼のことが知りたい。どうやったら更に距離が縮まるのだろう。以前のように交番に通わなければいけないのだろうか。けれど彼は今交番勤務ではなくパトカーに乗っている。しかも女子高生のときならまだしも、いい年した大人が警察官に会いに行くだなんてストーカーだと思われても仕方がない。嫌われることはしたくない。いくら警察が好きでもシバケンに逮捕されるなんてお粗末な結末だけは避けたかった。
◇◇◇◇◇
同期であるレストラン事業部の優菜と久々に飲むことになった火曜日の夜。
古明橋駅前の居酒屋に二人で入った。各テーブルの間を簾で区切られた店内はほぼ満席に近かった。一際賑やかな男性数人の隣のテーブルに案内され、居心地の悪そうな席に運が悪いなと思いながらも向かい合って座った。
「優ちゃんから誘ってくれるなんて珍しいね」
おしぼりで手を拭きながら優菜に言った。
「ストレス溜まってるんだよ。ほんと転職したい……」
不機嫌に言った優菜は店員が生ビールを持って来た瞬間にグラスを持つと、一方的に「乾杯」と言ってぐびぐびと飲んだ。
「熊田がさぁ、ぜんっぜん頼りにならなくて書類仕事もアルバイトの教育も私に任せっきりなの!」
優菜は早峰フーズの持つイタリアンレストランの副店長をしている。店長である熊田先輩の方針にも納得できず、アルバイトの要望にも応えきれないことにプレッシャーを感じているようだ。熊田さんのことを陰で呼び捨てにするほどにはストレスを溜めている。優菜の店舗はレストラン事業部の中でも売り上げが低かった。
転職したいのは私も同じだ。今更警察官を目指そうとは思わない。けれど今とは違うやり甲斐のある仕事がしたかった。
「私も転職したいな……」
「実弥も?」
「うん……転職しないにしても部署を替えたいよ……」
その瞬間隣のテーブルから驚くほど大きな歓声が上がった。簾で隠れて様子は分からないが、盛り上がっていることは確かだ。優菜と目が合い「うるさいね」と声を出さずに会話をした。
「彼氏もほしいな……休日はデートしたい。はりと潤いのある生活がしたいよ」
そう呟く優菜に「私も」と答える。
「実弥は彼氏いたじゃん」
「別れた」
「え、そうなんだ?」
興味津々と言う顔で優菜が身を乗り出す。そういえば久々に太一のことを思い出したかも。それほどに新しい恋愛に意識を強く向けていた。太一は今元気にやっているかな。
「うわ!!」
突然隣から叫び声が聞こえた時、簾の下を抜けて隣から優菜の足元にグラスが転がってきた。中に入っていた少量のお酒を撒き散らしながら。
「すんませーん!」
簾が持ち上がって隣のテーブルの男性が顔を出した。
「大丈夫でしたか?」
そう言ってグラスを拾う男性の顔は既に赤く、相当酔っているようだ。
「大丈夫です……」
優菜の服は汚れなかったけれど、グラスをひっくり返すほど酔っている人たちの隣はもう嫌だと思った。テーブルを替えてもらおうと思ったとき、簾の奥の人物が目に留まった。
「あれ?」
「あ!」
お互いに目が合って驚いた。奥の席にはシバケンが座っていた。
「なんで……」
「こんばんは」
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