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あなたの気持ちはどこですか
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◇◇◇◇◇
『黒井 実弥』と自分の名前が印字されたタイムカードをレコーダーに打刻するピッという音がフロアに虚しく響いた。
始業時間にはまだ40分ほど早いので総務部の社員はまだ誰も出勤していなかった。
雨だから車で送ってくれるという父に甘えて会社の近くまで乗せてもらって来たのだが、早すぎて仕事をする気にもならない。
自分のデスクの上にカバンを置くと奥のデスクの内線が鳴った。他の部署で早めに出勤している人がかけてきているのだろうが、生憎鳴ったデスクの主である総務課の北川さんはまだ出社してきていない。来週から彼女のポジションを私が引き継ぐのだけれど、代わりに内線を受けるほどまだ仕事を把握しているわけではない。それに私はお人よしでも仕事熱心でもなかった。だってまだ始業前なのだから。
父のコネで大手であるこの株式会社早峰フーズに入社して2年になる。大企業に実力では決して入ることができないと分かっているから、愛着も湧かず仕事にやる気も起きなかった。実力を試せる部署ならまた違ったのかもしれないが、総務部経理課に配属されては実力も何もあったものではない。それもまた父の希望だった。簿記の資格も何もないのに経理だなんて、同じ課の人からすればお荷物なのだ。
北川さんのデスクでしつこく鳴っていた内線はやんだ。無視したことにほんの少し罪悪感を抱いたけれど、きっと雑用を押し付けられるに決まっているから取らなくて正解だろう。私が来週から次の総務部の『雑用係』に就任するのだから今は無理に引き受けることはない。
今夜は大好きな警察密着番組の放送日だった。父は報道番組が好きなくせに警察密着のドキュメンタリー番組は嫌いだったから、いつも家で見ることは叶わない。逮捕される犯人を見てテレビに向かって罵倒する父にはうんざりだ。だから恋人である太一の家で一緒に見るのを楽しみに今日1日頑張ろうと気合いを入れた。
「各部署の申請書の締め切りは毎月25日でお願いします。毎回出さない方は必ずいるので、その時はこっちから催促しないと揃いませんので」
総務課の北川さんのデスクに座り、説明全てをメモにとろうと焦って汚い字をメモ帳に書きなぐった。
「揃ったら全てを課長に渡してください。最後に部長が判子を押してくれたら人事課に回ります」
「はい……」
「次に食材の発注書とレストラン事業部の企画書ですが……」
「はい……」
経理課の仕事よりも総務課は細かい事務仕事がある。引継ぎを始めて3日目だけれど来週から完全に私一人で業務をこなすには不安があった。
プルルルルルルルルル
デスクの内線が鳴った。北川さんは素早く受話器を取ると「はい総務課北川です」と名乗った。
「はい……インクがない? それはそちらで対処して頂けますか?」
どうやら『雑用係』に雑用をお願いする電話のようだ。
「名刺はコピー機の側面に貼ってありますから。そこの会社に電話してカートリッジを持ってきてもらってください……時間もそちらで聞いてくださいね。よろしくお願いします」
受話器を置くと北川さんは「まったく……」と呟いた。
「黒井さんもどうでもいい仕事には応じなくていいですから。総務課は暇じゃないんで」
「そうですね……」
北川さんがそう言っても不安になるだけだ。少し前の北川さんだって社内の雑用を引き受けていたのだから。
早峰フーズの総務部総務課に『雑用係』があることは周知の事実だ。契約社員が総務部総務課に配属されるということは雑用係とイコールで、それ故に長続きしないのが当たり前になっていた。そのいじめとも言える不名誉な係に北川さんは長く就いていたのだけれど、徐々にその役割を本来の総務の仕事に戻しつつあった。内気だった彼女がここ最近明るくて気が強くなったと評判だ。
「明らかに仕事と関係ない用事は部長に報告して、部長から注意してもらってくださいね。雑用係なんて不名誉なポジションは私で終わらせたいので」
「はい……」
歯切れ悪く返事をする。残念ながら『雑用係』は私も継続しそうだ。同い年だというのに彼女に比べ気の強さも自信もない私はどんな要望も引き受けてしまいそうだ。
契約社員の北川さんの後任が正社員の私になるのは厄介払いだという気がしてならない。自分でも悲しくなるが、経理課なのに数字に弱い。経理課から追い出そうかという時に北川さんがタイミングよく退職することになったのではないかと勘ぐってしまう。
こんなはずじゃなかった。私はこんな社会人になりたいわけじゃなかった。目標だってあった。尊敬している人のようになりたかった。
警察官になりたいと父に打ち明けたのが間違いだった。小さい頃から家庭での全ての決定権は父にあった。進学希望先も習い事も、私の意見など通ったことがない。中学高校と父の望む学校に進学した。
とにかく頑固で横柄な父は私と母の意見も聞かず何事も勝手に決めてしまうところがあった。少しでも意見を言おうものなら怒り出すのも早かった。もし我が家にちゃぶ台があったらドラマの場面のようにひっくり返していることだろう。
学生の頃の私は不満を抱きながらも本気で抵抗することはなかった。けれどシバケンという目標と出会ってしまってから警察官になりたいと望むようになった。当然父は反対した。警察官がいかに尊敬できる仕事なのか、公務員の安定性を主張しても父が許してくれることはなかった。
父は女は結婚して家庭に入るべきという古い考えの持ち主だった。
大学を出てからでも警察官を目指すことはできるから進学したものの、反発したい私は父の望む大学とは違う大学に入った。そこだって劣る大学ではなかったのに父は未だに私を許していない。
公務員試験を諦めていなかった私に父は就職先を決めておいたからと言い放った。会社の重役である父は顔が広く、大企業へコネがあった。私は早峰フーズの内定を知らない間に獲得していた。面接もしていないし、もちろん何のアプローチもしていない。さすがに母も就職先を私の自由にさせるよう説得してくれたけれど意味を成さなかった。全てが父の思惑通りだった。
泣いて抵抗した私は子供のように家から出ていった。一人で生きてやると無謀にも決意した。けれど当時はアルバイトもしていない所持金の少ない私は友人の家を転々とするのも限界で、悔しさを抱いたまま父に屈して入社した。一人で生きていくことができない子供だと思い知らされ、結局私は早峰フーズに就職した。
それから2年。仕事にやる気も起きなければ会社に愛着も湧かない。つまらない仕事を淡々とこなして老いていく、恐ろしく長い人生が目の前にあった。
『黒井 実弥』と自分の名前が印字されたタイムカードをレコーダーに打刻するピッという音がフロアに虚しく響いた。
始業時間にはまだ40分ほど早いので総務部の社員はまだ誰も出勤していなかった。
雨だから車で送ってくれるという父に甘えて会社の近くまで乗せてもらって来たのだが、早すぎて仕事をする気にもならない。
自分のデスクの上にカバンを置くと奥のデスクの内線が鳴った。他の部署で早めに出勤している人がかけてきているのだろうが、生憎鳴ったデスクの主である総務課の北川さんはまだ出社してきていない。来週から彼女のポジションを私が引き継ぐのだけれど、代わりに内線を受けるほどまだ仕事を把握しているわけではない。それに私はお人よしでも仕事熱心でもなかった。だってまだ始業前なのだから。
父のコネで大手であるこの株式会社早峰フーズに入社して2年になる。大企業に実力では決して入ることができないと分かっているから、愛着も湧かず仕事にやる気も起きなかった。実力を試せる部署ならまた違ったのかもしれないが、総務部経理課に配属されては実力も何もあったものではない。それもまた父の希望だった。簿記の資格も何もないのに経理だなんて、同じ課の人からすればお荷物なのだ。
北川さんのデスクでしつこく鳴っていた内線はやんだ。無視したことにほんの少し罪悪感を抱いたけれど、きっと雑用を押し付けられるに決まっているから取らなくて正解だろう。私が来週から次の総務部の『雑用係』に就任するのだから今は無理に引き受けることはない。
今夜は大好きな警察密着番組の放送日だった。父は報道番組が好きなくせに警察密着のドキュメンタリー番組は嫌いだったから、いつも家で見ることは叶わない。逮捕される犯人を見てテレビに向かって罵倒する父にはうんざりだ。だから恋人である太一の家で一緒に見るのを楽しみに今日1日頑張ろうと気合いを入れた。
「各部署の申請書の締め切りは毎月25日でお願いします。毎回出さない方は必ずいるので、その時はこっちから催促しないと揃いませんので」
総務課の北川さんのデスクに座り、説明全てをメモにとろうと焦って汚い字をメモ帳に書きなぐった。
「揃ったら全てを課長に渡してください。最後に部長が判子を押してくれたら人事課に回ります」
「はい……」
「次に食材の発注書とレストラン事業部の企画書ですが……」
「はい……」
経理課の仕事よりも総務課は細かい事務仕事がある。引継ぎを始めて3日目だけれど来週から完全に私一人で業務をこなすには不安があった。
プルルルルルルルルル
デスクの内線が鳴った。北川さんは素早く受話器を取ると「はい総務課北川です」と名乗った。
「はい……インクがない? それはそちらで対処して頂けますか?」
どうやら『雑用係』に雑用をお願いする電話のようだ。
「名刺はコピー機の側面に貼ってありますから。そこの会社に電話してカートリッジを持ってきてもらってください……時間もそちらで聞いてくださいね。よろしくお願いします」
受話器を置くと北川さんは「まったく……」と呟いた。
「黒井さんもどうでもいい仕事には応じなくていいですから。総務課は暇じゃないんで」
「そうですね……」
北川さんがそう言っても不安になるだけだ。少し前の北川さんだって社内の雑用を引き受けていたのだから。
早峰フーズの総務部総務課に『雑用係』があることは周知の事実だ。契約社員が総務部総務課に配属されるということは雑用係とイコールで、それ故に長続きしないのが当たり前になっていた。そのいじめとも言える不名誉な係に北川さんは長く就いていたのだけれど、徐々にその役割を本来の総務の仕事に戻しつつあった。内気だった彼女がここ最近明るくて気が強くなったと評判だ。
「明らかに仕事と関係ない用事は部長に報告して、部長から注意してもらってくださいね。雑用係なんて不名誉なポジションは私で終わらせたいので」
「はい……」
歯切れ悪く返事をする。残念ながら『雑用係』は私も継続しそうだ。同い年だというのに彼女に比べ気の強さも自信もない私はどんな要望も引き受けてしまいそうだ。
契約社員の北川さんの後任が正社員の私になるのは厄介払いだという気がしてならない。自分でも悲しくなるが、経理課なのに数字に弱い。経理課から追い出そうかという時に北川さんがタイミングよく退職することになったのではないかと勘ぐってしまう。
こんなはずじゃなかった。私はこんな社会人になりたいわけじゃなかった。目標だってあった。尊敬している人のようになりたかった。
警察官になりたいと父に打ち明けたのが間違いだった。小さい頃から家庭での全ての決定権は父にあった。進学希望先も習い事も、私の意見など通ったことがない。中学高校と父の望む学校に進学した。
とにかく頑固で横柄な父は私と母の意見も聞かず何事も勝手に決めてしまうところがあった。少しでも意見を言おうものなら怒り出すのも早かった。もし我が家にちゃぶ台があったらドラマの場面のようにひっくり返していることだろう。
学生の頃の私は不満を抱きながらも本気で抵抗することはなかった。けれどシバケンという目標と出会ってしまってから警察官になりたいと望むようになった。当然父は反対した。警察官がいかに尊敬できる仕事なのか、公務員の安定性を主張しても父が許してくれることはなかった。
父は女は結婚して家庭に入るべきという古い考えの持ち主だった。
大学を出てからでも警察官を目指すことはできるから進学したものの、反発したい私は父の望む大学とは違う大学に入った。そこだって劣る大学ではなかったのに父は未だに私を許していない。
公務員試験を諦めていなかった私に父は就職先を決めておいたからと言い放った。会社の重役である父は顔が広く、大企業へコネがあった。私は早峰フーズの内定を知らない間に獲得していた。面接もしていないし、もちろん何のアプローチもしていない。さすがに母も就職先を私の自由にさせるよう説得してくれたけれど意味を成さなかった。全てが父の思惑通りだった。
泣いて抵抗した私は子供のように家から出ていった。一人で生きてやると無謀にも決意した。けれど当時はアルバイトもしていない所持金の少ない私は友人の家を転々とするのも限界で、悔しさを抱いたまま父に屈して入社した。一人で生きていくことができない子供だと思い知らされ、結局私は早峰フーズに就職した。
それから2年。仕事にやる気も起きなければ会社に愛着も湧かない。つまらない仕事を淡々とこなして老いていく、恐ろしく長い人生が目の前にあった。
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